クリストファーの研究室
クリスの研究室は思った以上に広かった。
天井は高く、中はガラスを通して入ってくる陽の光で明るい。壁際には四つの本棚と大きな机と作業台が二つあって、手を入れられる何かの装置が並んでいる。ガラスの扉付きの本棚の一つには、実験道具が綺麗に並べられてあり、すぐに実験が出来そうだ。
その奥の隅っこに大きなソファとテーブルがあって、小さな食器棚がある。反対側の奥にはパーテーションで仕切られた小さな部屋がある。
床は水に強いテラコッタのタイルが敷き詰められていて歩きやすく、誰かが掃除をしているのだろうか、どこも埃っぽくはない。
一つ一つ、ゆっくりと見て回りながら、オルガは思わずフフッと笑った。
(間違いなくクリスはここに居たんだ)
一番奥まで行くとオルガは色褪せた大きなソファにちょこんと座った。薄緑の座面を撫で深く座りなおし天井を見上げると、ここにも装飾のアーチが隠れている。
目線の端に蛇腹式のシェードカーテンが天井の日除けの為に隅の方に固まっているのが見える。きっとあのシェードカーテンを広げると程よい日陰が作られるのだろう。
ガラスの温室の中に散れていったクラスメイト達の反響した声が、騒めきとなって遠くに聞こえる。そして、ガラスの屋根の向こうには青い空が見えている。
研究室のガラスの壁の向こう一面に、あのケヤキが足元から天辺まで綺麗に見え、その様子はガラスを縁取る黒い鉄骨も相俟って大きな絵画のようだ。ケヤキが陽の光を受けている方向から推測すると、この研究室は北側に作られたようだ。
青い空をバックにしたケヤキは、枝が暴れている分、雄々しくドッシリとしていて、オルガは何となく安心感を感じた。
そっと目を閉じて、クリスがこの場所で研究している姿を想像してみる。
静かな空間で実験器具の音だけがカチャカチャと聞こえる中で、黙々と実験に取り組むクリス。
プレパラートに挟んだ試薬を顕微鏡にセットし、覗き込むクリス。
疲れたら、ガラスの向こうのケヤキを眺める。研究を纏める事にしか使わないパソコンに結果を記載して伸びをする。
そして、たまに幼馴染の両親がやって来る。その時はきっとこのソファに座り、このテーブルでお茶を飲んだに違いない。
オルガはホゥッと溜息をついた。ここでの生活はきっと楽しいものだっただろう。研究室ではあるものの、何だかみんなの溜まり場になっていたような気がする。
もしオルガなら間違いなくこの居心地の良い空間で、勉強したり本を読んだり食事だってするかもしれない。
コロンとソファに寝転がり天井のアーチと空を眺めながら、オルガはクリスを思った。何があって何故居なくなってしまったのだろう。こんな素敵な場所から離れたくはなかった筈なのに……。
「もう帰ってこないのかなぁ……」
小さな呟きは直ぐに温室の空気に溶けていった。空の雲がゆっくりと流れているのが見える。
そして、クリスはもう居ない。
「君は……」
と声がした瞬間オルガは飛び起きた。あの大学生の彼がソファの脇に立っていた。空を見つめ考え込んでいたオルガは、彼が入って来たのに気付かなかったのだ。
「すみません! こんな所に入ってしまって!」
慌てて立ちあがったオルガに、彼は安心させるように笑った。
「いや、構わないよ。僕もよくこの研究室を使うんだ。でも……この場所がよく解ったね」
探るように彼はオルガに聞いてきた。
「ここに入るのは初めてじゃないのかな? まるで……この隠れ部屋をよく知っているみたいだ」
「……ごめんなさい」
消えてしまいたいような気持になって、オルガはやっとそれだけを言った。ここは関係者以外入ってはいけない筈なのだ。
「怒っているわけじゃないんだ。寧ろ、期待というか……君によく似た……余りにも、君に似た人を知っていたから……」
そして一息ついて、呟いた。
「声を聞いた時には、まさかと思った……」
彼は身じろぎもせずにオルガを見ている。もっと何かを言いかけて、そして困ったように彼は笑った。
「すまない……僕の言っている事は訳が解らないよね。でも、さっき君を見た時からどうしても君と直接話がしたいと思っていたんだ」
彼はそう言ってオルガを懐かしそうに見詰めた。でもそのまま彼は何も言わず沈黙が起きる。オルガは居心地が悪くなってきた。
「父さんと母さんが、よくここの事を話してくれるんです。だから……確かめたくて……本当にごめんなさい」
オルガはそれだけを言うと、急いでお辞儀をして出て行こうとした。その後ろ姿に、彼は声をかけた。
「待って! もうすぐ『青の祭り』が始まる。君は行くんだろう?」
オルガは振り向いた。
「はい」
「そう……」
彼は軽く目を伏せた。何かを思い詰めているようにも見える。
そのまま出て行ってはいけないような気がしてオルガが立ちすくんでいると、彼はもう一度オルガを真っ直ぐに見た。
「名前……聞いてもいいかな?」
「オルガです……オルガ・スタンリー」
「……オルガ・スタンリー」
その途端、彼は目を見開き呟くようにオルガの名を口にした。
「やっぱりそうなのか?……君なのか?……」
彼は自分の手を固く握り締め、そして期待を込めた瞳を向けた。
「僕の事を知ってる?」
オルガは即座に首を振った。オルガにとって彼は今日初めて会った人だ。
それを見て彼は肩を落とした。落胆の色がその顔にも表れている。
「あ……そうか、そうだよな……君が知っている筈はないんだ。オルガ……」
名前を呼ばれて、オルガの胸が跳ねた。彼の瞳を見たオルガは、そのまま顔を背ける事が出来なくなった。その表情には思い悩むような物悲しさが見えている。
「オルガ、君は十二歳になったんだろうか?」
年齢の事を言われて、オルガは小さく頷いた。
「はい、先月がお誕生日で……」
「そう……そうなんだ」
一つ一つ確認をするように、彼は質問してくる。
「ここの事をよく知っている君のお父さんとお母さんって、エリックとレイチェルさんなのかな?」
不意に両親の名前が出てきた事に驚いて、思わずオルガは早口になった。
「父さんと母さんを知っているんですか?」
彼は頷いた。
「……そう……君は二人の娘だったのか」
彼は喜びとも哀しみとも取れるような複雑な表情をしている。その瞳がオルガを捉えた。
「……今にして見れば確かに似ているね」
彼はオルガに笑い掛けた。深い青の目が揺れる。
「君のご両親は元気かな? 随分と会っていないんだ」
「……はい、元気です」
そして、また沈黙になる。
「何をどう説明すればいいのか……僕は君の事をよく知っているんだ」
彼の口調には躊躇いがあった。
「……とても説明が難しい」
彼が大きく溜息を吐いた所でオルガは目の前の人物の名前を知らないことに気づいた。
『あなたの名前は?』
喉元まで出かかったその言葉を、オルガは呑み込んだ。講義が始まる前に、彼は自己紹介をしていた。その時、ぼんやりとしていたので、よく聞いてなかったのだ。もう一度聞くのは、話を聞いていなかった証拠だ。失礼になるし、恥ずかしい。
両親の事を知っているなら、この人が自分の事を知っている訳も知っているかもしれない、二人に聞いてみよう。
「僕は……その、何というか……君にまた会えてとても……本当にとても嬉しいんだ」
嬉しいと言いながら彼は困った表情をしている。
「話したい事が沢山あるのに……困ったな……」
「またって……前に会ったのはいつですか?」
「あぁ……うん、そうだよな。そこを説明しないと駄目なんだけど……」
全てに歯切れが悪く、彼の言う全てがわからない。彼の次の言葉を待つが、彼は困ったようにオルガを見るばかりだ。
これ以上ここに居ても進展は無い気がする。
「あの、私もう行きます。みんな待っているから……」
彼はオルガを見詰め、諦めたようにぎこちなく笑った。
「あぁ……呼び止めて悪かった。行ってもいいよ」
オルガは今度こそドアを出て行こうとした。
「オルガ、きっと、また会えるよね」
扉が閉まる瞬間、彼の声がした。叫びにも似たその言葉に、オルガは閉まった扉を振り向いた。何とも言えない感情が押し寄せてくる。
自分の両親の事を知っている人。それだけではなく、オルガ自身の事もよく知っている人。
不意に両親の幼馴染のクリスの存在が、頭を過ぎった。でも、あの人は違う。クリスは父さんと同級生だ。父さんと同じ年なら、あんなに若い筈はない。それに、クリスが居なくなったのは、オルガが生まれる前だ。オルガの事を知っているわけがない。クリスの筈はない。でも、いつか見た写真のクリスと髪の色や雰囲気が似ているように思う。
オルガが立ち竦んでいると、反対側の植物の陰からテッドが出てきた。
「オルガ、こんな所に居たのか? こっちは? 行き止まり?」
「……うん」
「広いよなここ、迷路みたいだし。他の温室なんかよりよっぽど面白いや」
戻ろうぜ、と言いながらテッドは先に歩きだした。オルガはもう一度振り向いて、扉が動かないのを確認するとその場を離れた。
『青い薔薇』の所まで戻ると、ハズはまだ薔薇の前に座ってスケッチをしていた。
「結構長かったね、どこまで行ってたの?」
ハズは無邪気に尋ねてくる。大学生との事を話すには、複雑な感情がありすぎて、ハズに話せなかった。
「うん。グルッとね」
「なんか収穫あった?」
「そうだなぁ、綺麗な花が沢山あったよ。あと……広かった、この古い温室の中」
「そっか」
それからオルガは黙ってハズの隣に座った。ハズが描いている『青い薔薇』を覗くと、とても上手に描けている。
「相変わらず、上手いなぁ」
「でしょ? これ三枚目なの」
オルガは軽く驚いた。
「そんなに長い時間私はウロウロしてたの?」
「そうだよ。だから長いねって言ったじゃない」
ハズは笑い、オルガは苦笑した。
校外授業の時間が終わって、オルガ達は学校に帰ることになった。
ハズは『青い薔薇』を描きあげ、いつの間にか大学生の彼はみんなの所へ戻って来ていた。オルガは、何となく、視線を感じていたがあえて彼を見なかった。
「植物園の出入り口の所で点呼を取りますから、みんな集合してね」
リンジー先生はみんなにそう言うと、大学生にお礼を言いながら話し込み始めた。生徒達はみんなお礼を言いながら、それぞれに古い温室を出る。オルガも振り向かずにその後について行った。
『きっと、また会えるよね』
オルガの中で、彼の声が響いた。オルガは彼に見えない様に外へ出てから古い温室を振り向いた。『青い薔薇』の事よりも、彼の事が気になった。ちゃんと話を聞いていたハズに、彼の名前を聞こうかと何度も思ったが、何となく、触れて欲しくないものがオルガの中にあった。それは大好きなハズにも詮索されるのは嫌だった。
(父さんと母さんに聞こう)
そして、その日の校外授業は終わった。
このガラスのハウスのモデルになったのは、ベルギーのラーケン王宮温室です。
二十五年ほど前に雑誌で見て、記憶に焼き付いてしまいました。アールヌーボー様式の温室の外観もさる事ながら、夜の光の灯る温室はそれに輪を掛けて美しいのです。
中の植物は王室の庭師の方々が心を込めて世話をしているので、年に一度の一般公開の期間は常に完璧な状態で見学をする事が出来ます。
本当にとても素敵なので、機会があれば是非訪れる事をお勧めします。
クリストファーの温室はラーケン王宮温室のような大きな規模では無いです。悪しからず。