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リンデルツの街の秘密


 一夜が明けた。

 クリスは太陽の日差しの当たる場所で洗濯を干していた。洗濯物を広げる度に、微かに爽やかな洗剤の匂いが漂い空気に溶けていく。クリスは朝から洗濯と掃除を済ませ、この洗濯を干したら一通り家事が終わる。後はアルトを起こし朝食を作れば良い。


 昨日のレイチェルの一言から料理は科学に通じているのが解り、クリスは今までになく家事をする事に気持ちが浮き立っていた。

 考えてみると料理の場合、味付けの基本となる塩は塩化ナトリウム(NaCl)な訳だ。火を加えたり濃度を変えたり焼いたり煮たり、何の処置をするかで料理の質が変わってくる。正に実験そのものだ! 気づいてしまえば何の事ない、楽しいじゃ無いか! クリスは心からそう思う。

 今手に持っている洗濯物すら科学になり得る。何を使うかによって布は、冷たい水で洗うより熱いお湯で洗う方が汚れが落ちるし、菌の繁殖防止には持ってこいだ。但しこれには使える素材を選ばなくてはならない。その上、使う洗剤の原料によって落ち方が違うだろう。自然と顔が緩んでくる。世の中の母親や家事をする者は全て科学者だ!

 一人でに口笛が出てしまう。歌いたくなる程気分が良い。今日は良い日になる。根拠は無いがクリスはそう思った。


 クリスは洗濯物を全部並べて干すと、空になったプラスチック製の籠を持ち、家のサイドにある扉から中に入った。クリスは洗濯機の上に籠を置き、キッチンへ向かう前にアルトの部屋をノックした。まだ寝ているのだろう、中から返事はない。クリスは扉を開け部屋の中を覗いた。アルトの金髪が布団に埋れている。


「アルト! 朝だよ! 起きて!」


 クリスは声を掛けたが、アルトはピクリとも動かない。仕方がないので扉を開けたままキッチンへ向かった。カウンターの上にあるラジオを付けると、爽快な音楽が流れていた。クラシックではないのが残念だが、少しボリュームを大きくする。音楽は空気に乗りアルトの部屋まで流れて行く。

 それからクリスは朝食の準備を始めた。冷蔵庫から朝食に使用する食材を取り出した。ブロッコリーは小胞に分けてタップリの水で茹で、きゅうりは適当に切って皿に載せる。それからカウンターの上にあるオレンジを絞り、小さなコップに入れるとそれをそのまま冷蔵庫に入れた。そんな事をしていたら、後ろでパタンパタンと小さな足音がした。


「おはようアルト」

「……おはよう博士」


 クリスが振り向きざまに声をかけると、アルトは眠そうにしながらも返事をした。


「顔を洗っておいで、今日の目玉焼きは頑張るから」

「……うん」


 アルトは素直に洗面台の方へ向かって行った。


 さぁここからがクリスにとっては真骨頂である。

 科学的に目玉焼きを分析すると、卵のタンパク質の熱変性を確認し、黄身が固まり始める寸前にフライパンから取り出す必要がある。その動作が遅れるとタンパク質は固くなる。それを加味してフライパンから皿へ移動させなければならない。さて、黄身の固まる時間は如何程なのか? 少し考えるが、時間を測りながら進めると目安が出来る。先ずはそこからだ。クリスはストップウォッチを用意した。基準を決めなきゃ先には進めない。

 今までと違い実験だと思えば料理も何の事ない。人の気持ちは不思議な物だ。目線を変えれば苦手だと思っていたものが、楽しくなるのだから。


 クリスはコンロの火を付けるとフライパンにオリーブオイルを垂らし、ベーコンを二枚並べ、その上に卵を割ってそっと乗せた。そこでストップウォッチを押す。白身の縁が白く色付き、次第に真ん中へ移動して行くのを見ながら時間を測る。ベーコンの縁が熱でフリルのように波打ち、その上の黄身が綺麗な黄色を見せる。時間を見ると三分を回っていた。フライ返しの先で黄身を押してみると、まだ柔らか過ぎるようだ。アルトの好みはもう少しトロトロの感じだ。もう少しだけ時間をかける。後一分、そろそろ良いだろう。クリスはフライ返しでベーコンごと目玉焼きをすくうと皿に乗せた。緑の野菜と合わせると、色鮮やかな目玉焼きがとてもよく映える。


「僕にだって出来るじゃないか」


 クリスは一人ほくそ笑んだ。目の前の目玉焼きは完璧だ。昨日のスープとは違い、この目玉焼きならアルトの合格は貰えそうだ。クリスはもう一つ目玉焼きを作り始めた。

 そこへ身支度を整えたアルトがやって来た。自分の席に座るとクリスを見上げた。その目が少し緊張して見えた。


「博士、僕のご飯を下さい」


 クリスは笑った。


「今日の朝ご飯は僕が作るから緊張しているんだろう? でも大丈夫! 今日は完璧だよ」


 そう言うとクリスはアルトの前に目玉焼きの乗った皿を置いた。疑わしげに視線を送るが、それを見たアルトの目が輝いた。


「何で? 美味しそうに出来てる!」

「驚いただろう? 料理は科学なんだと気が付いたらさ、出来ちゃったんだよな」

「凄いよ博士、僕、今日は絶対駄目だと思ってた」


 サラリと酷い事を言いつつ、アルトは満面の笑みをクリスに向けた。クリスは丸パンと冷蔵庫のミルクをアルトの前に置いた。


「これを全部食べ終えたら、今日はオレンジジュースもあるよ」

「やったー! 僕、全部食べるよ!」

「ブロッコリーと胡瓜もだぞ」

「……分かってるって」


 アルトは目玉焼きを食べ始めた。フォークを黄身に刺すとトロリと濃厚な黄色い液体が出てくる。


「博士! 完璧!」


 アルトの嬉しそうな顔を見ているとクリスまで顔が綻んでくる。そうしていると何やら香ばしい匂いがして来た。慌ててフライパンを覗くと、そこには焦げたベーコンの上の完璧に火が通った目玉焼きがあった。


「あぁ! やっちゃった……」


 クリスは自分の分の目玉焼きの存在を忘れていたのである。アルトはそれを冷静に見ていた。


「……もう少し修行が必要だね」


 容赦ないアルトの言葉にクリスは情けない顔を向けた。


「アルトのは目を離さなかったのになぁ……まぁ良いさ、明日も頑張ろう」


 クリスはアルトの向かい側に自分の分を用意し、焦げた目玉焼きを食べた。



 朝食を終え、アルトは水遣りをしたがったが、警察官と役所の人が現れないとガラスの破片も片付けられない。その説明をするとアルトは不満げではあったが納得し、二人はそのまま午前中をキッチンで過ごした。



 午後になってアルトの昼寝の時間が近くなると、彼は居間のソファーの上でウトウトし始めた。恐竜図鑑を膝に乗せたまま、コクリコクリと頭が動く。クリスはアルトからそっと恐竜図鑑を取ると、静かに横に寝かせた。そしてバスタオルを掛けてやる。一時間くらい寝かせると良いだろう。そう思っていると玄関のベルが鳴った。


 出てみると玄関先に昨日の警察官のグラセスと役所のヘイガンが立っていた。


「今から、良いでしょうか?」


 二人は現場を見せてくれと言う。クリスはソファーの上のアルトを振り向いたが寝たばかりの彼には起きる気配がない。


「甥が寝てしまったので……急ぎましょう」


 クリスは二人を案内し、ガラスの温室の中に入った。真ん中まで行くと天井を指さした。


「あそこから落ちて来たようです。そして、ここに倒れていました」


 少女の倒れていた場所にはガラスの破片が飛び散っていて、花壇の中の花は倒れている。ふと思う。何度同じ説明を繰り返すのか……だが聞いている者は違う人物なのだから仕方がない。現にグラセスとヘイガンはその天井を興味深げに見上げ、温室の内側から登れない事を確認すると、クリスを見た。


「外を見ても良いですか?」

「えぇ好きなだけ……終わったら家に来てもらえますか? 子供が寝ているのでぼくは戻ります」

「わかりました」


 クリスはその場に二人を残し家に戻った。居間の中ではソファーにアルトが寝ていて、動いた気配はない。ホッと胸を撫で下ろし、クリスはお茶の準備を始めた。

 暫くするとグラセルとヘイガンは戻って来た。キッチンに招きテーブルに着くとクリスは紅茶を出した。


「あなたの言う通り、あの場所には簡単には登れませんね」


 グラセルがそう言いながら紅茶のカップに視線を落とした。ヘイガンは一口紅茶を飲み、口を開いた。


「我々の思う通りだと思います。彼女は突如ここへ現れた」


 その言葉にクリスは眉を寄せた。


「突如とはどう言う事です?」


 二人は顔を見合わせ、クリスに向き直った。


「この街の秘密を少しお話ししましょう」


 ヘイガンはそう切り出した。そして、信じられない事を話し出したのである。


「この街には住人が増えたり減ったりします」

「……それは普通の事ではないのですか? 仕事でこの街を出る事もあれば、ここに住む人も居ると思うのですが……」

「そうです。普通に考えればそういう事での人口の変動はある。しかし……この街では少し違うのです」

 

 ヘイガンは大きく息を吸った。


「この街の住人の変動は、時を超えて起こっている。過去の人が現れたり、未来の人がここへ来たりするのです。そしてその逆も起きる。この事は経験した者とそのものに関わる人にしか伝えてはいません。何故だかわかりますよね?」


 ヘイガンは言葉を止め、クリスをジッと見つめた。クリスの表情には戸惑いがあった。正直に言うと、ヘイガンが何を言っているのか理解し兼ねたのである。SFの世界でもあるまいに、そんな事が日常で起こる訳が無い。


「あの……何を言っているのか、僕には理解が出来ない……過去の人が現れるとは? 何なのです?」

「あなたの反応は正しい。普通はそうです。理解が出来ない。パニックを起こさないために街の人には告知しません」


 グラセルがクリスにニコッと笑った。


「ランベールさん、あなたは科学者だ。タイムマシンの存在は信じますか? 各著名な物理科学者や数学者がタイムマシンは出来るのか出来ないのかの論議をしている。それについて考えた事は?」

「……ありません。僕は植物学者で、今後に起こり得るであろう、食糧の危機に備えるための植物の研究をしています。タイムマシンなど僕には少し馬鹿馬鹿しい」

「そうですか……だが、タイムマシンという目に見える形ではなく、時代を飛ぶ術があるとすればどうです?」

「……申し訳ないが、意味が分からない。グラセルさん、あなたが言っているのは、ある日突然そういう術を身に付けると言っているんですか?」

「そうではありません。時空が歪むとか……その手の(たぐい)です。それがこの街では起こるのです。いつ何処で、どのような状況下で起こるのか、全く分からない。でも、確かに起こるのですよ」


 グラセルが言い切った時、隣のヘイガンが口を開いた。


「あなたが信じる信じないにかかわらず、確かにその現象は起こるのです。現に私は……第一次世界大戦の時代の人間です」

「そして私は十二世紀の人間なのです」


 グラセルがヘイガンの後に間を置かずに言った。クリスは目を見開いた。


「……十二世紀?……何を馬鹿な……中世ではないですか……適当な事を言って、誰も分からないと思っているんですか? それにヘイガンさん、第一次世界大戦は八十三年前の出来事だ。あなたはまだ若い……」

「ですが、その第一次世界大戦が勃発した八十三年前の一九一四年、私は十九歳でした。私は十九世紀末の一八九四年の生まれです。二十歳の時にここへ来て今年で十年、今は三十歳です」


 クリスは息を呑んだ。ヘイガンの瞳は相変わらず静かだ。そのヘイガンの隣でグラセルが口を開いた。


「私は十二世紀、この国の騎士でした……テンプル騎士団をご存知ですか? 私は騎士になってからの一時期、短い期間でしたが、エルサレム巡礼に赴く人々の護衛を務めた事がある。それがテンプル騎士団の先駆けでした」


 クリスは目を見開いたまま言葉を発する事が出来なかった。この二人は一体何を言っているのだ? 第一次世界大戦はまだしも、テンプル騎士団だと? 頭が混乱する。嘘をつくにも程があると言うものだ。


「私にとって、この世界は異世界同然だった……話をするには相対するしかなく、馬と馬車、それからガレー船しか交通の手段はなかった。そんな場所からここへ来たのだ。離れた場所の者と話す道具。道を人を乗せて動く鉄の箱やレールを走る大きな鉄の箱、そして空を飛ぶ鉄の塊。私は気が狂うかと思った。あなたにその気持ちがわかりますか? 全ての物が悪魔のように見えていた私の気持ちが……」


 そこまで言ってグラセルは何かを思い出したように黙ると、下を向いた。グラセルが黙るとヘイガンが間を置いて口を開いた。


「私も同じです。時代は今の現代に近いが……初め、この世界が未来だとも思えず、何も分からなかった。鉄道は石炭ではなく、電気の力でこの街を走っていた。家庭の中には画像が流れるテレビがあり、それが世界のニュースを知らせる事を知った時の衝撃は忘れられません。街単位や国単位ではなく、世界単位でのニュースを知ることが出来るなど……狂っているとしか思えませんでした。この街が本当の自分の街の未来である事を知った時、私は泣きました。わかりますか? 私のその驚きを……自分の経験した始まったばかりの筈の戦争は終わっていて、物事が目まぐるしく変わって行く。その変化のスピードはどうにもならず、私は仕事に打ち込むしかなかった」

「……仮にそうだとして、あなたが十九世紀の人だとして、そんな事は調べればわかる事だし……」


 反発しようとクリスは口を挟んだが、淡々と話しながらも、ヘイガンは陶酔したような眼でクリスを見ていた。クリスはそのヘイガンの目を見た時、それ以上何も言えなくなった。これが事実ではないとすれば、ヘイガンはかなりの役者だろう。そう思わせる何かがあった。

 クリスが黙っているとグラセルが口を開いた。


「私は騎士だった事を生かし、この現実で生きるために警官になった」


 グラセルは多くを語らない。それだけに聞いているクリスの心が揺れる。


「事実なのです。だから私はこの仕事に就いた。この街には私達のような者の、裏住民票があるのですよ。私はその管理をしています……」


 ヘイガンはそこで言葉を止めた。そしてクリスの目を真剣な表情で見た。


「あなたにこの街の秘密を話したのは、あの少女の出現方法が、今までの人達とは少し違うからです。彼女のように空から現れたと言うのは今までにない事だ。何故か分からないが、彼女はここを選んでやって来たように思えるのです。だから、ここに置いて欲しい。そう思ったのです」


 クリスはその視線から逃れるようにソファに横たわるアルトを見た。アルトは何も知らず、寝息を立てている。

 彼等の言う事を信じる事は出来ない。例えそうであったとしても、そうであるなら尚の事、あの少女をここへ置く事は出来ないとクリスは思った。クリスにはアルトを守る責任がある。彼に悪影響を及ぼすものは出来るだけ排除したい。

 クリスの様子を見ていたグラセルが口を開いた。


「ランベールさん、お願いです! あの少女の保護者になって下さい。勿論、我々は様子を見にきます。一人前になるまでの間、彼女を守って頂きたい!」


 グラセルとヘイガンの必死の思いがそこにあった。何故彼等はこんなに必死なのか、クリスに知る術はない。ただ、彼等が本当に十二世紀の中世や、十九世紀の第一次世界大戦の時期に生きていたとすれば……今のこの世界は生き難いだろうと予想は出来る。しかし……


「……申し訳ない。あなた方が真剣なのは理解しました。でも、僕には甥を守る責任がある。そのような訳の分からない状態の少女をここに置く事はとても出来ない……それに、もし本当の事だとして、あの少女は過去から来たのですか? それとも未来ですか? あの少女の保護者になるとして、どうすれば良いのですか? 僕には想像すら出来ない」


 クリスは素直に本心を口にした。だがグラセルとヘイガンが口を閉じる中、それに返事をしたのはソファから起き上がったアルトだった。


「じゃあ、天使に聞けば良いよ。どうすれば良い? って」


 その場にいた全員がアルトを見た。


「分からないなら聞きなさいって博士はいつも僕に言うでしょ? だから天使にどうすれば良いの? って聞けば良いでしょ?」


 そう言ってアルトはニコニコと笑った。どうやら昼寝から気持ち良く目が覚めたようだ。クリスはアルトを見て苦笑した。


「博士、僕は天使と一緒が良い。分からない事があったら僕が教えてあげるし、僕のお仕事も手伝ってもらう。博士は何も心配しなくても大丈夫。僕がちゃんと面倒を見てあげるから! だから天使をお家に置いて……お願い」


 アルトは話している内に真剣な表情になっていた。クリスはその様子に気がつくと溜息をついた。アルトの願いは聞いてあげたいが、少女を引き受けると言うのは簡単に許可が出来る問題ではないのだ。

 恐らくアルトは最後の少女の面倒を見る事を断った所から聞いている筈だ。


「アルト、あのね、これはとても大事な話で、とても真剣に答えを出さなければいけないんだ。簡単に引き受けられるような問題じゃない。考えなくてはならない事が多すぎて、僕にはできないと思うんだ」

「何を考えるの? 博士は僕も引き受けてくれたでしょう?」

「アルトとあの子では別な問題なんだよ」

「どうして?」

「アルトは僕のお兄ちゃんの子だ。だけどあの子はどこの子か分からない。それは大きな問題でもあるんだ」

「どうして?」

「あの子のお父さんとお母さんはどこにいるのか分からない。あの子がどうしてここにきたのかも分からない」

「どうして分からないの?」

「うん……」


 アルトのどうして攻撃が始まった。こちらが言葉に詰まるまで、『どうして?』を繰り返す。小さい子特有の物だがこんな時は流石に困ってしまう。今まではアルトの疑問に対してきちんと説明していたが、これは話してもどうにもならない。


「あのねアルト、あの子の親があの子を探していたらどうする? ここにいる事がわからないだろう? そうなるとあの子も悲しいと思うんだ」

「だったら、ここに居た方が見つけやすいと思うよ。天使の親は神様でしょう? ここは高い所にあるから天国に近いでしょ。見つけやすい所に居た方が天使は嬉しい筈だよ」


 クリスはまた溜息をついた。どう言えばアルトに判らせる事が出来るのだろう。


「ランベールさん、今すぐ答えを出さなくても良いのではないでしょうか? 少女はまだ入院中ですし……もう少し考えて頂けませんか? 我々も、少し考えます」


 ヘイガンがそう言いながら、帰る支度を始めた。


「突然の話で困惑している部分もあると思います。こちらに連絡を頂ければ、色々と対処はできますので、何かあれば連絡を下さい。もし今日救急センターへ行くのなら、一言、私かグラセル氏の名を出してくれたらわかるようにしておきます」


 ヘイガンとグラセルはそう言って小さな紙を置いて行った。そこには彼等の名前と携帯電話の番号が書いてあった。

 

「わかりました……ありがとうございます」


 帰る時、グラセルが振り向きクリスの目を見た。


「あの少女もこの世界で生きて行かなくてはならないのです。その心の支えになれる人がいれば、彼女は真っ直ぐに生きていける。私はそう思っています」


 その声は静かだった。クリスは何も言わず、ただ頷いた。グラセルにも誰かそのような人がいたのかもしれない。だからこんなに真剣なのだ。

 彼等が去る姿を見ながらクリスは思った。グラセルは十二世紀からここへ来たと言った。成程、騎士をしていたと言う彼の姿勢は背筋が伸びている。テンプル騎士団だったなど誰が信じるのか……だが、もし本当なら、その心労は計り知れない物があっただろう。十二世紀とこの二十一世紀では何もかもが違う。建物の中に一部その時代の物はあるが、殆ど全てが違う。

 そしてクリスはあの少女を想った。あの少女は少なくとも今に近い世界の人間ではないだろうか? 着ていた服は今でも通用する物だった。


「博士、天使に逢いに行こう。もしかしたら目が覚めたかもしれないし……」


 クリスが考え込んでいるとアルトがそう言ってシャツの裾を引っ張った。アルトの目には期待感が見えている。


「……そうだね。気になる事は先に済ませようか」


 考え込むより行動した方が答えを出すにはいい事もある。クリスは少女の様子を窺いに行く事にした。それを聞いたアルトは喜んで、準備をするから時間が欲しいと言う。クリスは笑いながらそれを許した。アルトは自分のリュックに色々な物を入れリビングに戻って来た。クリスの準備は微々たる物だ。二人は連れ立って救急センターへ向かった。 

 


 救急センター内は相変わらず静かな物だった。ここへ送られて来る者は大怪我をした者か、大病の者か、その見舞客しか居ない。街の人は普段は街の診療所へ行くのが常だ。正直、クリスもここへ来たのは父が運ばれて以来になる。


「博士、天使はどこだろうね」


 アルトが自分のリュックの肩紐に手を掛けキョロキョロと辺りを見廻している。


「受付の人に聞こう」


 アルトの手を引いてクリスは受付嬢の前へ行った。


「あの、昨日運ばれた少女の事なのですが、警察官のグラセル氏と役所のヘイガン氏のどちらかのコメントがあると思うのですが……」


 受付嬢はパソコンのキーボードを叩いた。


「……あぁ、ありました。あなたのお名前をお聞きしてもいいですか?」

「クリストファー・ランベールです」

「確かに、あなたが来る場合は案内するように言われています。では、ここから緑色の線に沿って進んで下さい。進んで行くとエレベータに着きます。そのエレベーターで五階へ上がって下さい。そこでもう一度受付でお名前を言えば、部屋へ案内されます」


 流れるように受付嬢は言葉を発した。クリスはお礼を言うと、アルトと共に言われた通り緑色の線に沿って歩き、エレベーターで五階へ行った。下りてすぐの所にまたカウンターがあり、そこで事務員の女性が仕事をしていた。声を掛けて名乗ると、彼女はすぐに応対し、少女の部屋へ連れて行ってくれた。


「こちらの部屋です。帰る時にこちらのカードを受付で返して下さい」


 渡されたのは見舞客である事を示すカードだった。


「有難うございます」


 それを受け取り、クリスとアルトは少女の部屋へ入った。

 少女は清潔なベッドの上で寝かされていた。点滴と器具が幾つか着いてはいたが、酸素マスクは着けてはいない。彼女は自発的に呼吸は出来ているようだ。

 昨日はちゃんと顔も見なかったが、薄い茶色の長い髪が荒れたまま寝かされているものの、そんなものは気にならない位の可愛い女の子だ。着ていた服は救急センターの患者用のパジャマに変えられ、顔色は悪く無い。今にも目を開けそうな雰囲気だ。


「……まだ目が覚めていないようだね。まぁ、昨日の今日だからな……」


 何も言わないアルトにクリスはそう呟いた。アルトは少し気落ちしてはいたが、自分のリュックを下ろし、中から折り畳んだ紙を取り出した。


「……真ん中が天使で、これが博士、それからこれが僕。みんな手を繋いでいるの」


 アルトが広げた紙には三人の人物が描かれていた。真ん中の髪の長い女の子の背後には翼がある。そして両サイドのクリスとアルトは笑っていた。


「上手に描けているね」

「これを天使にあげたかったんだ。でも寝てるから……」


 アルトは躊躇いながら少女を見ている。クリスはその絵を手に取った。


「折角描いたんだ、この台の上に置いておこう。この子が目が覚めた時に見えるように……ね?」


 クリスの言葉にアルトは頷いた。


「どうする? もう帰る?」


 そうクリスが聞いた時、部屋の戸がノックされた。そして白衣を着た男性が入ってきた。


「えぇっと、クリストファー・ランベールさんですかね?」

「はい、そうですが……」

「良かった! 僕は彼女の主治医のモーガンと言います」


 モーガン医師はクリスに手を差し出した。クリスがその手を取るとしっかりと握手をして来た。


「彼女の保護者だと聞いたので……少し今の状況を話しても良いですか?」


 クリスは眉を寄せた。自分はまだ少女の保護者になるとは言っていない。


「いえ……そうではなく……」

「大丈夫ですよ。彼女は全身打撲状態ではあるのですが、至って健康です。頭を打ったかもしれないと言う事でしたが、それについても今の所、可笑しな部分は見当たりませんでした。レントゲン、CT、MRI、脳波どれも異常は見られなかった。まぁ、暫くすると目も覚めるでしょう。現状は栄養を口から取れないので、点滴で補っていますが、長くは続けられません。もし目覚めるのが十日以上かかるようであれば、点滴の方法を替える必要がありますが……今はまだ、このままで様子をみましょう」


 モーガン医師はそう言うと更に話し出した。


「今話してもしょうがないのかもしれないのですが、目が覚めたら消化に良い野菜をすり潰したスープとかジュースとかを与えてあげて下さい。二、三日すれば固形の物も食べられるようになりますが柔らかい物から与えてあげて下さい。方法については後日説明書をお渡しします」


 クリスが完全否定する前にモーガン医師は少女の事を話し出した。そしてすぐ様アルトが嬉しそうに反応する。


「僕、今日、博士が作ったオレンジジュースを飲んだよ」

「そうかい。それは良いね。じゃあ今度はこのお姉さんと一緒に飲めるね」

「うん! そうだね!」


 正直クリスはそれを聞いた時、何を言ってくれるのだと、顔を(しか)めた。だが話す二人は気が付いてはおらず、更に話が進んで行く。


「僕の家に天使が来たらね、僕の部屋をあげようと思うんだ」

「……成程、天使か……それじゃあ君の部屋はどうするの?」

「前みたいに博士と寝るから大丈夫。僕ねぇ、小さい頃、すぐ布団を剥いじゃうから風邪ばっかり引いてたの。それで暫く博士と寝てたんだ」

「小さい頃かぁ……今は剥ぐ事はないの?」

「ないよ。だから部屋をもらったの。でも、天使にあげる」


 クリスはここでようやく声をあげた。


「ちょ、ちょっと待って……アルトの部屋はアルトの部屋だろう?」

「良いの。天使が来てくれたら、僕、博士の所で寝かせて貰うから」

「いや、アルト、天使は……」

「駄目なの? 博士の所が駄目なら、僕、居間のソファーでも良いよ。あのソファー寝やすいし……」


 アルトは少しガッカリしたような表情でクリスを見上げていた。それに反しモーガン医師は少しだけ非難するような表情でクリスを見ている。


「……」

「大丈夫だよアルト君。君の叔父さんはちゃんと君や天使の事を考えてくれている筈だから。心配しなくても良い」


 何故かモーガン医師はそう言い切ると、クリスに向き合った。


「もう暫くはここで入院が必要ですから、その間に部屋の問題は解決できるんじゃないですか?」

「……」


 クリスが返事を出来ないでいると、モーガン医師の携帯が鳴った。


「はい、モーガンです……えぇ、はい、そうですか。わかりました、すぐに向かいます」


 そう言って携帯を切ると、モーガン医師は二人に向き合った。


「失礼。呼び出しがあったので行きますが……また明日来られますか?」

「うん! 来るよ!」

「そう、じゃあまた明日ね、アルト君、ランベールさん」


 そしてモーガン医師は笑顔を残し病室を出て行った。


 その帰り道、アルトはウキウキとした様子でクリスの手を握り、跳ねるように歩いた。


「僕のお家に天使が来てくれるなんて、嬉しい! 博士、ありがとう!」


 クリスの意見などそこには何も無かった。病室でのアルトとモーガン医師の噛み合ったような意見の一致、あれはモーガン医師の策略では無いのかとすら思える。だけど、アルトがこれまでに無いくらい喜んでいる姿を見ると、少女の保護者にはならないとは言えず、クリスは人知れず、深く大きな溜息を付いた。

 

 それからクリスは自分の意に反して、毎日アルトと共に救急センターを訪れる事になった。訪れる度にアルトの天使に対する親しさは募って行った。そしてクリスの断りはもう誰にも言い出せなくなってしまったのである。


この街の秘密は一般人のパニック回避の為に、一部の人にしか知らされていません。

彼等はなぜここへ来たのか……ゆっくりと明かされていきます。


グラセルの出自のために少し変更を加えました。

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― 新着の感想 ―
[一言] おおおお~。 この街はなかなかとんでもなさそうですね。 そして警察のお二人もまたそうだったとは。 しかし外堀を埋められましたね! あとはもう迎え入れるだけ? アルトはもしかして、将来大学…
[一言] おお、なんかアレですね。 ファンタジーというよりミステリー。 またはSF的な感じがします。 時をかける少女!みたいな。 はやく意識が戻ってクリスに説明してあげられると良いのですけどね。
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