ガラスの温室とクリストファー
オルガが博士の家にお世話になって二週間が過ぎた。
オルガの身体はここに運ばれてきた時に比べると、大分状態は良くなっていた。起き上がるのに時間は掛かるが、自分で上半身を起こせるようになり、水が飲めるようになった。食事も固形物が取れるようになると、栄養補給のための点滴は一日三回から徐々に量が減り、今はしなくても良くなっている。炎症を抑えるための注射ももう必要はなく、もう少しスムーズに動けるようになると、食事のためにキッチンへ移動出来るようになるだろう。
オルガの身体は順調に回復している。だが、長く寝ていた事は大きな障害になっていた。筋肉が落ちてしまい立ち上がるのにも苦労した。医師は歩くためのリハビリが必要だと言ったが、クリスは少しづつ出来る事が増えていけば良いのだからと、焦らなくていいとよくオルガに声を掛けていた。
相変わらず、アルトはオルガの傍にやって来てはあれやこれやと世話を焼き、自分のお気に入りの図鑑やおもちゃをオルガの前に持って来ては披露していた。
この頃になると、アルトはオルガの事を一番の友達だと思うようになっていて、オルガ自身は可愛い弟が出来たようで嬉しかった。
その日の朝、目が覚めてアルトが来るまでの時間をオルガは窓の外の空を眺めて過ごしていた。
ベッドに横になって窓に目を向けると一面の空が見える。オルガは自宅の部屋の窓から見えるものを思い、この場所を何処か遠くの国のようにも感じていた。
他の部屋から音がしている。クリスとアルトはもう起きたのだ。その音を聞きながら、オルガはもう一度窓に顔を向けた。
(空が見えると言う事は近所には高い建物がないんだろうな……)
窓の側に立てば周りの景色が見えるだろう。ここは自然の中にある建物ではないだろうか? この部屋に涼しい風がよく入って来る。それもまた風を遮るものがないと想像出来る。窓を開け放っても外の音は殆どない。ここは療養所のような、そんな場所なのだろう。
オルガの住む街から遠く離れていると思えば、父さんと母さんがここにいないことも理解出来た。
オルガが窓の傍に行こうかと考えていると、窓からスッと風が入って、部屋のドアが開いた。
「オルガ、おはよう! 今日も天気だね!」
アルトは、朝、目が覚めると一番にオルガの所へやって来る。そしてオルガはアルトが来るのを待ち遠しく思い、アルトがやって来ると朝食までの時間を二人で遊んで過ごすのが常になっていた。
アルトはオルガの側に来ると手に持っていた絵を見せた。
「今日はね、魚だよ」
「魚?」
「そう昨日食べた魚」
アルトが持ってきた紙には青色の魚の絵が書いてあった。部屋の壁にはオルガが病院で意識がなかった時の絵も一緒に壁一面に貼られている。
「今日の魚は……ここに貼るね」
アルトは椅子に乗り、壁の一部に魚の絵を貼ると満足そうに眺めた。
壁一面の絵は、カラフルでそれだけでも壮観だった。上手く描こうとしていないアルトの絵はなかなかに見応えがある。中には何を描いたのかわからないものもあったが大体は理解出来た。
「沢山になったね」
オルガが絵を見ながら声を掛けると、アルトは自信ありげに振り向いた。
「ここを絵で一杯にするんだ。そうしたらオルガは寂しくないでしょう?」
アルトはオルガが寂しくないように絵を貼るのだという。その気持ちが嬉しい。そう思いながらもオルガは疑問に思った事を口にした。
「アルトのお父さんとお母さんは? どこにいるの?」
アルトがオルガを見た。
「僕のお父さんは外国で働いているからここにはいないの。でも月に一度はお土産を持ってここへ来るよ」
「お父さんに会えなくて……寂しくはないの?」
「どうして? 僕には博士が居るし、オルガもいるから寂しくはないよ」
アルトは笑顔だ。その笑顔には何の不安も見えない。アルトにとっての家族はクリスなのだろう。
「僕のお父さんは忙し過ぎて、僕を育てるのが無理なの。だから博士が僕の事を見るようにしたんだって」
「そう……」
アルトにはアルトの複雑な事情があるのだ。アルトは母親のことを話さない。何か事情があって母親の事を話さないのであれば、それを根掘り葉掘り聞くのはいけない気がした。
「僕は博士といて嬉しいの。お父さんも好きだけど、きっと寂しくなったと思う。ここでは僕は寂しくないもん」
アルトはニコニコと笑っていた。アルトが部屋に絵を貼る理由がそこにあるのだ。きっとアルトはオルガが家族に会う事が出来ないのを不便に思ってくれているのだろう。オルガはアルトの思いに応えるように笑って見せた。
「アルトは偉いね。まだ小さいのに色んな事を考えてるんだね」
「小さく無いよ。僕、四歳だもん。四歳はもう大きいでしょ?」
オルガは笑った。アルトは小さいけど彼にもプライドがあるのだ。その気持ちはわかる。だからオルガは無理にこじつけた。
「そうだね。もう後少しで初等科だね」
その言葉にアルトは嬉しそうに笑う。
「そう言えば今日はね、博士が美味しいものを作るんだって。そろそろ、力が付く物を食べても良いだろうって。オルガは何が一番好き?」
カップの水を飲むオルガを見ながら、無邪気にアルトが聞いてきた。オルガは一瞬考えたが、これといったものが出て来ない。
「私は何でも食べるよ。嫌いなものはないから」
オルガが言うとアルトは少し驚いた。
「何でも食べられるの? 野菜も?」
「うん、食べるよ。煮込んだのもスープも焼いたのも好きだよ」
アルトは感心したような視線を向けた。
「野菜を食べられるなんて、オルガは凄いね。僕は、トロトロの目玉焼きが一番好き! それでもって人参が一番嫌い。色は好きなんだけど、味が嫌い」
「人参? ポタージュスープにすると美味しいのに……」
アルトは舌を出して渋い顔をした。アルトの突然の可愛らしい表情に声を立てて笑いながら、オルガは母さんの人参ポタージュを思い出していた。あれなら、アルトも食べる事出来るのではないだろうか。ほんのり甘くて薄いオレンジ色の優しい人参のポタージュ。
(作り方を母さんに教えてもらっておけばよかったなぁ……)
元気になったらお礼に作ってあげられたのに。そんな事を思っていると、突然アルトが立ち上がり窓辺に近付くと空を眺めて声を出した。
「風船だ! さっきから赤いのが見えてるからなんだろうと思ったら、赤い風船が飛んでるよ」
オルガは窓の外を見た。だが、オルガの所からは見えない。
「赤い風船?……」
「うん、赤い風船。このまま行くとケヤキの木の方に行っちゃうみたい」
窓の枠に手を掛けてアルトは赤い風船を目で追った。身を乗り出すには小さ過ぎてアルトは一生懸命に背伸びをしている。
「アルト……余り乗り出さない方が良いよ。窓から落ちちゃうよ」
そう声をかけながらも、オルガは何か引っかかるものを感じた。
何かを忘れているような感覚が起こる。今の今、自分はアルトの言葉の何に対して反応したのだろう……。それはそのまま疑問として、オルガの心に収まった。
「大丈夫。僕は窓に上がれないもん。ここからはケヤキは見えないけど……」
「ケヤキ?」
ふとオルガはあのクリストファーの温室の傍に生えているケヤキを思った。大きくドッシリとしたケヤキの木。クリストファーの研究室からよく見えた立派なケヤキの木。
「後でケヤキを見て来るよ。もし取れそうだったらオルガのために取って来てあげるね」
アルトはオルガを振り向き、笑顔でそう言った。
「僕、木登りは出来ないけど、博士は得意かもしれないから聞いてみる」
「……そう……」
オルガは窓から見えている青い空を見つめた。ケヤキの木はオルガの住むこの地域では珍しくはない。あちらこちらに生息している物だ。だが……窓の外を見つめるオルガの瞳に不安の色が映った。ここの近所に高い建物はない。それは分かる。でも……さっきからオルガの脳裏を嫌な思いが頭をもたげ始めていた。
(……まさかね)
その時オルガは大事な事に気付いた。自分はこの街の事を何も聞いていない。ここは何という街なのか、どの辺りに位置しているのか。ここが療養所だったとして、自分はどのあたりの地域に居るのだろう。不安に駆られると人の気持ちは落ち着かなくなる。
(大事な事だったのに……聞いていないなんて……)
自分の国の地図を頭の中に思い描きオルガはアルトに尋ねた。
「アルト……ここは、何という街なの? 街の名前を教えてくれる?」
緊張して声を出したオルガの声が少し掠れる。オルガは自分の口の中が一気に乾いた気がした。
「この街の名前? リンデルツだよ」
「あ、うん、そうだよね……リンデルツだよね」
アルトの口から出た名前はオルガの住む街の名前だった。自分の街である事には間違いはない。となると、両親が迎えに来てくれるのも時間の問題だと思えたのだがオルガはまた一気に緊張した。リンデルツの街にいるなら、どうして両親は見舞いに来ないのだろう? リンデルツの街の療養所と言えばどこだろう? 少し離れた場所にある山城跡の辺りなら療養所のようなものがあってもおかしくはない。だが、あの辺りにそんな物があっただろうか?
そう思っているとアルトがまた口を開いた。
「僕の家に生えているケヤキは物凄く古くて大きいの。それでね、僕の家のケヤキの木はこの街の自慢なんだって。オルガが見たらあまりにも大きくて、きっとビックリするよ。それから丘の上から海の方を見ると、遠くに古い教会の塔も見えるの」
そう言った後、アルトは慌てて「どうしたの?」とオルガに尋ねた。
「オルガ、青い顔してるよ。気分悪くなったの?」
慌てるアルトに、オルガは動悸を抑えながら口を開いた。
「アルト……聞きたい事があるの……博士って、どうして博士って呼ばれてるの?」
「植物の研究をしているからだよ。ねぇ、オルガ、大丈夫? もう、寝た方がいいよ」
オルガの脳裏にはあのケヤキの木しか思い浮かばなくなってしまった。同時にあの美しいアーチを持つガラスの温室が思い浮かぶ。
「……植物の研究……博士の名前はクリス……」
オルガはブツブツと口の中で呟いた。アルトが心配そうにオルガに向かって手を差し伸べたその腕をオルガは強く掴んだ。
「オルガ、痛いよ」
アルトは急に腕を鷲掴みにされ手を引っこめようとする。だが、オルガの力の方が強い。
「アルト、外に行きたい……お願い! 手伝って!」
確かめなければ。その思いで、オルガは身体をベッドの縁にずらした。
「オルガ、どうしたの? 外はまだ駄目だよ。博士を呼んで来るから待ってよ!」
「アルト、お願い。外へ連れて行って。私、外に行きたいの!」
オルガの迫力にアルトは何も言えなくなった。
オルガは、ユックリとベッドを降りた。まだあちこちに痛みが走る。でも、構っていられなかった。オルガはアルトに掴まり、力を入れて立ち上がった。
「うっ……」
全身に痛みが走り、オルガは奥歯を噛み締めた。それにトイレ以外はずっとベッドの上だった為にまだ身体がフラフラする。でもオルガは一歩を踏み出した。
「……オルガ」
「平気だから……外へ……連れて行って……」
二人はユックリと部屋を出た。キッチンに続く居間を抜け、そのまま玄関に出る。オルガは時間をかけ、でも確実に足を進めた。外に出ると、この場所は丘の上である事が確認出来た。目の前の小道がゆるやかに下っている。そしてもう一つ。右の方に行く小道がある。
(小道……)
オルガは確認が核心へと変わって行った。その変化を認めるのがどうしようも無く怖い。生唾がゴクリと喉の奥を落ちていった。
「オルガ、もういいでしょ? 部屋に戻ろう」
アルトの言葉に、オルガは首を振った。
「右の方の……家の角……あそこまで行きたい……」
玄関をユックリと回りこんで、右の方へ……右の方へ……。あの角まで行ったら、その先が見える筈。本当に自分の思う事が正しいならあの先に見えるのは……。オルガは怖いと思いながらも確かめなければ気が済まなかった。
「大丈夫?」
「……うん、平気……」
そして、家が途切れ、顔を上げたオルガの視界いっぱいに入って来たのは、鉄骨のアーチを持つ、あのガラスの温室だった。
オルガは、茫然とそれを見つめた。何という事だろう。大きなケヤキの木、ガラスの温室、そしてそこに住む人の家……オルガは眩暈の中思った。それは父さんと母さんが話していた風景そのままではないか。
「あの植物園の中に博士の研究室があるんだ……オルガ、元気になったら案内してあげるから、もう戻ろう」
アルトがそう言うのを聞きながら、オルガはガクッと膝から崩れた。アルトは慌ててオルガを支えようと肩の下に入り込む。
「オルガ! しっかり!」
アルトは必死にオルガを支えたが、オルガの身体はガクガクと震えていた。
「オルガ! お願い、しっかりして!」
(こんなことって……こんなことって……)
オルガは目を見張ったままガラスの温室から視線を離せなかった。ここはリンデルツなのだ。そしてここは……クリストファーの研究室。青い薔薇が生えたあの場所なのだ。どういう事だろう。これはどういう事なのだろう。
「オルガ!!」
その時、家の方から叫び声がして博士が走って来るのが見えた。オルガは自分を支えていられなくなり、そのまま膝から崩れ落ちた。その寸前にクリスが抱き止める。
「何をやってるんだ! 君はまだ体調が万全じゃないんだよ!」
クリスはオルガをお姫様抱っこで抱き上げ、そして、すぐ様部屋に連れ戻った。その腕の中でオルガは目の前のクリスを見つめた。体の痛みなど我慢できる。
(この人は……)
オルガはその横顔を穴が空くほど見つめた。写真で見るよりもっと優しく穏やかで、精悍で、そして整った顔をしている。
「……クリストファー」
「えっ? 何?……」
クリスは名前を呼ばれてオルガを見た。オルガの想いが確信に変わる瞬間だった。
(そうなんだ……博士が……この人が、クリスなんだ……父さんと母さんの幼馴染の……消えてしまった人、この人が……クリストファー……)
オルガの頭の中で、やっと全てが繋がったような気がした。
部屋に入ると、クリスは、ユックリとオルガをベッドに降ろした。クリス自身はオルガを寝かせるために腕を離そうとしたが、オルガは突然不安になり思わずクリスの首にしがみつく。
すると感情が湧きあがって押さえられなくなり、オルガはクリスにしがみついたまま泣き出した。クリスの心臓の鼓動を感じながら、感情のままにしゃっくり上げて小さな子どもの様に声を上げた。
クリスは戸惑いながらもそのままベッドに座ってオルガの背中に腕をまわした。赤ちゃんを寝かしつけるように、アルトにも小さい頃によくしていたように、ポンポンと定期的に優しく背中を叩く。
「……大丈夫……大丈夫だよ……何も心配する事はないから……」
耳元でクリスの声が聞こえる。背中にまわされた腕の暖かさが伝わってくる。
(博士は……クリスはここにいる。クリストファーは確かに生きている……)
漠然とした思いが、オルガの心の中に沸き起こっては消えていった。どれ位経っただろう、次第にオルガは落ち着いてきた。だがひどく疲れを感じる。全身の力を使い果たしてしまったようだった。
そして暫くすると、オルガは泣きながらクリスの腕の中で眠ってしまった。
「……オルガ?」
それまで、黙ってオルガをあやすように背中を叩き抱きしめていたクリスは、オルガが眠ってしまった事を確認してユックリと腕を離し、そのままベッドに寝かせた。そして、傍らの椅子に腰かける。
クリスはオルガの寝顔を見つめた。さっきオルガはクリスの名前を呼んだ。でもクリスは釈然としない何かを感じていた。酷く怯えたような驚いた顔をしたオルガが自分の名を口にしたのだ。クリスはそっと手を伸ばし、オルガの荒れた髪を優しく手で撫で付けると小さな溜息をついた。
オルガは自分の場所ではないこの街の何かに気付いたのかもしれない。これ以上のパニックを起こす可能性はあるのだろうか? 自分の手に負えるのだろうか? クリスには何をどうして良いのかわからない。自分はそれで良いのか?
ふと見ると、アルトがベッドの傍に立っていた。涙目になっているが泣くまいと頑張っている。クリスはおいでと手招きした。黙って傍らにやって来たアルトをクリスは膝に抱き上げる。
「重くなったな。アルト」
そしてクリスはオルガにしてあげていたようにアルトを抱きしめた。
「オルガは大丈夫だよ。きっと色々と思いだす事があったんだろう」
アルトは頷いた。まだ泣くまいと全身に力を入れ我慢している。
「少しそっとしておいてやろうな」
クリスはアルトを抱いたまま立ちあがった。そのまま部屋を出るとそっと扉を閉めるとまた小さく溜息をつく。そして居間のソファまで行くとアルトを抱いたままソファに座った。クリスはそこで初めて朝食を食べていない事に気付いた。
「アルト、朝食を食べないか? さっき、目玉焼きを作っていたんだけど……」
アルトは首を振った。
「でも、何か食べなきゃ。お腹が減っては、何も出来ないよ」
クリスの言葉にアルトは何も答えず、口を一文字に結びクリスを見た。その頬に涙が落ちる。
「……博士、オルガは、ちゃんと起きる? 前みたいに何日も眠らない?」
それを見たクリスは少しホッとした。アルトの年齢で泣くのを我慢するなんて不健全だ。
「大丈夫、ちゃんと目を覚ますよ。今日は久し振りに動いたから疲れてしまったんだよ。大丈夫だ。オルガはすぐに元気になる」
安心させるようにクリスは笑った。その笑顔を見てアルトは鼻をすすった。そして涙をぬぐうと「……ご飯食べる……」と小さく言った。
「よし! じゃ、最後の仕上げをしよう。アルトも、手伝ってくれ」
アルトは頷きながらクリスの膝を降りた。そしてもう一度涙を拭きながらばつが悪そうにクリスとは目を合わさずに言った。
「……あのね、博士……あの……僕が泣いた事をオルガには言わないで……」
クリスは吹き出しそうになるのを堪えた。
「解った。言わない。男の約束だ。男の約束ってのは絶対に守る物なんだ。破ったりはしない」
クリスの言葉にアルトはホッとした顔になると先にキッチンに行ってしまった。クリスは込み上げてくる笑いを抑えられなかった。アルトの後ろ姿を眺めながら一人で声を押し殺して笑った。アルトも男の子なのだ。
オルガに男の子である自分が泣いてしまった事を知られたくないと言うアルトの気持ちは至って健全だ。
クリスは「参ったなぁ……」と呟きながら、これがアルトの初恋なのかもしれない。そしてニヤついてしまう自分を少し反省しつつキッチンに入って行った。




