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茶房・蒼月のティータイムは、実に閑散としている。
『カミサマ』の嫌がらせなのか、朝が忙しいのだから少しは休めという計らいなのかは分からない。だがこの時間帯はほぼ毎日、どこかしこで発生する戦盤の範囲内に取り込まれてしまって、蒼月が立地しているエリアに一般の客は入ってこない。
ティータイムを過ぎれば、客はディナーや飲みをメインにしている店へ流れてしまう。だから祥来はほぼ毎日、ランチタイムが終わると表戸に『CLOSED』の札を掛けることになる。
「まったく……。みぃくんを拾ってきたり、怪我をして帰ってきたり、毎日結は忙しいね」
だが戦盤に立たなければならない身としては、その方がありがたいこともある。
少なくとも客がいなければ、仲間が血まみれで帰ってきたり、死体を拾ってきたりしても大事にはならない。
蒼月の客席はカウンター、テーブル、座敷と三種類あるが、怪我人が腰を落ち着けるのは、いつも座敷席の上がり框だ。
一応気を使っているのか、座布団や畳ををよけて板間に座った結に治療を施しながら、祥来は大きく溜め息をつく。
「結、いい加減に学んだでしょ? 今の結は、生屍じゃないんだ。酷い怪我をすれば、死ぬことだってあるんだよ」
表口から堂々と入ってきた結は、カッターシャツを真っ赤に染めていた。ざっくりと左腕に走った傷からの出血だと一目で見抜いた祥来は、事の次第を訊くことはせず、とりあえず傷の治療をしている。
結が招盤されれば『-B/M』のマスターである祥来の元には通知が来たはずだ。それがなかったということは、おそらく戦盤が展開されていることに気付くのが遅れて、退避するよりも早く好戦的な人間に絡まれてしまったのだろう。
『-B/M』のメンバーは皆、戦盤内での序列が高い。序列が高いプレイヤーであればあるほど降した時のリベートが高いから、戦盤の中にいれば注目を集めることは必須だ。そこに正規招盤であるか否かは関係ない。
「結に何かあれば、莉緒が悲しむよ?」
「……莉緒はもう、いないのに?」
されるがまま祥来に治療されていた結が、蒼月に帰ってきてから初めて口を開いた。
元から結は、口数が少ない性質だ。今も機嫌が悪いから黙っていたわけではなく、結としては『喋ることがない』という判断をしていたから口を開かなかっただけだろう。
──まぁ、これでもまだ、出会った当初に比べれば喋ってくれるようになった方だけども。
結と出会って五年の歳月を経ている祥来だが、相変わらず結が自ら積極的に口を開く場面は数えるほどにしか見ていない。
──そういえば。
昨日は結なりに疾太に気を遣ったのか、普段以上に口数が多かったような気がする。状況説明のために疾太を連れ出したり、自主的に迎えに行ったりと、自発的な行動も多かった。
「いなくても、悲しむと思うけどな」
「……よく、分からない」
そんなことを考えながら、祥来は結と言葉を交わしていく。
祥来も沈黙は苦ではない。短い言葉をポツリ、ポツリと交わすだけの会話が、穏やかな午後の光の中に溶けていく。二人きりの店内は、穏やかな空気に満たされていた。
「……みぃくんが戸惑う気持ち、本当は分かってる。動き出したくないって、きっと思ってる」
だが穏やかだと感じていたのは、もしかしたら祥来の方だけだったのかもしれない。
少し離れた床に視線を落とした結が、ポツリと言葉を落とした。
「私は逆だったけれど。人間と生屍は、違うもの」
その言葉に、祥来はしばし手を止めて結の横顔を見つめた。常に表情がかき消されている結の顔は、今もどこかぼんやりとしたまま、何の感情も見せていない。
「私は、ずっと、戦いの中にいたから。戦いがなくなったら、……戦わなくていいんだって、急に言われたら。……きっと、どうしたらいいのか分からない」
その顔のまま、結はそっと視線を落とした。
「みぃくんも、きっと、同じ」
祥来は無言のまま、視線を己の手元に戻した。結の腕に包帯を巻く動きを再開させながら、静かに結が紡ぐ言葉に耳を澄ます。
かつて彼女の主であり、恋人でもあった青年が、そうしていたように。
「でも、それが私のエゴでも。……私はみぃくんに、戦ってほしい。生きていて、ほしい」
表情の動きも瞳に映る感情も薄い結は、表面から内心を読み取ることができない。
だが今、なんとなく、結の瞳は普段よりも凪ぎ、強い意志が宿っているように見えた。
「人間でも生屍でも、……動くことをやめてしまったら、そこで死んでしまうのだから」
「……そうだね」
かつて動きを止めてしまった結の姿を、祥来は知っている。彼女の主も、ここに来た当初は動きを止めていた。
人間であろうと、生屍であろうと、プレイヤーであろうと、NPCであろうと。動きを止めてしまう者は、必ずどこにでもいる。茶房の主として、『-B/M』のマスターとして、祥来はそんな人間を多く見てきた。
かつて立ち止まっていた結は、己の足で前へ踏み出すことができた。今の結は、ただひたすら前を見据えて走っている。結のかつての主も、歩き出すことができた。
──でも、みぃくんは。
違和感を、覚えている。
疾太を見るたびに、必ず覚える違和感。祥来はこの己の勘が間違っているとは、決して思っていない。
──歩みが止まっているというよりも、むしろ……
だがその違和感の正体が何なのか、今の祥来には分からない。正体の分からないことを分からないまま皆に伝えても、皆の心の負担になるだろう。
そう感じてもいるから、祥来はこの違和感を誰にも伝えていない。
「そう言えば祥来。皇が調べている戦盤の不具合って、どんな感じなの?」
そんな祥来の内心を知る由もない結は、祥来を見上げると問いを口にした。
常の穏やかな表情を崩さないまま考え事を綺麗に押し隠した祥来は、結の問いに素直に答える。
「バグの発生の増加や、バグの形態の変化。戦盤が出現する間隔が短くなっていたり、他にも言葉にできない感覚的な違和感がたくさんあるみたいで、それを調べているみたいだね」
まさしく昨日皇から聞いた報告を思い出しながら、祥来はよどみなく説明を口にした。その間も両手は止まることなく動き続けて、結の腕に巻いた包帯を固定している。
「元々、調べるきっかけになったのは、結や姫の証言だから、まだまだ感覚的におかしいってことを理論的に裏付けている段階らしいよ。途中経過を聞いてみたんだけど、専門用語ばかりで説明されて、よく分からなかったんだ」
対する結の視線は、真っ直ぐに祥来に向けられていた。視線が絡んでいなくても、結の瞳が真剣な光を湛えて祥来に向けられているのが分かる。
「でも、とにかく今の戦盤が『歪んでいる』っていうことだけは、僕にも分かったよ」
「……歪んでいる」
結が思わずといった体でこぼした言葉には、多分に驚きが混じっていた。結がここまで分かりやすく感情を露わにするのは珍しい。
それも無理はないことだと、祥来は思う。
「戦盤は、この街を形作る、根本のシステムなのに」
そう、本来ならばそんなこと、あり得るはずがないのだから。
「それを故意に歪める? そんなことができるの?」
「皇曰く、『誰かがやっている』みたいだね」
この街に生まれ、物心ついた時からプレイヤーとしてゲームに関わり、外の世界を知らない人間にとって、戦盤システムは絶対的なものだ。
空気や水がなければ人が生きていけないように、戦盤システムがなければこの街も存在してはいられない。その根本が歪むなど、……自然発生的なもので歪むならまだしも、誰かが故意に歪めるなど、想像すらしたことがない。
正確に言うならば『想像もできない』と言い表した方が正しい。
「ノイズが観測されているんだって。その範囲と戦盤が、見事に一致しているらしい」
「一体、何のために? そんなことして、誰の得になるの? 下手をしたら、街ごと、私達の存在が吹っ飛ぶかもしれないのに」
祥来も同じことを思った。信じられないと、今でも心の底では思っている。
だがそれ以上に彼、……皇の言葉は真実なのだと、祥来は知っている。
かつて第十二区で『神童』と呼ばれた彼には、祥来以上に多くのものが見えている。
「得になるのかもしれないし、得にならないのかもしれない」
その事実を元に、祥来は結の疑念の声に答えた。
「暇を持て余した誰かが、愉快犯的にやっているのかもしれない。何せこのゲームはもう、セットカウントが取れないほど、長きにわたって続けられてきたのだから」
「自分という存在が吹っ飛んでもいいと思うような、愉快犯なの?」
「さぁ? そこまでは、僕も分からないよ」
祥来の言葉に、結はついっと目をすがめた。祥来なりに真剣に答えたのに、結はその返答がご不満であるらしい。感情がないのに鋭さはある結の瞳は、抜き身の日本刀と同じ空気を纏っていた。
「どうしたの? そんなに物騒な目をして」
だがその視線を前にしても、祥来は穏やかな微笑みを崩さない。
自分の技量やランクが結よりも上で、結がいきなり手を出してきても完全制圧が可能であるという事実はある。
だがそれ以上に、今の結は答えを得るためにいきなり力技に訴えるようなことはしないと、祥来は分かっていた。
今の結は、無意味に鎌を振るう戦闘人形ではない。亡き主に大切に慈しまれた、一人の少女だ。
「祥来が視ても、視えないの?」
その証に、結は祥来を見据えたまま唇を開いた。
結から向けられた問いに、祥来は薄目を開いて結の視線を受ける。久々に視覚できちんと捉えた結の瞳には、チラチラと蒼い燐光が舞っていた。
「視ようと思えば、視えるかもしれないけれども」
しばらく視線を交わして、ここは誤魔化すべきではないと判断した祥来は、瞼を下ろすと素直に結の問いに答えることにした。
「リスクの方が大きいね。何せ相手は戦盤を歪ませることができるような存在だ。こっちが視ていることに気付かれたら、とんでもなく面倒なことになりそうだから。せっかく楽隠居してるのに、厄介事はごめんだよ」
「うわ、出た。祥来の事なかれ主義と若年寄」
だというのに結は、呆れとも何ともつかない感情を瞳に混ぜた。声の響きの中にも、若干同じ色が滲んでいる。
そんな結に対して、祥来はニコリと笑みを深めた。
「平和主義、と言ってほしいな。余計な争いが起こることを避けるっていうのも、グループを率いるマスターとしては立派なスキルでしょう?」
「その割に、皇のハッキングは推奨してない?」
「皇は止めたって、皇の知的好奇心がうずく限り、止めることはできないよ。それに、バレるようなヘマはしないだろうし」
「うぇえ……?」
今度は珍しく結の表情から内心がはっきりと読めた。
──『皇のハッキングと祥来の能力なら、確実に祥来の能力の方がバレにくいでしょ、絶対』ってとこかな?
「さあ、着替えておいで。どうやらうちを巻き込んでいた戦盤が解除されたみたいだ」
祥来は話題を打ち切るように宣言すると、薬箱を抱えて腰を上げた。
「ランチタイムは回っちゃったけど、珍しくティータイムには間に合いそうだ。店を開けるよ」
表から耳に馴染んだリリンッというにぎやかしい音が聞こえてくる。どうやらお遣いついでに戦盤の偵察を頼んだ鈴が戻ってきたらしい。
「腕の痛みが軽いなら、結も手伝う?」
「あー……。血が抜けてフラフラするから、とりあえず休む。回復が早かったら、手伝うけど」
「くれぐれも、無理はするんじゃないよ。今の結は……」
「はいはい、人間です」
フラフラする、と言いながらも、結の足取りはいつも通りシャープなままだった。ローファーを履いているのにほとんど足音をさせない足運びで店内を横切った結は、奥へつながる扉の向こうへ姿を消す。
表口が開いたのは、その一瞬後だった。
「祥来! ただいまだよ!!」
「お帰りなさい、鈴。……おや」
扉の影から鈴が姿を現す。その後ろには、途中で合流したのか疾太の姿もあった。
「みぃくんも、お帰りなさい」
「あのねあのね、鈴、そこの道でみぃくんに会ったんだよ!!」
リンリンッと髪飾りの鈴を鳴らしながら、鈴が祥来の腕の中へ飛び込もうとする。だが祥来の腕の中に薬箱があることに気付いた鈴は、寸前でピタリと動きを止めた。さすがにこの体勢で飛びつかれては、と構えていた祥来は、ひとまずそのことにほっと息をつく。
だが祥来が本当に見ていたのは、その実、鈴の動きではない。
「必要な物は買えた? みぃくん」
疾太の手には、百均のレジ袋が下げられていた。
大きさから見るに、食料品や家電類ではなさそうだった。袋の膨らみ方からして、細長くて、片手で扱える大きさの、比較的重量が軽い品だろう。
──文房具、とか。
祥来は直感でそう弾き出しながらも、内心を穏やかな笑みにしまい込んだまま疾太へ問いを向ける。袋の中身を問うようなことは、あえてしない。
「え、ええ」
祥来の問いに、疾太はぎこちなく答えた。口元に浮かぶ笑みも、不自然に引き攣っている。
「学校で使っていた鞄が、警察に届けられているって聞いて。それを取りに行っていたら、あんまり買い物はできなかったんですけど……」
──『聞いて』。……誰に?
疾太の言動には、いくつも不自然な部分がある。それを分かっていながらも、祥来はあえてそれらに気付いていないフリをした。
疾太の言葉に、袋を提げている手と反対側の肩へ視線を投げる。そこにはやけに新しいサブバックがかけられていた。
──まるで、鞄だけ新しく買い揃えてきたかのような。
そこにも違和感を覚えながらも、祥来はニコリといつも通りに笑ってみせた。
「そう、良かったね。中身は全部無事だった?」
「いえ、財布だけ、抜かれていたみたいで。あ、でも、通学定期とスマホは戻ってきたんですよ」
「そう……。やっぱり、全部無事とはいかないんだね」
祥来はカウンターに入ると、薬箱を定位置に戻した。そんな祥来を追って、買い物袋を手にした鈴もカウンターの中に入ってくる。
「さあ、みぃくんは部屋に鞄を置いておいで。暇なら店を手伝ってほしいかな。ティータイムには間に合いそうだから、今から店を開けるよ。手洗い、うがいもちゃんとしてね」
「はい」
疾太は素直に頷くと、祥来の目の前を通り過ぎて奥の扉の向こうへ消えた。階段へ続くもう一枚のドアが閉まった音が祥来の耳に届く。
「……皇、見ていたかな?」
その音を確認してから、祥来は天井の角へ視線を向けた。
上手く溶け込ませてあるから利用客には分からないだろうが、そこには監視カメラが設置されている。音声収集用マイクも、照明の影に隠すように設置されていた。
それらの主が今この瞬間にモニターの前にいるか否かは分からない。だがどうせ今この瞬間にモニターの前にいなくても、疾太が映っていたと知れば、彼は必ずこの映像データをさかのぼって確認するはずだ。伝言はこれで事足りる。
「調べてほしいことがあるんだけど……」
用件を手短に伝えていると、隣に立つ鈴が表情を険しくしたのが分かった。そんな鈴の頭を撫でて落ち着かせながら、祥来は監視映像にメッセージを載せる。
「以上。よろしくね」
「……祥来」
鈴の声に視線を落とす。鈴は祥来の手を両手で押さえて、不安そうな表情を祥来に向けていた。
「……大丈夫」
その表情だけで鈴からの訴えを読み取った祥来は、静かに笑みを浮かべた。
「僕は、結みたいに優しくないから」
──結は、莉緒からの大切な預かりものだ。
莉緒は、すでに亡くなっている。それでも祥来は、今でも莉緒の宝物を預かるつもりで、結の保護者役を引き受けている。
そんな彼女と他の有象無象を天秤にかけるまでもない。
「僕はメンバーを守るためなら、容赦なく潰すよ。たとえそれが……」
穏やかな日差しが注がれる午後の茶房。
ひそやかな静寂。
眠気を誘うほどに穏やかな空気の中に、祥来は笑みを浮かべたままその言葉を落とした。
「こちらの瑕疵で巻き込んだ、元NPCであろうともね」




