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──ああ、殺さないと。
ぼんやりとした頭の中に、そんな言葉が転がっていった。そのことを自覚した瞬間、財布の隣に入れたカッターナイフが存在を主張するかのようにズシリと重さを増す。
──殺さないと。人間になるために、結を殺さないと。
「みぃくん、はいこれ。お願いね」
「あ、はい」
モーニングを過ぎた時間帯。少し店も落ち着いてきた頃。
下げられてきた皿を洗いながらも、頭を占めるのはそのことだけだった。
「みぃくんもこの一週間で随分仕事に慣れてくれたよね。助かるよ」
ちょうど注文がはけたのか、前掛けで手を拭きながら祥来が疾太の方へ歩み寄ってくる。その言葉でやっと、自分がここで洗い物をするようになってちょうど一週間が過ぎたのだと知った。
──もう一週間になったのか。あぁ、殺さないと。
普通の人間が息をするように、当然のごとくその言葉が胸の内を転がった。
「……、…………!!」
『殺さないと』
内心だけとはいえ、それが口癖になっている。
そのことに、疾太の背筋が総毛立った。
──待てよ、どうして『殺さなきゃいけない』ってなるんだよ。僕は戦いたくないのに……
──……戦わなくていいように、殺すんだろ?
だがその寒気は、一瞬にして霧散する。
しばらく経った後には、『自分はどうしてそんなことを疑問に思ったのだろう』という方向に疑問がすり替わっていた。
──……あぁ、そうだった。
だから、殺さないと。
「……」
頭の中に靄を詰め込まれたかのように、意識がふわふわしているような気がする。同じ場所で思考が堂々巡りをしているのに、その理由を深く考えることができない。
「……みぃくん?」
名前を呼ばれても、とっさにうまく反応できなかった。ぼんやりと声が聞こえた方へ顔を向けると、鈴が不思議そうに疾太を覗きこんでいる。
「大丈夫? 最近、ぼーっとしていること、多くない?」
「……そうですかね?」
「ほら、やっぱりーっ!!」
疾太の返答に鈴はプクーッと頬を膨らませた。そんな鈴に疾太は困ったような苦笑いを向けてみせる。
だが鈴はその程度ではごまかされてくれなかった。追撃をかけるつもりなのか、鈴はさらに身を乗り出して至近距離から疾太の瞳を見上げる。
だが結局、鈴の唇から疾太を問い詰める言葉は出てこなかった。
鈴が唇を開こうとした瞬間、店の表口が開く。反射的に鈴が振り返ると、ドアベルと二重奏を奏でるかのように鈴の髪留めの紐もリリンッと軽やかな音を響かせた。
その音に叱咤されるかのように、疾太もノロノロと遅れて視線を入口に向ける。
「──っ!!」
さらに一拍遅れてそこにいるのが誰なのか理解した瞬間、疾太は無意識のうちに鋭く息を呑んでいた。
「おや、お帰り、結。学校が終わるにしては早すぎる時間なんじゃないかな?」
真っ先に出迎えの声を上げたのは祥来だ。そんな祥来の声に、結は無表情のままわずかに肩を竦める。
「戦盤のせいで、授業が中断になったから」
「おや、珍しいね。第八区はあんまり引っかからない印象があるのに」
青いタータンチェックのスカートを翻しながら、結は足音を立てない歩き方で店の中へ踏み込んできた。
『学校帰り』という言葉を裏付けるかのように、結の肩には使い込まれた鞄がかけられている。本当に勉強道具が入っているのか疑わしいレベルで鞄はペラペラだが、結が学生をやっているのは事実だったようだ。
「結! お帰りなさいだよー!!」
結はカウンターの端の席の椅子を引くと、そこに腰を落ち着けた。
ちょうど疾太から見て斜め左前。手を伸ばせば届く距離で、結は小さく溜め息をつく。
「結、どうしたの? 溜め息? 幸せが逃げちゃうよっ!?」
「鈴、ただいま。モーニングプレートって、何か余ってないかな?」
「Bプレートの、BLTサンドプレートなら余ってるけど?」
──……殺さないと。
ゆっくりと水を止め、水気を拭うためにタオルへ手を伸ばす。
その間も結と鈴はのんきに会話を続けていた。その流れに交じろうとしている祥来も、疾太の行動には気付いていない。
「珍しいね。どうしたの? 結がこんな時間に何か食べたがるなんて」
「祥来達も、何か食べておいた方がいいよ」
──頸動脈を狙えば、カッターナイフでも一撃。
だらりと体の横に垂らされた右手が、静かにズボンの後ろポケットへ伸びる。
シャツの後ろ裾をそっと払い、指先が冷たい金属に触れ……
「どうせここも、巻き込まれるんだから」
シャリンッ
だが疾太が行動を起こすよりも、不自然な鈴の音が店内に鳴り響く方が早かった。




