天使の目覚め
夏の日差しの中、緩やかな湿気を含んだ風が丘の上を通り抜けた。海風をはらんだその空気は少しだけ潮の香りを含んでいる。街の喧騒とは程遠いこの丘の上では、ゆるりとした優しい時間が過ぎていた。
オルガは少しだけ頭を動かし目を覚ませた。
ユックリと重い目蓋を開けると、木組みの天井が目に飛び込んで来た。見た事のない天井、自分の家では無い。そう思った瞬間、掛けていた布団に圧力がかかった。オルガが視線をその方向に動かすと、知らない顔が目の前にあった。金髪に青い目の小さな男の子だ。近所でこんな子を見た事がない。
その男の子は丸い目を更に丸くしてオルガを見ていた。彼の心配そうだった顔が、オルガと目が合うと一瞬で驚きに変化した。
「……だ、れ?……」
声を出したがその声がガラガラで、オルガは自分でも驚いた。口内が乾いており声を出すのもしんどい。だがオルガが声を出した瞬間、屈んでオルガを見ていたその男の子が立ち上がった。
「目が覚めた? ね、目が覚めたんだよね?」
一体この男の子は誰で、なぜ自分はここにいるのだろう? オルガがそう思いながら体を起こそうとした、次の瞬間、全身に激痛が走った。身体中が軋むように痛い。しかも動かそうとした体に力が入らない。腕も身体も脚も何もかもが、縛られているかのように重く、そして痛いのだ。オルガは顔を歪めた。
「いた、ぃ……」
それを見た男の子は、慌ててオルガに言った。
「まだ動いちゃ駄目だよ! 待ってて! 博士を呼んで来るから!」
そしてその子はパタパタと部屋を出て行った。
(博士?……)
少しずつ遠のく痛みに耐えながら、オルガは部屋の中を目線だけで見廻した。壁は白く、大きな窓があって、その窓には綺麗な緑色のカーテンが半分だけ引いてあった。壁には世界地図のポスターが貼ってある。視線が届くのはそこまでだが、明らかに知らない部屋だ。
(ここは……どこ?……)
身体の痛みと曖昧な記憶がオルガを少し混乱に陥れた。何で知らない人の家にいるの? 父さんと母さんは? しきりに瞳を動かし、この部屋の現状を知ろうとするがやはり起き上がる事は出来ない。
オルガは記憶を辿った。一番近く覚えている記憶は『青の祭り』の事だった。目を閉じて思い出す事に集中すると青いサーカステントが浮かんで来た。
(そうだ……ハズとテッドとサーカステントの裏側を見せてもらう事になったんだ……)
サーカスの出し物を見て、ピエロに青い石をもらった。それから……確か、ハズとテッドと一緒に塔へ上った。何故だっただろう? あぁ、そう花火を見たんだ。それから……。
記憶が酷く曖昧だ。
(……どうしたんだったかな? 何をしたんだったかな?)
暫く考えていると、おぼろげに記憶が戻って来た。サーカステントの裏側を見せてもらう約束はハズとテッドと一緒に果たされたのだった。そこで五人の子供達と友達になった。名前は……ヒューゴにリコにマーシャとセドリック、それから一番小さなこの名前がスージィ。大丈夫だ、記憶はちゃんとしている。
(……それから……どうした?)
記憶はちゃんとしていると思うのだが、定着させるように、もう一度初めから記憶を辿る。
そうだ、サンドイッチのランチボックスを作って、サーカスの裏側を見せてもらって、舞台側から客席を見た。そして、五人の子供達と会った後、父さんと母さんと合流して……サーカスを見た後に花火を見たんだ。その時教会の塔へ登った、それから……。何か大事なことを思い出そうとした時、不意に、オルガは落ちて行く感覚を思い出した。心臓の音が外に聞こえるかのように強く打った。
(……そうだ、私は落ちたんだ……)
でも今ここにいるという事は、助かったのだろうか? 自分は死んではいない。体に走る痛みがそれを証明している。心臓を落ち着けるようにオルガは浅く息を繰り返した。
生きている。オルガはその事が何より嬉しく感じた。父さんと母さんに心配を掛けた、その事をまず謝らなきゃ。あの落ちていく時に諦めかけた自分を許してもらわなくてはいけない。様々な事がオルガの頭の中を過ぎって行った。
そして大きく息を吸おうとして、オルガはまた顔を歪めた。息を大きく吸うだけでも背中と胸の辺りが痛い。痛みに耐えながらまた思う。なぜ自分はここに居る事になったのだろう? ここは教会なのだろうか? 父さんと母さんを呼んでもらおう。何がどうなったのか、さっきの男の子に聞くのが一番良いのだろう。
そしてまた心から安堵した。
(……私、本当に助かったんだ……)
大きく開いた窓から風が入って来て、半分かかっている緑色のカーテンを大きく揺らした。風がオルガの前髪と頬をそっと撫でて消えていった。窓の外には青空が見えている。外は良い天気だ。
その時、バタンッと勢いよくドアが開いて、背の高い男の人とさっきの男の子が足早に入って来た。
「良かった、完全に目が覚めたんだね」
その男の人は、ニコッと笑いながら、オルガの傍らに立ちオルガを覗き込んだ。そして、急に困ったような顔をして、カリカリと頭を掻いた。
「えぇっと、説明すると……君はなんて言うか……どうも空から落ちて来たらしくて、この子がその状況を見ていたんだ。それで……」
オルガは、きょとんとした。らしいとはどういう事だろう? 実際には落ちた筈だ。自分は塔の上から落ちたのだ。オルガがジッとその人を見ていると彼は少し慌てたように言い訳をし出した。
「あ……いや……ここに寝かされている事を、先に説明した方がいいかなと思ったんだけど……困ったな、何から話すのが良いんだろう……」
その人は、なお困ったように首の後ろに手をやった。
「僕が説明するよ、博士」
その様子を見ていた男の子が、オルガを覗き込み聞いてくる。
「身体、痛い?」
オルガは小さく頷いたが、また顔を顰めた。頷く行為自体ですら身体が軋むように痛い。
「あのね、博士が言ったように、天使は空から落ちて来たんだ。そしてずっと寝てたんだよ。一度病院に入院していたんだけど、今は退院してここに居るの。一日に何度かお医者さんが来てくれるんだけど。天使の様子を見て、全身……えっと……全身……何だっけ博士」
「打撲」
「そう! 全身打撲してるって……だから、身体中痛いんだと思うんだ。でもね、頭も打っていないし骨折もしてないって言ってたよ。良かったね」
そして、ニッコリ笑う。その顔は天使そのものだ。だがオルガは腑に落ちなかった。自分は塔から落ちたのに、彼等は空から落ちて来たと言った。何故だろう?
「あの……ここは……」
オルガはどうにかそれだけを言った。天使とは何だろう? そう思ったが、多くを話そうとすると身体に力が入り、その度に背中が痛くなる。長く話すのは出来そうに無い。もう少し力んでしまうと、胸の辺りまでが痛んだ。
「ここ、僕の部屋なんだ。天使の部屋は作ったんだけど、ベッドを取りに行かなきゃならないの。でも、大丈夫、初めは僕の部屋を天使にあげるつもりだったから。ベッドが来るまでここ使ってね」
そして、またニッコリ笑う。
「ありがとう……」
「僕、アルトって言うんだ。天使は?」
「天使、って、何?……」
「あぁ、ごめんね。君が落ちて来た時に、アルトがそれを見ていたんだ。それで君の事を天使だと思ったんだよ」
男の人が困ったように笑うその横でアルトが残念そうにオルガを見ていた。
「天使じゃないの?……」
「私、天使では、ないけど……オルガ、です……」
オルガが言うとアルトはじっとオルガを見ながら口を開いた。
「オルガって名前なの?……じゃあ、今度から天使じゃなくて、オルガって呼んでも良い?」
「……うん、いいよ」
オルガは小さく返事をした。何だかアルトは、金髪のふわふわした髪と青い目がくるくる動いて、一生懸命話すのが可愛い。オルガが許可を出すとアルトはニコッと笑った。
「それでね、この人は僕のお父さんの弟のクリス。僕は博士って呼んでるの。ね、博士」
アルトはそう言って、クリスを見た。
「あぁ……まぁ……」
クリスはアルトに言われるがまま笑って聞いている。オルガは何故かその様子がとても懐かしいと思った。何だろう、まだ忘れている何かがあるような感じだ。だがオルガには兄弟はいない。懐かしい筈はないのだ。そう思っていると胸の奥で疼く何かは遠のいて行った。
「あの……私……」
今の話から、ここはクリスとアルトの家で、塔から落ちたオルガ自身は助かった。それだけはハッキリと分かった。でも、あれから何があったのだろう? 先ずは父さんと母さんに会いたい。それからハズとテッドとサーカスのみんなにも会えるなら会いたい。何故病院ではなくここに居るのだろう? 話してもらえないと何も分からない。
「でも、本当に良かった! 病院にいる時からずっと眠ってたから、目を開けなかったらどうしようって心配だったんだよ。ね、博士」
「あぁ……うん、そうだね」
「迷惑、掛けて、ごめんな、さい……」
オルガが言うと、アルトは慌てて首を振った。
「迷惑じゃないよ。心配はしたけど。それに、ここには、博士と僕しかいないから、いつまで居ても大丈夫だよ」
アルトは何だか嬉しそうに見える。更に話そうとするアルトをクリスが止めた。
「その位で良いだろう? アルト」
そして、オルガを覗き込んで聞いてきた。
「喉は乾いてない? ここの所点滴だけで、何も口にしてないんだ、水を飲んだ方がいいんだけど」
言われて初めて、オルガは喉が渇いている事に気が付いた。そうか、声がガラガラだったのはそのせいだ。
「あぁ……はい……」
オルガが言うと、アルトは、はじかれたようにベッドから離れた。
「僕、お水持ってくる! 待ってて!」
そして、パタパタと部屋を出て行った。その姿を、博士はクスクス笑ってみている。
「すまないね、オルガ。あの子はここに来て物心ついた時から、ずっと僕と二人だったから……大人ではない、君のような人がいるのが嬉しいんだよ」
オルガは改めて、博士を見た。なんて、優しそうに笑うんだろう。それにとても穏やかで綺麗な青い目をしている。クリスの前髪が目に掛かり気味で気付かなかったが、彼は人目を引く容姿をしていた。そしてとても若い。オルガはまた何か引っかかるものを感じた。
「多分、しつっこく世話を焼きに来ると思うけど、許してやってね」
「……」
冗談のように言うクリスの言葉に、オルガは少し口元だけで笑った。
暫くすると、アルトがコップに水を持ってきた。並々と入った水を溢さないように、両手で押さえながら、ソロソロと持ってくる。
「あ〜……アルト。せっかく持って来てもらったんだけど……それじゃあ彼女の口に水が入る前に溢れてしまうと思うな」
やっと到着したアルトにクリスが言った。
「どうして?」
アルトは真面目な顔をして素直にクリスに尋ねた。
「オルガは起き上がれないだろう? 口の近くまで持っていけるものでないと、多分無理だな。曲がるストローは家にはなかったと思うから……」
その言葉に、アルトは自分の手の中のコップを見る。
「あ……」
そして、ユックリと回れ右をすると、またソロソロと出て行こうとした。
「いいよ、アルト。僕が持ってくるから。この前、ヴェーダが買ってきてくれたコーヒーポットがあっただろう? ああいう先が細いものだと良いんだよ」
そう言って、クリスがベッドから離れようとすると
「駄目! 僕が持って来るから!」
と、慌ててアルトが言う。そして、自分の持っていたコップをクリスに差し出した。
「これ、博士にあげる!」
「あぁ……ありがとう」
クリスはコップを受け取りながら吹き出しそうになるのを抑えた。アルトはオルガの世話をしたくて仕方ないのだ。それが行動や言動の端々に出ている。そのまま、アルトはパタパタとキッチンへ引き返して行った。
「アルト! 水は少しだけ入れるんだよ! いっぱい入れると水の勢いで、オルガが飲めないからね!」
「は〜い!」
出て行ったアルトにクリスは大きな声で声をかけ、それに返事をするアルトの声がすると、オルガはフフッと笑った。そしてすぐに顔を歪ませる。
「無理して笑わなくて良いんだよ」
クリスの言葉にオルガは少しだけ首を動かした。
「可愛い、と思って……」
「あぁ、アルトの事? そうなんだ、あの一生懸命さが何とも可愛いだろう? でも彼に可愛いとは言っちゃ駄目だよ。『僕は女の子じゃない』って怒り出すから……可愛いは女の子に使うもので、男の子にはかっこいいって言うんだ、と前に僕の友達が怒られていたからね。どちらでも良いのにね」
クリスが片目を閉じた。それをみたオルガはまた口元だけで笑った。
この二人の言動や行動で、オルガは心の中の不安が薄れるように思った。だが、またふと思う。自分の両親はどうしたのだろう。何故退院したのに家ではなくここに居るのだろう。そして、ここは何処なのだ?
オルガはクリスをジッと見た。
「……どうしたの? 何か言いたい事でもあるのかな?」
クリスはすぐに察し、オルガを覗き込んだ。
「私の、父さんと、母さんは?……」
オルガが言葉を発した途端、クリスはちょっと困ったように笑い、口を引き結んだ。そして間を置いて言った。
「その事はもう少し元気になってから話そうか。今は元気になる事だけを考えて……あ、ほらアルトが水を持って来たみたいだ……」
開いたままの扉の向こうからアルトがコーヒーポットを抱えて来た。
「持って来たよ、オルガ。お水を飲もうね」
そうしてアルトはオルガの傍に立ちコーヒーポットを片手に持った。
「はい! そこまで! 持って来てくれてありがとう。後は僕がやるよアルト。オルガには水を少しずつあげなきゃいけないから、僕がお手本を見せるよ。いい?」
クリスはアルトの行動をそこで止めた。アルトは少し不満顔ではあるが大人しくクリスにコーヒーポットを渡した。実を言うと、少しだけの水でもアルトにとって水の入った琺瑯のコーヒーポットは重過ぎたのだ。
「いい? 見ていて」
クリスはオルガの顔を少しだけこちらに傾け、口元と首にタオルを敷いた。そしてオルガの口を開かせるとその口にポットの注ぎ口を添わせ、ほんの少しだけポットを傾けた。
「ほんの少しずつ水を流すからね」
クリスはオルガにそう言うと本当に少量の水を口に入れた。オルガはその水を口に含みゆっくりと飲んだ。
「美味しい……」
水は冷たくてとても美味しく感じた。
「もう少し飲んで……」
クリスがまたポットを傾けた。そうやって少しずつ少しずつ水を飲み、オルガはやっと声が出しやすくなった。
「ありがとう」
「どういたしまして……診療所のお医者さんが来るまでもう少し時間があるから、寝ていてもいいよ」
クリスがそう言い終わらない内に、オルガは目を閉じていた。
「……オルガ?」
アルトの声にもオルガの反応がなくなった。アルトは不安そうにクリスを見上げたが、オルガの表情は何処か穏やかで、クリスは安心させるようにアルトの頭を撫でた。
「大丈夫、ホッとしたんだろうね。寝ただけだよ」
風が通るように、オルガの様子が見えるように、扉は開いたままにして、二人はそっと部屋を後にした。
それからもアルトはオルガの部屋が見える位置に座り、テーブルで絵を描いては部屋を覗き、絵本を読んではまた覗き、落ち着かない時間を過ごした。
クリスはと言えば野菜を小さめに切って、コンソメで野菜がクタクタになるまで煮て野菜スープを作った。それは病院から貰った目覚めてからの食事を書いたプリントから選んで作ったものだった。オルガが目覚めたからには栄養のある物を、口から食べさせなくてはならない。点滴はすぐには外せないかもしれないが、口から栄養を摂ると回復は早い。
そして尚もクリスは考えた。先程の会話からオルガは自分が何故ここに居るのか分かっていないようだった。自分の両親の事を聞いて来たオルガに、自分達には何も分からないのだと素直に話しても良いのだろうか? 不安を煽るような真似はしたくない。クリスは壁に貼ったグラセルとヘイガンの電話番号を見遣った。手がつけられそうになければ素直に彼らの助けを借り、正教会のパメラに連絡を入れよう。だが、丸投げする事は出来ない。何よりも先ずは信頼関係を造らねばどうしようもない。
そうしてクリスは次にアルトを見た。アルトは意外とオルガの精神安定剤の役割をしてくれるかもしれない。彼女は何度もアルトの様子に笑っていた。心を開いてくれたらやりやすくなる。クリスはアルトを引き取る時も様々と考えた。でも今は上手くやっている。きっと今回も大丈夫だ。
「賽は投げられたって所か……」
クリスはそう呟き、なるようになるものだと自分を納得させた。やる事は沢山ある。ベッドの搬入、オルガの着るものの準備、幼なじみの二人の手を借りれば何とかなるだろう。
クリスはオルガの寝ている部屋に目をやった。これから自分達の生活がオルガを引き受けた事で大きく変わる。覚悟は出来ているつもりだが、オルガがパニックを起こさないように、起こしても確実な心の補佐が出来るようにするにはどうすれば良いのだろう。
クリスの口から小さな溜息が漏れた。でも、やるしかないのだ。
その日オルガはもう一度目を覚まし、診療所の医師に現在の症状の説明を受け、点滴を打ちながらスープを飲んだ。その久しぶりのスープはとても美味しく、オルガは思わず涙を流した。
アルトが慌ててどうしたのかと聞いて来たが、オルガは言葉にはしなかった。口に含んだスープの味が生きている実感を思い起こさせたのだ。その実感を言葉にするのはとても難しかった。
医師はオルガに食べられるようになると回復は早いと伝え、食べる量が多くなれば点滴を外すと言った。これから少しずつ回復していくのだ。オルガの中に、今は希望しかなかった。両親がここへ来てくれない理由は分からなかったが、オルガ自身が回復する事が一番大事なのだと知っている。目の前の自分に出来る事を先ずはやろうとオルガは決意した。
夜になると、寝る前にアルトがオルガに絵本を読んだ。文字を読むアルトの拙い言葉が可愛かったが、幼い頃に両親がしてくれた事を懐かしく思い、オルガはそのまま眠りについた。