修道院の庭
修道院へクリスと話を聞きに行った後の初めての月曜日。
この日からオルガは学校の代わりに修道院へと通う事となった。勉強のために行くのだが、持ち物は新しく買い揃えた筆記用具とノートのみ。教科書は今日配布されるし、辞書は修道院のを借りる事になった。
今日はアルトも街の学校へ行く事になっていた。アルトのこの四歳という年は初等科前なのだが、学校に慣れるために併設されている幼稚園に週三回通う事になったのだ。だから教科書はないが保護者との連絡帳やスケッチブック、筆記用具と色鉛筆やクレヨンは持って行くようだ。
アルトは余程幼稚園へ通うことが嬉しいのか、やたらと元気が良かった。
「今日はアルトも初めての学校だね。頑張って! 私も頑張るから」
「うん! 頑張る!」
オルガがそう声をかけるとアルトは嬉しそうに頷いた。
「オルガ、バス停は少し歩くんだから。もう出たほうがいいんじゃないか? アルト、僕らもオルガを見送りがてら行こうか?」
クリスが声をかけ、三人はいそいそと家を出た。新しいリュックに道具を入れて背負うと、まだ真新しいナイロンの布の匂いが間近でする。坂道を下りながらオルガはリュックの左側の肩紐を掴んだ。こうするとリュックの揺れは安定し、右側の手はお揃いの小ぶりのリュックを背負うアルトの手を繋ぐ事ができた。
九月の空気はまだまだ暑い。丘の上は日差しを遮るものもなく、オルガは大きく息を吸った。
「オルガは何時位に帰って来る?」
「まだ分からないけれど……アルトよりは遅いと思うよ」
「そうか〜、僕待ってるからね。早く帰ってきてね」
通りに出るとオルガはアルトの手をクリスに託し、そのクリスは少し心配そうに笑った。
「気をつけて行くんだぞ」
「はい、行って来ます」
オルガは手を振って二人から離れ、車道を渡ると反対側にあるバス停へ向かった。
そのバス停には大きなリュックを背負った多くの人が待っていた。彼らの目的は登山だ。
暫くするとバスがやってきて、オルガの乗るバスに殆ど彼らは乗り込むようだ。向かい側を見るとクリスとアルトが手を振っていた。オルガは手を振り返すと急いでバスに乗り込んだ。
ハイキングや本格的な登山をする者が混在して入るが、この時期は特に多い。大きな荷物の旅行客に押されながら、ギュウギュウ詰めのバスは進んで行く。次第に田舎道になり、家の数が減ってきた所で、オルガは修道院前のバス停で降りた。登山客達は更に先へ行く。
さすがにギュウギュウ詰めのバスはキツいものだ。オルガは一息ついた。あのバスを毎日乗らなければならないのかと思うと、憂鬱になる。修道院の建物が見えて来るとようやくホッとした気持ちになり足早に建物を目指した。
教会の敷地内に入ると、庭を掃除していた人がオルガに気付いた。
「今日から通う方ね」
「あ……オルガです。よろしくお願いします」
彼女はにこやかに笑うと、オルガを案内した。
「私はクロエです。よろしくね。毎日ここに通うのであれば、この通り道をお使いなさい。教会の正面の扉よりこちらからの方が教室へは早く行けますから」
初めに来た時は建物の中を迷路のように歩いたが、庭から回れば近道なのだと言う。
「オルガさん、今の時間に来たという事は登山者用のバスに乗ったんじゃない?」
「……はい、たくさんの方が乗ってました」
「あー、あの後のバスの方が空いているわよ。行き先の番号の下に線がある物だと、途中までしか行かないから登山者は乗らず街の人しか乗らないの。次からそれで来ると良いわ」
「知りませんでした。この前ここへきた時は空いてたのに……と思ってました」
クロエは「災難だったわね」と笑った。
案内され庭を歩きながら、オルガは周りを見渡した。きれいに手入れされている庭木と花壇が絵画のように美しい。そこそこ広い庭は様々な花が彩りよく咲いていた。所々にベンチが置かれ休めるようになっている。植えられた木がほどよく日陰を作り、過ごしやすそうだ。
「綺麗ですね……」
「えぇ、妖精が住んでいるようで素敵でしょう? 二十年ほど前に、ここには庭師のお爺さんが居てね。その人がこの庭を作ったの……知らない? 『ルナン・ヴァレル』という方よ。『魔法の庭師』と呼ばれていたの。聞いた事ない?」
オルガは名前を聞いたことがあるような気がしたが、よく分からなかった。『魔法の庭師』と言う異名を持つ理由は、目の前の庭を見れば納得できる。
「いいえ、知りませんでしたが……『魔法の庭師』というのはこれを見れば分かります」
「そうでしょう? こんな素敵な庭を作るんですから、それは有名な庭師なのだろうと思うと、それはそうじゃないの。彼はここの庭と……あーほら、街の丘の上のガラスの温室を知らない? 神の木と言われているケヤキの大木があるでしょう? あの傍にある鉄骨の美しいガラスの温室、あの中しか作っていないの」
オルガは驚いた。それはクリスの温室の事ではないか。
「あの……知ってます……私、そこから来ました」
「えぇ?! そうなの? 羨ましいわ! ほら、あそこは私有地でしょう? 見学に行きたくても簡単にはいけないのよ。オルガさん、ラッキーね。隅々まで見ておけば良いわよ」
クロエは庭が好きなのだという。それは話していれば良くわかった。だが不思議な気がする。『魔法の庭師』であるお爺さんは二ヶ所しか庭を造らず、十年前に亡くなられたのだという。今はこの修道院内の墓地に埋葬されているらしい。
「名前をもう一度教えて下さい。後で墓地に行ってみたいです」
「庭師のお爺さんの事? 良いわよ。『ルナン・ヴァレル』よ。すぐに分かると思う。裏の方の花壇の中に墓地があるわ」
「ありがとうございます」
オルガは慌ててリュックの中から真新しいノートと筆記用具を取り出し、開いたページの隅に『ルナン・ヴァレル』と書いた。
「あぁ、ほら、もう行かないと授業が始まるわよ」
クロエに言われ、オルガはハッとしてノートを片付けると建物の中に入り、案内されるまま一つの部屋に入った。そこはこの前の場所とは違い、少し広い部屋で、机が五つとホワイトボードが置かれてある。背後の棚には辞書がいくつか並んでいて教室として使われている事がよく分かる。
窓から二つ目の机に座り、オルガはリュックから筆記用具を出した。縦長の窓からは中庭が見えている。風は感じられないが揺れる植物がここからは見えた。
そして扉が叩かれた。
「おはようございます、オルガさん。ちゃんと来られましたね」
入って来たのは先日のパメラだった。
「はい、多くの登山客と一緒でしたが……どのバスに乗れば良いのか、クロエさんに聞きました。明日は楽に来れそうです」
パメラは優しげに笑った。
「そう、良かったわ。さぁ、ではこれが教科書よ。街の学校と同じ物なので、違和感はないと思うわ」
渡された教科書は結構な量だったが、中等科三年生の教科書だった。中等科三年生になって一ヶ月ほどでここへ来てしまったのだ。その続きをちゃんと学べる事は幸運だとしか言いようがない。
「オルガさんは実際にどこまで進んでいたの?」
「新学期が始まって、一ヶ月ほどでここへ来てしまったので……」
「あぁ、そうなのね。では大体わかったわ……心配しないで良いの。しっかりと勉強していきましょう」
パメラは安心させるようにオルガに笑顔を向けた。
授業はオルガ一人だからかジックリと取り組むことが出来た。人を気にする必要もないし、分からないことはすぐに聞ける。自分のペースで進むのだからこれはやる気にもなる。
パメラは歴史と国語の授業を教えているという。午前中は授業に慣れるための講義があり、建物内を案内され、簡単なディスカッションが行われた。その中でオルガの力を確かめるのだそうだ。学校の成績に対しては、今更足掻いても仕方がない。オルガは素直に授業を受けた。
午前中の授業が終わると、この日は初日という事もあり簡単なサンドイッチとサラダの昼食が出た。中庭で食べて良いとのお許しが出て、オルガは中庭に出ると木陰のベンチに座った。
渡された紙袋には薄い紙に包んだサンドイッチと、プラスチックの容器にレンズ豆のサラダが入っている。オルガは丁寧に紙を剥がすとかぶりついた。サンドイッチの中にはトマトとレタスとスクランブルエッグが入っている。ブラックペッパーがほんの少し効いていて、サンドイッチは大人の味だった。
レンズ豆のサラダには胡瓜と玉ねぎを炒めたものが入っている。口に入れて咀嚼すると玉葱の甘みと胡瓜の瑞々しさがレンズ豆と合わさってなかなかに美味しい。
オルガは目の前の美しい庭と美味しいお昼ご飯に満足し、ベンチの背に寄り掛かると身体を伸ばした。見上げると木の葉の間に青い空が見えている。
「空は変わらない……」
オルガは『青い薔薇』を校外授業で見に行った時を思い出していた。あの時見上げた空も、今見上げている空同様に青かった。気が付くと目尻から涙が流れた。オルガは慌てて前を向き袖で涙を拭いた。
午後からの授業がまだある。目を赤くして教室の中に入りたくはない。ふとこの庭を作ったという『魔法の庭師』のお爺さんを思い出した。
オルガは立ち上がり歩き始めた。まだ時間はある。オルガは裏庭にあるという庭師の墓跡を見に行こうと思った。その間に涙は乾くだろう。
裏庭に回ると、そこは美しい花園だったが、半分は野菜畑になっている。きっと今日のお昼の野菜もここから取った物だろう。所々に木々が植えられ、広い敷地には数多くの植物がある。その中を奥へと歩くと、墓跡の場所はすぐに分かった。周りを芝で囲われた花壇の中にその墓跡はあった。
花壇の前に立つとオルガはその墓跡に書かれている文字を読んだ。
『 ルナン・ヴァレル
——魔法の庭師 八十四年の生涯を終え ここに眠る—— 』
墓跡にはそう書かれてあった。
(長生きされた方なんだ……)
オルガはそう思ったが、普通なら書かれているはずの生まれた年と没した年が書かれていない。墓跡の背後には背の高い花が凛と立ち上がるように植えられ、『魔法の庭師』に相応しく数多くのパステルカラーの花が咲いている。彼は一体どのような人だったのだろう。
(あなたの作った庭を、楽しませていただいています)
オルガは敬意を示すように頭を垂れ、心の中で呟いた。
そうしていると建物の方からガランガランとハンドベルを鳴らす音が聞こえて来た。振り向くと建物の側にパメラらしき人が立ち、ハンドベルを振り上げているのが見えた。そこで漸くオルガは午後の授業が始まるのだと気付き、慌てて建物に向かった。
午後の授業は苦手な数学で、先生はパメラではなかった。その他の数学や自然科学や生物科学、社会学に実験化学などはそれぞれの専門の先生がやって来るのだそうだ。
パメラ以外の先生はオルガの様に時間を飛んでしまった人達ではなかった。何かがあって学校に行けない子達をこの修道院では面倒を見ている、と言う名目の元、集まって来た人達だった。
それでも勉強ができる状況はありがたいものだ。彼らはオルガのために力を尽くしてくれている。その熱意に答えようとオルガも頑張る決意を新たにした。
修道院で一日目を終えると、オルガは数字の下にラインのあるバスに乗り、丘の家に帰った。成程、言われたように地元の人が利用するバスは空いている。オルガは椅子に座りゆっくりと帰っていった。
バス停を降りると道路沿いに丘はある。
入り口には小さな門がありそれを開けると小道が続く。オルガはその道を上がりながら、両親が話していたものが、今、目の前に広がる風景なのだと改めて感じた。いつも通る道には滑り止めに石が嵌め込まれ、それ以外の工事はされておらず土のままだ。でもそれが足の負担を和らげ歩きやすくなっていた。歩く場所以外には草が生え、全体的に緑色の小高い山となっている。上がるに従いあの神の木のケヤキの大きな姿が見えてくる。そしてガラスの温室と小さな家が見えてくる。オルガは立ち止まり今更のようにその風景を眺めた。
先日の修道院へ行った時にオルガは初めて今の西暦を知った。それは自分がいた時代から高々十七年しか時間を遡ってはいなかった。
その十七年の間にここには『青い薔薇』が出てきて、研究所に変わり、更に植物園になるのだ。
(この風景が後五、六年で変わる……)
知らず知らず、オルガの眉間に皺が寄っていた。この場所が変化する。それはここの主がいなくなる事を意味している。クリスの優しい笑顔が浮かんだ。
(あの人が……クリストファーが居なくなる……)
オルガの背筋を寒気が走った。嫌だと強く思った。クリスに居なくなって欲しくない。
(絶対に嫌だ……)
どうすれば良いのだろう。彼はなぜ居なくなったのか……ここを守りたい、そんな思いがオルガに起こった。
そして、気付いた。きっと彼は自分と同じように時間を飛んでしまったのだ。なぜそのタイムスリップ現象が起こるのだろう? ミランダ叔母さんは竜が関わっていると言っていた。
(……ミランダ叔母さんを探さなきゃ)
オルガは目の前に見えている風景を見つめながら誓いを立てた。
(絶対にクリストファーをタイムスリップさせない……この場所を守る)
そうして力強く家に向かって一歩を踏み出した。
ここまで読んでくださっている方々に心から感謝します。
ゆっくりと進んで来た物語が、ここからまた動き出します。
楽しんでいただけたら、嬉しいです。




