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グラセルの事情


 それから三十分ほど経った頃、ミランダの家のチャイムが鳴り、それと同時に扉も叩かれた。ミランダが開けてみると扉の外には精悍そうな男が一人立っていた。


「あ……グラセルさん?」


 男性の姿を見たオルガは、ミランダの後ろから声をかけた。彼はオルガがこの時代に来た時にお世話になった警察の人だ。グラセルは非番だったのか警官の制服ではなく、セーターにスラックスというラフな格好をしている。


「あぁ……オルガさん、良かった。居なくなったと聞いた時には肝を冷やしましたよ」


 少し緊張したような表情をしていた彼は、オルガを確認するとにこやかに笑い、ミランダに敬礼をした。


「彼ら二人を保護をしていただき、ありがとうございました。私はグラセルと申します。あなたのお名前を伺っても宜しいでしょうか?」

「……エドゥアールと申します。ミランダ・エドゥアール、よろしくお願いします」


 ミランダが名乗るとグラセルは少し驚いたような表情をした。


「ミランダ……エドゥアールさん、ですか?」

「……えぇ、そうですが……何か?」


 グラセルの驚きにミランダだけでなくオルガも少し不安になった。


「あ……いえ、以前私が世話になっていた方々の苗字と同じだったので……もしやと……」

「そうなのですか? でも、私とあなたのお世話になった方々とは関係ないと思いますわ。私の家族はこちらにはいないので……」

「あぁ……そうですか……そうですよね、これは失礼いたしました」


 普通に聞いたのなら何もおかしな所のない会話だが、オルガは少しだけドキリとしていた。

 グラセルは時間を飛んできた人達の世話役の一人のはずだ。なのに何故ミランダに驚いたのだろう? 名前に驚いたと言う事は彼女の事を知らないと言う事だ。前に修道院のパメラがこの街には時間を飛んだ人が分かっているだけで八人いると言っていたが、ミランダはその中に入ってはいないという事か?


「あの、グラセルさん。えぇっと……アルトが寝てしまったんです。家に帰るのに起こさないといけないと思うんですけど……」


 微妙な空気になりそうだったが、オルガが急いでグラセルにアルトのことを告げると、グラセルは安心させるようににっこりと笑って見せた。


「あぁ、そうでしたか……アルト君は私が運びますから、そのまま寝かせていて大丈夫です。クリストファーさんとはまだ連絡が取れていなかったので、レイチェルさんの所へお連れしようかと思ったのですが……寝てしまったのでしたら、このまま家までお送りしましょう。鍵はお持ちですか?」

「はい、持っています。本当にご迷惑をおかけして、申し訳ありません」

「いいのですよ。無事である事が重要なのですから。レイチェルさんには家の方に送ると伝えます」


 そしてミランダに向き直る。


「家の中に入ってもよろしいですか?」

「えぇ、どうぞ、こちらです」


 ミランダが先に立って案内する中、オルガは自分の荷物の二冊の絵本の袋を持った。そこでミランダにこの絵本のことを聞くのを忘れていたことに気づいたが、もう時間はない。

 こうしてここで出会うことができたのだから、また会う機会はあるだろう。博士にお願いして、ミランダをお茶に誘ってもいいかもしれない。

 そうして足元を見る。新しい靴で歩き回り、挙げ句の果てに長い距離を走ったのだ。そのせいで、オルガの足には靴擦れができていた。歩く度に痛みが走るが、今は仕方がない。

 

——今は、疲れた……早く家に帰りたい。


 そう思いながら、オルガは少しおかしくなった。自分の中での帰りたい家が、両親と暮らした家ではなく、あのガラスの温室のある丘の家になっている。今、あの家はまだ別な人が暮らしている。だから仕方がないのだが、それでも自分もこの時代に慣れてしまったということなのだろうか?


 グラセルはアルトを抱っこして部屋を出てきた。リビングで待っていたオルガはもう準備ができている。


「あの、ミランダさん。またちゃんとお礼に伺わせてください。それで……できれば電話番号を教えていただけませんか?」


 オルガが思い切ってミランダに言うと、彼女はニッコリと笑った。


「えぇ、いいわ。またいつでもいらっしゃい。あ……いつでもではないわね……大学がお休みの時に限るけれど、それでも良いのなら、遊びに来て」

「はい。また来ます」


 オルガは嬉しくなった。またここへくる事ができる。自分の知っている好きな場所が変わらずそこにある。その事実はオルガの力になる気がした。


 ミランダの家を出ると連絡を取り合うことを約束してその場を離れた。

 振り向くとミランダが戸口に立って手を振っている。アルトを抱いたグラセルは一度だけ振り向いたが、その後は振り返らずに歩いて行った。オルガは数回振り向いてミランダに手を振ると、グラセルを追いかけた。







 丘の家の門が見えてきた時、オルガは心から安堵した。長い一日だったが、やっと帰ってくる事ができたのだ。

 丘に続く夜道は所々にセンサー付きのライトがある。見上げるとそれが点々と歩く道を示していた。


「大丈夫ですか?」


 門を開けて入ると、坂道を上がりかけたグラセルが聞いてきた。


「はい、大丈夫です。ちゃんと道は見えていますから……」


 そう答えたものの実はオルガは歩くのに苦労していた。靴の中では血豆ができていて、後ろの部分は靴擦れで皮がめくれてしまっている。きっと今靴を脱ぐと血だらけなのではないだろうか?

 グラセルは歩き方がぎこちなくなっているオルガに気付いたのだろう。歩く道々、始終気にかけてくれていた。


——この丘を上るともう家だから……。


 もう一度気合を入れて一歩を踏み出す。痛みは走るがもうすぐ家に着くと思うと我慢できた。

 コートのポケットに手を入れると、硬くて長い金属の感触が手にあたる。鍵の確認をして、オルガは先を行くグラセルを追いかけた。


「クリストファーさんが戻ってくるまで私がいますから……安心してください」


 グラセルは気を使ってくれているのだろう。安心させるようにオルガにそう言うと、彼はアルトを抱えたまま家に向かった。


 家に着くとグラセルはソファーにアルトを寝かせ、自分は電話をかけてくると家の外へ出て行った。オルガはアルトの絵本をアルトの部屋の机に置き、もう一つを自分の机に置くとそそくさと服を着替えた。

 父が買ってくれたワンピースは大好きだったけれど、このワンピースを着るとろくな事が起こらないような気がする。一度路上で倒れてしまったせいで、前のスカートの部分が汚れてしまった。またクリーニングに出さなければいけないのだろう。汚れた部分を手でなぞり、一度ハンガーに掛けてハンガーラックに戻しておく。


 靴を脱ぐと案の定、中は血だらけだった。ストッキングを脱ぐと転んだ時に開いた穴があり、そこにも血が少しだけついていた。薬箱はリビングにある。オルガは着替えた後、室内用のスリッパに履き変えるとリビングへ戻った。


 リビングへ戻ると、グラセルは戻ってきていた。


「レイチェルさんと連絡が取れました。あちらもクリスさんと連絡が取れたようで、もう直ぐこちらへくると思いますよ」


 グラセルは大人なのに子供であるオルガやアルトにも丁寧な言葉で話をする。それが他の警官の人とは少し違う気がして、オルガ自身も丁寧に応対するようになった。

 アルトが眠るソファーの足元に座り、オルガはホッと一息をついた。


「オルガさん、あなたは足を痛めていたでしょう? 今、治療をしていた方が良いと思います。クリスさんが戻ったら、心配されるでしょうからね」

「あぁ、そうですね」

「薬箱はありますか? 私は傷には慣れているので、やってあげましょう」

「ありがとうございます」


 オルガは素直にそう言うと、電話の横にある棚から薬箱を取り、グラセルに渡した。


「ではソファーに座って、私に足を見せてください」

「何だか、すみません」

「いいえ、本当はあのミランダ・エドゥアールさんのお宅で、出る前にするべきでした。あの時には気付いておらず、申し訳ない」

「あぁ、いいえ、謝らないでください。私自身のせいですから……」


 オルガは素直に足を出した。グラセルは膝をついて、その上にオルガの足を乗せ、傷の部分を丁寧に消毒する。オルガは消毒液が傷口についた時、小さく声をあげた。消毒液が傷口に当たるとピリピリとした痛みが際限なく起こる。


「我慢してくださいね。バイ菌が入っていたら大変ですから」

「はい……」


 処置をしながらグラセルがまた口を開いた。


「私にも、娘がいたのですよ。生きていれば、あなたと同じくらいだったと思います」


 オルガは自分の傷を見ていたが、その言葉を聞いて思わずグラセルを見た。傷の手当てをする彼の顔には抑えた感情が見えている。


「……事故というか……目の前で妻と子を亡くしました。だから、あなたの事は他人事に思えないのです。どうか、変なおじさんだと思わないでくださいね」

「そんな事、思いません。今日も助けてくださいましたし。グラセルさんには感謝しかないのです」

「それなら良かった……」


 グラセルは絆創膏をくるぶしの傷に貼り付けるとニコッと笑った。その笑顔がとても優しそうで、オルガは胸が痛んだ。


「血豆もありますね。血を抜いていた方が治りは早いと思いますが……針はありますか?」

「え? 刺すんですか?」

「えぇ、中の血を抜いて消毒すると治りは早いですよ」


 オルガは慌てて首を振った。


「血豆はこのままでいいです! あの……針で刺す方が怖いので……」


 途端にグラセルは笑い出した。


「確かにそうですね。我々は慣れてしまっていますから、そうやってすぐに直そうとしますが……あなたの場合は時間をかけて治してもいい。失礼しました。刺すのはやめておきましょう」


 グラセルの言葉にホッとしたオルガは、彼の膝から足を下ろした。ちゃんと絆創膏を貼ると擦り傷はもう痛くない。室内用の靴を履きオルガはキッチンに立った。


「博士が戻ってくるまで、ここにいてくださるんですよね?」

「はい、そのつもりです」

「じゃあ、今、お茶を入れます。ちょっと待っていてください」


 グラセルへのお礼も兼ねて、オルガはお茶を入れる事にした。ヤカンに水を入れて、火にかける。紅茶のポットに茶葉を入れて準備をし、マグカップを準備した。

 その姿を見ながら、グラセルがまた口を開いた。


「あの、ミランダ・エドゥアールさんという女性は、お知り合いなのですか?」

「あ……いいえ、迷子になったアルトを保護してくださった方で、先ほど知り合ったばかりです」

「そうですか……では彼女のことは何も分からないのですね?」

「はい、申し訳ありません」

「なぜ謝るのですか?」

「あ……すみません、何となくです」


 オルガはよく知ってはいるものの、実際にミランダとは今日会ったばかりだ。

 それに時間を飛んだ人を管理しているはずのグラセルがミランダの事を知らないというのも少し気になった。悪いとは思うが、ミランダの事をグラセルに言うには気が引ける。


 ミランダはこの街に馴染んでいた。でも、ミランダ自身は、この街に自分と同じように時間を飛んだ人間がいることを、知らないのではないだろうか? その辺りの事情が分からないと、おいそれと人に言う事はできないと思う。


 理由が分かれば自ずから言っていいかどうかの判断ができるようになるだろう。オルガはこのまま黙っておく事に決めた。


グラセルには悲しい過去がありました。

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― 新着の感想 ―
[一言] グラセルさんの過去。それは、グラセルさんがミランダさんのファミリーネームである、エドゥアールという名前に反応したのと関係があるんでしょうかね? フィオナさん、無事にアルトちゃんと一緒に植物…
[一言] アルトと別れてしまったときはどうなるかと思いましたが、無事に会えて良かった! ミランダさんはここまで分かって、何かあったら訪ねるように言っていたのかな? だとしたらフィオナの知るミランダさん…
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