日々の中で
夕方になると日は陰り、西の端の連山の山の影が伸びて来る。クリストファーのガラスの温室は小高い丘にあるが、それでも連山の山の影に入ると暗さが滲み始める。
アルトは読み終わった絵本から目を上げると、クリスの背中を見た。目線の先のクリスは、実験に夢中になり黙々と手を動かしていた。
辺りは暗くなり始めている。日の光の入らなくなった研究室の中は特に暗さを感じる。アルトは絵本に視線を落とした。この絵本はもう、今日一日で七回目の読破だ。直に一字一句、空で覚えてしまいそうだ。アルトは絵本を閉じた。
「博士」
「ん?」
アルトが呼びかけるとクリスの無意識の返事のような物は帰って来る。
「博士、家に帰ろう」
「ん……」
その先を言ってみるがやはりクリスは生返事だ。アルトはもう一度声をかけてみた。
「僕お腹すいたよ」
「ん……」
生返事のクリスは動かず、このままでは埒が開かないと思ったアルトは、絵本を置きソファーから立ち上がった。そして研究室の端にある電気のスイッチを付けに行った。スイッチはアルトの手の届かない場所にあるが、クリスがアルトのために移動出来るステップを置いてくれていた。そして電気を付けると、そのままクリスの傍へ移動し、今度はシャツの裾を引っ張ってまた声を掛けた。
「博士、僕、お腹すいた」
そこでクリスは漸くアルトを見た。
「あぁ、ごめん、何?」
「お腹すいたの。僕、家に帰りたい」
博士はアルトの言葉でやっと振り向いてくれた。そして電気がついているのに気が付き、暗くなりかけている外の様子にも気付いたようで、辺りを見廻した。
「ごめんな。ちょっと長く集中してしまったな。ここを片付けたら帰ろう。ちょっと待ってて……」
少し慌ててクリスは机の上の物を隅に寄せ、横に広げていたパソコンに何か数字を書いた。その間アルトは自分の手提げバッグに持ってきた物を全て入れた。バッグの底の方にはあの青い石もある。それを確認するとアルトはクリスの傍に行った。
日々はこうして過ぎて行く。クリスは研究をしながらアルトの面倒をみて、アルトはクリスの邪魔にならないように自分の事をする。この二人の協力体制はなかなかに人の心を打った。だからヴェーダも足が痛いと言いながらも、二人のために助力してくれようとしている。
家に戻ると、クリスは昼間に作ったスープをシチューに完成させるべく、火にかけて牛乳を投入した。白く浮き立つ牛乳は、ほんのり甘い匂いが立った。木べらで鍋底をグルグル回し焦げないように気をつけながら煮込む……が、何故だろう? シチューのモッタリ感がない。
「博士、お腹すいた」
アルトの声が後ろで聞こえる。クリスは少し焦った。シチューはこうやって作るのではないのか? 焦りはするがこの後どうして良いのかわからない。そもそもシチューとは何なのだ? どうやればあのモッタリ滑らか感が出せるのだ?
だがクリスに先をどうすれば良いのかがわかる筈もなく、仕方なくそのままスープをシチュー皿に盛るとアルトの前に出した。自分の物も皿に入れ、切ったパンと一緒にテーブルに並べる。
「あぁ待って、サラダもあった……」
アルトは目の前の皿を見ながら大人しく待っていた。でもサラダを出した途端口を一文字に結ぶ。
「僕、野菜は要らない」
「……気持ちは分かるけどね。野菜を食べないと風邪引きやすくなるぞ」
あれやこれや理由を付けてアルトに食べさせる努力をする。この四年間、ずっとこんな感じだ。
少年の頃から学校の成績だけは良かったクリスは、中等科五年生の時、飛び級で大学へ進級した。それについては何の事ない、本人はただ本を読むのが好きで図書館へ入り浸り、暇な時間を本を読んで過ごしていただけだった。
だが、この時期のクリスの持つ知識量は大人を凌駕する程になっており、本人も知らぬ間に残りの中等科で学ばなければならぬ事を学び終えてしまっていた。元々が性格的に学ぶ事が苦ではなく、創造的に物を考える性質を持っていた事も功を奏したのだろう。科学、数学、物理の分野は特に、読んだ本の知識と自分でも計算を実行した事もあり、学校の先生達を驚愕させた。
この事は街の名士である彼の父を喜ばせるに十分だった。画して彼は、十五歳にしてこの国で一番偉人を輩出している大学に通う事となった。その大学で学ぶ期間は非常に充実して過ごしていた彼であるが、大学二年目の十七歳の時に突然厳しかった父が急死した。
クリスは当初、大学の研究室に入る予定だった。その予定がここから大きく崩れて行く。
父の死によりクリスの家族は歳の離れた兄のセルビスだけとなった。厳格な父と発展的な兄は馬が合わず、兄は中等科を卒業すると海外の大学に行ってしまった。
クリス自身は兄との仲は良かった。だから兄は父には連絡をしなくとも、クリスにだけは連絡をしていた。その兄は会社を設立し、現在は世界を走り回っている。
セルビスはクリストファーより十歳年上のコミュニケーション能力の高い、やり手の営業マンであった。彼は就職した会社の中で短期間で頭角を表し、二年で独立を果たした。そして自分の会社を設立後、五年を経てイギリス人の女性と結婚をしたのである。
兄の人生は順風満帆だった。兄の結婚相手はよく出来た人で、何でもそつなくこなす割には抜けているような、お茶目さのある大らかな愛すべき人だった。兄夫婦の仲は良く、クリスは彼らを見ていると自分も早く家庭を持ちたいと密かに思っていた。
だがこの兄の結婚は長くは続かなかった。義姉がアルトを身篭り、臨月を迎えた時、事故に遭ってしまったのだ。数日後、彼女は脳死状態になり、帰らぬ人となった。それでもその事故の中、彼女のお腹の中にいたアルトは助かった。彼女が身を挺してアルトを守ったのだ。この事もクリスに衝撃を与えた。
兄夫婦はクリスに愛情のある家族の形を見せてくれた。それは父の厳しい愛情しか知らなかったクリスの心を変えて行った。だからクリスは多少無理をしてでもセルビスの子を引き受けようと思った。そして大学卒業と同時に、十九歳のクリスは兄の子であるアルトゥールを育て始めたのである。
子育ては研究の片手間に出来る物ではない。初めの頃は幼馴染みのレイチェルやエリックの母親に手助けして貰い、慣れてくると行政の手を借りながら今に至っていた。
兄のセルビスは度々顔を見せる事は見せる。が、養育費を渡すと、一日か二日、アルトと遊ぶと帰ってしまう。そんな短期間で帰るのであれば、振り込みにすれば良いものを、忙しい筈のセルビスはそうはしない。毎回アルトの顔を見るためにちゃんとここを訪れるのである。
クリスにはそれがセルビスなりの愛情表現なのだと分かっていた。大切な人との間に生まれた大切な息子なのだ。そこまで忙しく無いのであれば、本当は手元に置いて自分が育てたいに決まっている。
最近になって、クリスは小さな事の積み重ねが人としての心を育てるのだと気づいた。クリスは自分の心の動きから、父性愛とはこういうものだろうと思う所がある。子育ては良い事ばかりではない。怒りを感じる事も、苛々が治らない時もある。だが、それを加味してもアルトの成長が何より嬉しいと思う。彼の出来る事が増えていくと、泣きたい感情が押し寄せる事もある。これだけは頭で考えるものではなく、経験が物を言うのだと感じていた。
クリスとアルトはテーブル上の料理を目の前にお互いを見た。目の前の料理はいい匂いを放っている。満面の笑みを浮かべ二人は食べ始めた。しかし……
「……博士、これ硬い」
じゃが芋をフォークに刺したアルトがかぶりついた瞬間そう言った。クリス自身、その意見に異存はない。そのじゃが芋は、まだ芯があり煮えてなかった。クリスは自分のスプーンの上に乗るじゃが芋を見つめた。
「煮る時間を間違えたかな?」
ハハハ、と誤魔化して笑うクリスをアルトは真面目な顔で諭した。
「博士は練習しなきゃ料理は無理。やっぱり、ヴェーダに来てもらおう」
アルトにとって食事が不味いのは死活問題である。そして切った丸パンを手にするとそれだけをモグモグと食べ出した。
「でもほら、野菜は硬いがスープは美味いぞ」
「……」
チラリとクリスの顔を見てアルトはモグモグとパンを食べる。
クリスは溜息をついた。スープはそこそこ美味く出来ている。多分、野菜はもっと煮る必要があったのだろう。やっぱり料理は簡単ではなかった。
そう思っていると玄関のベルが鳴った。
「レイチェルだ!」
アルトが立ち上がり玄関へ駆けて行く中、クリスもすぐさま後を追いかけた。扉を開けるとやはりレイチェルだった。その姿は二人には女神に見えた。
「どうしたの? 二人でお出迎えなんて……」
開いた扉の前に立つ二人を見てレイチェルは目を丸くした。
「レイチェル、あのね、ご飯作って。お願い」
アルトがすぐにそう言い、レイチェルはクリスを見た。クリスは苦笑いをしている。
「成程、何となく分かったわ。どれ、何を失敗したの?」
奥へ通され、キッチンのガスコンロの上には寸胴の鍋がある。その蓋を開け覗くと美味しそうなミルクスープが大量に入っていた。
「味みても良い?」
「うん……硬いけど」
クリスの言葉を聞いて、味を見てみると……成程、味は悪くないがじゃが芋、人参、豆が硬い。
「玉葱は余熱で火が通るからね。まぁ、この硬いのは煮れば何とかなるわよ。ただし濃くなるから水で薄めなきゃね」
レイチェルはそう言いながらテキパキと動き始めた。
「本当は、シチューにするつもりだったんだ」
クリスの言葉を聞いて、レイチェルは頷いた。
「じゃぁ、半分はシチューにする?」
「レイチェル、出来るの?」
驚いたアルトにレイチェルは片目を瞑って見せた。
「出来るわよ。小麦粉とバターはある?」
アルトの目にはレイチェルが本当の女神に見えた。クリスが小麦粉とバターを冷蔵庫から取り出す間に、レイチェルは火を付けもう一つの鍋を出した。そのまま出来損ないのミルクスープの半分を空の鍋に移すと隣のコンロの火にかける。そして水を足し煮込み始めた。それから透かさずフライパンを取り出し同じように火にかけた。三つ口のコンロは全部埋まる。
「小麦粉は?」
「はいこれ」
助手のように傍に立つクリスに渡された袋から、小麦粉をフライパンに移し、レイチェルはそのまま小麦粉を木杓子で混ぜ合わせる。
「え〜っと、レイチェル、それは一体何をしてるの?」
「小麦粉を乾煎りしてるのよ。熱を加えてるの」
クリスの問いに答えながらレイチェルは火加減を見る。
「何のために?」
「……ん、クリスには科学的に説明した方が良いのかしら?」
「まぁ、出来れば……その方が理解は出来るかも……」
レイチェルはクリスを見遣った。
「デンプンに水を入れて加熱したらどうなる?」
「どうって『デンプンのα化』の反応を……あ? デンプンのα化! あぁ! そうか! デンプンのα化だ!」
「良く出来ました」
レイチェルは満面の笑みを浮かべ。クリスは大きく頷いた。如何にも納得と言うように何度も頷く。
「そうか、つまりシチューを作るにはデンプンをα化させた物が必要なわけだ。それでモッタリ滑らか感が出る」
「そう言う事。ついでにバターを加えるとその香りが立って美味しくなり、食欲が湧くってわけね」
「何だ……そういう事か、料理は面白いじゃないか!」
「貴方にとっては科学実験と同じでしょ? 出来ない方が可笑しいのよ」
レイチェルの言葉にクリスは晴れやかな顔になった。苦手意識満載だった料理は、実は実験と同じだと気付いたのだ。これは明日から楽しくなる。
そんな中レイチェルは小麦粉を乾煎りした後、バターを加え固めた後、牛乳を少しずつ入れて馴染ませ、薄い黄色味掛かったクリーム状のものを作り上げた。
「これがいわゆるホワイトソースね。色々なものに使えるから、半分は残しておくわ」
クリスとアルトに見せた後、それを半分だけ寸胴鍋の中に入れ、ゆっくりとかき混ぜる。寸胴鍋の中は見る見る内にトロミが付いてきた。
「成程な。『デンプンのα化』万歳だな……」
クリスは鍋の中のシチューを確認した。
「仕組みが分かれば面白いでしょう? それで? 今日はスープとシチュー、どっちを食べる?」
「僕、シチューが良い」
アルトは目を輝かせてそう言った。クリスも頷く。
「僕もシチューにしよう」
レイチェルは盛り付けられていた二人のスープを鍋に戻し、いったん皿を洗った後、シチューを入れ直した。ホワイトソースを作る間も火を入れていたから、じゃが芋も人参も豆も、硬かった物は全て柔らかくなっていた。
レイチェルも一緒に食卓を囲むのが嬉しくて、アルトはシチューをよく食べた。その姿にホッとしながらクリスも食べた。シチューはほんのりバターの香りが立ち、ミルクの甘さで心も温かくなる。
「クリス、この鶏肉、炒めずに入れたでしょ」
不意にレイチェルが聞いてきた。クリスは自分の作る工程を思い出し返事をする。
「あぁ、そうだったと思う。野菜と肉を全部同時に入れた……」
「やっぱり……肉がパサパサだもん。次回は肉の火の入れ方を教えなきゃね……アルト、待っててね、時間はかかるかもしれないけど、博士は科学の仕組みが分かって料理上手になるわよ」
「本当? 目玉焼きも作れる?」
「出来るわよ。しかも、美味しくね」
アルトがシチューを食べた時より良い顔で笑った。本当に心からホッとしたのが見て取れた。
食べ終えるとレイチェルが口を開いた。
「さあ、アルトはお風呂に入って早く寝なきゃね。一日のリズムは大事なのよ」
「僕、レイチェルと遊びたい」
「また今度ね。休みの日に遊びに来てあげる」
「本当?!」
「約束するわ」
クリスは感心する。こういう時、本当にレイチェルは上手く子供を誘導するのだ。
「ほら、クリスはアルトのお風呂を手伝いなさいな。私はここを片付けるから」
「なんか悪いな……」
「何言ってるの? いつもの事じゃない、ほら行って」
クリスは思う。こんな風に誰かと時間を共有し、アルトを育てるというのも良いものかもしれない。だが、レイチェルとはそれを築けない。レイチェルにはエリックがいる。彼等は何も言わないが、惹かれあっているのを感じる。それを壊すような事は自分には出来ない。
クリスは幼い時から、ほんの少しの恋心をレイチェルに感じていた。
二歳年下のレイチェルは元気で、優しくて、面倒見が良くて、いつでも自分とエリックの後をついて来て、可愛かった。
でも、クリスは自分の思いを言い出せないまま時が過ぎ、気が付けば大学へ進んでいた。自分がこの街に居ない間、彼等二人に何があったのか知らない。だが、クリスがこの街に戻ってきた時、少し二人の間の空気が変わっていた。
クリスがアルトの育児の為に戻って来た時、レイチェルは美しく成長し、自分の進む道を決めていた。傍に居ない自分には何の相談もなかったが、エリックにはずいぶんと色々な事を話していたようだ。確立された彼等の空気の中に、自分の居場所を見つけるのは難しかった。その切ない思いがクリスの中にある。
元々自分の気持ちを言ってはいないのだから、自分と彼等の間は見た目には何の変化もなかった。クリスは自分の気持ちを押し殺すだけで済んだ。
でも、こんな時にはその気持ちが動き出す。エリックより先に自分が告白していれば、レイチェルとの関係は違ったのだろうか?
「博士、絵本はレイチェルに読んでもらっても良い?」
お風呂を終え、パジャマを着たアルトが、今日読んで貰うつもりの絵本を抱え目の前に立っていた。クリスはレイチェルを見た。
「良いわよ。じゃ、アルトの部屋に行こうか。ちゃんとベッドに入るのよ」
「うん!」
連れ立ってアルトの部屋へ行く二人の後ろ姿は、未来の自分の家族像を彷彿とさせた。クリスは眉間に皺を寄せ首を振った。その相手はレイチェルではないのだ。
「考えても無駄なのにな……」
呟きながらクリスが周りを見渡すと、キッチンは綺麗に片付けられていた。レイチェルの性格が出ている。きちんとあるべき場所にあるべき物がある。
クリスは立ち上がり、ケトルを手にとると水を入れ火に掛けた。レイチェルが戻ったら、珈琲と紅茶どちらが良いのか聞こう。そして、台の上に両方を用意した。
暫くしてレイチェルが戻って来た。
「余程疲れてたみたい。あっという間に寝たわよ」
レイチェルはそういうとテーブルに着いた。
「珈琲と紅茶はどっちが良い?」
「ん、今日は紅茶にしようかな」
「了解」
クリスが立ち上がって準備をする間、レイチェルはクリスの後ろ姿を見つめていた。
「それで? 相談事って何?」
「……うん、今日起こった事なんだけど」
紅茶の入ったマグカップを二つ持ち、クリスが振り向いた。その表情には少し躊躇いがあった。クリスはそのまま対面ではなく側面に座り、マグカップをレイチェルに渡した。レイチェルはお礼を言い、マグカップを受け取り口元に運ぶ。
その様子を見ながらクリスは話し出した。
「今日、午前中の出来事なんだけど。ガラスの温室の天井が破れて女の子が落ちて来たんだ」
クリスがそう言うと、レイチェルが飲みかけの紅茶で噎せた。そのレイチェルの背に手を回しクリスはトントンと軽く叩いた。
「……大丈夫か?」
「大丈夫か、じゃ無いわよ。何? 落ちて来たってどう言う事?」
「だから、女の子が落ちて来たんだ。温室のガラスを突き破って……それで救急隊を呼んで病院に運んで貰った。今日、君の店に行ったのはその帰りだよ」
レイチェルは眉間に皺を寄せ、変なものを見るようにクリスを見た。
「……その顔、辞めてくれる? 女の子の事は僕のせいじゃ無いし……」
「あぁ、悪かったわ……それで? どうしたの?」
「うん、その時、警察官と役所の人間が来ていたんだ。その人物がこの街の不思議な出来事を知っているかと聞いて来て……レイチェル、君は知ってる? この街に起こる不思議な事」
レイチェルは暫く考えたが、首を振った。
「僕も思い当たる事がなくてね。知らないと言ったんだけど……」
クリスはそこまで言って言葉を止めた。そして少し考え込み、再び口を開いた。
「明日、その警察官と役所の人が来る。そこでもう少し詳しい事がわかると思うんだけど……。その少女の保護者になってくれないかと打診があった」
レイチェルはなおも眉間に皺を寄せた。
「どういう事なの? どうしてクリスが面倒を見なきゃいけないの?」
「わからないんだ。保護者というだけで、面倒を見るのかどうかもわからない。ただ、何かあるんだという事だけはわかる。そもそも可笑しな話だろう? ガラスを突き破って落ちて来た子の保護者になれなんてさ……その子の親はどうしたんだって話だよ」
レイチェルは深く頷いた。
「何故警察はその子の家を探さないの? 普通なら探すでしょう? そんなの、どう考えても変よ。あなたは関わらない方がいいわ。ただでさえアルトが居るんだもの。アルトに変な影響があったりしたら、どうするの? 元も子もないじゃ無い」
レイチェルの言う事は一理ある。しかしクリスは思う。何かがあるとして、何故保護する事を初めに言うのか。レイチェルの意見を聞く事なく、断るつもりではある。アルトの事で今は手が一杯だ。これ以上研究が進まなくなるのは正直に言うと気が滅入る。
だが……。
「何考えてるの? 駄目よクリストファー。あなたが関わる事じゃ無いわ」
クリスはレイチェルを見て笑った。彼女はしっかりと自分の意見を言う時にクリスの愛称ではなくクリストファーと声を掛ける。
「……分かってるよ。僕はまだ大人としての経験が少ない。それに……責任の重さを考えたら、アルト以外の他人の子の面倒なんて無理だ」
「そう、クリスには無理よ。あなたは自分の事もちゃんとしなければいけないでしょう? 研究の時間を削られると、大学の研究ラボに迷惑かけるって前にも言ってたじゃない。あなたは頑張っているわ。でも、これ以上は生活に時間を取られては駄目。ちゃんと分かっているなら良かった」
レイチェルは心からホッとしたように溜息をついた。そして壁の時計を見る。
「もうこんな時間……もう少し話を聞きたいけど、私、明日も早いから帰るわ。明日の事はまた聞かせて」
「あぁ、分かった。君と話せて少し自分の整理がついたよ。あ、家まで送ろう」
「ありがとう。でも、アルトが居るでしょう? まだ遅い時間ってわけじゃ無いもの。大丈夫よ、一人で帰る」
レイチェルはそう言うと帰って行った。丘の上からレイチェルの姿が見えなくなるまで見送ると、クリスは戻った。
明日、彼等には断ろう。あの少女には修道院の方がまだマシかもしれない。クリスはそう思っていた。