祭りの準備
植物園から学校に戻ると、まだ午前中ではあるが生徒達はそのまま帰宅していい事になった。明後日から『青の祭り』が始まるから、という学校側の配慮だ。
この街は何かしらの職人が多い。『青の祭り』の日は一家総出で行うことが多いため、いつも『青の祭り』の前日から学校は休みになる。
校門に向かって歩きながら、オルガはずっとあの大学生の事を考えていた。
今日あった出来事を両親に何と話せばいいのだろう。彼の名前をどう聞くのが自然だろう。
「オルガ! もう帰るのか?」
背後から呼び止められて振り向くと、テッドが立っていた。
「うん、明後日から『青の祭り』だし、母さんを手伝わなきゃ」
「そうか、お前の所、おじさんが祭りの飾り付けに忙しいもんな」
テッドはオルガと並んで歩きだし、オルガの顔をチラッと見て黙り込んだ。明らかにいつものテッドらしくない。
いつもならサッカーの試合がどうの、今日の飯はどうの、祭りの夜はどうの、と脳天気に次から次へと話してくる。一方的でも構わないようでオルガはいつも聞き役だった。
「何? 何かあった?」
「いや……うん。お前さ、今日の『青い薔薇』の話しどう思う?」
「どうって?」
「俺、色々考えてたんだ。現実に青く見えているのに、本当は青じゃないってこと」
「それ、将来、研究者になって研究するんじゃなかったの?」
オルガがそう言って「あはは」と笑うと、テッドはあからさまに怒った顔をした。
「お前まで……信じてないのかよ!」
テッドはオルガを睨んだ。
「……もういいよ」
それからスッと目線を逸らし、オルガより早歩きになる。石畳の通りをどんどん行ってしまうテッドを慌ててオルガは追いかけた。
「ごめん!」
テッドは真剣だったのだ。真剣に思っていることを茶化されると腹が立つのは当たり前だ。
「ごめんね。茶化しちゃって」
オルガがテッドに謝ると、早歩きに歩いていた速度を少し落とした。でもテッドは前を見たままぶ然としている。オルガはテッドの様子を窺いながら付いて行った。
「お前……あいつの事をずっと見てただろう?」
不意にテッドが口を開いた。急に言われた事で、オルガは何を言っているのかが解らなかった。
「あいつって?」
テッドの顔を覗き込むようにしながら、オルガは尋ねた。テッドはまだ怒った顔をしている。
「あいつだよ。あの大学生!」
横目でオルガを睨みつけながら、吐き捨てるようにテッドが言う。オルガはビックリして止まり、テッドも二、三歩進んで止まった。
「……だって普通……講義してくれる先生の事見るじゃない」
触れて欲しくない想いが湧きあがってきて、オルガは慌てて言った。
「そんなんじゃなかった……お前、そんなんじゃなかったぞ!」
テッドは怒った顔で真っ直ぐにオルガを見てそう言うと、「もういいよ!」と駆け出して行ってしまった。
置いていかれたオルガは複雑な気持ちのまま歩きだした。
両親にあの大学生の事を聞こうと思っていたのに、何故だか後ろめたい気持ちになる。
「テッドがあんな事を言うから……」
初めて彼と目があった時、ドキッとしなかったと言えば嘘になる。でも、彼はオルガよりずっと大人で、ただ憧れの対象になりそうな感じだったのだ。今までのオルガにとってのクリストファーのように。
「大体、テッドって何なのよ……勝手に言いたい事一人で言って……勝手に走って行っちゃって……ほんと何なの」
無性に腹が立って来るような、今はテッドに腹を立てることで自分を抑えているような、今のオルガには自分の気持ちを説明する事が出来なかった。
「あー……明後日の『青の祭り』どうしよう。ハズとテッドと行こうって言っていたのに……これって喧嘩なのかな」
トボトボと歩くスピードが更に遅くなる。もう直ぐ『青の祭り』が始まるというのに……。
父エリックのガラス細工のお店のドアをゆっくり開けながら、オルガは小さく「ただいま」と声をかけた。手前は店舗になっていてエリックの作るガラスの作品が窓辺や棚に並べられてある。
その奥に独立した工房があって、いつも父はその工房で仕事をしている。
でも今日はもう祭りの準備の為に店にはいないようだ。ガラスを溶かすための炉も消され、綺麗に整頓された工房は穏やかな静けさがある。
その静かな工房に香ばしいいい匂いが立ち込めている。オルガの母が祭り用のクッキーを焼いているようだ。
お店の端に二階と三階の自宅へ続いている階段がある。ゆっくりと階段を上がりかけてオルガは上を見た。二階のドアが少し開いていて、中の明かりが漏れている。
一瞬立ち止まってから、オルガはわざと足音を立てて駆け上がり思い切りリビングへ続くドアを開けた。
「ただいま!」
「あら、お帰りなさい。いい所に来たわね」
キッチンから顔を覗かせて母が笑った。
「ほら見て、動物シリーズと花シリーズ。可愛いでしょう?」
三つの大きな天板いっぱいのクッキーをオルガに見せる。
「もうそんなに作ったの?」
「そうよ。ね、食べてみて。今回は今までとちょっと違うのよ。結構自信作なんだけど」
「そうなの? じゃあ、手を洗って来る」
オルガは、そのままカバンを椅子に掛けて、キッチンに入った。キッチンでは、オーブンの天板があと二枚広げられていて、型抜きされたクッキー生地が並べられている。オーブンの中には既に焼き始めたクッキーが入っていた。
「まだ焼くの?」
「ええ、そこにあるのと、冷蔵庫にある生地まで焼いたら、クッキーはおしまい。明日は別の物を作るわ」
手を洗って、ダイニングに戻ると、オルガはお皿から翼のある竜の形のクッキーを一枚取って食べてみた。
「ん? あれ? 本当だ! 美味しい!」
クッキーの生地がホロッと口の中で崩れる。香ばしい香りの後にフワッと蜂蜜の味がして、何とも言えない美味しさがある。
「でしょう?! 蜂蜜シロップをちょっと入れてみたら、結構上手くいったのよ!」
満足げに母は言って、もう一つの花クッキーの入ったお皿をテーブルの上に置いた。
「父さんは?」
「祭りの準備よ。今日は遅くなるって」
「そっか……」
今日あった大学生の事を、今聞くにはまだ早いように思う。
「カバン、置いてらっしゃい。降りてきたら、お昼にしましょ」
「うん、手伝うね」
オルガは、カバンを持つと三階にある自分の部屋へ向かった。
リビングの奥に三階への階段がある。登りきった所で、左側に廊下があり部屋が四つ並んでいた。一番手前の部屋がオルガの部屋。その隣が、両親の部屋。奥二つの部屋は空き部屋になっているが、正確に言うと、一つはガラクタ置き場で、もう一つは客間として使っている。
オルガは自分の部屋に入り机の上にカバンを置いた。開いてある窓を閉めようと窓に近づくと、屋根と屋根の間に青いサーカステントが見える。
通りの向こうの街灯には真っ青なリボンが縦横無尽に飾り付けられ、その合間に黄色やオレンジのリボンが見えている。街中が華やかで『青の祭り』の準備は着々と進んでいるようだ。
『君は行くんだろう?』彼の声が蘇ってくる。オルガは軽く溜息をついた。
(やっぱり、母さんに聞いてみよう……)そして、窓を閉めた。
* * * * *
昼食を終えて、オルガはクッキー作りを手伝っていた。動物クッキーの型抜き作業を、せっせと行う。
オルガはこの作業が嫌いではなかった。後で美味しい思いが出来る事もあったが、無心になれるのが心地いい。
「花クッキーの整形もやってみる?」
クッキー生地の型抜きの途中で、母がオルガに声をかけた。
「でも、何か細工が必要なんでしょ?」
「花びらの所に切り目を入れて、捻るだけよ」
「ふうん、じゃ、やってみる」
他愛もない事を話しながら、オルガはテーブルの上に広げていたクッキーの生地に濡れ布巾を掛けて、キッチンの母の傍へ行った。
あの大学生の事を、母にどう切り出したものか。オルガはまだ聞けずにいた。
「まず花の型抜きで生地を抜いて、切れ目を入れるの。ほら、こんな風に……そして、この部分を少しずつ捻って重ねると……ね、立体的になるでしょ? この真ん中の部分にジャムをのせて、並べて焼くのよ。簡単でしょ?」
エリックと結婚する前の母は、コモン通りにある『ジョナサンのパン』というパン屋の看板娘だった。そのパン屋は、母の伯父のお店で、焼きたてのクロワッサンが絶品なのだ。それもあってパン職人の修行をした母は、今もお祭りの時に店頭に出すちょっとしたお菓子を自宅で作って手伝っている。
「そう言えば。今日あの『青い薔薇』を見たんでしょう? どうだったの?」
オルガが花びらに切り込みを入れている最中、不意に母が『青い薔薇』の事を尋ねてきた。
「あっ!」
頭で考えていた事を読まれたような気がして、慌てたオルガは手元が狂い、花びらを切り落としてしまった。
「あら、大丈夫よ。また抜きなおせばいいんだから」
母はオルガの動揺に気が付かないようで、失敗した生地を丸めた。
「不思議な……『青い薔薇』だった」
オルガは探りながら話し始めた。母は綿棒で生地を伸ばしている。
「……ビックリするような事を色々聞いたの」
オルガは手を止めて、母の手元を見つめた。
「ビックリするような事って何?」
母は再び綺麗に型抜きで花の形を抜いて、オルガの掌に置いた。元のように成形前の花になっている。
「うん……あの薔薇の青色は、本当は存在しないんだって……本当は白い薔薇なんだって」
母は手を止めて怪訝そうにオルガを見た。
「誰がそんな事を言ったの?」
「あ……大学生のお兄さん。あの薔薇を研究してるって言ってた。私達に薔薇の説明をするために、町長さんに頼まれて来たんだって」
「ふうん、そう。でも青い薔薇は青い薔薇よね。だって青かったんでしょう?」
母は少し考えるようにして、また作業を始めた。
「その……大学生のお兄さん、今日初めて会った人なんだけど……」
オルガは一息ついた。今なら聞ける。
「でもね……でも……その人、父さんと母さんの事を知っていたの」
母が手を止めて、やけにゆっくりと静かにオルガを見た。
「私の事もよく知っているようだった。でも私、自己紹介の時、ちゃんと聞いてなくて……だから名前を聞けなくて……」
オルガは思い切って聞いてみた。
「母さん、クリスってどんな人だったの?」
「クリス?」
母がオルガに目を向けた。母の持つ手元のクッキーの生地に、力が入ったのだろう指の形がくっきりとついている。母は明らかに動揺しているようだ。
少し張りつめたような空気になるのを感じながら、オルガは慌てて言った。
「私も、そんな筈は無いって思った。クリスは居なくなってしまったんでしょう? 生きているのか、死んでいるのか分からないって知ってる」
でも今聞かなければいけない、そんな使命感のような気持ちになっていた。
「でも、その人は私を見て、父さんと母さんの娘だと初めて知ったようなの。クリス以外に誰か思い当たる人はいる?」
エリックと母の小さい頃の話しの中に出てくるのは、いつも、クリスだった。
「クリスって、髪は薄い茶色で目は青色だったでしょう? 写真で見たもの」
ガシャンという音がしてテーブルの上から生地の成形に使っていたナイフが落ちた。オルガがナイフを拾い上げた後母を見ると両手で口を押さえていた。でも、今聞かなければ……。
「身長は父さん位高くて、スラッとして、それから……」
オルガがもっと言葉を繋ごうとすると、母は首を振った。泣きそうな表情で眉を潜めている。
「オルガ、待って、お願い。その人がクリスの筈は無いわ。説明してくれた人は大学生なんでしょう」
「だって、母さん!」
「クリスは……クリスも薄い茶色だったけど……違うわ。写真を見た事あるならそれは理解できるでしょう?」
「でも、若い時は? クリスの若い時……」
母の頬を涙が落ちる。
オルガは、はっとした。いつも楽しそうに思い出話をしてくれるから、気がつかなかった感情。消えてしまった友達を思い出すのは、本当は辛いのだ。そうだ、当たり前の事なのに。
「母さん、ごめんなさい……」
考え無しだった。
「ごめんね、オルガ。もう続きはいいわ……手伝ってくれてありがとう」
暫くして、母はそう言うと、涙を拭きながらテーブルを片付け始めた。
オルガは、やるせない気持ちになった。母を泣かせるつもりではなかったのに。ただオルガの考えを聞いて欲しいだけだったのに。
「母さん、ごめん」
オルガがもう一度言うと、母は涙目のまま肩を竦めて笑った。
「いいの。母さんこそ、泣いてごめん。びっくりしちゃって……父さんに叱られちゃうね」
それから、赤い目をしたまま少し笑った。
「オルガ、学校の宿題は無いの?」
「あ……『青い薔薇』についてのレポートがある」
「じゃあ、それ片付けてきちゃいなさい。それまでに父さんが帰って来なければ、明日話そう」
オルガは素直に頷いた。
「ここは母さんやっておくから、上に行ってもいいわよ」
オルガは素直に三階へ上がった。でも宿題に手が付かない。母を泣かせてしまった事は何とも言えない気まずさを生んでいた。
何故あそこまで母は動揺したのだろう。一抹の不安がオルガの胸に小さな点となって落ちていた。
夕飯の時も母との間の空気はそのままだった。そそくさと食事を終わらせるとオルガは部屋に引っ込んだ。
その日、宿題を終えても父は帰って来なかった。
オルガは下の階を気にしながら、ベッドに入る。
何だか、今日はひどく疲れた。沢山の色んな事が一気に起きた感じだ。
大学生の彼の顔が浮かんだ。驚いたような顔と笑った瞳。『青い薔薇』が浮かんで、母の泣いた顔が浮かんだ。それからテッドの怒った顔。ハズの「でしょ」と笑った顔。ガラスの温室の中の世界とケヤキの雄々しい姿。それから彼の真剣なまっすぐにオルガに向けられた眼。クリスの実験室の本棚に並んでいる実験用具。ソファーとガラスの温室の騒めく声。
次々に色んな事が浮かんでは消え、そして、オルガはゆっくりと眠りに落ちて行った。
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