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サリナス侯爵の娘、アドリアナ・サリナスは社交界で知る人ぞ知る悪女だ。
ある日、クラウディオにサリナス侯爵がこう言った。
「おまえを娘の婚約者にしたい。異存はないな?」
クラウディオ・ラバルはサリナス侯爵家の私設騎士団に所属し、一家の護衛を務めていた。自身は子爵家の五男で、爵位を継げる見込みはなく、幼い頃から剣で身を立てることを決めていた。王城の騎士団に入ることを目標にしていたが、クラウディオが試験を受けた年は上位貴族の子息が多く、剣の腕よりも親の地位が採用の決め手になっていた。
コネでの採用など貴族社会ではよくあることだった。試験会場にいた貴族たちは王城の試験に落ちた者達の腕を見極め、腕の立つものから順に自分の家に引き抜いていった。そしてクラウディオはサリナス侯爵の目に留まり、その私設騎士団に入ることになったのだ。
騎士団員になり七年、剣の他、役に立てることはないと思っていたのだが、よもやサリナス家の令嬢アドリアナの婚約者になろうとは。
クラウディオが選ばれた理由は言われなかった。既婚でなく、婚約者もいないことは間違いなく考慮されているだろう。家柄は大したことはないが、家にも自分にも借金はない。特に目立った活躍をした訳でもないが、何かへまをしたようなこともない。褒美でも罰でもないはずだ。
七年も世話になっている家の主人直々の命だ。クラウディオが逆らうことなど許される訳がない。
「承知しました」
感情のない声で、そう返事をした。
クラウディオがこの屋敷に来た時、アドリアナは十一歳だった。
他国の王子との婚約が決まっている「お嬢様」は、特に警護を手厚くするよう命が下っていた。
直接会話することはなかったが、数人いる護衛の一人としてそばについたことは何度かあった。王城で多くの大人たちに囲まれても臆することなく背筋を伸ばして堂々と歩く姿は、幼くても一人前の貴族令嬢だった。
そんなアドリアナが悪女と呼ばれるようになったのは、キルケア王国の第二王子から一方的に婚約を破棄されたことから始まった。
ある日急に王城に呼ばれ、隣国の大使から婚約破棄を告げられた。帰りは気丈にしながらも、家に着くと同時に部屋へと駆け込み、それから二日間部屋から出て来なかった。よほどショックだったのだろう。
その理由は先方の事情としか語られなかったが、口さがない貴族たちの間で婚約破棄されざるを得ない理由が根拠もないまま面白おかしく語られ、広がっていった。
その半年後、ブリオ伯爵家の次男セルジオと婚約した。
アドリアナは新しい婚約に乗り気ではなかった。十二年に及ぶ婚約期間、王子の婚約者として日々自分を磨いていたにもかかわらず、大使の持ってきた紙一枚でいともたやすく婚約はなくなった。まだ傷心な中、王から勧められた婚約。それは命令と同じだった。
その五か月後、王都にあるドッケン伯爵邸で火災が起こった。火災は一室を焼いただけで消し止められたが、屋敷はいかがわしいパーティの最中で、複数の男女があられもない姿で逃げ惑った。その屋敷の二階の一室でアドリアナが服を乱したまま倒れていた。これを知ったブリオ伯爵からはすぐさま婚約破棄が言い渡された。
ドッケン伯爵邸での乱交パーティは王都一のスキャンダルとなった。火災は放火と言われたが、犯人は捕まらなかった。いつしかアドリアナが怪しげな会の主催者だったという噂が流れていた。ドッケン伯爵は会場を貸していただけの協力者とされ、火災に見舞われたドッケン伯爵に同情を寄せる者さえいた。
ブリオ伯爵の次男は早々に別の女性と婚約した。それはアドリアナの友人だったが、もはや気に留める余裕もなかった。
そんな事件から二ヶ月ほど過ぎ、父親に呼ばれ、護衛をしている騎士クラウディオと婚約するよう言われたアドリアナは激怒し、
「どういうことよ、バカにするのもいい加減にしてっ」
と叫んで卓上にあった父の書類や本をクラウディオに投げつけた。本がクラウディオの頬をかすめ、一瞬アドリアナは顔をひきつらせたが、
「私は認めないわ、こんな婚約」
そう叫ぶと父の書斎から出て行った。しかしどんなに叫んだところで、婚約が覆ることはなかった。