リンデルツのミランダ
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「ねぇ、入っていらっしゃいよ。お茶を入れてあげるから」
中からミランダの明るい声がして、重い紙袋を持ったオルガはアルトと共に扉の中に入っていった。
入った瞬間、ミランダ叔母さんの部屋の匂いがした。
——あぁ、この匂いは変わらないんだ……。
少しだけ安心してオルガは奥へ進んだ。リビング兼ダイニングになっているキッチンに続く部屋には変わらず大きな戸棚があり、大きなテーブルが真ん中に鎮座している。
「そこのテーブルに荷物を置いてくださる? 今お茶を入れるから、ちょっと待ってね」
ミランダは先の荷物もテーブルに置いたままで、ヤカンに水を入れ始めている。オルガは素直にテーブルに荷物を置き、改めてミランダの後ろ姿を見た。ミランダが自分の居るべき時代からここへ来たのは十六歳の頃のはずだ。今の年齢は、見たところ、そんなに時間は経っていないように思える。きっとまだ十代なのではないだろうか?
——ここでの暮らしに苦労はなかったかな……。
そこまで考えて苦労ばかりだったに違いないと思い直した。慣れるのは大変だっただろうし、お付きの人も誰もいない中でミランダはここに慣れていったのだ。
「あの……私がやりましょうか? お茶を入れるのは得意なんです」
オルガがミランダの後ろ姿に声をかけると、ミランダはヤカンをガス台に乗せ火をつけたところだった。
「あら、これくらいは大丈夫なんだけど……やってくださるのなら、嬉しいわ」
ミランダは少しはにかんで笑うと、食器棚からポットとカップを取り出して横に置き、テーブルへやって来た。
「私ね、料理が苦手なのよ。簡単なのはできるんだけど……」
そう言いつつ、ミランダは紙袋から中の物を取り出し、テーブルに並べ始めた。紙袋から出て来たのは全部缶詰だ。
「えっと、これって……」
言い淀んだオルガにミランダは言い訳のように早口で言い始めた。
「だ……だってほら、缶詰だと調理されているでしょう? 何もしなくていいし、野菜を混ぜればかさは増すから……便利だし……」
後の方は小さな声になっていく。
(これは大変だ……)
このままではミランダは身体を壊すのではないだろうか?
「あ、でも、お昼は外のレストランや屋台のご飯を頂くから、そんなに心配はいらないのよ。朝とか夜だけが缶詰なの」
少し誇らしげにミランダは胸を張る。いや、そう言うことではないんだけど……と思いつつオルガは缶詰を片付けるのを手伝った。
戸棚の下の方に缶詰が並べてあり、奥のものを手前に出して、今日買って来たものを奥へ入れる。
「今日は『青の祭り』でしょう? だから新市街にある大きなスーパーで缶詰が大安売りしていたの。買わない手はないわよね」
缶詰の種類はほとんどがツナ缶と煮豆で、残りは数個のコンビーフと野菜の煮物が混じっている。
缶詰を片付けると、大きなテーブルの上は何もなくなり「さあどうぞ、座って」と言うミランダの声とともにヤカンのお湯が沸く音がした。
「あ、お茶を入れて来ます」
慌ててオルガはキッチンへ行き火を止めると、まずはカップにお湯を入れて温めた。それから戸棚の中からお茶の葉を取り、ポットに茶葉を入れる。それからカップの中のお湯をポットに注ぎ入れ蒸らしながらテーブルに持っていった。
その間もアルトはずっとオルガの後をついてくる。
「……ねぇ、私、あなたにお茶の葉の場所を教えたかしら?」
オルガがお茶のポットを持って戻るなり、ミランダが不思議そうにそう声をかけた。一瞬オルガは手を止め、ミランダを見た。自分が今、この家のことを知っているのは確かにおかしい。
「あー大体の家では戸棚にしまってあるので……同じかな、と……すみません、勝手に」
「いいえ、いいの、でもそういうものなのね?」
「はい、大体は……」
「そうなのね……覚えておくわ」
お茶を入れる時にもミランダはオルガの手元をじっと見ている。今度はポカをしないようにしなくては、不審に思われる訳にはいかない。
「アルト君には蜂蜜を入れてあげましょうか? 少し甘いお茶の方がいいんじゃないかしら?」
「あ……アルト、そうする? 蜂蜜を入れる?」
「うん」
さっきからずっと黙ったままオルガから離れないアルトは、素直にコクリと頷いた。さっきまで不安に押しつぶされそうになっていたのはアルトも同じだろう。
「あら……このお茶美味しいわ……」
ミランダがお茶を一口飲んでそう声をあげた。
「入れるのに、コツがあるんです」
「そうなの?……私の知り合いにもお茶を入れるのが上手な人がいたわ……」
カップの中を覗くようにしてミランダは呟く。
お茶を入れるのが上手な人……侍女のシリルの事だろうか? ふとそう思ったが、そんな事を口に出すわけにもいかず、オルガは黙った。
「アルト君にはこの蜂蜜を入れてあげてね」
ミランダが後ろの戸棚から蜂蜜の瓶を取り出した。
「アルト、蜂蜜を入れるよ」
「うん……」
オルガはミランダの出してくれた琥珀色のトロリとした液体をアルトのカップの中に入れた。かき混ぜるとほんのりと蜂蜜の甘い香りがする。カップを渡すとアルトはその蜂蜜入りのお茶を冷ましながら少しづつ飲んだ。オルガやミランダと言葉を交わしながらやっとアルトにも笑顔が見え始め、飲み終える頃には大分いつものアルトに戻っていた。
「オルガ、もうお家の人に迎えにきてもらう?」
そうミランダの声に、オルガはハッとした。そうだ博士に先に連絡を入れなければならなかったのに。アルトを見つけられたこととミランダの家にいることでホッとしてしまっていたのだ。横に目をやると柔らかい表情のアルトのまぶたが重そうになってきていた。安心した途端に眠くなったのだろう。
「アルト、寝ちゃ駄目だよ。博士と連絡を取るまで……もう少し頑張れない?」
オルガは慌ててアルトに声をかけた。
「うん……僕、もう少し頑張る……」
アルトは返事をするものの、もうまぶたが閉じてしまいそうだ。それはそうだ。あれだけの人の中で迷子になってしまって、神経をすり減らしたのだから。でも、ここで寝てしまうとどうやって帰ればいいのか……。オルガがアルトを背負って帰るしかなくなる。
「家の人に迎えに来てもらうのが一番だと思うんだけど……アルト君の言う所の博士だっけ? 電話番号はわかる?」
「……私たちの保護者は携帯電話を持っていないんです。はぐれてから結構時間が経ってしまっているから……心配しているとは思うんですが……」
「知り合いの人は? 携帯を持っている人は誰か居ないの?」
オルガはそう言われて初めてレイチェルの携帯を思い出した。レイチェルの携帯番号は覚えている。
「……一人、居ます。でも屋台の店番をしているから忙しいかも……」
「いいじゃない。一言私のところに居る事を伝えておくだけでも保護者の方と連絡取れた時に、その人は安心するでしょう? 電話番号を教えて、ここから電話をするわ」
「ありがとうございます」
オルガはレイチェルの電話番号と名前をミランダに教えた。ミランダは電話が置いてある場所へ行くとその番号に電話をかける。
その姿を見ながら、オルガは不思議な感じがした。この時のミランダはレイチェルのことを知らないのだ。つまりこれは、自分が二人を結び付けたという事だろうか?
「……じゃあ、そう言うことでよろしくお願いします、レイチェルさん。えぇ、私はミランダです。はい、二人共ちゃんといますから、大丈夫ですよ。はい、ではまた……」
ぼんやりしていたせいで初めの部分を聞いてはいなかったが、どうやらレイチェルと連絡は取れたようだ。
「あなたたち二人の保護者の方は、警察の方に連絡を入れたみたいね。その警察の方が迎えに来るらしいわ。保護者の方は携帯がないからすぐには連絡が取れないって……確かにそうよね。こういう時に携帯がないと困るという訳ね……」
そう言いつつミランダは受話器を離さない。
「ね、家の方にも一度電話をかけておいた方がいいと思うの。家の電話番号はわかる?」
「……はい」
オルガが教えると、ミランダは博士の家にも電話をかけた。でもすぐに留守電になったようで、「二人は保護しているのでご心配なく」と声を入れるとすぐに電話を切った。
ミランダは戻ってくるとカップのお茶を飲んだ。
「ミランダさんは携帯を持っていないんですか?」
「私? いいえ、持っていないわ。何と言うか……電波で話せるのは理解はできるの。でも、コードが付いていないのに、小さな端末で話せるのが魔法のようでまだ慣れなくて……」
「魔法?」
「……えぇ、まあ、そのうち慣れるのかしらね。小さな持ち歩ける機械で話ができるなんて。驚くほかないわよね」
「はぁ……」
そうだった。ミランダは十二世紀からこの二十世紀へ来てしまったのだから、数年でこの時代の流れに慣れるのが無理があるのだ。
考えれば空恐ろしいだろう。もし自分が二十八世紀に飛んでしまったら……数年で先の未来に慣れることなんてできるのだろうか? 改めてミランダの境遇を思い、オルガはミランダの柔軟さを知ったような気がした。
「ミランダさんは何をして暮らしているんですか?」
「私? まだ学生なの。大学で歴史を学んでいるわ。この街へ来てまだ二年しか経ってはいないけれど、自分でやっていた勉強が実は他の人より結構進んでいたようで、すぐに大学へ進学できたのよ」
「大学生なんですか?」
「そう、今は大学三年生よ。スキップという物をやったの」
オルガは目が点になった。大学をスキップ……並大抵の事ではない。ミランダはどれだけ勉強をしたのだろう。
「……凄いですね」
「そうでもないと思うわ。私に勉強を教えてくれていた家庭教師の先生が、なかなかにできた人だったのよ。ここへ来てそれを理解したわ。でも知らないことも多くて苦労したの。特に科学と数学と物理それから歴史驚くほど知らない部分が多くて……だけど、根本的な物事がわかれば大体のものは理解できるわ。私は歴史を専攻したけれどね」
オルガは溜息をついた。勉強の基礎部分は、この街がリングレント国だった頃に、すでに叩き込まれていたという事だろう。それに比べて自分は真面目ではなかった。
「やっぱり凄いと思います。自分の力で道を開くということでしょう?」
「……そうか、そうね……自分の力で道を開く、確かにそうね。オルガ、あなたっていい事を言うわね」
笑うミランダの影にはものすごく努力した彼女の姿があるのだ。たった二年間で大学をスキップする程の努力をした人。それだけでも凄いけど、時代を飛んでしまってこの街に馴染むまでにどれ程の努力があったのだろう。
笑う彼女の様子からはその苦労は微塵も見えない。
——ミランダは努力を楽しむ人なのかもしれない。
そう思ったオルガに、ミランダは口の前に人差し指を立たせて見せた。何だろうと思っていると、その指をアルトに向ける。
「アルト君、寝ちゃったわ。私のベッドに寝かせてあげましょう」
見るとアルトはもう力尽きたようにテーブルにうつ伏せになって寝息を立てていた。
ミランダはアルトを抱っこして、奥の部屋へ入っていった。慌ててオルガも追いかける。奥はミランダの寝室のはずだ。小さい頃に何度かお泊まりをさせてもらったあの部屋だ。
部屋に入るとほのかにラベンダーの香りがしている。そうだった。ラベンダーは安眠効果があるというのをミランダに教えてもらったのだ。
「お迎えが来るまではここで寝かせておきましょう。通りで一人で泣いていたんだもの。きっと不安で仕方なかったわよね」
「私のせいです。私が手を握っていたらこんなことにはならなかったのに……」
「あら、アルト君はそう言ってはいなかったわ。僕が石を追いかけたから、オルガが僕を見失ったんだって……僕のせいでオルガとはぐれたってそう言っていたもの」
その言葉を聞いた途端にオルガは涙が溢れてきた。アルトの事を頼まれたのは自分なのに、庇うような事を言うアルトは心根からして天使のようだ。
「あなた達はお互いを思いやっている姉と弟なのね」
ミランダの優しい手がオルガの頭を撫でる。
あぁ、ミランダの手はなんて優しいのだろう。そう思いながら、オルガは目を閉じた。
今日は酷く疲れた。でも、とても大事な出会いがあった。これからきっと自分がやるべきことが見えてくるのだろう。もう二度と、アルトを迷子にさせるようなことはしない。そして、自分を見失うことももうやめよう。
ここにお手本になる素晴らしい女性がいる。まだ若いのに努力している女性がいる。オルガは心の中で誓を立てた。
——自分のできることは全て、何でも努力しよう……。
大事な物は見失わないように……そう思うとオルガの中にも勇気が湧き出すように思った。