クリスの憂惧
救急車は街の一番大きな救急センターへ向かった。新市街の外れにある、比較的新しいこの救急センターには最先端の医療システムがある。気を失っている少女の検査には一番適していると思えた。
病院に着くと少女は救急隊員の担架から病院スタッフの担架に移され、処置室に運ばれて行った。今から怒涛のような検査が行われるだろう。その運ばれて行く様を見ていると、クリスは救急隊員に待合室で待つように言われた。
「もう少ししたら、警察の方が見えると思います。後、病院のスタッフにも色々と尋ねられると思うので……少しここで待っていて下さい」
クリスはアルトを抱き抱えたまま、待合室の長椅子に座った。アルトは救急車の中でも、病院についてからも緊張して不安げにしていたが、ここへ来て気が緩んだのだろう、目が閉じそうになっている。少し背中を軽く叩いてやると、アルトはコトンと電気が切れたように寝てしまった。
クリスは体勢を変え、腕で支えながら膝の上にアルトを寝かせた。
「あぁ、えぇっと、クリストファー・ランベールさんですか?」
突然、声を掛けられ振り向くと、警察官ともう一人ワイシャツにネクタイを着た公務員然とした男が立っていた。
「はいそうです」
「少しお話を聞きたいのですが……」
「あぁ、はい、良いですよ」
二人はクリスの傍へ来ると、警察官は横に座り、一人は前に立ったまま説明を求めた。
「私は警官のグラセスといいます。こちらは役所に勤めているヘイガン氏、貴方の話を共に聴きたいと思いまして……あぁ、彼が少女の第一発見者ですか?」
グラセスがクリスの膝で気持ち良さそうに眠るアルトを見ている。
「そうです。少女が落ちて来るのを見ていたそうです」
「貴方のガラスの温室には、そのままでは上がるのが難しいとか?」
「そうです。簡単に上がられたのでは危なくてしょうがない。なので、メンテナンスの時以外は上がれないようになっています」
「後で見せてもらっても構いませんか?」
「えぇ、僕の説明より見てくださった方がわかると思いますよ」
その間ヘイガンはメモを取りながら話を聞いていたが、不意にヘイガンが口を開いた。
「この街にある不思議な現象の事を、知っていますか?」
不思議な現象と言われてクリスは戸惑った。しばらく考えるが思い付かずそのまま答えた。
「いえ、知らないと思います。不思議な現象と言われて思いつくのは今日の事位しか……」
「まぁ確かに、ここ五年程はその現象は起こっていないので、自分の周りの人に起こらない限り、知らない人は知らないでしょう」
ヘイガンは意味深にそう言うと、どうしたものかとグラセスを見た。
「あの……その不思議な現象とは何ですか? あの少女に関係する事なのですか?」
「今はまだ何も言えませんが……彼女が目を覚ませば確実な事は分かると思います。ただ……話しても良いものかは、私の判断では何も言えないのです。貴方がその現象を知っているのなら、少し話は早かった……」
ヘイガンは少し残念そうにメモしたノートを見ていた。だがすぐに顔をあげた。
「少女の処置が終わるまでここに居ますか? 我々は書類を作成しなければ成らないので、後日サインを頂きに伺いたいのですが……」
ヘイガンが事務的に聞いて来た。少なくともクリスにはそう聞こえ、少し違和感を感じる。クリスの中で妙な反発精神が起こった。
「一応僕には、第一発見者の保護者としての責任がある。それに倒れていた少女も未成年者だ。事務的な処理だけでは収められないかもしれないのです。あなた方はこれを事務的に処理して終わらせるつもりですか?」
怒りのようなものを抑えながらクリスは彼等にそう言った。
「あぁ、気分を害されたのであれば、すみません。そうではなくて……今後の事です。出来れば少女の保護者にもなって頂きたい。明日お持ちするのはその書類です」
「どう言う事ですか?」
クリスは聞きながら眉を寄せた。何故か、何かに足を踏み入れてしまったような懸念がある。
「詳しく話せないのがまどろこしいのですが……」
あくまで彼らは話さないつもりらしい。それを感じたクリスは断った。
「僕は結婚をしていない。大学をスキップして出ただけの、二十二歳の植物の研究者でしかない。この子は兄の子で、僕は兄の代わりを懸命に務めている。その上知らない他人の子まで面倒を見る事は出来ません」
「仰る事はごもっともです。だから未成年の場合、補助金を出すんですよ」
「何なのだあなた達は……。僕は、お金の事を言っているんじゃない!」
何を言えばこの目の前の男達に伝わるのか。少女の未来を彼らは考えているのか? 腹立たしさがクリスの心を押し上げていた。
「違うのです。これには訳がある。我々も出来るだけ少女のためを思って考えているのです。もしも、どうしても駄目だと言うのであれば、ここから少し離れた所にプロテスタントの教会の建物があります。数百年前はカトリックの修道院だった建物ですが、そちらにお願いするしかない。色々と調べた後に貴方には誠心誠意、きちんとお話しします。それまでで良い。彼女をお願い出来ませんか?」
そう話すヘイガンの表情には懸命さが見えた。だがクリスは話す内容に衝撃を受けた。
「教会に修道院って……」
言葉が続かない。どういう事だろう。あの少女の家を探さないのか? 家に帰せば済む話ではないか……ただそれだけの事が出来ないのか? 何故だ? クリスの頭の中で様々な考えが浮かんで来た。
「簡単には返事は出来ません……」
彼等がここまで言うのには何かあるのだろうという事は想像がつく。果たしてそれは自分に対処できる事なのだろうか? とも思う。
「ありがとうございます。では一旦私たちは戻りますが、明日、お宅に伺わせてください。現場はそのままにしていて貰えますか?」
「わかりました……」
そして二人は帰って行った。
病院の待合室は広く、多くの患者が行き交う中、クリスはアルトの寝顔を見下ろした。本当の親ではない自分ですらアルトの事を大事に思っている。
ふと想う。あの少女の親は今、どう思っているだろう。綺麗なワンピースを着ていた。彼女の親が買ったものではないだろうか? 大事に育てた娘が怪我をしている。自分ならいてもたってもいられない。
「ランベールさん? クリストファー・ランベールさんですか?」
自分の考えに耽っていると声を掛けられた。顔を上げるとそこに女性の事務員が立っていた。
「あぁ、はい」
「色々と手続きがありまして、こちらへ来ていただけますか?」
彼女はテーブルのある場所へクリスを案内し、テーブルに書類を置いた。
「医療費についてはこの地域の共同保険機関が持ちますので、ランベールさんがお支払いする分はありません。こちらがその書類になります。それから入院に対する書類と、検査に対する書類です。それぞれにサインをいただければ終了です」
彼女はにこやかに笑った。クリスはサインをしながら口を開いた。
「……あの少女の容態はどうですか?」
「今現在検査中ですので、今日はもうお帰りになって宜しいですよ。ご心配であれば、明日お越しください。医師の方より説明があると思います」
「わかりました。ではまた明日こちらに来ます」
あっさりと事は終わってしまった。クリスはアルトを抱き上げ、出口へ向かう。何か釈然としないものがクリスの中にある。大きな病院とはこんなにあっさりとしているものなのか?……唐突にそう思いながら、クリスは建物を出た。
新市街を旧市街側の中央広場の方へ行くと、そこから幾つかの筋を通りコモン通りへ入った。
その時アルトがモゾモゾと動いた。そしてクリスの肩の上にあった頭を持ち上げた。
「アルト? 起きた?」
まだ眠そうなアルトは返事をせず、辺りを見回すとクリスの首に小さな手を回しギュッとしがみついた。
「どうした?」
「ここどこ?」
くぐもったアルトの声がクリスの肩越しに聞こえる。クリスは少し笑った。幼いアルトは最近人見知りが治って来ていた。だが、寝起きはその人見知りが発動し、機嫌が悪くなる。クリスからは顔が見えないが、しがみついた肩越しに周りを睨むアルトが想像出来る。
「今は病院から帰る所。その前にレイチェルのパン屋でパンを買おう」
「……うん」
クリスの首元にしがみついていたアルトは小さな声でそう言った。これで機嫌は治るだろう。
コモン通りの中程に『ジョナサンのパン』はある。幼なじみのレイチェルは、そこでブーランジェの修行をしている。
クリスはアルトを抱いたまま先を急いだ。昼になるとこの辺りはランチを取る人で混雑し、人通りが多くなる。それまでに用事を済ませたい。
「博士、レイチェルの所で甘いチーズパン買う?」
「食べたいのか?」
「うん、あれ美味しいから……」
「良いよ。ソーセージパンとどっちが良いんだ? ソーセージパンも好きだろう?」
「……う〜んと、考える……」
アルトは黙り、クリスはニヤニヤと笑った。好きなものを大量に与えるのは良くないと、レイチェルの母親に言われたクリスは、好きなパンは一つだけ買う事を決まりとしていた。アルトは黙ったままだったが、クリスは先を急いだ。
『ジョナサンのパン』が見えて来ると、アルトが身を捩らせた。
「僕、降りる」
抱っこされたままなのが恥ずかしいのだろう。クリスはアルトを地面に下ろした。
「降りるなら手を繋ぐ、約束だろう? アルト」
「うん」
クリスが手を出すとアルトは素直に手を繋いだ。
『ジョナサンのパン』の扉を開くと、中から芳しいパンの香りが鼻腔をくすぐった。
「あら、いらっしゃい、クリス。おや、今日のアルトも元気だね」
パン屋の奥さんが声を掛けた。彼女はレイチェルの伯父さんの奥さんだ。少し太り気味だが愛想の良い、大らかな性格をしている。クリスは口を開いた。
「こんにちは、レイチェルは居ますか? あぁ、アルトはパンを選んで良いよ。一つだけだぞ」
「うん!」
アルトは自分のパンを選び始めた。
「ちょっと待ってね。今、死ぬほど忙しいから、出て来られるかわからないけど……」
そう言いながら奥に声を掛けた。
「レイチェル! クリスが来たよ〜出て来れるなら来ておやり!」
「はーい……」
奥から声がした。でもなかなかレイチェルは出て来ない。
「ごめんねぇ、ランチに合わせてパンが売れるから忙しいのさ。レイチェル! 急ぎなさい!」
もう一度声を掛けた時、この店のブーランジェの制服を着たレイチェルが出て来た。
「クリス、ごめんね、今、本当に忙しくて……で? どうしたの?」
レイチェルは長い薄茶色の髪を後ろで結び、緑色の帽子の中にその長い髪を全部入れていた。キリリと帽子を被った彼女は見た目だけは十分なパン職人に見えている。
「いや、こっちこそごめん。今日、仕事が終わったら、ちょっと家に来て欲しいんだ。相談事があって……」
今日の出来事と、少女の事をここで話す事は出来ない。だが自分一人で決めるのも心許ない。そう思い、クリスはレイチェルの相談する事にしたのだ。
もしも預かる事になれば女性であるレイチェルの助けが必要になるだろう。
「うん、わかった。仕事が終わってからになるから遅くなると思うけど……良い?」
「それは構わない。ありがとう、じゃあ待ってる」
レイチェルは頷くと、アルトに声を掛けた。
「アルト、この前のチーズパンどうだった?」
「美味しかった! 今ね、チーズパンとソーセージパンで悩んでるの……」
アルトはまだ悩んでいたようである。
「そりゃあチーズパンの方がいいんじゃない? だってそれ作ったの私だから……」
笑顔のレイチェルは屈託が無く綺麗だ。その笑顔を見たアルトは頷いた。
「わかった。じゃあ、チーズパンにする」
「毎度ありがとうございます。じゃあ、後でね」
レイチェルは笑って丁寧に礼をした後アルトに片目を瞑って見せると、奥の厨房へ戻って行った。
それからクリスはアルトのチーズパン以外に、クロワッサンとサンドイッチと香ばしく焼き上がった丸パンを購入し丘の上の家に戻って行った。
家に戻るとパンで食事を終わらせ、クリスはアルトの部屋から絵本やスケッチブックやクレヨンを手提げカバンに入れた。
テーブルでは、まだアルトがチーズパンを大事そうに食べている。
「アルト、僕は今から料理を作らなければならない……アルトはこの食卓で遊んでて、良い?」
アルトはモグモグと口を動かしながら頷いた。
さて、次は料理だ。
クリスは引き出しからエプロンを取り出し、きちんと着て整えると紐を前で結んだ。キッチンの台の上にはヴェーダが途中まで準備していた野菜がバットの上に並んでいる。
「なぁアルト、ヴェーダは今日シチューと鶏の煮込みだと言ってたかな?」
「うん、言ってた」
「そうか……」
そう返事をするものの、どこまでがシチューの具材で、どこまでが鶏の煮込みなのか分からない。冷蔵庫を開けると鶏の胸肉が切られてラップをして置いてあった。これはシチューに使うものなのか? それとも煮込み? クリスは頭を抱えた。
(分からない……)
「まぁ……全部一緒でも良いか?」
小さく呟くと、クリスは底の深い一番大きな鍋に野菜と鶏肉を全部入れ、水を加えてコンロに置いた。火を付けると青い炎が立つ。
鍋を火にかけたまま、クリスは調味料を取り出した。
「塩と胡椒と……後、何を入れたら良いんだ?」
「ねぇねぇ博士、博士を描いて良い?」
「あ〜良いよ……」
そう言いながら、取り敢えず塩と胡椒を入れる。そのままグツグツと煮立って来た所で、鍋の中からはそれなりに美味しそうな匂いが立ち込めていていた。
「こんなものかな?」
クリスは鍋に蓋をして火を止めた。食べる前に牛乳を入れたらシチューになるだろう。野菜を切っていてくれたおかげで、幸先が良い。サラダは冷蔵庫に入っている。パンは丸パンを直前に切れば良い。
(あれ? もう夕食の準備は出来たんじゃないか?)
クリスは台所を見渡した。なんだか自分自身、料理の出来る人だと錯覚しそうになる。こんなに簡単に出来るなら料理も悪くない。ただし、野菜を切る手間がない場合だけだが……。クリスは振り向いてアルトを見た。アルトはクリスに言われた通りスケッチブックにお絵かきをしている。クリスはエプロンを取った。
「なぁアルト、その続きは研究室でしないか? 夕食の準備は終わっちゃったよ」
「え〜本当? もう?」
アルトは驚いていたがクリスはニッコリと笑った。
「僕だってやろうと思えば出来るんだぞ」
アルトはそんなクリスに笑顔を見せ、いそいそと手提げバックの中にクレヨンとスケッチブックを入れた。
クリスとアルトは温室の中の研究室へ向かった。破れたガラスの散らばる中央部分は通らず、脇道を真っ直ぐに研究室へと向かう。まだ日が陰るまでに時間がある。今やっている実験を少しでも進めておきたい。クリスはそう思っていた。
研究室に入ってアルトはテーブルの置いてあるソファーに座り、お絵描き道具を広げ始めた。
「ねぇ博士、明日天使の所へ行く?」
「あぁ、気になるしね。警察の人と役場の人が来た後に行こうか?」
そう言いながらクリスは、自分の机の横にある筈の、蛇口の鍵がない事に気付いた。
「あれ? 蛇口の鍵……」
そして水遣りのためにアルトに渡したのを思い出し、声を掛けた。
「アルト。蛇口の鍵、付けっ放しだったね……取って来るからここに居るんだぞ」
だがアルトはすぐに立ち上がり、クリスの後ろを急いでついて来た。
「僕も行く……」
クリスは苦笑しながら頷いた。本当はガラスの散らばる場所へ連れて行きたくはないのだが……。広い所で一人で居るのは嫌なのだろう。
中央付近に向かう道を行きながらアルトはクリスを見上げた。
「水やりはしなくて良いの?」
「う〜ん……今日はね、色々とあっただろう? 水はガラスの破片を片付けてから撒こうか」
アルトは素直に頷いた。中央付近は先程のままガラスが散れていた。花壇の花も折れている。でも今はどうしようもない。クリスは溜息をついた。警察官と役所の人物はこのままにしていて欲しいと言っていた。
クリスは立水栓に近づくとそこに差し込んでいた鍵を捻り水を止めた。ホースの先の水の流れを切り替えるヘッド部分があって良かった。蛇口を開けたとしても、水は出ていない。もし普通のホースのままなら、この辺りは水浸しだっただろう。
クリスは鍵を引き抜いた。その時、隣にいたアルトが蹲み込んだ。
「アルト?」
「博士、これ何?」
アルトが立水栓の脇から拾い上げた物は、青い石のような物だった。
「ガラス玉かな? ちょっと見せて……」
クリスはアルトから青い石を受け取りよく見てみるが……その石は吹きガラスのように空気の粒が入っているわけではなく、空に翳しても向こうが透けて見えるわけでもなく、つるんとした冷たい触感だけがいやに手に残った。
「よく判らないな」
「でも綺麗だね。僕欲しい」
「アルトが見つけた物だ、大事にするんだぞ」
「うん!」
クリスがアルトの掌に石を乗せると、アルトは青い石を嬉しそうに握りしめた。
突然現れた女の子。
この街の秘密。
アルトの拾った青い石。
クリスには考えなければならない事が多くありますが、幼馴染みやアルトの存在がクリスを和ませます。




