混乱の中で
クリスは飲み物と『ドルク』の屋台から肉饅頭を買って戻ってきた。
三人はレイチェルが売り子をしているブースの隅でお昼を食べ、終えるとレイチェルにお礼を言って少し中央広場を離れた。余りにも人が多くて、必要以上に疲れるからだ。
少し離れた場所に行こうとしたが、サーカスの開演時間を考えるとそう遠くにも行けず、結局三人は開いていたカフェで本を読んで過ごした。
サーカスは大盛況だった。アルトは初めて見る空中に浮かぶ自転車やブランコに夢中になり、瞳をキラキラさせている。オルガが前回に見た青い薔薇の紙吹雪が舞うような演出はなかったものの、それでも十分見応えのあるサーカスをこれ以上はないくらいに三人は楽しんだ。
「サーカスは十分に楽しめたね。今日はもう家に帰ろうか?」
クリスの声にアルトは首を振る。まだサーカスを見た時の興奮が治らないのだ。
「まだ帰らない。夕ご飯もここで食べようってお昼に言ってたでしょう? 僕ここで食べたい」
「でも、今日、アルトはお昼寝をしてないだろう? 早めに帰って、お風呂に入って寝なきゃ明日起き上がれなくなるぞ」
「だって、明日は朝から外へは出ないでしょう?」
クリスは軽く溜息をついた。サーカスを見ている最中のアルトは、全ての出し物に夢中になっていた。確かに、今帰ったとしてもアルトはそのまま寝ないだろう。
「……仕方ないな。それじゃあ、テーブル席を探そう。軽く夕飯を食べて帰ることにするから、寝るんじゃないぞ」
屋台の並ぶ奥に、机と椅子がたくさん並べられている。三人はそこを目指し人混みの中を歩いた。ところが、着いたはいいけれど空いているテーブルがない。席が空くのを待つにも、立ったままではアルトが疲れ切ってしまうだろう。
その内、若いカップルが席を立ち、ベンチシートの二席だけが空いた。クリスはその席にアルトを座らせ、オルガにも座るように示すと、二人の目の前にしゃがみ込んだ。
「席はここしか空いてない。このままもう一つ空くのを待つのも良いけど、アルトは結構疲れてきているだろう?」
「ううん、僕は大丈夫」
「そんなことはないはずだよ。今日は朝から出歩いているんだ」
「……僕、ここでご飯を食べたい」
「その気持ちはわかるけどね」
クリスは困ったように笑う。
「そこで二人に提案があるんだ。お昼の時のように、僕が夕飯になるものを買ってくるから、家で食べよう。家と言っても……ちょっと気分を変えて、ガラスの温室の中で食べるってのはどう?」
クリスの提案にオルガとアルトは一瞬で目を輝かせた。
「本当? 博士の研究所で夕ごはんを食べるの?」
「良いんですか?」
クリスはニコッと笑った。
「今日は初めてサーカスを見たし、特別だよ。いつもはこんな事をしないぞ」
「うん! 良いよ! 僕はここよりガラスの温室が良い!」
「よし、決まりだ。じゃあ、食べ物を買ってくるから、二人はここで待っていて。良いね、動いちゃ駄目だぞ。オルガ、アルトを頼むね」
「はい! 二人で待っています」
クリスは人混みの中に消えていった。もう薄暗くなった広場には灯りが点き始めている。でも人の波は変わらず、むしろ昼間より多くなっているような気がする。
「アルト、大丈夫? また絵本を読もうか?」
「うん、読みたい」
オルガはテーブルの上で絵本を広げようと袋に手を伸ばした。その時……
「あ! 落ちちゃった!」
隣に座っていたアルトが大きな声でそう言うなり立ち上がり、人混みの方へ行こうとした。
「待って! アルト! 何を落としたの?」
「あのね、綺麗なガラスの石なの。温室の中で拾ったやつで、僕の宝物……ポケットから……あ! 蹴られちゃった!」
見ると小さな青い物がコロコロと転がって人混みの中に消えていくのが見えた。一瞬、オルガは自分の襟元に触れる。今まですっかり忘れていたけれど、そこに硬い物の感触はなかった。
——あれは……あのピエロにもらった石?
立ち上がったアルトはそれを追いかけて行く。
「アルト! 待って! 私が拾うから、アルト! 行っちゃ駄目!」
言ってるそばからアルトの姿は人混みに紛れてしまった。オルガは慌てて本の袋を持つと後を追いかけた。その袋を持つ一瞬の間が二人を引き離していく。目の前で人混みの流れがアルトによって堰き止められたが、川の流れに小さな石を入れても流れが変わることはないように、人の流れは止まらない。
「アルト! アルト……どうしよう……」
アルトの姿はもう見えない。この中でアルトを探すことができるのだろうか?
でもオルガはアルトの着ていた黒いブルゾンを探して流れに飛び込んだ。人と人の間を無理に進みながら、そこにいただろうアルトの姿を見つけようともがく。もがけばもがくほど、人の流れに流されていく。
「アルト?! アルト!」
大きな声で叫ぶように名前を呼びながら、オルガは流れに逆らおうと足に力を入れた。
「ちょっと、邪魔よ!」
後から若いお姉さんに押された。倒れそうになるが、それでもその場に留まろうと渾身の力でそこに立つ。でも、人の流れに逆らうことはできずに次第に流されていく。
——どうしよう……どうしよう、アルト! どこにいるの?!
人の多さにどうしようもなく、オルガはそこから抜け出そうとした。どうすれば良いのだろう。小さなアルトの姿はこの人混みの中では全く見えない。
——どうしよう……博士……。
オルガは流れから逃れようと横へ進み始めた。でもなかなか横には行けない。
今の状況を一刻も早く誰かに言わなければいけない。焦る気持ちだけが大きくなり、人混みで暑いはずなのに冷や汗が背中を伝う。
もうテーブルのあった場所からも離れてしまい、今の場所が把握できていない。
オルガは周りを見回した。人の背中と肩しか見えない。アルトはどこ?
——アルトを見ていてって言われたのに……博士に言われたのに!
自己嫌悪で胸が痛くなる。それでも何とかしなくてはいけないともがく。こんなところでアルトを見失うなんて、間違いなく自分の不注意だ。何でガラスの石くらい後で探そうと言ってあげなかったのだろう。こんな人混みの中で、あの小さな石が見つかる訳はないのに。
何で手を掴まなかったんだろう。立った時にすぐ手を繋いでいれば……。
涙が落ちてきた。不安で胸が押しつぶされそうだ。でも小さなアルトはもっと怖い思いをしているに違いない。
——アルトを、探さなきゃ!
オルガは前を行く人の背中を睨みつけた。この中の何処かにアルトはいる。それなら一刻も早く探して、傍にいてあげなくては! それでもオルガはもがきながら徐々に中央広場からも押し流されていった。
一度、広場から出て周りを探索して、もし警察の人を見つける事ができたら、アルトを探してもらおう。
中央広場から外へ出た人の群れは、繁華街まで進むと次第に勢いを失っていった。
遊歩道になっていた車道から、一段高い歩道に上がり、街の建物の階段へ行くとオルガは数段上がった。目線が高くなると何かが見えるかもしれないと思ったのだ。
でも、そこからアルトを探すことはできなかった。身長の低い子が見えるはずもない。
心臓がギュッと押しつぶされるような感覚になる。どうすれば良いと言うのだろう。この中で、自分はどうすれば……。
その時、ふっと思い出す笑顔と言葉があった。『困った時には、私を探しなさい……』
「あ……」
——そうだ……ミランダ叔母さんがそう言っていた。今がその困った時だ!
オルガは大きく数回深呼吸をすると辺りを見回した。焦っていた頭が徐々に冷静になる。ここは繁華街へ続くリドリー通りだ。ここからミランダ叔母さんの家は、もっと東に位置している。
オルガはミランダ叔母さんの住んでいた家の方向に行く事に決めた。
でも、中央広場に戻ってから行くと人混みでどうしようもなくなる。ここは一度海側に回って、遠回りになるけどそこから旧市街に向けて歩く方が良い。
オルガは歩き始めた。根拠はないけど、ミランダ叔母さんが言ったのだ。「困った時には、私を探しなさい……」と。
——大丈夫。絶対にアルトは大丈夫!
ミランダを探せば何とかなるような気がする。オルガは中央広場とは逆の海の方へ向かいながら、二冊の絵本を持ったまま、走るように通りを抜けて行った。




