オルガの居場所
1話が長い文章だと読みにくいとの意見がありましたので、5000文字前後で描いていこうと思います。
オルガは何かに追いかけられていた。何か得体の知れない物が後ろから追いかけて来る。必死に逃げながら建物の陰に身を隠し、体をできるだけ小さくし、見つからないようにとただただ願う。しかし、それは何故かそこにオルガが居ることを知っている。その得体の知れないものから何かがオルガめがけて伸ばされる。手なのか触角なのかわからない。恐怖で叫び声を上げることも出来ず、生暖かい空気がオルガを包み込もうとしたその瞬間、目が覚めた。
オルガはアルトの部屋のベッドの上で、今見たものが夢だと気づくまでにそう時間はかからなかった。開けた目を動かした時、壁の絵が視界いっぱいに入って来たのだ。それを見てオルガはまだ息は荒かったが心からホッとした。
息を整えながらオルガはここでお世話になっている博士がクリストファーであることを思い出した。クリスが生きている……そして外は自分が両親から聞いたままの風景だった。
今ある状況だけを考えるなら、自分は時間を飛んでしまったということだろうか? オルガは答えから逃げるように窓の外を見た。何から考えれば良いのか分からない。時間を飛ぶってどういうこと? 堂々巡りの疑問が何度も頭の中を巡る。
(父さんと母さんの幼馴染のクリストファーは帰って来なかった……それって……今から博士は消えてしまうということ?)
オルガは身震いをした。全て今から起こるのだろうか? そんなことがあって良いのだろうか? オルガは自分の肩を抱いた。怖いのだ、ここにいることもクリストファーも何もかもが怖かった。
(私はどうすれば良いんだろう……こんな所に一人でやらされて、私には何も出来ないのに)
そしてまた違う恐怖が沸き起こる。自分はもう帰れないのだろうか?
頭の中が混乱して自然と涙が出てきた。
(私の場所にもう帰ることが出来ない……消えてしまった人は誰一人戻って来た者は居ない……だから、父さんも母さんもミランダおばさんも決心したような表情だったんだ)
何かがあるとは思っていたが、時間を飛ぶことだとは想像していなかった。抵抗したら時間を飛ばずに済んだのだろうか? 帰るとすればどうやって? そもそも帰ることは出来るのだろうか。嫌、博士は帰って来ていない。そうなると自分はここで生きていかなければならないのか? でも何故? 何故自分が選ばれたのか、考えても解らないことをオルガは繰り返し考えた。
せめてもの救いは、クリスが、博士が元気にここに居ることだ。だが分からない。ここはただ時代を飛んだだけなのか、何か別な何処かなのか。誰に聞けば良いのだろう。色々な考えが頭をよぎった。これからどうすれば良いのだろう……。答えのない堂々巡りはオルガの不安をさらに押し上げていく。
考えがまとまらないまま時間が過ぎた。
その時、窓に視線を移したオルガの視界に赤い風船がふわふわと移動しているのが見えた。風船は窓の中央で止まり、その後ゴトゴトと何かを置く音がして、ふわふわの金髪が窓の下方に見え隠れしたかと思うと、アルトが窓の縁から部屋を覗き込んだ。
アルトはオルガと目が合うと驚いた表情になった。
「オルガ、起きてたの?」
「うん」
オルガが返事をするとアルトは慌てた。
「ちょっと待ってて! 僕そっちに行くから!」
金髪はすぐに窓の下へ消え走り去る足音と共に赤い風船も窓辺からなくなった。しばらくすると玄関の扉を開く音がし駆け足と共にアルトが現れた。
アルトはオルガの顔を見るとホゥっと大きく息を吐き、少し緊張した面持ちで赤い風船をオルガに差し出した。
「これあげる」
「さっきの風船?」
「う〜んと……違う……さっきのはケヤキの方に行っちゃったけど、そのまま飛んで行っちゃったの。これは貰ったものだよ」
オルガは差し出された赤い風船を受け取るとそれを見上げた。
「ありがとう……ベッドに括り付けておくね」
オルガはベッドの隅に風船をくくりつけた。その様子を見ながらアルトは躊躇いながら口を開く。
「……オルガ、泣いてたの? 何処か痛い?」
オルガは風船の紐をくくりつける作業をしたままアルトを見れなかった。
「ううん。目にゴミが入っただけ……」
「そうなの? 博士の目薬あるよ。僕持って来ようか?」
「ううん、もう取れたから大丈夫。それよりどうして窓から覗いてたの?」
「博士がオルガは寝ているから部屋に入っちゃ駄目だって言ったから……」
「確認するため?」
「うん、そう」
オルガはユックリと風船をベッドに括り付けた。
「ほら出来た。こうすると寝ていても見えるね。風船、ありがとう。それから心配してくれてありがとう」
改めてオルガがアルトに言うとアルトはちょっと照れ臭そうに笑った。
「あのね、いつも行くパン屋さんの前で風船を配ってたんだ。だから僕、オルガのために貰ってきたの」
嬉しそうに勢いよく話すアルトを見ていると、オルガの中の不安が少しだけ軽くなった気がした。オルガの不安をアルトがいつも解消してくれる。ここの所ずっとそうだ。この不安が消えることはないだろう。ならばどうすれば良いのか。オルガ自身の中での答えは出ていない。
そう思っているとアルトが話し出した。
「この夏の休暇が終わったら、僕は初等科の前の勉強をするんだ。学校に行くんだよ。オルガは何年生なの?」
アルトは言って直ぐに口をつぐんだ。オルガはニコッと笑った。
「……私は中等科の三年生だったの」
「そうかぁ、僕よりずっとお姉さんだね」
アルトはオルガが答えてくれたことでホッとしたように笑った。
こうしてここに居るしかないのだが、自分がここにいて良い訳はないと思えた。ここはクリスの家だ。だとすると父さんと母さんがここには出入りしている筈だ。若い時の両親に会うわけにはいかないのではないか?
「私……」
何を言えば良いのか判らなくなったオルガはまた涙が滲み始めた。ここを出たとしてもどこへ行けば良いのかわからない。自分の街のリンデルツの筈なのに、行き場がないというのはこんなにも不安なのだ。
「オルガ? あ……あのね! えっと、ちょっと待ってて! 博士を呼んでくるから!」
アルトが自分には手に負えないと思ったのか、慌てて部屋を出て行こうとした。それをオルガは止めた。
「大丈夫! 大丈夫だから」
「でも……」
「大丈夫、こんなのへっちゃら……」
そう言いながら自分でも何がへっちゃらなのか分からない。オルガは泣きながら笑った。この気持ちのままクリスの顔を見るとまた一気に泣き出す気がした。落ち着かなければ、でも不安で押し潰されそうだ。
アルトは椅子に座ったまま心配そうにオルガを見ている。
「大丈夫?……」
アルトの小さな手がオズオズとオルガの頭を撫でた。ビクッとオルガは身体を震わせたがアルトは構わず頭を撫でている。彼はオルガの寂しい気持ちを受け取っているのかもしれない。
「僕が一緒に遊んであげるからね。ご飯も一緒に食べようね。絵本も読んであげる。それから……一緒に目玉焼きを作ろう!」
アルトがそこまで言った時、オルガはフフッと笑い出した。アルトは一生懸命慰めようとしてくれている。アルトの小さな手は暖かい。その事実がオルガの心を浮上させていく。
「ごめんね。アルト、本当にもう大丈夫。アルトとご飯を食べると考えたら大丈夫になったよ」
「良かった〜」
オルガは一生懸命に笑った。ここで生きる覚悟が必要なのだ。そうして生きていく方法を考えなくてはならない。怪我が完全に治るまではここにお世話になろう。そう心に決め、オルガは笑った。
午後夕方過ぎにクリスの家のベルが鳴った。クリスが扉を開けると神妙な顔をしたレイチェルが立っていた。
「いらっしゃい。早いね」
「うん」
レイチェルは大きな袋を二つ抱えていた。
「一応オルガさんの着替え。私のお古と色々適当に持って来たわ」
「あぁ、ありがとう」
クリスは受け取るとレイチェルを奥へ招き入れた。
「オルガさんは?」
「今、アルトとゲームしてるよ。会うんだろう?」
「うん……良い?」
「何が?」
「あー、突然知らない女の人が会いに来たって、変じゃない?」
「変じゃないだろう。僕の幼馴染みに服を頼んだことを話してるし」
「そう、じゃぁ、部屋に行っても良いのね?」
ぎこちなく遠慮するような態度のレイチェルをクリスは笑った。
「どうしたのさ。さっきから」
「ちょっと緊張してるだけよ。眠っている顔は覗かせてもらったけど、彼女にとって私は初めて会う人でしょう?」
「まぁね、服を頼んだことは話してるけど、今日来ることは話してない……」
「ほら。そういう所よクリス。何でこと前に話さないのよ」
「ごめん。じゃあ、ほら、これ持って自分でオルガに渡せば良い」
クリスはレイチェルに紙袋を返した。レイチェルは憮然とした表情になったが、それを受け取るとアルトの部屋へ向かった。扉の前に立ちノックをすると中からアルトと女の子の声がした。
「は〜い」
そして、レイチェルは扉を開けた。
オルガはアルトとトランプゲームの『七並べ』をして遊んでいた。ほぼ並び終え後少しで決着がつくという所で扉がノックされた。アルトとオルガは同時に返ことをすると扉が開き……
「母さん!」
部屋の中に入ってきたレイチェルにオルガは驚き思わず叫んでしまった。
「え?……あ、えぇっと……オルガさん?」
オルガは叫んでしまったことを後悔した。
(母さんは私のことを知らないんだ……)
そして慌てて謝った。
「ご……ごめんねさい。あの……ごめんなさい」
「良いのよ。なぁに? 私はあなたのお母さんに似てるの?」
違う、あなたは私のお母さんなの、そんなことは言えない。目の前の母はとても若い。肌もピチピチしていて皺ひとつなく、長い艶々している髪をおろしている。化粧気はないが唇だけ口紅をしていた。この頃からスタイルは変わらない。
「はい……凄く……凄く似てます。びっくりしちゃって……ごめんなさい」
レイチェルは笑った。オルガはレイチェルの胸に飛び込みたい衝動を抑え、目に涙を浮かべた。目の前のこの人は母さんでありながら母さんではない。
「良いのよ。よろしくね。私はクリスの幼馴染みのレイチェル。レイチェルって呼んでね。今日は、あなたに服を持って来たんだけど……ここに置いて良いのかしら?」
「服?」
「そう。私が来ていたものなんだけど……とりあえずはね。これで何とかなるんじゃないかと思って……下着だけは新しいのを買って来たわ」
レイチェルはアルトの机の上に紙袋を置いた。そこへクリスも入って来た。
「そうか……ここで広げるのも大変だね。そろそろ部屋をチェンジしようか? オルガの部屋は奥に作ってあるんだ。服もそっちに持って行けばチェストを置いてあるし片付くよ」
「そうねぇ、今日、人の手がある内にやっちゃいましょうか……ね?」
クリスとレイチェルにそう言われオルガは頷いた。でもアルトが慌てて言う。
「僕、まだ部屋の交代しなくて良いよ。オルガここに居てもいいよ……」
アルトは反対したが大人達は動き始めた。
「まだいいって言ってるのに……」
オルガはアルトの頭を撫でた。何となくの寂しさがオルガにもわかる気がした。
「アルト今まで部屋を貸してくれて、ありがとうね。今度は私の部屋でも遊ぼう」
「……うん」
オルガの部屋から居間とキッチンは遠くなったがバスルームは近くなった。トイレまでの距離が近いのはオルガにとって有り難いことだ。
レイチェルが持って来た洋服と下着をチェストやハンガーラックに掛けてまとめると、クリスはベッドに掛けていたベッドスプレットを剥いだ。間新しいオルガのために用意された寝具が出てくる。それからクリスはオルガを抱き上げてアルトの部屋からオルガの部屋のベッドへ運んだ。
オルガは部屋に入るなり驚いた。可愛い花柄のカーテンが掛かっていて、寝具も可愛い花柄でパステルカラーでまとめられている。新しく用意したとは聞いていたが、普通に客間を準備してくれたのだと思っていた。しかしこれは、明らかにオルガのために準備された部屋だ。
「あの……ここは……」
オルガの顔を見てクリスとレイチェルは微笑んだ。
「君の為に用意した部屋だよ。ここは今日から君の部屋だ。好きに使って良いからね」
「このカーテンは僕が選んだの。このお布団カバーもそうだよ」
さっきまで駄々をこねていたアルトが自慢げに言う。もう一度オルガは部屋を見渡した。嬉しい気持ちと申し訳ない気持ちが交差して胸が詰まる。
「私、ここに居てもいいんでしょうか?」
「勿論、君にここに居て貰うためにこの部屋を作ったんだよ」
クリスの言葉は優しい。オルガは顔を歪ませた。自分のために用意された部屋の意味を知った。また泣けてくる。レイチェルが優しくオルガの頭を撫でた。
オルガはここで生きていかなければならない。今日からここがオルガの場所になる。
(ここにいても良いんだ)
それは確かな思いとしてオルガの心を満たしていった。




