修道女パメラ
オルガが自分の部屋を移動した次の日。
朝、カーテンを開けると窓の外に雄々しい大きなケヤキの木が目に飛び込んでくる。
「……ケヤキ」
オルガは驚いたが嬉しくもあった。自分が知っている変わらないものは安心感をもたらす。ケヤキの木がいつも見える環境はオルガ自身に大きな力を与えた。ケヤキの木はずっと一人で何百年も生きている。もし本当にオルガが時間を飛んだのなら、ケヤキの木が生きた時間を思えばたかが十数年の出来事だ。それにオルガは今一人ではない。
それでもこれからの生活を考えると何もかもが不安だった。学校だってここへくる前は新学期になったばかりだったのだ。
(私は……学校には行けない……)
行った所で知らない生徒達の中でうまくやる自信は無い。オルガの中でハズとテッドが浮かんだ。二人は今何をしているんだろう。元気だろうか?
不安になる気持ちをオルガは抑え顔を上げた。
(私はここで生きなければいけないんだから)
それから一月が過ぎた。真夏の暑さは少し陰り、朝夕少し涼しくなった。
その日、朝食前にオルガは洗濯を始めた。オルガはここに置いてもらう事が決まってから何か役目が欲しかった。ここにいる理由にもなる事を望んだが、オルガにできる事は知れている。それでこの家の掃除と洗濯を買ってでたのだ。クリスはしなくて良いと言っていたが、研究に集中出来ていないのが分かってからはオルガが黙って朝早くに起き洗濯をするようになった。
「オルガ、ありがとう。君に手伝ってもらうようになってから少し時間に余裕が出来たよ。今更だけど人に頼るのも大事だね」
朝食の目玉焼きを作りながらクリスが言った。オルガは頼られるのが嫌いではない。役に立つ方がやりがいがある。それに世話になっているとはいえ、男の人に自分の下着を洗ってもらうのはやっぱり恥ずかしいものだ。
「やらせてもらう方が私も嬉しいですから……」
オルガは朝食の準備も一緒に手伝った。クリスは目玉焼きを作るだけでもタイマーを持ちキッチリと時間を計る。いつも適当なオルガには不思議な光景だったが、そうやって作った目玉焼きをアルトは最高だと大喜びするのである。
「今日は、外に行ってみようか?」
タイマーを見ながらクリスが言った。
「外?」
「そう、後一ヶ月もすれば『青の祭り』があるからね。街は少し賑やかになる」
オルガはハッとした。オルガが飛ばされたこのリンデルツは飛ばされる前とはズレがある。十月の中日に行われる『青の祭り』がこれから開催されるのだ。
「青の祭りは知ってるよね」
「あぁ、はい」
オルガは『青の祭り』に少し恐怖感を持っている。あの夜の花火の時、塔から落ちてここにいるのだ。あの落ちた感覚とここに飛ばされた現実がオルガの心の奥に恐怖という形で存在していた。
「どうかした?」
クリスはオルガの変化に気付くと声をかけた。
「いえ、何でもないです。あ……外には行きたいです」
「そう? 無理にとは言わないよ。君の気持ちが大事なんだから」
「大丈夫です」
オルガは笑った。クリスも釣られて笑いながらもオルガを注視する。
前にオルガは泣きじゃくった事があった。あの時に自分の世界とは違う何かに気付いたのではないか? だがクリスには時間を飛ぶという事がまだ理解出来ていない。聞かれた所で自分ではどう説明して良いのか分からない。
数日前、クリスは役所のヘイガンに連絡を取った。相談事はオルガの事である。身体は健康になり心配ない状態まで回復しているが、気持ちが沈んでいるように見えている事を伝えると、ヘイガンは修道院のパメラに会いに行ってはどうかと提案して来た。
修道院のパメラという女性が事情をわかっているという話は前に聞いている。今日できればそこへ連れて行きたい。本来ならオルガが会う前に一度パメラとは会うべきだろうが、クリスはそんな時間を確保する事は出来なかった。
朝ご飯を終え、三人は出かける準備をした。アルトは不機嫌な顔をして自分のリュックに絵本を詰めている。
「アルト、そんな顔しない。ほら、スケッチブックと絵本は持った?」
「何で僕だけレイチェルの所に行かなきゃならないの? 僕も一緒に行きたいよ」
「何度も説明しただろう? 今日はオルガの事で教会に行くんだ。教会は静かにしていなきゃ駄目だろう? アルトはずっと静かにしていられるのか?」
「出来るよ!」
「下手すりゃ何時間もだぞ」
「何時間ってどれくらい?」
「レイチェルがパンを捏ねて、パンを焼き上げて、店に並べるくらい……出来る?」
「……」
アルトは返事をしなかった。自分でも分かってはいるのだ。
「今日はレイチェルが休みだったからね。だから良かったと思っている。戻ったらさ、今日はレストランでご飯を食べようよ」
「私もアルトと食べたいよ」
「……レストランは行く」
「あぁ行こうな。少しの辛抱だから。レイチェルは今日楽しみにしてたぞ」
「でも……教会にも行きたかった……」
アルトはオルガとクリスを恨めしそうに見たが、そう言った後黙ってリュックを背負った。
アルトをレイチェルに送り届けた後、クリスとオルガは教会に向かった。オルガは今日の教会行きを聞いた時から緊張していた。クリスからの提案はこうだった。
「オルガ、実は僕は君がどこか違う時間と場所からここへ来たのを知っているんだ。君の現れ方は普通ではなかった。君の事情を僕には話しづらいかも知れないと思ってね。修道院のパメラという名前の女性が君のような人について色々と知っているらしいんだ。一緒に行ってみないか? この事はアルトは知らない。だからアルトには何も言わなくて良いんだ」
オルガは心情的にホッとした。クリスの瞳は優しい。分かっていてくれる人が一人居るだけでオルガは安心出来る。
修道院の建物は北の街外れにあった。そのまま行けばハボニア連山の麓になり更に行くと山入る登山道に繋がっている。教会の周りには登山を楽しむ人達の宿泊施設が点在していた。近くまでバスに乗り、そこから教会へ行くのに二人は歩いていた。
「この辺りは来た事がある?」
クリスはオルガの顔を見た。
「いいえ、ありません。父さんは若い時に……あ……」
エリックのことを言おうとしてオルガは口を閉じた。クリスにはオルガがエリックとレイチェルの子だとは知らない。それは言わない方が良いだろう。
「そうか、オルガのお父さんは山に登るんだね」
状況を知らないクリスは軽く流した。言いたくない事は言わなくて良いと言うスタンスだ。
「僕はね、幼い頃、幼馴染みと山の別荘に行った事があるんだ。と言うか、初等科から中等科の時は夏休みは大体そこに行ってた。近くに川があってね。イワナやヤマメが釣れるんだ」
オルガはそれを知っていた。父さんがよく話していたからだ。
「ある時テントを張って、川でイワナを採って、こんな大きいヤツだったんだけどね。それから薪を拾って焼いて食べたんだ。そうしたらさ、エリックの……あぁ、エリックは幼馴染みの名前なんだけどね。エリックの食べていたイワナの腹から青い石が出て来たんだよ。あれには驚いてね。こんなに大きなヤツで……」
クリスは親指と人差し指を広げて見せた。
「魚のお腹から出て来たんですか?」
オルガは父さんが見せてくれた青い石を思い出した。拾ったと言っていたけど正確には魚のお腹に入っていたわけだ。フッとオルガの顔が緩んだ。
「そう、腹から。あいつ……まだ持ってるかな? あの石……」
「……」
一瞬オルガは持っています、と声を上げそうになりそれを抑えてクリスを見た。
「ん? 何?」
余程もの言いたげに見えたのか、クリスはオルガの顔を覗き込んだ。
「いえ、楽しそうだなと思って……」
「あぁ、楽しかったよ。あの別荘にはもう大分行ってない。兄貴が管理していてね。兄貴も行ってないと思うな、あの人こそ忙しいから……そうだな、今度みんなで行こうか?」
「みんな?」
「うん、アルトとレイチェル、エリックに僕とオルガ。まぁ時間が合えば兄貴もいれば良いけどね。楽しそうだろ?」
頭の中で想像するとレイチェルとエリックはオルガの知っているもう少し年配の父さんと母さんの姿だったが、かなり楽しそうだと思えた。実際は少し違うのだが……。
「はい、楽しそうです」
オルガがそう言った時、木の影から大きな古い石の建物が見えて来た。
「あれだと思う。急ごうか?」
「はい」
二人は心持ち急ぎ足で修道院の建物を目指した。
教会に到着するなり二人は挨拶もそこそこに奥へ招かれた。先に歩く女性は教会の職員らしく大人しめの質素な服を着て、髪は後ろで束ねていた。その揺れる髪を見ながらオルガは緊張感が高まった。
奥へ行き廊下を曲がった所で廊下の片面には部屋が並び、もう片面は庭が広がる場所に出た。中庭になっているその部分にはあちらこちらに椅子が置いてある。廊下の中程の部屋の一つに案内され二人は中に入った。
「パメラはすぐに参りますのでここでお待ちください」
女性は二人を残し出て行った。部屋は簡素なもので、テーブルと椅子が四脚あるだけの小さな部屋だった。窓も小さくて石造りの壁が厚い。その為か部屋の中の温度はそこまで暑くはなかった。
「座ろう……」
クリスはオルガに椅子を引いた。オルガは礼を言って座りクリスもその隣に座る。歩きながら喋っていた時の開放感とは違い、この部屋には閉塞感がある。オルガとクリスは黙ってパメラが現れるのを待った。
五分ほど待っただろうか、長く感じたその時間がドアのノックで終了し、部屋に入って来たのは優しそうな初老の小柄な女性だった。
「はじめまして、あなたがクリストファー・ランベールさんね。そしてあなたがオルガさん。どうぞよろしく。私はパメラです」
彼女はファイルを持って来た。その中から紙を取り出し目の前に置いた。
「先ずはお話を伺おうと思うのです。連絡をくださったのはランベールさんの方ね?」
「はい、私です。あの……その前に、彼女のような立場の人はどのくらいこの国に居るんでしょうか?」
クリスはオルガのような人がいる事を知ればオルガも孤独にならずに済むと考えたのだ。
「そうね、今現在、こちらで把握しているだけで八人居ます。この中にはこの街からいなくなった人は含まれていません。それは分からないからですが……過去の裏住民票を見れば、消えてしまった人が見つかる場合はあります。でも、裏住民票が作られ初めたのが四二〇年程前からですから、それ以降に溯って行ってしまった人の事はわかりません」
突然始まった話にオルガは驚いたまま口を挟めずにいた。
「今現在でそんなに居るんですか……四、五人程度だと思っていました……」
クリスの言葉にパメラは笑った。
「あら、私もその一人ですよ。だから貴方が知っているだけでグラセルさん、ヘイガンさん、私、それにオルガさんの四人になるわね。残りの半分は色々よ。私は十五世紀の人間でした」
パメラは笑った。オルガの中でミランダが浮かんだ。ミランダは八◯◯年前の人だ。その把握している中に入っているのだろうか? 確認したいが聞けない。
クリスはもう驚かなくなっていた。グラセルの後にパメラの時代があったのだ。パメラはグラセルより歳上に見えるが実際の生まれた年月ではグラセルの方が遥かに年上だ。
「十五世紀ですか……」
クリスは溜息まじりに呟いた。
「そう十五世紀。私は東ローマの首都だったコンスタンティノープルの陥落の時を経験しているのです。今のイスタンブールね。イスラムがあの町に入って来たのを覚えています」
「そのあなたが何故ここに? イスタンブールからこの街は随分と離れている……」
パメラは笑った。
「私の事より、オルガさんの話をしましょう。あなたはいつ生まれたの? この町で生まれたの?」
パメラは話を逸らし、今度はオルガに優しく語りかけた。
「はい……この街の生まれです。生まれた年は……」
オルガは躊躇した。今現代から遥か離れた時代なら楽に口にする事が出来たかも知れない。でもオルガが生まれたのは今の両親の年齢からすると近い。恐らく数年後に自分は生まれるのだろう。
オルガはクリスの前で言えなかった。言ってしまえばクリスは未来の事を聞くだろう。この街や世界の未来を知りたいに決まっている。その未来にクリスは居ない。クリスの事は知らないと通せば良い。でもオルガは知っている。オルガの微妙な変化をクリスはいつも感じ取っているように思えて仕方がなかった。それなら、始めから言わない方が良い。
言い出せないオルガにパメラは安心させるように微笑んだ。
「言わなくても良いのよ。こちらは書類を作るために必要なだけだから……もし、言える時が来たら教えてくれたら良いの」
「ごめんなさい……」
小さく呟いたオルガをクリスは覗き込んだ。
「もしかして……記憶が曖昧だったりする? 君が現れた時、頭を打ってしまっているかも知れないんだ。記憶を喪失しているわけではないと思うけど……どうかな?」
クリスの表情は心配しているのがよく分かった。
「……そうかも知れません」
曖昧なままにしておいた方が良いとオルガはそう返事をした。クリスは大きく息を吐いた。
「気付かずにいてごめんね。急がないようにしよう……こちらはいつまで居てもいいんだ。君がここで生き易いように整えてあげたいだけなんだから」
クリスは優しい。オルガは俯いた。
何故クリスは居なくなったのだろう。自分がここにいると言う事はそれを止める意味もあるのだろうか? ふとオルガはそう思った。それならここで頑張ってクリスが居なくならないようにすれば良い。
(クリスを守る……)
人知れず、オルガは決意した。
「オルガさんは歳はいくつ? それは覚えているかしら?」
「十二歳です……」
「そう、では中等科三年生ね。まだ勉強が必要な年齢ですから勉強をしましょう。ここではね。私達のような人が来た時の授業のようなものを行っているの。支援学校と同じようなものよ。ここに通う事は出来る?」
それに対してはクリスが返事をした。
「それは大丈夫です。僕の責任で通わせます」
「そう、ではお願いします。今は授業をしなければならない人はあなただけだから、好きな時間に来てもいいわ。その代わり、月曜日から金曜日まで毎日通って貰うことになるけど……良いかしら?」
「はい……」
「では、世間ではもう新学期が始まっているから、あなたも明日からここへいらっしゃい。教科書はこちらで用意しておくから、筆記用具とノートは準備してね。ここに必要なものを書いてあります」
パメラは一枚のプリントをオルガの前に出した。
「午前中でも良いし、午後でも良いわ。午前中に来た場合は食事はこちらで準備します。生徒は一人だけなのだから気兼ねしなくてもいいのよ。授業の進み具合によっては二、三年で卒業出来ます。その後に大学へ進むことも出来るから、卒業するときまでに考えたら良いわ」
パメラの説明は簡単だった。だがオルガはありがたいと感じていた。勉強はそこそこ出来るくらいで好きではないが、遅れるのは嫌だった。このまま学校へ行けないとすれば、自分の最終学年は中等科三年生という事になる。ちゃんと勉強が出来るというのがありがたい。
「では今日はこれで……あぁ、ランベールさんちょっと残って下さい。ここにオルガさんが通う事で必要な書類にサインしていただきたいの」
「はい……オルガ、外で待ってて」
オルガは返事をすると立ち上がり部屋の外に出た。