絵本の作者
流れて行く人混みを抜けると、次には屋台に群がる人達の中に身を投じて行かなければならない。クリスに手を引かれ進んでいると、オルガの鼻腔にパンの良い匂いが漂ってきた。レイチェルのパン屋さんの屋台の場所に来れたのだ。
「レイチェル!」
不意にアルトが大きな声をあげた。でもまだオルガには見えていない。
「アルト! 来てくれたの?!」
「ここは酷い混みようだね。なかなか進まなかったよ」
クリスが声を出し、ようやくパンの並ぶショーケースが見えた時には、同時に笑顔のレイチェルも見えた。
「クリスもオルガもいらっしゃい! そこの台の間からこちらに入っていらっしゃいよ。少しだけ中でゆっくりすれば良いわ」
レイチェルの指差した方に仕切りの薄い壁があって、その中には台と椅子があった。
「入っても良いの?」
アルトは嬉しそうだが、クリスは苦笑いをしている。
「関係者以外立ち入り禁止だろう? この二人だけで良いよ。僕はその隅に居るから」
「相変わらず真面目な人ねぇ」
そう言いつつレイチェルはショーケースの前にいたお客さんに、最高の笑顔を向けながらパンの包みを渡した。
「はい、お待たせしました! ありがとうございます!」
流石に看板娘だけあって、手慣れている。
クリスはアルトを仕切りの内側に下ろし、オルガを中に入れた。人混みの息苦しさから少しだけ解放され、オルガは胸を撫で下ろす。あのまま人混みの中にいたら、クリスの手を握っていたとはいえ、別な方向に流されていきそうだった。
「そこの椅子に座っていると良いわ。私はまだ少し店番をしないといけないから、あまり相手はできないけど。何か欲しいものがあれば声をかけてね」
そのまま商品の並ぶ方へ顔を向けたレイチェルに、アルトが慌てて声を掛けた。
「あ! レイチェル、待って! 僕レイチェルのクッキーを買いにきたの」
「あら、ありがとう! ちゃんと三人分は取っているわよ。クリスに渡しておくから、あなた達は少しここで休んで行きなさいね」
レイチェルはやって来たお客さんの相手をするために行ってしまった。
内側から外の人混みを見ると別な世界のように見える。初日の午前中はこんなに人が多いのだ。
「凄かったねぇ」
アルトの声に彼を見ると、この状況もアルトは楽しんでいるように思えた。全く疲れを見せないアルトとは違って、オルガはすでに疲れている。このままではサーカスを見る前に力尽きてしまいそうだ。
「アルト、オルガ、僕は飲み物を買ってくるから、しばらくここで待っていてくれる?」
クリスが台の向こうから二人を覗き込んだ。
「はい、分かりました」
「行ってらっしゃーい」
クリスは二人の笑顔を見た後、人混みに消えていった。
人混みは変わらずに雑然としているのに、自分の周りの空間に余裕があるだけで人は安心するものなのだろうか? オルガは膝の上に絵本の袋をのせ、心からホッとして息を吐いた。
「オルガ、博士が戻ってくるまで絵本を読んでいようよ」
隣のアルトが絵本に手を伸ばした。確かに退屈凌ぎには丁度良いだろう。
オルガは袋から絵本を取り出す。表紙絵も自分が持っていたものと同じだ。当たり前と言えばそうだけど、ここは自分がいた場所から十数年前の世界だ。それなのに、こんな風に自分が大事にしていた物が、同じようにここにあるのが不思議な気がする。
「早く! 読んで!」
じっくりと絵を見ようとしているとアルトが催促の声をかけてきた。仕方がない、ここはまず先に読んであげた方がいいとオルガは絵本を広げた。
喧騒の中、二人は絵本の世界に入っていった。竜と仲良しの王女と王子の二人にアルトは大喜びしている。冒険の旅が始まるところでは目をキラキラとさせて「それからどうなったの?」と先を催促し、結局全部読んでしまった。
「面白いね! 竜に乗って旅するのって楽しそう。僕も大きくなったら旅をする! 僕が大きくなったらオルガも一緒に行こうよ」
「そうだね。竜の背中に乗ると、きっとどこにでも行けるね」
満足そうに笑うアルトにオルガも笑顔を向けた。
久しぶりに読んだ『竜の伝説』はやっぱり楽しい。閉じた絵本に目を向けると表紙に作者の名前があった。その作者名『ソル・リナレス』を見た時、オルガは一瞬電気に打たれたような気がした。目を見開いたまま表紙の名前から目が離せない。
——ソル・リナレス……まさかソル王女?
今まで作者の名前を確認したことはなかった。多分、聞いたとしても以前の自分なら感じ取れることはなかっただろう。ミランダおばさんが八百年前の王国の王女でだと知る今なら、その名前に意味があることがわかる。
ミランダの本当の名前は『ミランダ・ソル・デリュイ・エドゥアール・リングレント』だった。今、この街のどこかに居るミランダは『ミランダ・エドゥアール』と名乗っていると言っていた。名字はエドゥアールであってリナレスではない。
——隣国リナレス城のリナレス……。
このままの状況を受け取れば、ミランダであるソル王女が隣国の心から慕っていた王子の苗字を名乗っているということになる。
オルガはミランダの話を思い出すようにジッと絵本を見たまま動かなかった。横ではアルトが絵本の話を何かと話している。でも、内容が頭に入ってこない。
この作者がミランダ本人ならの話だが。
——ミランダおばさんは、元の時間に戻れたの?……。
「……だからねぇ、オルガ、もう一度お願い」
不意にアルトの声が飛び込んできた。
「え?」
「だから、もう一度『竜の伝説』を読んで」
「あぁ、うん、いいよ。読んであげる」
返事をして本を広げ、もう一度作者の名前を確認する。
——ソル・リナレス……。
何だか懐かしい響きのようにも思う。
——リナレス……知っているような気がする。誰だっただろう?
そう思いながらオルガはまた『竜の伝説』の世界に入って行った。仲良く冒険する二人は何事にも前向きで、失敗を恐れない。たとえ窮地に陥っても、二人は互いに助け合い、勇気と知恵でその壁を乗り越えて行く。
そして旅を終えた二人の行く先には燦然と輝く、帰るべき城がある。そして二人は長い旅から帰ってきて、竜達と喜びを分かち合うのだ。
その部分まで読んだ時、不意にオルガは思い出した。リングレントの隣国のルガリアードの城、ジークリフト王子の住む城の名前は何だった? 『リナレス城』だと言ってはいなかった?
オルガはミランダの言葉を思い出した。
『リナレス城は華美ではないけれど、翼を広げて飛び立つ鳥のように見える綺麗な城で……』
それを思い出した時、オルガはそこに描かれている城の絵が、まさに飛び立つ鳥の形をしているのに気付いた。あからさまではないものの、真ん中に白鳥の首のように長い塔があり、それに付随するように低い影が続き、両サイドにまた今度は低い塔がある。
「あ……」
鳥肌が立つような思いがした。これは間違いなく隣国ルガリアードの『リナレス城』だ。こんな所でリナレス城を見つけるとは思っていなかった。でも考えてみればソル王女とジークリフト王子の冒険物語なのだ。リナレス城が描かれていてもおかしくはない。
そしてオルガは気付いた。
——……リナレスはジークリフト王子の家名だ!
間違いなくこの絵本の作者は、ソル王女だろうと思えるのだが、確証がない。絵本を持つ手が震える。何か手がかりはないだろうか。
この絵本はいつ頃作られたものなのだろう。オルガは最後のページに書かれているこの物語の情報が書いてある部分を読んだ。そこには、遥か昔に伝説から本が作られていて、子供達のための絵本が二〇〇年前にできた事が記されていた。
絵本はその後、何度も改訂され、三◯年前に絵から全て作り直したのが、今のこの絵本なのだそうだ。
——この絵本の原型が作られたのは二〇〇年前……。
その前にできていたという『竜の伝説』の本が原型で、そこからこの絵本ができている。それを書いたのが『ソル・リナレス』と言う人物。
この『ソル・リナレス』という人物がミランダだとすれば、ミランダは自分の時代に戻れたのだろうか? 今から十数年後、自分が生まれて十二歳になるまでの間、ミランダはまだこの街にいた。その後に帰れたという事なのか?
オルガは眉間に皺を寄せた。もしここで自分が何かをしてミランダが戻れたのなら、矛盾が生じないか?
——だってそうでしょう?
自分がここで何かをしたなら、そのまま時間に影響が出てミランダ叔母さんが十数年後にいる訳がない。そうは思うものの何かスッキリしない。
——……どういう事なのだろう?
確かにソル王女であるミランダが書いたとすれば作者名からも納得はできる。
ではソル王女が書いたとして、彼女はいつこの物語を書いたのか。この物語の原型は遥か昔に伝説としてできていた。もしこの物語を書いたのがソル王女だった場合、伝説の本を書いたのが本人だと考えた方が自然だろう。
そしてそこから絵本になったのが二〇〇年前の十八世紀。
——もしソル王女が自分の時代に戻れていないとすれば、どうなる?
もしソル王女が自分の時代に戻れていないとすれば、ペンネームの中だけでもジークリフト王子と結ばれたかったという事だろうか? もしそうなら、なんて強く悲しいソル王女の想いだろう。
オルガは大きな溜息をついた。まだ何ともいえないけれど、また何かが始まったのだと感じる。
——とにかく、この『青の祭り』が終わったら、ミランダ叔母さんを探してみよう。
アルトが待ちくたびれてウトウトとしだす中、オルガは『竜の伝説』の思いに囚われたままジッと絵本を見つめていた。
その絵本の中に何か秘密が込められているような気がする。何もかもミランダを探し出してから、会って話をしないと先には進まない。
オルガはギュッと絵本を握りしめた。
自分はこの先、ちゃんと何かをなし得る事ができるのだろうか? それはオルガにとって、大きな問題でもあった。
オルガが動き始めます。
果たして絵本の作者は誰なのか……これは後々、本当の意味で明らかになります。




