博士とアルトと天使の少女
ここから新たな展開に……
途中にイラストがあります。
朝ご飯の後、アルトはいつも温室へ行く。花の水やりはアルトの仕事だと自分で決めたのだ。
アルトは家を出て隣に建つ温室へ足を運んだ。今日も良い天気で、丘の上は風が良く通る。金色の少し癖のある髪を、風に弄ばれながらアルトは大きな温室に入って行った。
この温室は強固だが美しいラインを描く鉄骨と透明度の高いガラスで出来ていて、外観は宮殿のように綺麗な建物だ。その中の園路をアルトはトコトコと歩いた。
アルトは生まれてすぐ博士ことクリストファーに預けられた。預けられた理由は母親が居なかったからだ。母親の事はよくわからない。死んだと聞かされているだけで、どういう人だったのか、何も聞かされては居ない。ただ写真があるだけだった。
『もっと大きくなったら母親のことを沢山話してあげよう』と父親も博士も言うが、アルトはそのいつかを楽しみにしていた。
父親は仕事で海外を飛び回りアルトの事を育てるのが難しいため、歳の離れた弟であるクリスがアルトを引き受けてくれたのだ。だから、その父親代わりのクリスとの生活がアルトの全てだった。
クリスに預けられて早くも三年になる。ここを訪れるのは家政婦のカーラおばさんと、クリスの幼馴染のレイチェルとエリックぐらいなものだ。その家政婦のカーラはもう結構年を召しているので、毎回この丘に上がって来るだけでも大変そうだ。カーラはお喋りで楽しい人だから来なくなるのは寂しいが、クリスはいつも気の毒だと言っていた。
アルトは温室の中をずっと奥まで歩いて行った。この一番奥の部屋にクリスは居る。植物に隠れるようにある、その部屋へ続く扉をアルトは開いた。
「博士。そろそろ花の水遣りしても良い?」
中を覗き声を掛けると、顕微鏡を覗いていた博士が顔を上げた。
イラスト:『クリストファー』 青羽様より
「アルト、朝ご飯は終わった?」
「うん、今日も美味しかったよ」
アルトの答えをクリスは満足そうに聞くと、ジッと顔を見た後、おいでと手招きした。アルトがクリスの前へ行くと机の上の奥にあったティッシュを一枚引き出し、アルトの口元を拭いた。
「卵がついていた。あれ? 固まってるな……まぁ、今日も美味しかったのがよくわかるよ」
アルトは目玉焼きが大好きで、ベーコンやハムと一緒に焼いた、トロリとした黄身の部分が一番のご馳走だと思っていた。
口を拭かれた後、アルトはちょっと赤くなって自分の口元を触った。少しだけ固まった黄身の名残が手に当たる。
「ははは、もう大方は拭いたよ。後は水やりの時に洗えば良い」
アルトは頬を膨らませ慌てて固まってしまった黄身を指で摩った。最近そういう子供っぽいことが恥ずかしくなったのだ。そんなアルトの気持ちをクリスは何となく察すると、話題を変えるように口を開いた。
「カーラさんは?」
「ご飯を二回分作ったら今日は帰るって言ったよ……病院に行くって」
「ご飯を二回分? 」
「うん、お昼と夜の二回分」
「……いつも申し訳ないな……」
クリスは家の方を少し見た後、真面目な顔をしてアルトに向き直った。
「なぁ、アルト。次の家政婦さんを探すまで、アルトは僕のご飯でも我慢出来る?」
「うーんと……」
アルトは考え込んだ。つい先日カーラが休んだ時、クリスが作った目玉焼きは目玉焼きでは無かった。焦げて黄身がパサパサで、口の中の水分が取られてモゾモゾしたのだ。黄身の甘みも何も感じられなかった。あれをこれから毎日食べなければならないと思うと……アルトは眉を寄せたまま返事が出来ないでいた。小さく腕組みをして考え込むアルトにクリスは溜息をつく。
「うん、わかるよ。アルトの気持ちはよくわかる……でも、カーラさんに来て貰うのは可哀想だと思わないか? 膝が痛いのに、いつも大変な思いをしてこの丘を上がって来るだろう?」
それについてはアルトもそう思っている。だから素直に頷いた。そして思い付いたように明るい表情になった。
「そうだ! 代わりにレイチェルが来れば良いよ」
「無理だよ、レイチェルも仕事なんだから……彼女はブーランジェになる為に今が一番大事な時なんだ」
それを聞いた途端、アルトの顔は曇った。
「……じゃあカーラおばさんがいる間に博士が料理の訓練して目玉焼き上手に作れるようになってよ。そうしたら僕、我慢する」
アルトの言葉はクリスには痛かった。料理は研究のようにはいかない。小さな細胞を切るのが上手でも、大きな野菜になるとゴロゴロ転がって何故だか上手くいかない。人参の形成層を取ったり、玉葱の薄い鱗片を取るのなら良いのだが……。
「はい……最大限に善処します」
クリスはそう言うしかなかった。四歳とは言えアルトは中々に鋭い。
今までもクリスは結構家事を頑張って来たつもりではあるが、料理だけはどうにもならない。下手なのだ。兎に角、料理が下手なのだ。料理となると途端にどうして良いのかわからなくなる。
そんな中、アルトの思考は次に移っていた。今日のような暑くなりそうな日は早く水遣りがしたい。水遊びも兼ねてのお手伝いである。
「もう僕、博士のお手伝いに行くから。水遣り良いでしょ?」
「あぁ頼むよ」
クリスは苦笑すると、机の横にかけていた水栓の鍵をアルトに渡した。アルトはそれを受け取り、我が意を得たりと、意気揚々とその気持ちの良い研究室を後にした。途中から来た道とは別な園路に入り、中心近くへ向かう。
このガラスの温室の中はとても広い。全部の植物に水を遣るには大人でも半日がかりになる。樹木や花や野菜や果物、色々な植物が植えられている。大体は花壇ごとに区切られており、実験の方法や結果の違いで分けられていた。他の物と区別を付けたい植物の場合は、更にビニールの小さな部屋が作られ別にしてある。
だからクリスはアルトの水遣りの場所を選んで決めていた。その場所は温室のほぼ中心の実験用の花が咲き乱れる花壇がアルトの担当だった。
中心よりの隅の外れた所に立水栓が立っている。アルトはそこへ行くと蛇口の上にある鍵穴に鍵を入れ捻った。蛇口には長いホースが付いていて、ホースの収納用の器具に巻き付けてある。それを引っ張ろうとした時の事だった。
ドォーン!! という何かが打つかる音と共に、バリバリバリーン!! という大きな破れる音がして、その振動がアルトの身体にも伝わった。
ビックリして後ろを見ると、アルトが水を撒こうとしていた場所に女の子が落ちて来た。温室の天井の中心の丸いガラスが破れて、天使と共にキラキラと光を反射して真下に落ちて来たのだ。
アルトは余りにもビックリして目を見開いたまま身動きが取れなかった。女の子は地面に落ちると横たわり動かなくなった。
「アルト!! アルトゥール!!」
音に驚いたクリスが研究室から飛び出し、アルトの所まで走って来た。立ち竦むアルトの姿を見たクリスは駆け寄り頭から身体、脚までを怪我がないか確かめた。
「痛い所は? 怪我は? どこも打っていないか? 大丈夫か?」
言いながら怪我が無いのを目で確認すると、クリスはホッとしたようにアルトを抱きしめる。
「今の音は何だったんだ? お前に何かあったのかと驚いた。大丈夫だな? 本当にどこにも怪我も何も無いな?」
「うん、僕は大丈夫」
何度も確認して来たクリスにアルトは答え、そして身体を離すと指差した。
「あっち、天使が降りて来た」
「天使?……」
アルトの指差す方に人が倒れているのが見えた。花壇の中心の花の中に少女が一人倒れている。上を向くと温室の一番高い場所の中心のガラス部分がなくなっている。
「え? あそこから落ちて来たのか?」
「うん、天使だよね?」
クリスはアルトを背後に庇い、恐る恐る花壇の側へ行った。離れた場所から見た感じは、どう見ても綺麗なワンピースを着た十代前半の女の子だ。
「アルトはここに居るんだ。ガラスの破片が危ないから、来ちゃ駄目だよ」
クリスはそう言って、花壇に入り少女に近付いた。
その少女は綺麗な柔らかなベージュ色のワンピースを着ていた。首元には鮮やかなブルーのリボンが巻かれている。顔の部分には傷はないが、腕と足に少し切り傷がある。多分、ガラスで切ったのだろう。
上から落ちて来たとすると、これは頭を打っているかもしれない。そうなると動かさない方が良いだろう。
クリスはそう判断し、アルトを抱き抱えると急いで家へ向かった。
家に入ると電話へ急いだ。
「ちょっと、クリス。さっきの音は何だい? 酷く大きな音がしたけど」
キッチンに居たカーラがクリスに聞いて来た。そうだった今日はまだカーラが居るのだ。
「あぁ、ちょっとね。カーラ、今日はもう帰って良いよ。病院へ行くんだろう?」
「そうだけど……大丈夫かい? 一体何の音だったんだい?」
「うん、研究がね……ちょっと失敗しちゃって……暫く研究室には行けないから、家の事は僕がするよ。カーラは足が痛いだろう? 暫く休んで良いよ」
クリスは嘘をついた。でないと、この人の良いカーラは罪の意識も無く何でも他人に話してしまう。今までは家の中では何もなかったからそれでも良かったが、女の子が上から落ちて来たなどと分かったら、どんな尾鰭がついて人に伝わるのかわからない。
「そりゃあ大変だね。実験失敗しちゃったのかい?」
クリスの実験の事などカーラには何も判らない。そう言っておけば追求される事はない。
「あぁ、今から片付けるよ。ほら、研究室には薬品とか色々あるだろう? だからアルトもここに避難させたんだ。カーラさんも帰って良いからね」
「 薬品って……大変じゃないか! そ、それなら私も帰ろうかね。手伝えなくて申し訳ないけど……」
薬品と聞いた途端にカーラは慌て出し、いそいそと帰り支度を始めた。
「お昼と夕飯はシチューと鶏のトマト煮込みにしようと思っていたんだけど、大丈夫かい? この後作れるかい?」
「野菜さえ切ってくれてたらなんとかなる」
クリスが実験を失敗し薬品が漏れて危険だと言う噂が立つだろうが、害のないものだったと言えば何とかなるだろう。
「サラダは冷蔵庫に入っているからね、じゃあ私は帰るよ」
クリスが色々と思案している内に、カーラは急いで帰って行った。
それを見計らい、クリスは急いで電話をかけた。
「救急ですか? あの、女の子が落ちて来て……頭を打っているかもしれないので、動かせないんです。急いで来てくれませんか?」
名前と住所を言い、クリスは電話を切った。振り向くとアルトが居ない。クリスはアルトの部屋へ行った。扉を叩き中を窺うが返答がない。
「開けるよアルト」
部屋の中を除いたが、アルトは居なかった。カーラと話している間に何処へ? 少し慌てて家の中を探し、何処にも居ないのを確認するとクリスは家を出て温室へ向かった。
温室の中程の少女の傍にアルトは座っていた。
「アルト! 居なくなったら驚くだろう? ここは危ないと言っただろう」
クリスが近付くと、アルトは振り向いた。
「だって起きた時に誰か居ないと寂しいでしょ? この天使、翼がないの。もう飛べないかもしれない……」
アルトは真剣にそう思っていた。彼はこの少女が落ちて来る所を見ていたのだ。クリスはアルトの横にしゃがんだ。
「大丈夫だよ。飛ぶのは出来ないけど……今、救急に連絡したから、病院で何処か骨が折れていないか、頭を打っていないか、そんな事を調べてから傷の手当てをして、天使は家に帰るんだ」
「天使の家は何処にあるの?」
「あー、ごめん。僕には判らない……だけど、警察の人達が調べてくれると思うんだ」
「ふうん。警察が天使の家を知っていたら良いね」
アルトの夢を壊すのも悪い気がしてクリスは少女を天使で通した。そして天井を見上げた。
(あんな所、何処から登ったんだろう……)
研究室の外にあるケヤキは少し離れているし、ケヤキの樹自体に上るのが難しい。メンテナンスのガラス職人を今日は呼んでいないからハシゴに届くような脚立はない。謎は深まるばかりだ。
少女の顔の前にそっと手を添えてみると微かな息遣いが感じられた。大丈夫だ生きている。手首に指を触れてみると脈も力強く感じる事が出来た。さっきは慌てていて息をしているのか確認をしなかった。
(大丈夫、この子は生きている……)
「ちゃんと生きてる?」
「あぁ、生きてるよ」
アルトの笑顔を見ながら、クリスは心からホッとした。幼いアルトに人の死を見せるのは避けたいものだ。
暫くすると、外の様子が忙しくなった気がした。人の声が聞こえる。
「アルト、救急隊の人達が来たかもしれない。様子を見て来るから、ここに居るかい?」
「うん、僕、天使の番をしてる」
クリスは頷いて温室の外へ出て行った。温室を出ると数人の救急隊員が丘を登って、すぐ側まで来ていた。クリスは彼らに向けて腕を大きく振った。
「こっちです! 急いで!」
二人は担架を持ち、二人は何かの機械を持ち到着すると博士に聞いた。
「倒れたのは誰ですか?」
「知らない少女です」
「知らない?……」
「見て頂いてる間に説明します。こっちへ……」
四人の隊員達は博士に付き温室の中へ入った。中に入った時の彼らの顔はクリスには見えていなかったが、植物の量に息を呑んだのがわかった。そのまま四人は奥へと導かれ、倒れる少女を見つけた。
「アルト、こっちへおいで」
アルトが少女から離れると、隊員達が機敏に動き始めた。
「博士……天使、目を覚ます?」
「うん、きっとね」
アルトの不安を拭おうとクリスが言った時、隊員が一人こちらへ来た。
「それで、あの少女は何故倒れたのですか?」
「正直、僕にも分からないんです。突如大きな何かが打つかる音がして、駆けつけた時には彼女が倒れていたので……でも天井の丸いガラスが破れていて、彼女の周りにガラスが飛び散っているでしょう? 彼女はガラスを破って落ちて来たんだと思うんです」
クリスの説明を遮るようにアルトが声を出した。
「僕、天使が降りて来るのを見たよ」
隊員は座りアルトと目線を合わせると、優しくニッコリと笑った。
「その話、聞かせてくれるかな?」
「うん、良いよ」
アルトは自分が見たままを話した。音がして振り向いたらキラキラと光ながら天使が降りてきたと……。それはクリスの説明と変わらぬ物だったが、間違いなく少女はガラスの温室の天井に居た事になる。隊員は天井を見上げた。
「外を見せて頂いても良いですか?」
「あぁ、勿論、構いませんよ」
クリスはアルトを抱くとその隊員と共に外へ出た。ガラスの温室の外をぐるりと廻って行く。そのままサイドに廻り博士は立ち止まった。
「この上、見えますか?」
指差す方にガラスの温室の外側に沿うようにある鉄の梯子が見えた。だがそれは大人も手が届かない場所から上へと続いていて簡単には上がれないようになっていた。
「メンテナンスをお願いする時は、職人が脚立をあそこまで延ばして上がって行くんです。毎回脚立も持って来て貰っているから、家にはあそこに届く脚立はありません」
隊員は見上げたまま考え込んだ。
「上の方には温室の外側をあちらこちらに行けるように、鉄の淵に沿って同じように鉄製の小さな道が作られています。ここからはわかり難いですが……上の方に小さな柵があるの、わかりますか?」
「わかります……しかし、あの少女はこの状況で、どうやって上がったんでしょうか?」
「そこなんです。僕にはさっぱり……」
クリスと隊員は首を傾げた。それを見てアルトは当然だと言うように声を出した。
「天使は普通に空を飛ぶよ」
二人はアルトを見た。
「うーん……そうだね、天使なら飛ぶだろうね」
「翼が無くなっちゃったから、今は飛べないかもしれないけど……翼が生えたらまた飛べるよ」
二人の大人は苦笑いしか出来ない。でもアルトはそう信じている。
「病院に連れて行って、羽をつけてあげて」
「そうだなぁ、お医者さんに相談してみよう」
優しい隊員はアルトにそう言うとクリスを見た。
「何れにせよ、警察も含めて話さなければなりません。病院までついて来てくれますか?」
「わかりました」
クリスはアルトを連れたまま家に鍵をかけ、隊員は温室の中に戻り、少女を担架に乗せるとその他の隊員達とユックリと丘を降りて行った。クリスはそれを追い掛け後から降りて行く。丘を下った所に救急車が止まっていた。彼らはそれに乗り込み、クリスとアルトも乗り込むと救急車はサイレンを鳴らし病院へ向かった。
クリストファー……消えた筈の彼が出て来ました。
ブーランジェはパン職人。パティシエは菓子職人です。




