フィール
王女は眠れぬままベッドに横たわっていた。
真夜中の静けさは王女の思考をあらぬ方向へ迷わせていく。自分の行動は間違っていたのではないか? 王女はその思いに囚われていた。
ジークリフトと別れる時の、離れてはいけないと思ったあの感情が蘇り、ソラの帰りたいという切ない思念が蘇り、更に眠りを遠ざけて行く。
王女は溜息をついた。もう何度目の溜息なのかわからない。寝返りを打つが、身体中が強張りなかなか眠れるものではない。
王女は眠るのを諦めて起き上がった。窓に目をやると静かな夜が辺りに漂っている。
砦は今どうなっているのだろう。ルガリアードの精鋭部隊が砦に向かったとオルガは言っていた。彼等はジークリフトを助ける事が出来たのだろうか? エリスロットは? イリスは? リリーとマーレットは? 自分はこうして静かな夜の中に居る。でも彼等は今どうしているのだろう? そしてソラは?
そう思うと、何もかもが王女の中から消えて行き、彼等の事だけでいっぱいになった。何度こうして考えても、どうすれば良かったのかわからない。
王女の口からまた溜息が漏れた。自分はここに居て良いのだろうか?
夜明けまではまだ時間がある。もう一度横になるか……そう思った時、外から何かの音が聞こえているのに気付いた。気付いてしまうと耳につくようになる。今まで聞いた事のないうねりのようなその音は、静かな夜の中を拡がるように聴こえている。
王女はベッドを起き出し、室内用の靴を履くと窓辺へ行った。窓辺によると尚その音が強く聴こえて来た。真夜中の行動を咎めるものは誰も居ない。
王女は窓を開けた。途端にそのうねりのような音は、遠くからブォ〜という音になって耳に入って来た。
(この音は一体、何かしら……)
聞いていると何故だか心を揺さぶられるが、楽器の音とは違う。一定の間合いでその音は聴こえている。
冷たい夜風が王女の頬に触れ、王女は少し寒さを感じた。だが音が気になり窓を閉めようとは思わなかった。この音の原因を調べる必要があるのではないか? 砦を思うと眠れる訳がないのだ。自分に出来る事をやろうと王女は心を決めた。
その時、部屋の扉が叩かれた。王女は振り向いたが返事が出来ない。緊張した表情のまま、王女は扉を見つめ動かなかった。こんな夜中の急な訪問は碌な事ではない。何かの知らせを聞くのが怖い。
「失礼いたします!」
だが、王女の返事を待たず、慌てたようにシリルが入って来た。シリルは窓辺に王女が立っているのに驚いたが、顔面を蒼白させたシリルは、そのまま王女の前に立った。
「……姫様、あの……お話が……」
「何かあったのですね?」
「……はい」
そう言ったままシリルはなかなか口を開かない。王女はゴクリと喉を鳴らせた。ジークリフトかソラの事だ。王女がそう確信した途端、心臓の鼓動が速くなった。
「……ジークリフト様の事ですか? それともソラの事ですか?」
この待つ時間が居た堪れなくなり、王女は自ら尋ねた。シリルは強張った顔で王女を見た。
「……ソラが亡くなりました」
「……」
王女は目を見張った。
「亡くなった? ソラが?……」
「そうです。宮廷医師のソルムが戻ってまいりました。手を尽くしたのですが……駄目だったと……」
「嘘です! ソルムは助けると言ったのです! ソラは、ソラ……」
王女は自分の右手を見た。ソラの腹の矢に触れた感触が蘇る。腹に深く刺さりびくともしなかったあの感触。それを思い出した王女は体の力が抜けて行った。
「……そんな……」
王女は崩れるように大理石の床に座り込んだ。王女を砦から連れ出すために手を貸してくれたソラが死んだ? 信じられるものではなかった。
「ソルムは? 彼はソラを助けると約束したのです! ソルムは何処ですか?! 何処にいますか?!」
「今、ディオニシス王に報告を済ませた所です。彼も自分の力が及ばなかったと……泣いていました……」
王女は床に手を付いた。大理石の無情な床が、王女を責めるように何よりも冷たくそこにあった。
「私のせいです……私の……あぁ、ソラが……ごめんなさい! 私を許して!」
ソラを駆り出すのは間違っていたのだ。生きる神とも言われていたソラが死んだ。呼吸が苦しくなる程に王女は後悔の念に苛まれた。
何にも代え難い神の化身であるソラとフィール、そのソラを人間が攻撃し、殺してしまった。その罪は重い。純粋な心を持つ二匹の竜。それを無くす事のこの重大さを、誰が正確に説明出来るのだろう。
余りの事に王女は脱力し、座り込んだまま立ち上がれなかった。王女の瞳からは涙の欠けらも出てこず、考えても答えの出ない不毛な時間が過ぎて行った。
どうすれば良いのだ。これはどうすれば良い? 王女の頭の中をソラの姿と後悔と無常感が、繰り返し繰り返し起こってきた。そしてその先にフィールを想った。
暫くすると、王女は知らず知らず呼吸を整え始めた。大きく息を吸い、ユックリと吐く。それを何度も何度も繰り返し、王女は立ち上がった。そしてシリルに向くと決意の意を込め口を開いた。
「着替えます」
「はい……」
王女はシリルに手伝ってもらい服を着替えると、急いで部屋を出た。足早に歩きながら先程のうねるような音の正体を想った。あれはフィールだ。フィールの叫びだ。ソラの命が消えるのを感じ、フィールが叫び声を上げたのだ。間違いないと王女は思った。
「姫様、どちらへ行かれるのですか?」
シリルが不安な表情で聞いて来た。王女はそれに応えず庭へ出た。先程まで聴こえていた音は今はもう聴こえていない。フィールは今、どうして居るのか……。
王女はペンダントの鎖を握ろうと首元に手をやった。だがそこに鎖はない。王女は自分のお守りのペンダントを、ジークリフトを守って欲しいと彼の首に下げた事を思い出した。
(どうか神よ……これ以上……私の大切なものを奪わないで……)
心の中でジークリフトや側近達、それからフィールを思うが祈りの言葉が続かない。ソラと別れる前にソラの事を神に祈った。でも聞き届けられなかった。
眉間に皺がより、きつく閉じられた口元を引き締める。王女は首元にやっていた手を下ろし、その手を握り締めた。
「姫様! お待ちください! どちらへ行かれるのですか?」
シリルが王女の肩を掴んだ。王女はそのシリルの瞳を見た。
「フィールの所へ行きます」
「フィールの?……あ……おまちください。誰か騎士を付けねば……山道は遠いのですよ。それに朝になる前に戻って来なければなりません。姫様……シエラルへ行かねばならないのです。姫様は……」
王女は手を上げシリルを制した。
「私はフィールの所へ行かねばならないのです。ソラは……私が殺したも同じ事……」
「姫様……」
「フィールに会わねば、私は何処へもいけません」
シリルはそれ以上何も言えなくなった。王女の決意がそこにあった。自分の責任を正面から受け、逃げる事なく真摯にそれに向き合っている。もうそこには、シリルの知るあの甘ったれた王女の姿は何処にもなかった。たった数日離れていただけの事なのに、シリルは自分の姫様が強くなったと感じ、少し寂しく思った。
「……強くお成りになりましたね」
シリルは王女の背を見つめ小さく小さく呟いた。その呟きは王女には届いていない。
王女はそのまま厩舎に向かうために足を進めた。
「……姫様、お待ち下さい。このままではフィールの所へ行くまでに凍えてしまいましょう。風を避けるための上着をお持ちします。ロルカにも声を掛けますから、今一度、部屋へお戻りください」
シリルの声がした。振り向くとシリルの瞳が覚悟を決めたように光った。
「……わかりました。急いでください」
踵を返し戻り始めると、廊下に入った所でロルカが走って来るのが見えた。
「姫様! ソラが……」
王女はロルカの言葉を手で制し、シリルを見た。
「私はロルカとここで待ちます。シリル、上着をお願いできますか?」
「はい、承知いたしました」
シリルは速い歩調で王女の部屋へ戻って行った。
「あの……姫様、ソラの事を聞いていますか? ソラが死んだという事を……」
ロルカは動揺を隠せず、声が少し震えていた。その動揺は王女より一、二歳年上の彼の表情にも現れていて、蒼白した不安げな顔が酷く幼く見えた。王女はそのロルカの瞳を見た後、黙って頭を下げた。
「な……何をなさるのです?! 姫様?!」
「ソラが亡くなったのは、私のせいです。私のせいで、この国は大切な宝をなくしてしまいました。貴方に謝ると同時にお願いがあるのです。私と一緒にフィールの所へ行ってくださいませんか?」
ロルカは狼狽、声を荒げて王女に言った。
「フィールの所へ行く事を私にお願いする必要はありません! 行くと一言言えば良いのです! それに、ソラの事は……姫様のせいではない。ルーディアのゼファールのせいでしかないではないですか! 姫様が私に頭を下げる理由など何もない! 寧ろ、私達側近の方がもっと何か出来たのではないかと……」
だが王女は暫く頭を上げなかった。ロルカの言いたい事はわかっている。それでも王女は謝りたかったのだ。ソラはあの時、フィールの元へ帰りたいと思っていた。せめてその想いをフィールに伝えたい。
王女は顔を上げた。
「フィールに会いに行きたいのです。付いて来てくれますか?」
「勿論です」
ロルカの顔が不安を隠し引き締まった。
「ディオニシス王はソラの場所へ行く準備をしておりました。姫様はフィールの所へ向かうのですね」
「そうです。ソラにも会いたいので、その後に向かいたいと思います」
「わかりました……」
王女の決意に呼応するようにロルカは答えた。
そうしている内にシリルが上着を持ってやって来た。寒くないように上着を着、その上からストールを巻き、ピンで留める。シリルはロルカにも厚手のストールを持って来ていた。
「これを巻けば、貴方も寒くはないでしょう」
「私にまで……恐れ入ります」
それから二人は厩舎へ急ぎ、馬に乗るとロルカが松明を持ちフィールの居る山を目指した。
ソラの眠る場所とフィールの居る場所、その二つの場所はとても離れていた。山へ向かう道とソラの眠る草原へ行く道の分岐点は城を出て暫くした場所にある。山への道は更に大小いくつもの分岐点がある。その中の一つにはハボニア山の砦へと続くものもある。
王女は山への道を選びながら、ソラの眠る方向を見た。
人の争いに巻き込まれソラが殺された事を、フィールは許さないだろう。それでもこの重みを胸に行かねばならない。王女の決意は揺らぐ事はなかった。
ロルカの持つ松明を頼りに王女は山道を進んだ。
森の道はいつもフィールが通る道である。そのためフィールの体重で踏み固められ、程良く平らかな、わかりやすい道になっていた。石畳に比べるとクッション性があり、砂利道に比べると移動しやすい。馬にとっても走りやすいのか、王女の乗る馬は変わらぬリズムで安定した走りを見せていた。
フィールの踏み固めた道は、木々が生い茂る完全な森の中にあるのだが、そこだけが光って見えている。王女はこの道をこんな真夜中に通るのは初めてだった。何度も踏み固められているせいで、表面が光沢を帯びたのだろう。
いくつもの分岐点を越え、山道は徐々に上がって行き、馬の扱いが難しくなって来た頃、山道が急に広く開けた。その開けた場所を抜けて行くと、更に山に上がる場所と大岩をグルリと廻る二つの道があった。
ロルカが王女を振り向き大岩を指差した。
「あの大岩の向こうに竜の住む洞窟があります。ここで馬を降りましょう」
「……わかりました」
ロルカは王女の返事を聞き馬を降り、王女も続いて馬を降りた。近くの木に馬を繋ぎ、二人はそのまま大岩へと向かった。
大岩を回り込むとまた少し道が先にあったが、洞窟の入り口も見えていた。
「あれがそうです。私が先に入ります。姫様は私の後からついて来て下さい」
「よく知っているのですね」
「えぇ、幼い頃はここでよくフィールやソラと遊びましたし、最近でも時間を見つけては来ていたので……」
「そうですか……」
リングレントに住む者達は何かとここへ来ていると言う。ロルカ自身は時には二匹の竜のために食べ物を持ち、時には自分の勉強道具を持ち、更に騎士の訓練の前後など、幼い頃も大人になった今でも彼等が居るかいないかは構わず訪れていたのだと言う。
王女はそれを知らなかった。自分も両親や兄達も城を出るのは難しいけれど、この国の者達はもっとずっと二匹の竜に近かったのだ。それを想うとやはり苦しい気持ちになる。その近いものをなくしてしまった彼らの想いはどれほどのものなのか。
ロルカが袖で汗を拭うように顔を拭いた。多分、涙が出ているのだろう。それを王女に見せないようにそっと拭いたのだ。王女の胸がズキリと痛んだ。もうずっと何かに耐えるように心臓の辺りが軋んでいる。
洞窟の中は天井が広く、緩やかに曲がりながら奥の方へと続いていた。奥に行くにつれ、空気がシットリと纏わり付くようになり、そこに暖かさが加わって来た。洞窟の外とは明らかに違う空気がそこにはあり、微かな枯れ草と青臭い匂いが混じり始めた。
「姫様、この奥です」
暫く歩いた後、ロルカが王女を振り向いた。先には何かの塊のような物が影となって見えていた。それを見たロルカの顔には躊躇いがあった。
「……あの……私は、ここで待機しても良いでしょうか? 今、とてもじゃないがフィールの顔を見る事が出来ない……申し訳ありません……」
ロルカの気持ちはよく理解出来た。王女は渡された松明を持ちその奥へ進んだ。
フィールは一番奥のワラの敷き詰められた場所で蹲っていた。だが顔は真正面を向き、ただジッと伏せている。近付き顔を見た王女は衝撃を受けた。
そこにいるのはフィールであってフィールではなかった。フィールは手足は小さく折り畳み、伏せた手の上に頭を乗せただ前を見ていた。開けたままの目はただの黒い穴と化し、何も映ってはいない。王女が近づくのもわかっていない。火を翳しても、その瞳は何の反応も無かった。
「フィール?! 私です! わかりますか?!」
叫ぶように話しかけるが、フィールは目を開けたまま身動きをしなかった。もう耳も聞こえていないようだった。王女はそっとその手に触れてみた。温かさはあるがただそれだけで、触れた感触はまるで岩と同じだった。フィールの持つあの温かい感情はそこには宿ってはいない。
「うっ……」
王女の喉の奥で声が漏れた。何を言えば良いのかわからない。
あのフィールの叫び声が頭の中で蘇った。フィールはソラが死んだ事を確実に感じ取っていたのだ。王女の頬を流れる涙がフィールの手に落ちた。その手に伏せて王女は泣いた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
王女はそれだけを、繰り返し繰り返し呟いた。もうそれ以上の言葉はフィールには何も伝わらないと思えた。
フィールの心は壊れてしまった。愛するソラを亡くし、心の行き場を失ってしまった。たった二人だけの家族だった。その片割れを亡くしたフィールは、もう立ち上がる事は出来ないのだ。王女はそれを強く感じた。漂う虚無感がフィールの全てを呑み込んでいた。フィールはもう動かないだろう。それだけは理解出来たような気がした。
「姫様……フィールは……」
やはり気になったのだろう、ロルカが近くに来ていた。
「フィールは動きません……フィールはもう……」
死んだも同じだった。叫び終えたフィールは何もかもを放棄したのだ。食べる事も、考える事も、生きる事も何もかも。
「……そんな……フィール! フィール! こっちを見て!」
ロルカが必死にフィールの手を叩き声を掛けた。でもフィールは前を見たまま動かない。ただ一人の愛する仲間を失ったフィールは全てを放棄した。
あぁそうなのだ。フィールはたった一人の本当の心の通う相手を失ったのだ。種は違っても同じ仲間であったソラ。その存在は何よりも大きい物だっただろう。人とは違う何かがあったのだろう。ソラがいなくなった今、もう取り返しは付かない。
「ソルム医師に見てもらいましょう! 彼ならフィールのために何か出来るかもしれません!」
ロルカはそう言った。それを聞いた王女はほんの少しの希望を見出した。
「……そうですね、あぁ、そうです……行きましょう。この事を急いで知らせましょう」
王女はそう言うと洞窟の外へ向かって歩き始めた。ロルカが慌てて付いて来た。走るように外に出て繋いだ木から手綱を解き、馬に乗ると二人は今来た道を戻り始めた。王女がフィールに伝えたかった事は何も伝わらなかった。それでも、フィールの命だけは繋ぎ止めたい。
森の中の道は来た時と同様、松明の火で照らされた部分が輝いて見えた。フィールの踏み固めた道は走り易い。馬は軽快に走っている。
暫く行くと急にロルカが王女に合図を送り、馬の歩みを止めた。彼は松明を掲げじっと前方を見た。一瞬で空気が緊張する中、ロルカが口を開いた。
「姫様、私の後ろへ……誰かが来ます……」
ロルカは腰の剣に手をやると、ジッと前方の分岐点になっている向こう側を見ていた。暫くするとその方向から人の走る音が聞こえて来た。そして暗闇にぼんやりと人の姿が見えて来る。それは甲冑の胴着だけを付けた騎士だった。
彼は松明を持つロルカを目指し、脇目も振らずに向かって来た。
「あ……姫様! あれはフィリップです!」
ロルカは腰の手を離し松明を振った。フィリップは疲労の色も濃く、息も絶え絶えに走って来た。そして王女を確認すると一瞬顔を強張らせ見上げた。そのフィリップの顔が何かを躊躇っているように見えた。咄嗟に王女は構えた。
「何か……あったのですね」
「姫様……あの……ジークリフト王子が……傷を負ったまま谷底へ転落し……行方がわからなくなりました……あの高さからでは……恐らくもう駄目なのではないかと……」
呼吸を荒くしたままフィリップはそう言った。
その途端、王女の周りのもの全てが音を消した。自分がどこに居るのか分からなくなり、王女の耳にはそれ以上の情報が何も入らなくなった。ただでさえ強張っていた顔面から、見る見るうちに血の気が引いていく。
「フィリップ! それは事実か?!」
ロルカの声が叫びのように聞こえていた。でも、王女は何を言っているのか理解が出来ない。
「目の前で起こった事です。エリスロット様が早く王宮とルガリアードに知らせよと……途中で馬が駄目になり、ここまで走って来ました」
「姫様、城へ急ぎましょう!」
二人の声が聞こえて来る。だが王女は呆然としたまま動かなかった。
「姫様! しっかりして下さい!」
ロルカが何かを言っている。彼は何を言っているのだろう。
「ソラとフィールが……」
ぼんやりとしたまま王女は口にした。ロルカはそれを聞くと馬を降り、自分の乗っていた馬をフィリップに渡した。
「これに乗り城へ急げ! 私は姫様と後から行く」
「わかった! 恩に着る!」
王女はそれを聞きながら、二人のやり取りは何なのだろうと思う。自分は何のためにフィールの所へ行ったのだったか……。
「姫様、失礼いたします!」
手綱を取られ、ぼんやりとしている内に、ロルカが王女の前に跨がった。彼は上手く手綱を捌き、王女の腕を自分の腰に掴まらせ城へ向けて馬を走らせた。
「姫様! しっかり掴まっていて下さい!」
ロルカの声が聴こえている。
いつだったか、ジークリフトとこうして二人で馬に乗った事があった。王女はふとそう思った。あれはいつだったか……。ジークリフトの笑顔が浮かんだ。口づけをして抱きしめられたのは、いつだったか……。二人で肉饅頭を食べたのはいつだったか……。たくさんの事を語り合い、心からこの人が好きだと思ったのはいつだったか……。走馬灯のように王女の中で、繰り返しジークリフトの姿が浮かんだ。
突然、王女の脳裏に谷底の風景が浮かび上がった。その瞬間、どうしようもない喪失感と虚無感が王女を襲った。もう二度とジークリフトとは会う事が出来ない……。手足が自分のものでは無いように力をなくし、思考が停止し、目の前が真っ白になった。自分は一体何をして来たのだ……。
「あぁぁぁーーーー!!」
王女は叫んだ。何もかもを放棄し、ただただ叫んだ。
「姫様! 姫様! 姫様!!!」
ロルカの王女を呼ぶ声が虚しく響き、それもやがて遠くなった。
そして……
* * * * *
「そして王女は消えてしまったの……」
ミランダの声を聞きながら、オルガは泣きじゃくった。王女の人生が酷く理不尽な力でねじ曲げられてるように感じた。
「どうして? 誰も悪い事はしていないのに……酷すぎる……」
オルガはミランダに渡されたタオルに顔を埋めた。余りにも悲しかった。ソラは王女を助けようとして矢を射られ、ジークリフト王子もソル王女を救い出した後、戦いになり谷底へ落ちた。フィールは一番の愛する仲間を失い。王女は愛しい大切な人を亡くした。
「ゼファールのせいだ……全ての元凶はゼファールだ!」
オルガの言葉は虚しくタオルの中でくぐもった。
『竜の伝説』の事実は、こんなにも悲しいものだったのだ。竜の鎮魂のために行われるようになった、この街の『青の祭り』の真実を知って、オルガは悲しくて仕方がなかった。だがミランダの最後の言葉を思い出し、オルガは顔を上げた。
「……ミランダ叔母さん。さっき、王女は消えたって……」
黙ってオルガを見ていたミランダの目にも涙が光っていた。
「そう、王女は消えたのよ」
そしてユックリと息を吸った。
「この街に起こる不思議な現象の事を知っているでしょう?」
「……うん、たまにこの街の人が居なくなって、いつの間にかこの街に住む人が居るって」
「そう、クリストファーもそのうちの一人ね……」
オルガは思い出したように頷いた。そうだった。なぜ消えたのか分からないけれど、度々その現象は起こっている。
「恐らく、この街で初めて消えた人が王女よ……」
ミランダは少し悲しげにそう言った。オルガは少し驚いた。
「そんな昔からある事なの?」
「そう……関係しているのは、多分、ソラとフィール、あの二匹の竜達ね」
それは『竜の伝説』を聞いた今なら理解出来る気がした。だがオルガはミランダの表情を見て不安になった。
「叔母さん、どうしたの? 何だか変だよ」
ミランダはオルガの瞳をジッと見つめ眉間に皺を寄せていた。酷く悲しそうにも見えるその表情は、何かが起こるのだと言うあの気持ちを呼び起こした。
「ミランダ叔母さん?」
思わず声にしたオルガの言葉を遮るように、ミランダは口を開いた。
「オルガ……あのね、ソル王女のフルネームはね……『ミランダ・ソル・デリュイ・エドゥアール』と言うの……」
それを聞いてオルガは一瞬動きを止め目を瞬いた。
「……ミランダ?……え? あ……同じ?……」
ミランダが涙を浮かべたままの顔でぎこちなく微笑んだ。
「そう、私なのよ……」
『竜の伝説』が終わりました。
時間はかかるかもしれませんが、どうか皆様、最後までお付き合い下さいませ。
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