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ロイヤルホストのロリータ

作者: 中村かの

「海野さんでも……と思いますか」

 とにっこり笑いながら伽耶さんは聞いた。


 ひるんだ。えっと、とか、そうねえ、と言って時間を稼いでいるうちに、自分が何にひるんだのか、だんだんわからなくなっていく。うーん、と言ってアイスティーのグラスに汗が滴り落ちるのを眺めながら結局、そうだとも、そうでないともつかないうやむやな返事をして、話題はなんとなく他へ移っていった。西新宿のロイヤルホストである。


 ホワイト企業の会社員三年目って、普段どういう店に行くのかしら、あんまり安い店を選んで幻滅されたくはないけど最近苦しいしなあ、と店を決めあぐねていたら、伽耶さんがロイヤルホストを指定してくれたのだ。わたしロイホの苺パフェ食べたいです、と言って。たすかった。ロイヤルホストはファミレスにしては美味しくて高いけれど、フレンチのランチとか、大きなホテルに入っているアフタヌーンティーよりは、手の届く範囲の高さである。たすかった。しかしすべて見透かされているような気もして恥ずかしい。三十代に突入してもアルバイトで食いつないでいるお財布事情とプライドを、伽耶さんは考慮してくれたのだった。


 伽耶さんとはインターネットで知りあった。伽耶、というのはだからアカウント名で、本名は知らない。聞いてもいいのだけど、まだ聞かない。インターネットから始まってリアルで接触を持とうというとき、大事なのは距離感の詰めかたを間違えないことだ。最初はお互いに「いいね」しあうだけの関係だった。そこから少しずつリプライを交わしあうようになる。でもそこでべたべたしないというのが、大事。


 伽耶さんは重度のシネフィルで、観た映画の記録を短いレビューとともにネット上に上げていた。彼女がまだ大学生の頃は、年三〇〇本は観ていたと思う。もっとかもしれない。国内外の映画を新作旧作問わず幅広く網羅していて、ゴダールや小津といった類の名作はもちろん、『シン・ゴジラ』『君の名は』などの流行りもおさえつつ、無名の監督によるドキュメンタリーも結構観ていた気がする。どの映画に対してもいいところを見つけるのがうまくて、かえって、結局何が好きなのかはわからなかったが、『名探偵コナン』のレビューが毎年上がっているのに気づいたときには妙な感動があった。だからそう、つまるところ彼女は映画が好きなだけなのかもしれないなと思う。映画が好きなだけで、好きな映画はない映画好き。スクリーンに何か映っていれば、それが何であれよい、という類の。


 そういう意味で伽耶さんはわたしの理想だった。わたしはAVを見飽きて気づけばピンク映画、日活ロマンポルノを観るようになったクチで、それ以外はお勉強だと思って我慢して観ている。映画監督になりたいなら、最低年二〇〇だよ、と大学在学中にインターンで入った現場で言われて以来、さもそれをクリアしているような顔でいるけれど、一年間でわたしが観た映画の本数は頑張った年で一二〇本くらい、最近は現場仕事が多くなって忙しいから、もっと少ない。現場は楽しくて学ぶことが多くて、それだけで満足してしまうけれど、休憩時間に同世代の監督志望の人たちと話すときに、彼ら彼女らがさらりと忍ばせる固有名詞が聞き取れないときがあって、そういうときヒヤッとする。年二〇〇クリアしてます、の顔が崩れそうになる。というか、もうとっくに崩れていると思う。それで危機感からフォローしたのが伽耶さんだった。伽耶さんのレビューを参考にして観に行った映画もあったし、伽耶さんのレビューは観ているだけで勉強になった。


「今日の服、ゴス度増してたなあ」

 と湯船に深く身を沈めながら声に出してみる。湯船に浸かりながら一日を振り返っていると、生活をしている気分になれる。


 伽耶さんは社会人になってからゴスロリをはじめた。最初はライトなロリ系だったが、だんだんゴス度が増しているのだった。生地のつやや、フリルの密度が増している。メイクも以前より陰影がしっかりしてきた。可愛いな、と思っていたけれど、どれくらいまじまじと見ていいものかわからない。可愛いね、と言うと素直に、ありがとうございますと言って笑ってみせた。狐目の伽耶さんは、笑うと少しだけ幼く見える。


 お金をかけている、いろんなところに。肌つやもいいから、残業もそれほどきつくはないのだろう。いい会社に入ったのだ。それを思うとしみじみとほっとする。年三〇〇本映画を観ている伽耶さんがきちんと就職し、せいぜい一二〇本のわたしが映画監督を目指しているのは何だか計算が合わないような気がするのだけれど、計算が合わないのはわたしのほうだけで、伽耶さんの人生には何の問題もないのだ。


「そういえば、今日わたしがうまく返せなかった質問って、何だったんだっけ」

 風呂場はつくづく、ひとりごとを言いたくなる場所だと思う。天井を見あげる。タイルが青い。思いだそうとしたが、思いだせなかった。確か、海野さんでもそういうふうに思いますかっていう。そういうふうにって、どういうふうだったのだっけ。思いだせそうだったから思ったのに、思いだせないことを思いだしただけだった。まあいいや。明日も現場だと思い、湯船から上がった。



「みんな所帯を持つんだねえ、結局」

 と言いながら、瓶ビールのコップをカタッと叩きつけながら南谷さんは言った。所帯、というワードを使いたがるのが南谷さんすぎる。寅さんとか、そういう映画が好きなのだ。ジョッキじゃないから大きな音が出なくて凄みがないのも、らしい。子ども寝かしつけなきゃいけないんで、と言って人がひとり出ていった後だったから、凄みがあっても気まずいだけなのだけど。南谷さんはがっちり体型の大男だから、洒落にならない。


 南谷さんは今作が長編八作目になる。わたしは三作目から、時々呼んでもらえるようになった。今日は無礼講で、と南谷さんがいうと、ブレーコって何ですかと隣に座った若い男の子がひっそりと聞いてきたので、そういや最近無礼講って聞かないなと思った。


 みんな所帯を持つ、という言葉があたりに沈澱しているような感じがする。


「いまはそういう時代でもないでしょうよ」

 とプロデューサーの大畠さんが言う。明るくも暗くもなければ、ウェットでもドライでもないトーンで。こういうことを、空気を乱さずにすっと言えるのが大畠さんだ。大畠さんも結婚していない。大手の映画会社で、ずっと一線でやっている。大畠さんの耳元で大ぶりのピアスが揺れた。大畠さんを見るとバリキャリという言葉を思いだす。この言葉も死語かもしれない。


「まあね」

 と南谷さんが短く返したところで、何となく場も和み、この話は終わりかな、と思ったが、「でもさ」と南谷さんは食い下がった。


「やっぱり周りのやつが、こいつはこっち側だと思ってるやつなんかがひょっと結婚して、子どもつくってさ。ちゃんと家族してるのをまざまざと見るとさ、そっちが正しいんだよなってしみじみ思うよ」


 南谷さんの言っていることが、よくわかった。敗北感から言っているのではない。寂しいのでもない。ただただその正しさを肯定したいのだ、南谷さんは。眩しそうに目を細める南谷さんの気持ちがよくわかったのに、わたしは、


「南谷さんでも、そんなふうに思いますか」

 と尋ねた。言葉が取り返しのつかない方向へ逃げていくのを黙って見送るような感覚だった。南谷さんは驚いた顔をして、


「そりゃあ、そうだよ」

 と言った。少し怒っているようにも見えた。ああ、そうだよな。そりゃあ、そうだよな。なんでこんな聞きかたをしたのか、後悔する。その瞬間、体がふっと浮くような感じがした。地震? いや酔っているだけかもしれない。不意に目をつぶる。


「海野さんでも、結婚しなきゃって思ったりしますか?」

 目を開けると南谷さんがいない。大畠さんもいない。目の前に座っているのは伽耶さんだ。つやつやでフリフリのゴスロリ服を着て、無邪気に微笑んでいる。背の高い苺パフェとアイスティーが並んでいる。ここは西新宿のロイヤルホストだ。ずっとここにいたような気もしたし、夢を見ているような気もした。でもそうだ、伽耶さんがわたしに聞いたのは、結婚のことだった。思いだした。


 南谷さんの「そりゃあ、そうだよ」と言ったときの表情がまだ頭の中に鮮明に残っている。わたしも、「そりゃあ、そうだよ」の気分だ。結婚したいわけじゃない。結婚したくないわけでもない。ただちょっと嫌なことがあったり、行き詰まったりすると、つい「結婚」という文字に気を取られていく。そうして少しうじうじして、現場に行ったり、ご飯を食べてぐっすり寝たりしているうちに忘れていくだけだ。


 けれどわたしは、やっぱり何も言えなかった。思わずアイスティーのグラスを見た。すっかりぬるくなったアイスティーのグラスに水たまりができている。水たまりは光を反射して、涙のように潤んでいる。


「どうして、そんなこと聞くの」

 グラスの水たまりから目が逸らせない。


「海野さんが、腹くくりきれてないからでしょ」

 野太い声がした。顔を上げると、南谷さんの髭面とゴスロリ服が目に飛びこんでくる。顔は南谷さん。声も南谷さん。服はゴスロリ。いますぐ笑いたいのに、顔がこわばってうまく笑えない。似あってない。似あってないが、堂々としていて様になっている。


「自分で決めてこの業界入って、現場入りながら自主映画撮って、賞だってとってさ。なのにいつも自信なさそうにして、年下相手に媚びてるからでしょ。謙虚にしてれば、いつか誰かが褒めてくれるなんて思うな。言い訳せずにちゃんとやりなさい」

 はっ。ここで目が覚めた。天井が青い。風呂場だ。湯船はすっかり冷えきっていて、寒い。


「出なきゃ」

 夢と現実がまだ混ざっているような気がした。

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