始まりの予感
途中にイラストがあります。
次の日の朝、オルガは目覚ましよりも早く目が覚めた。窓のカーテンの隙間から、陽の光がキラキラと見えている。
オルガはベッドに横になったまま昨夜の出来事を思い出し、そっと溜息をついた。そのままカーテン越しの陽の光をぼんやりと眺める。
父は帰って来ているだろうか。クリスの話で、母があれ程動揺するとは思わなかった。
色々と思う事はあるがオルガはゆっくりと体を起こしベッドから出た。
カーテンを開け窓を全開すると、目を閉じて大きく深呼吸をした。少し冷えた朝の空気が、身体の隅々まで行き渡っていく感覚がある。オルガは身体が目覚めて行くその感覚を意識しながらゆっくりと目を開いた。ちゃんと教えてくれるのかはわからない。でも、ちゃんと聞きたい。
(よし! 降りよう!)
気合いを入れる様に大きく伸びをすると、オルガは身支度をし急いで着替えた。
階下に降りると、リビングに入る前に声が聞こえた。どうやら父は帰っているようだ。リビングへ続くガラス戸が半分開いていている。足を踏み出す一瞬前に父の低い声が聞こえてくる。
「時期が来たと考えていいんだろうな……」
立ち聞きをするつもりはなかったが、オルガはリビングに入るタイミングを逃してしまった。
「私、酷く動揺してしまって。あの子に変に思われたかもしれない」
「昨日、対応したのが俺だとしても、同じように動揺してたよ」
両親は、昨日のオルガの話をしているようだ。
「あのワンピースを見つけた時、買ってはいけないと思ったの。あの子に着せてはいけないって……でも……」
「俺はそれを知らなかったからな……知らずに買ってしまった」
少しの沈黙の後、父が静かに言った。
「何かの知らせが来ると思っていたが、彼だったとはね……」
「あの子、帰ってくるかしら……」
母の思い詰めた声が聞こえる。何の話なのだろう。ワンピースとは何のこと。帰ってくるとは何? 自分のことを言っているように思うが違うのだろうか?
「正直言うと、俺も行かせたくは無い。でも、あの時、あの子は居たんだ」
「……わかってる。でも、その先を私達は知らない……だってそうでしょう? 私達には今が現実なのよ、これからの事なんて知らないもの」
「……信じよう。俺達に出来るのはそれだけだ」
昨日の話ではないのだろうか。もっとちゃんと聞きたくて、オルガは一歩踏み込んだ。その時、ドアに手が引っ掛かってしまった。ギィッという音と共にオルガは肩を竦める。
「オルガ?」
母が声をかけて来た。一瞬空気が止まる。でもここにいた事実を隠す訳にはいかなくて、オルガはゆっくりリビングに入った。
「……おはよう」
声をかけると、窓際のテーブルについている両親は二人共こちらを見ていた。
「おはよう」
父が笑いながらオルガに声をかけた。少し疲れたような父の顔は、昨夜眠っていないようだ。それは母も同様だった。
「父さん、昨日遅かったの?」
オルガが聞くと、父は頷く。
「実はさっき帰ってきたんだ。明日のために大変だったよ。でも、ちゃんと終わらせて来たよ」
そう言いながら、父はオルガに手招きをした。オルガは少しゆっくりと歩き素直に父の横に座る。父は何も言わず、しばらくオルガの頭を撫でた後、優しくオルガに言った。
「お前も、十二歳だな……成長したなぁ、オルガ」
父の茶色の瞳が優しく笑う。オルガは何故か緊張していた。昨日の出来事から、チリチリと何か予感のようなものがずっと胸にある。
「ホットミルクでも飲む?」
母はそう言うとオルガの返事を待たずにキッチンへ行ってしまった。
「昨日の事は母さんから聞いたよ」
その後ろ姿を見る父の表情は少し翳って見えている。
「オルガの会った大学生の事だが……父さんの知っている中で、おそらく彼だろうと思う人物はいる」
オルガの心臓が跳ねた。窓からの光で父の顔がよく見えないが、今度は笑っているようだ。
「確認していないから名前はまだ言えないが……クリスではないよ」
オルガはその言葉に少し肩を落とした。あの人はクリスではない。解っていた事ではあるけれど、改めて言葉で聞くと、やはりがっかりしてしまう。
「明日『青の祭り』に行くだろう?」
オルガは小さく頷いた。
「じゃあ、その時にお前の知りたい彼の事を話してあげよう」
父の大きな手がオルガの頭を撫でた。だけど脳裏にはあの大学生の顔が浮かぶ。なんだか気恥ずかしい気持ちになりながらオルガはテーブルに視線を落とした。
「約束するよ。それまでに、父さんも確認して来る。それでいいかい?」
父の手は優しく離れてゆく。
「……腹が減ったな」
父がオルガを覗き込んだ。言われて気付くと、キッチンからいい匂いがしている。
「レイチェルが気を利かせて、朝ご飯を作ってくれてるようだね」
父はキッチンを見ながらオルガに言った。
「レイチェルは昨日の事を、気にしていたよ。手伝ってきたらどうだい?」
喧嘩をしたわけではないけれど、確かに気まずい想いがある。
「うん……」
オルガはしばらく椅子に座って足をぶらぶらさせていたが、観念したように立ち上がりキッチンへ踏み出した。
「オルガ」
呼び止められオルガが振り向くと、父がオルガの側に来て両手を広げて抱きしめた。思いの外強い力で抱きしめられ戸惑っていると、父の言葉が降ってきた。
「思う通りに進むんだ。今はまだそれだけしか言えないけれど、お前の思う通りに行きなさい」
そして、父は静かに手を離した。オルガは見上げたが、父はまるで何事もなかったかのように少し微笑んで、キッチンを指差した。
コトンと心の中で音がしたような気がした。オルガはこれから何かが始まるのだと思った。
「母さん。手伝うよ」
比較的元気な声でオルガはキッチンへ入って行った。
「ありがとう。お皿を出してくれる?」
母はいつものようにオルガに笑顔を向ける。母自身も父さんに話した事で少し気がおさまったのかも知れない。昨日と違って今日はちゃんと目が合った。
ガス台の上のフライパンの中には、ハムエッグが三つ出来上がっていた。
「これ、分けていいの?」
「そう、お願い。私は窓辺の野菜を取って来るから、ハムエッグをお皿に載せてて」
そう言って母はキッチンの窓を開けて、そこに植えられているリーフレタスを少しちぎった。そのままラデッシュも採取すると、水で洗い手早く切ってお皿に盛る。キュウリのスライスまで乗せると途端に皿の上が色鮮やかになった。
それから大きな丸パンをナイフで切って、バスケットに入れ、温め直した昨日のスープを三人分入れた。
朝食をテーブルに運び並べながら、母は「あぁそうだ……」と冷蔵庫からドレッシングを取りだす。
「あっドルクのドレッシング。だから今朝は野菜が多いのか」
「えぇ。昨日エリザがお店にドレッシングを持って来てくれたの。エリックがこのドレッシングが一番好きだから、サーカス団に差し入れを持っていった後に寄ってくれたのよ」
エリザはハズの母親だ。オルガもハズの家のドレッシングは好きだった。野菜にかけると、その旨みが存分に出る。でも、ドレッシングは自己主張しない。純粋に野菜が美味しくなるという、魔法のようなドレッシングだ。
朝食をテーブルに並べ終えた時、父が新聞を取って上がって来た。
「美味そうだな」
いつもの朝と同じ風景だ。朝食を取りながら、父は新聞片手に談笑する。母もそれに答えながら、ゆっくりとスープを飲んでいる。オルガは丸パンの切れ端を頬張りながら、学校での出来事や『青の祭り』の事を話す。
いつもと違うのは、両親が何となく目で会話をしている事だけだった。オルガは食事の間中、気が付いていない振りをしていた。
『青の祭り』の前日からの四日間は学校は休みになる。普段は学校へ行く支度をして出かけるのだが、今日は朝食を終えると、部屋に上がり、『青の祭り』の準備に取り掛かった。
部屋の隅にあるクローゼットを開け、着ていく服を選ぶ。
ふわっとした水色のワンピースは、もうちょっと形が子供っぽかった。薄いグリーンのワンピースは半袖で、今の時期はちょっと寒い。
(やっぱり、カチッとした地味な茶色のワンピースしかないか……)
そう思いながら、ベッドにワンピースを並べていると、部屋のドアがノックされ、入って来たのは母だった。
「オルガ、『青の祭り』にこれを着て欲しくて」
母はオルガにワンピースを差し出した。
「この前、可愛いのを見つけたらしくて、エリックがオルガにって。少し、大人っぽいかなぁって思ったんだけど……」
母はオルガにワンピースを渡した。さっき二人が話していたのは、きっとこのワンピースだ。
「気にいらなかったら着なくても良いのよ」
母の言葉にオルガはワンピースを目の前に広げてみる。
全体的には淡いベージュ色で、ふわっとした布がたっぷりと使われ、今の時期に来ても寒くないようになっている。腰のところに紺色の紐があり、それを引き締めると緩く窄まるようになっているようだ。
全体のシルエットはストンとシンプルだが、スカートが三段になっていて花弁が重なったような雰囲気がある。首元に腰紐と同じ紺色に近い青色の太い幅のリボンが付いていて、首の後ろで結ぶようになっていて、かなり凝ったデザインだ。
オルガは一目で気に入った。
「素敵! ありがとう!」
オルガの喜ぶ姿に母は微笑んだ。
「気にいったの?」
「勿論!」
オルガは大きく頷いた。
「そっか……ね、着てみて」
母が言う。オルガは言われるがままに袖を通した。鏡に映った自分は一気に大人になったように見える。
イラスト:『ワンピースを着たオルガ』 青羽様より
「似合うわ、オルガ」
鏡越しに母は言った。
「明日出かける前に、髪をセットしてあげるわね」
母は言いながらオルガの癖のある髪をそっと束にして、少し持ち上げた。
「ゆるーく編みこんで、横に流してもいいし……ウェーブはそのままで、サイドを束ねて巻きつけるだけでも素敵ね」
鏡の中の母と目が合うと二人ともフフッと笑う。
「後で、色々髪飾りも合わせようね。明日は何時頃出るつもり?」
「ハズ達とサーカスの裏側を見に行くから、明るい内に出ると思う」
「そう、じゃあその後、サーカステントの入り口で待ち合わせようか」
「ハズもお洒落して来るかな」
「そうね。エリザも張り切ってたわよ」
オルガが、一人で納得していると、母が思い出したように言った。
「オルガ……今日、後でミランダの所へお使いを頼んでもいい?」
「うん。昨日のクッキーを持って行くの?」
オルガは頷きながら、鏡の中の母を見た。母の目が少し潤んでいる。オルガは驚いて目を凝らした。だが、母は慌てることなく後ろからオルガを抱き締める。
「いい子ね、オルガ」
幼い頃、何かお手伝いをしたり良い事をすると、母はよくこうやって抱き締めてくれた。
「……母さん?」
オルガは鏡の中の母を見つめた。
「やだわ……何だか小さい頃からのあなたの事、色々思いだしちゃって。本当やだわ、昨日から涙脆いわよね」
そして母はそっとオルガを離し、急いで涙を拭くとまた後でねと出て行った。
オルガは鏡越しに母の後ろ姿を見送り、改めて鏡の中の自分を見た。
母が泣いていたのはとても気になった。でも鏡の中の自分の姿を見ると、その気持ちが薄くなる。やっぱり新しいワンピースは嬉しい。
少し癖のある髪は母に似ていて、明るい茶色だ。瞳は父に似て濃い茶色。肌の色は母に似て白く瞳が大きいが、鼻筋は父に似てすうっと通っている。街で出会う人は勝手に「お母さんにそっくりね」とか、「お父さんにそっくりね」とか言うけど、オルガにとってはどちらにしても似ている事が嬉しかった。
オルガは立ち上がって、鏡の前でくるりと廻ってみた。スカートがふわっと揺れる。嬉しいという気持ちは、大きな力になるものなのかもしれない。
(そうだ。ミランダ叔母さんにもこのワンピースを見せてあげよう。このまま行こう)
そしてオルガは薄手のハーフコートを取ると部屋を出た。