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再び眠りについたアドリアナはその日は夜中になっても目覚めなかった。
しかしその翌日には再び夜中になると目を覚まし、水やスープだけでなく、固形のものも口にするようになった。昼間は変わらず眠っていて、黒い傷はよりくっきりと、体を覆う瘴気は魔物が眠る昼間も立ち込め、ふと赤い目が開くことはあったが、まだまどろみの中にいるように瞼が重みを増し、寝息を立てた。
七日後、夜中に目を開いたアドリアナは手を使ってゆっくりと体を起こした。
「おはよう、クラウディオ」
アドリアナの言葉は滑らかだった。しかしその目は赤いままだ。
「おはよう」
クラウディオの手から水を、続いてスープを受け取り、どちらもおいしそうに飲み切った。手で口を拭い、片膝を立てる。上半身を起こすだけでなく自由に体を動かし、アドリアナの体に馴染んできているように見えた。
「体調はどうだ」
「とてもいい。体もずいぶん動かせるようになった。…もうすぐアドイアナは消える。アドイアナが消えれば、私がアドイアナ」
そういってアドリアナは口の端を歪めたが、それは笑顔とは言い難かった。
アドリアナが消えると言っても反応の薄いクラウディオに、アドリアナはつまらなそうに口を尖らせたが、その拳に力が入ったのを見逃さなかった。
「クラウディオは騎士だな。魔物を倒したことは?」
「…ある」
クラウディオの答えに、アドリアナはニヤリと笑って見せた。それは本物のアドリアナなら見せない、品のない、しかし本心の笑みだ。
「真実の剣で魔物のつけた傷を切れば、魔物はいなくなる。でもアドイアナが戻ってくるとは限らない。アドイアナは消えたがってる。自分の潔白を証明し、すべきことは終わったと思ってる」
アドリアナはゆっくりと腰を動かし、ベッドのふちに足を投げ出した。ぶらぶらと数回足を動かした後、ぴたっと足の動きを止めた。
「面白いことを教えてやろう。アドイアナは、おまえに気があるんだ」
自分でそう話しながら、アドリアナの顔がみるみる赤くなった。
「会ったこともない異国の王子のために自分を磨きながら、護衛として傍にいる男を意識し、知らない間に目で追っていた。…ダマッテ! 黙ってなどいられるものか、こんな面白い話。そんな男が自分との婚約を押し付けられた。悪女と呼ばれ、花を散らされた自分の婚約者に無理矢理仕立てられ、たまらなかったんだ。…ヤメテ…。自分の身の潔白を明かし、…ヤメテッテイッテルデショウ。…自分が潔白なら、自分を妻にするおまえの名誉を守れると、…オダマリ!」
アドリアナの中の二つの人格が言葉の主導権を奪い合っていた。その一つは魔物だというのに、まるで友達のようにからかっている。
「…乙女でない? それがどうした。乙女でないと幸せになれないとでも? くだらない。想う者と結ばれない者などこの世には数え切れないほどいるというのに…」
話す口元は笑いながら、目は力なく伏せている。この体の二人の主導権はちぐはぐで、まだ完全に魔物のものにはなっていない。
そんなアドリアナをアドイアナに任せ、クラウディオはただ二人のやり取りを見守っていた。
「ああ、おまえはこの男を信用していないんだな。…チガウ。…悲劇に飲まれただけの女など、消えてしまっていい。……。魔物のアドイアナがおまえのこれからの幸せを喰らい、この男も喰らってしまおう。…ダメ! ダメヨ、ソンナノ」
アドイアナは赤い目でクラウディオを見つめ、ゆっくりと頷いた。目が赤くとも、魔物でも、信じていい瞳だ。
「おまえは消えるんだろう? それならアドイアナは私だ。クラウディオはアドイアナのもの。どうしようと勝手…、駄目! 絶対に駄目よ!」
魔物アドイアナの真意を知ったクラウディオは、剣を鞘から抜いた。
アドイアナが立ち上がると、闇色の瘴気が全身を覆い、アドイアナの赤い目がより強く光り、輝いた。
ゆっくりと広げられた両手。濃い瘴気が傷のありかを示していた。
「クラウディオに手を出さないで! …イマダ!」
アドイアナの声に合わせ、クラウディオはアドリアナについた魔物の爪痕に沿って、その剣を振った。
どす黒い闇色の血が噴き出し、黒い瘴気に変わると一気に体の外に流れ出た。そしてすべての瘴気が体から抜け出ると、クラウディオは剣を投げ捨て、力なく崩れていくアドリアナをしっかりと受け止めた。
アドリアナの体から黒い傷跡は薄れていき、人の体の重みだけが残っていた。
クラウディオはそっとアドリアナの頬を指でなぞった。ゆるやかに開いた瞳はかつてのように碧く、クラウディオだけを映していた。
「アドリアナ様…」
アドリアナは両手を伸ばし、クラウディオの首に手をまわした。
一瞬ためらいながらも、クラウディオもアドリアナの背に回した手を引き寄せた。
夜会で手を震わせ、それでも前を向き、胸を張って歩いていたアドリアナ。
王城でクラウディオの手を握りながらあの二人に対峙し、自らの潔白を証明した、あれは魔物ではなく、アドリアナ自身。
本当は怖いと、ずっと震えながら、死にたくなるほどの絶望を抱きながら、それでも魔物からクラウディオを守るため体を取り戻したアドリアナ。
クラウディオにとって釣り合わない存在。身の丈に合わない相手だった。
命令で押し付けられ、自分を拒む相手。心にも体にも傷を負い、その傷を触れることは許されない相手。
しかし今は、たとえ身の程知らずだと罵られても、押し付けられたものであっても、手放そうとは思えない。
「あなたを…、誰にも譲りたくない。レオンにも」
「レオン…?」
突然出てきたレオンの名に、アドリアナは思考を巡らせ、夜会に行く前に逃げようとしたあの時の事を言っているのだと気が付いた。
「ああ、あれは…。彼は私があなたを好きなことを知っていて、逃げるなってお説教されてたのよ。逃げようとする私を捕まえて、それを見たあなたに誤解されたのはわかったのだけど、あの時は…」
アドリアナ自身から「あなたを好き」と言われた。
魔物のアドイアナからもそう言われてはいたが、クラウディオは確かに耳にしながらも、にわかに信じ難かった。
「それは…、信じていいんだろうか」
「…わからないわ。私は悪女ですもの」
そう言って笑うアドリアナがわずかに見せた陰に気付いた。これは自分の告白にも気付かず、自分の話自体を信じてもらえないと勘違いしているのだと察したクラウディオは軽く吹き出し、そのまま笑みを消すことはなかった。
「確かに悪女だ」
クラウディオは、俯いてしまったアドリアナの顎に手を添え、そっと引き上げた。
「アドリアナ様、私は悪女の虜になってしまったようだ」
「悪女に『様』はいらないわ。アドリアナと呼んで、クラウディオ」
二人は互いを見つめ合い、そのまま唇を重ねた。
時は真夜中、二人以外誰もいない部屋。誰も邪魔するものは…
「アー、ヤレヤレ。ヤット出ラレタ」
二人の後ろでアドリアナから抜け出た黒い瘴気が塊になり、そこから形になった真っ黒い猫が前足を伸ばし、腰を高くしてうーんと伸びをした。そしてベッドの上に飛び乗ると、我が物顔でゴロンと横になった。
「メンドクサイ人間ヨリ、コノホウガイイワ。マ、コノママオトナシクシテテヤルカラ、寝床ト、ゴ飯ハヨロシク」
当初の計画は変更され、侯爵令嬢の死は訂正されなかった。
侯爵令嬢との婚約がなくなったクラウディオは、喪が明けるのを待たず、令嬢によく似た娘リアナと結婚した。身元の良くわからない娘はそのしぐさに品があり、高貴な出身と思われたが驕るところはなく、周囲に溶け込もうと努め、やがて友人もでき、王都の街で穏やかな生活を送った。
二人の家には生意気な黒猫がいて、寝床と食事を保証され、時々小さな魔物を喰らいながら今日ものんびり昼寝をしている。
お読みいただき、ありがとうございました。
魔物は悪じゃない、善でもない、魔力のある生き物と言う設定で、
最後魔物が聖剣に散ってさよなら、
とするはずが惜しくなり、
普通の剣で切り離してにゃんになる
になってしまいました。
ぺらっぺら暴露しまくってたのも善意ではありません。
投稿時間直前まで修正し、終わっても修正してます。
ご容赦のほど。
2023.8 灼熱の夏休み