ガラスの温室
オルガがグラセルにお茶を入れてしばらくすると、玄関のチャイムが鳴った。直ぐにグラセルが反応し扉へと向かう。
「あぁ、お帰りなさいクリストファーさん」
グラセルの声がした時、オルガは緊張した。
先ずはこのような事になってしまった事を謝らなくてはいけない。アルトを見ていて欲しいと頼まれたにも関わらず、一時的にとはいえ行方がわからなくなったのだ。自分がもっとちゃんとアルトに注意を払っていれば、これはきっと回避できた。
オルガはクリスの慌ただしい足音に身を竦めた。叱られる事を覚悟していても、目前になると逃げ出したくなる。
扉が開くと、クリスがリビングに飛び込んできた。
「オルガ!」
クリスはオルガの顔を見た途端に脱力したように緊張を緩め、オルガを思い切り抱きしめた。
「良かった……本当に、良かった……」
「博士、ごめんなさい。あの場所を動いてしまって……」
心配していたクリスの気持ちを考えると、いたたまれない気持ちになる。知らず知らず落ちて行く涙が、クリスの黒いジャケットを濡らし始めた。
「何事もなくて良かった……二人に何かあったらどうしようかと、生きた心地がしなかったんだ」
オルガを抱きしめたままクリスは動かなかった。アルトがソファーに寝かされているのを確かめて、ようやくクリスはオルガを離し、顔を覗き込んだ。
「大丈夫だね。どこも何もないね」
クリスは確認するようにオルガの肩や腕に触れて、次にソファーへ近づくとアルトを見下ろした。それから寝ているアルトの頭に手をやって大きな溜息をついた。
「良かった……本当に……」
その姿だけでも、いかに自分がクリスを心配させてしまったのかが分かる。あの雑踏の中を彼は二人を探し続けていたのだろう。ジャケットが少しだけ皺になっている。
「博士……ごめんなさい。私がアルトの手を掴んでいなかったから……人混みに紛れてしまったの……」
「いや、むしろ責任は僕にある。あの人混みの中で二人を置いたままにした僕の責任なんだ。本当にそうなんだよ。どこかの店に入って待っていて貰えば良かったんだ……ごめんね、オルガ、君には辛い思いをさせてしまったね」
オルガの小さくなっていく語尾を引き取るようにそう言うと、クリスはオルガの頭も撫でた。ある程度の事はレイチェルに聞いたのだろう。彼の口調から少し漏れた言葉で想像できる。
「君だけに責任を押し付けたようなものだね。僕は保護者失格だ……」
オルガは急いで首を振る。
「違うんです! あの時、私がアルトの手を掴まえていたら、こんな事にはならなかったの。絵本を読んで待っていようって……そう言っていて」
クリスの手のひらは暖かだった。今までの思いが全部包まれるような感じがする。そう思った時、オルガの頬にポロポロと涙が落ちた。謝らなければいけないのは自分なのに、博士はそれすら包もうとする。
「オルガ、大丈夫だよ。もう二度とこんな思いはさせないから、僕を信じて」
彼の言葉は暖かい。オルガはその心を大事にしたいと思った。
「では、私は帰ります。みなさん今日は疲れたと思うので、もう休んでください」
グラセルが部屋の隅でそう声を上げた。グラセルの表情も穏やかになっている。
「あぁ、グラセルさんにはご迷惑をかけました。本当にありがとうございました!」
グラセルは少し笑うと丘の家を去って行った。
クリスがアルトの様子を見ている間、オルガはお茶を淹れた。
お茶にはいろんな効果があるというがよくはわからない。でも、今のように緊張した後だと、安堵感が増すのを知っている。
「オルガ、ありがとう」
ようやく安心したのか、クリスはお茶の入ったカップを受け取り、テーブルについた。もう張り詰めた空気はどこにもない。
「今日二人を保護してくれた人にお礼がしたいんだけど……どのあたりに住んでいるのかな? 何かその人についてわかる事はある?」
クリスの優しい声にオルガは頷いた。
「あ……はい、電話番号を聞いてきました」
ポケットを弄るとメモの紙が手にあたった。それを引き出すとオルガはクリスの前に差し出した。
「ミランダ、さんは今はまだ学生なのだそうで、普段は家にはいないと思います。あと……博士と同じで携帯を持ってないです」
思わず『ミランダおばさん』と言いかけて慌ててそれを制し、ミランダの現状をオルガは伝えた。クリスはオルガの顔を見ながら少しだけ肩を竦める。
「……やっぱり、携帯はもった方がいいのかな? レイチェルやグラセルさんとの連絡にいちいちレイチェルの屋台へ行かなくちゃならなかったんだ。正直、移動中も気が気じゃなかった」
それについての決定権はオルガにはない。でも、両親の話では博士は携帯電話を持っていなかったと言っていたけれど……。
「でももう、こんな事は二度とないと思います。私も、アルトも、とにかく怖かったから……次に何かある時には絶対に手を離なしませんから。だから、無理して携帯電話を持たなくても……」
クリスは大きな手をオルガに向けて差し伸べてきた。そして頭を撫でる。
「オルガは優しいね。僕自身も、もうこんな事にはならないようにするから……よく頑張ってアルトを見つけてくれたね、改めて、感謝するよオルガ、ありがとう」
「……」
いけない、このままではまた涙が出てきてしまう。そう思っているとクリスが「あ……」と小さく声を上げた。
「屋台で買った料理、置いたままだった。オルガはもう何か食べたかな?」
「ううん、まだです」
「お腹空いてない? 僕はホッとしたらお腹が空いてしまったんだけど、付き合わない?」
言われてみれば、ミランダの家でもお茶とクッキーだけだった。
「今皿にあけてレンジで温めるから、待ってて」
クリスはオルガは優しいと言ってけれど、どこまでも優しいのはクリスの方だ。
クリスはお皿に買ってきたものを乗せながら、全部を少しづつパックの中に残している。間違いなくアルトのためだ。
「明日アルトが起きたら、絶対に一緒に食べたかったと怒るんだろうな……」
「……はい。間違いなく……怒ると思います」
クリスがオルガを見た。その瞬間、二人は笑い出した。怒るアルトを想像したのだ。
「でもお腹が空いたままじゃ眠れないから仕方ないよね」
「はい、このままでは朝まで持たないです」
二人で笑っていると、チンッというレンジの小気味良い音が鳴った。大皿の食べ物が熱くなったのだ。クリスが大皿を出すと上に置いていた屋台の食べ物が熱々の状態になっている。
大皿の上には様々なものが乗っていた。熱くなった食べ物の湯気が混じり合い、少し不思議な匂いだ。
ケバブのパンとは別になった中身だけ。長いソーセージをぐるぐる巻にして焼いたもの。揚げたシュガードーナツ。白身の魚に衣をつけて揚げたもの。フライドポテト。別な平たい皿にはサラダが盛られ、スープ皿にはミネストローネのような野菜と豆とキヌアの赤いスープがある。
「ご馳走ですね」
「うん……手当たり次第に買ったわけじゃないんだけどね、こうなってしまった」
クリスは気まずそうに頭を掻いた。でもオルガにはそんな事はどうでも良くて、何だかクリスとこうしてご飯を食べるというのが嬉しいのだった。
思えば写真でしか見た事がなかったのに、こうして本人と憧れの場所にいる。それだけでも十分に嬉しい。
「さぁ、食べようか」
クリスがそう言った時、「何してるの?」という声が後ろから聞こえた。
振り向くとアルトがソファーに起き上がっている。思わずクリスとオルガは肩をすくめた。
「あ……僕を除け者にしてご飯を食べてる!」
事態を確認したアルトがそう言うなりテーブルに急いで駆けてきた。
「僕もお腹空いてるのに、二人で食べようとしてたの? そうなの?」
「違うよ、ほら、アルトの分はちゃんと残してたんだ」
クリスがパックに入ったものを見せると、やっとアルトは納得し、自分の分も温めろという。
「本当に食べる?」
「僕、お腹空いてるもん」
「あ、博士、ミランダさんのところではクッキーと蜂蜜入りのお茶しか飲んでなかったの。だからアルトもお腹が空いていると思います」
「そうか……」
そしてクリスは何か思いついたように二人を見た。
「じゃあさ、初めの予定通り温めたら温室の研究所で食べようか?」
途端にアルトとオルガの表情がイキイキとし始めた。そうだ、今日はそのつもりだったのだ。
「本当ですか?!」
「いいの?!」
もうこれで決まりだ。
料理を熱くすると、クリスが大きな皿とスープ皿から戻した鍋を持ち、オルガがサラダを持ち、アルトはケバブのパンを持った。
研究室へ向かうべく温室の扉を開けると、植物の香りが鼻を通っていく。何とも言えない植物の青い生きた香りだ。
「ここやっぱり好きです」
思わずオルガは口にした。ここにいるだけで穏やかな気持ちになる。こんな場所はどこにでもあるわけじゃない。
「嬉しいな。僕も幼い時からそうだったんだよ。このガラスの温室ができたのはかなり前のことなんだけど、僕の父親が幼い時にここに温室を作りたいと言ってきた芸術家の人がいたらしくてね。ここができた時には町中の人が見にきたらしいよ」
「それは分かる気がします。だって素敵だから。ここは他の場所とちょっと違うように思うんです。空気が違うというか……神聖な感じがするというか……」
「あぁ、そう言うのはあるかもしれないね。真ん中の花壇があるだろう?」
クリスがそう言うとアルトが得意げに声をかけた。
「いつも僕が水を撒く丸い花壇の事?」
「そう、あの場所に植えた植物は、特に生き生きとして花を付けるんだ。不思議なくらいにね。日の当たりが一番良い天辺になるからなのかと思うんだけど、とにかく花が長持ちするんだ。だから元気のないものはあの場所に植えるようにしている」
オルガはこれを聞いてドキリとした。思い出すと青い薔薇が咲いていた場所も確かあのあたりではないだろうか?
クリスは食料を持ちながら研究室にしている奥へ向かう。中央付近に丸い花壇がある。その脇を通る時にクリスがわざわざ「この花壇だよ」と声をかけた。
やっぱりそうなだ。ほんの少しだけ青い薔薇の場所はずれている気がするけれど、ほぼこの場所で間違いない。そう思っているとクリスが笑いながら言葉を続けた。
「たまにね、青色の花が咲く事があるんだ。まぁ突然変異で色が変わる花はあるし、青い色素は自力で作り出せる花ばかりだから不思議ではないんだけどね」
途端にオルガはスッと血の気が引いた。『たまに突然変異のように青い花が咲く』その言葉が何を示しているのか想像がつくのだ。この時代からあの現象はあったと言う事だ、そうとしか考えられない。
だけどクリスは自力で青い色素を作り出せる花と言った。と言うことは……薔薇は? あの時、大学生の彼は何と言っていた? 青い色素を作り出す遺伝子が見つからないと言わなかったか? だとすれば、もしかすると薔薇の遺伝子に青い色素を作り出すものが見つかるかもしれないわけだ……。
——そうか、それなら問題ないのかもしれない……。
オルガは人知れず不安な気持ちを落ち着かせた。
「さて、研究室に着いたよ。オルガかアルトどっちでも良いから扉を開けてくれる?」
「あ、はい!」
オルガは慌ててサラダの皿を片手に持つともう片方で扉を開けた。
「オルガは研究室に入るのは初めてだっけ?」
「……はい」
「ではどうぞ、我が研究室へ」
クリスが先に入り振り向いた。中に入ると、あの時見た書棚が奥にある。その中にはフラスコやビーカーが綺麗に並んでいた。幾つか台があって、その一つには電子顕微鏡のようなものがある。
机の上にデスクトップの昔の形の大きなパソコンがあり、部屋の隅にソファーとテーブルがある。そして外は暗いが温室の光を反射したケヤキの木が見える。
オルガは泣きたい気持ちになった。心が震えて仕方がない。
「オルガ? こっちにサラダを持ってきて」
クリスはもう奥のソファーに大皿を置いている。アルトもそれに続きケバブのパンの皿をテーブルに置いた。
オルガがサラダを持っていくと、クリスはその奥の台にあるガス台にスープ鍋を置き火をつけた。ボフッという小さな音がして鍋のスープが温まるとトマトスープのいい香りが漂い始める。
「ね! 凄いでしょう? 僕もここが大好きなの。ここに来るまでが森の中みたいでしょう? それにほらお空が見えるんだよ」
アルトが天井を指差しながら笑う。オルガも釣られて微笑んだ。そうだここは紛れもなくクリスの研究室だ。
クリスがガス台を置いてある台の引き出しからナイフとフォークを出した。
「オルガ、これを持っていってくれる?」
「はい」
そして、テーブルに置くとアルトをソファーに座らせ自分も横に座った。
オルガは隅々を見た。あの時見たまま少し新しく感じられるだけで何も変わっていない空間が広がっている。
日除けの蛇腹もそのままで、片方に寄せられていて、床はテラコッタだ。
「珍しい?」
クリスがオルガの様子を見て声をかけた。スープを入れたボウルをそれぞれの前のテーブルに置く。
「はい……素敵です。こんな場所で研究ができるなんて……」
それを聞いたクリスは嬉しそうに笑った。
「僕もね、この場所が好きで、これだけは自分が欲しいと思って兄には譲らなかったんだ。思い出の場所でもあるんだけど、売られたりしたら嫌だしね」
クリスが天井を見た。天井といってもガラスだから暗い夜空が見えている。
「電気を消すと、星も綺麗に見えるんだよ」
「……」
「オルガ?」
知らず知らず涙が溢れていた。
何でこの穏やかな時間は続かなかったんだろう。そう思うと苦しくなる。
「どうしたの? 泣いてるの?」
隣に座るアルトがオルガを覗き込んだ。でも涙が止まらない。
「オルガ……今日は色々とあったからね。泣いてもいいよ。でも暖かいうちにスープは飲もう」
クリスがオルガの手にスープの入ったボウルとスプーンを持たせてくれた。オルガはクリスの顔を見ながら泣きながら笑う。
「私、頑張ります。この場所が好きだから、頑張る」
クリスには意味はわからないだろう。でもそれだけを言うとオルガはスープをスプーンで掬った。
ミネストローネのスープはキヌアがふやけておかゆのようになっている。でも程よいトマトの酸味と煮込まれた野菜の旨味で何とも言えない味わいになっていた。
心配そうにオルガを見るアルトに対して、クリスは穏やかに笑っている。この研究所での時間を自分は一生忘れないだろうとオルガは思った。