青い薔薇
古い温室に到着すると、リンジー先生は入り口で声をかけた。
「町長さんはいらっしゃいますか?」
すると中から「いらっしゃい」という声と共にこの街の町長が出てきた。少し小太りの町長はにこやかだ。
「こんにちは、町長さん」
街の町長は楽しい人でこの町の名物だった。
「次の館長が決まるまで私はここの館長を兼任しているだけだが、ここでは館長さんと呼んでくれないかね」
町長は自慢げに背広の襟元を持って『こほん』と咳払いをした。それからみんながクスクスと笑うのを一様に眺め、満足したのか「さあみんな入りなさい」と声をかけた。
扉を開け中に入った瞬間、思わずオルガは息を飲んだ。ふんわりと花の深い香りがして、この建物の中の空気に色が着いているように感じたのだ。クラスメイト達も驚いたように周りを見ている。
古いガラスの温室の中は絵具のパレットのように色とりどりの花が咲いていた。古いガラスを通って降り注ぐ陽の光が、柔らかく花の様子をキラキラと輝かせて見せている。
「凄いだろう。ここは本当に特別な場所なんだよ」
生徒たちの様子を見て町長は満足そうに言うと奥を指さした。
「さあ、みんなに見て欲しいものは、この奥にある」
町長の後について行くと、曲がりくねった園路の先の中程に大きなガラスのボックスがあった。
その中に『青い薔薇』は十数個の花をつけて立っていた。薔薇は空気から遮断するようにガラスに覆われていて、空や海と同じような青色の花をつけている。
その色が余りにも深い青色であるからか、オルガは薔薇に吸いこまれるような感覚になった。
「これ、本物の花?」
声を出したのはテッドだった。視線は熱心に薔薇の花に注がれている。
「作り物みたいだ。俺、作り物の薔薇でこんな風に青いのを見た事あるよ」
テッドの言葉にみんなが騒ついた。
「こらこら、研究機関が撤退したからと言ってもこの街にだって誇りはある。いくらなんでも、偽物を展示したりはせんよ」
町長が戯けた様に慌てて言い、みんなはそれを聞いて笑う。
その時、オルガは視線を感じてガラスボックスの向こう側を見た。
そこには一人の青年が立っていた。
その人は呆然とした眼差しで真っ直ぐにオルガを見ている。彼の視線にどうして良いかわからず、オルガはたじろいだ。
彼はオルガを見つめたまま動かなかった。でも驚いたような表情は固まったままだ。
みんながその人の存在に気が付き始め騒つくと、その人は少し慌ててみんなの所へやって来た。
「間違いなく、本物の生きた薔薇だよ」
その声にみんなが一斉にその人を見る。
「僕はこの薔薇の研究をしている大学生で、今日は館長の依頼を受けて君達に説明をするためにここに来たんだ。よろしく」
彼の声は落ち着いた心に染みるようだった。
「私は植物の専門家ではないからね。彼にお願いしたんだよ。後はよろしく頼むよ」
町長はそのまますぐに退散してしまった。
オルガはチラッと大学生を盗み見た。
柔らかそうな明るい茶色の髪。鼻筋が通っている。とても素敵な人と言える整った顔。オルガをまるで知っているかのように見つめていた目元は爽やかで優しげだが、強い意志を湛えた瞳が印象的だ。
でも、オルガの頭の中にこの人と会った記憶は無かった。会っていれば何らかの形で記憶に残る、そんな人だ。
リンジー先生は改めて自己紹介をしながらその人に話しかけている。
もしオルガの知っている人の中でイメージに近い人物がいるとすれば……脳裏を過ぎったのはクリストファーだった。
実際には会った事が無く、写真でしか見た事がない両親の幼馴染のクリス。突然居なくなってしまったという彼が居なくなるその頃の雰囲気って……きっとこんな感じではないだろうか。そう思うと写真のクリスに顔立ちも似ているようにも思う。
ハズが突然オルガを突っついた。視線を向けると心配そうに顔を覗き込んでいた。
「大丈夫? 何だか、ぼんやりしてるけど」
「あぁ……ごめん。ちょっと考え事をしてた」
慌てて言いながら笑ってみせると、ハズは安心したように大学生の彼の方を見た。
(いけない……ちゃんと聞かなきゃ)
「さて、そろそろ薔薇についての話をしたいんだけど……僕に話す時間をくれないかな」
彼は慣れた感じでパンパンと手を叩いて、みんなの注意を一気に彼自身に集めた。
「みんなはこの薔薇について、どんな事を知っているのかな?」
彼はみんなを見渡す。
「この薔薇以外に世界中探しても『青い薔薇』は無い事とか……」テッドが言った。
「ここでしか育たないって聞いています」誰かが言った。
「他の場所では枯れてしまうって聞いた事もある」リーザも付け足して言う。
彼はそれぞれの言う事に一つ一つ頷きながらオルガを見た。
「君はどう?」
オルガは思わず俯いた。
「私が知っているのは……ここまで青い薔薇は他にはないという事だけです」
オルガの言葉に彼は少し驚いたように目を見開くと、改めてオルガを見詰めた。それから少し間を置き、仕切り直すようにみんなをゆっくりと見廻す。
「そうだね。みんなが言ってくれた事はそれぞれ正しい」
そう言って彼はガラスのボックスに手を置いて薔薇を覗きこんだ。
「見てごらん。この透明感のある色を。空や海の青と一緒なんだ。この薔薇の隣に……例えば……」
彼はみんなを見廻してハズに目を止めると「君のそのスケッチブック貸してくれる?」と持っているスケッチブックを借りた。
「彼女の持っているこのスケッチブック、なかなかの深い青色だろ? でも、こうして『青い薔薇』に重ねるように並べてみると……どうかな?」
みんなは覗き込むように彼の周りに集まる。
「薔薇の方がもっと青い」
リーザが言う。
「そう、薔薇の方がもっと透明感があるだろ?」
「どうやってこんな色になったんですか?」
質問したテッドの瞳が好奇心で輝いている。それだけでもこの薔薇に夢中になっている現状がよくわかる。
「いい所を突くね」
彼はテッドの頭をツンっと突っつくと、意外にも『してやったり』と言うような表情をした。
「これだけでも、作り物ではない事。解るだろ?」
テッドは素直に頷いた。彼は満足そうに笑ってスケッチブックをハズに返した後、彼に視線が集まるのを待って口を開いた。
「この『青い薔薇』の一番の問題はそこなんだ。どうしてこの色になったのか……結論から言うと、僕等の視界の中では青に見えている。でも、この薔薇の遺伝子情報では白なんだ」
聞いた瞬間生徒たちに動揺が走った。ザワザワと声にならない声が漏れる。
「この薔薇から青い色素を取り出そうと試みたんだが、ことごとく失敗に終わっている」
一同は彼から目を離せなくなった。
「どういうことか解るかな?」
誰も口を開こうとはせずみんなはお互いの顔を見る。
「つまり、見えているこの青色は存在しないんだ」
途端にその場で聞いていた者たちは黙り込んでしまった。リンジー先生すら眉間に皺を寄せて『青い薔薇』を見ている。見えている物が存在しないとはどういう事なんだろう。
目の前の『青い薔薇』は存在しない。そんな事を言われて、オルガは急に『青い薔薇』が怖いもののように感じた。それと同時に誰も喋らないまま時間だけが過ぎて行くような感覚が起こる。
「はは! みんな、怖いと思ってる?」
その時、彼が突然声を挙げて笑い出した。緊張した空気が一変する。誰もがホッとして彼を見た。
「何も怖くはないよ、不思議な現象だけどね。さっきこの薔薇はここでしか育たないって誰かが言ってくれたけど、少し語弊がある。この薔薇を他の場所に移植すると、『青い薔薇』ではなくなってしまうんだ。移植した後に咲いた花は全部白一色になる。つまり、この薔薇が白い薔薇だという事だ」
しばらく誰も口を開かない中、訪れた沈黙を破るようにリーザが言った。
「じゃあ、咲いたまま移植すればいいんじゃないですか?」
その言葉に彼は真面目な表情で頷く。
「そう、それもやってみたんだけどね。青い薔薇が咲いているまま他の場所に移植すると、まず香りが無くなり、花の咲く時間が極端に短くなって、花は散ってしまう。そして、白いバラに戻る。白になってしまった時点で、再度ここに移植すると、次に咲く花は……この通り青くなる」
「挿し木をしても同じ事だった。これは結局、青い薔薇を見たいならここから移動する事は出来ないって事だ」
みんな考え込んでしまった。
「これらの事を総合して考えて目の前の『青い薔薇』を見た時、解った事もあるんだよ。この薔薇自身の力で青くなった訳ではないのなら、何らかの外的要因があるはずだろう。この場所で青くなったその時の薔薇は青いまま散るんだ。何かの……薔薇を青くする効果は、ほんの少し持続出来るって事だ」
彼はチラリと薔薇を見た。
「ここでなければいけない何か、ここの土や光や水それから空気、それら外的要因に薔薇を青くする何かがある。まぁ、一通り研究してみたけど他の場所と何も変わる事はなくて、結局企業は撤退してしまった……でもね、こうして起こっている現象に対しての原因というものは絶対にあるんだ」
彼はそう言い切った。そして、ふっとオルガと目が合う。彼の眼の色は深い青をしている。それだけを見て取った時、彼の眼が優しく笑い、オルガは慌てて眼を逸らした。
一瞬の間があって、彼は薔薇を見ながらコツコツとガラスボックスをノックした。
「もう一つ、質問をしていいかな? このガラスケースなんだけど、なぜこの薔薇の周りにだけあると思う?」
「薔薇に触らないように」誰かが言った。
「そう、それもある。でも、一番の目的は」
彼が大きく深呼吸をした。
「みんな、深呼吸してご覧」
言われるがままみんなは大きく息を吸った。仄かに薔薇の香りがする。
「薔薇の香りがするだろう? でも、周りを見て欲しいんだけど、この薔薇の他に、この温室の中に薔薇は無いんだ」
今更のようにみんな周りを見渡す。確かにバラの花は無かった。
「この香りは、この薔薇から出ているって事?! ガラスのケースの中に入っているのに?!」
事の重大さに気付いたテッドが大きな声を出した。
「そうだよ。でも勿論、ガラスを突き抜けて香ってくるわけじゃない」
そして、彼は地面を指差した。
「地面を通して香ってくるんだ。匂いの成分がそれだけ強いって事だ」
彼はしゃがみ込み土を手にした。釣られたようにみんな座る。
「土の中には色んな微生物が生きている。匂いの成分の主なものは油なんだけどね。花の香りぐらいの成分は、彼らに掛かればそれなりに分解されてしまうはずなんだ。例え、土に香りがついたとしても、それがそのまま空気中に拡散していく事はまず無い。土がフィルターの代わりになるからね」
手にした土を彼は嗅いだ。そして少し笑う。
「でも、この薔薇の香りはとんでもなく強い。研究中に倒れてしまった人もいるぐらいなんだ。だから、ガラスのケースの中に隔離している」
彼は一息ついた。そして立ち上がると真っ直ぐした視線で一番大きく咲いている青い薔薇の花を見た。
「まるで……自分はここに居ると、強烈に主張しているみたいだ……」
最後の言葉は呟きの様でよく聞き取れなかった。彼はしばらくぼんやりと薔薇を見ていたが、気がついたように顔を上げると笑った。
「と、言うわけで、みんなが倒れないようにガラスのケースに入れてあるって訳だ」
彼はそう言った後、とても真面目な顔になった。
「この薔薇は本当の『青い薔薇』とは言えないかもしれない。薔薇の遺伝子情報の中に青い色素を作りだす遺伝子が、まだ見つかっていないからね。でも、現実にここに生きているのも見ての通り、本当の事だ」
青い薔薇はオルガの目の前にある。本当は白い薔薇なのに、青に見えている薔薇の花。それがなぜだか切なげに見える。
「この薔薇は、他の薔薇に比べて人の感じ方が何もかも違う。この薔薇の秘密は、僕ら、今の研究者では解けないかもしれない。でも、君たちの中の誰かが、将来研究者の一人になって秘密が解ける可能性はある。誰かこの中で研究者になってくれる人はいないかな?」
そう言って彼は笑った。
「俺、なるよ! 俺、絶対に『青い薔薇』の秘密を突き止める!」
テッドの瞳が輝いていた。
「あー……テッド、貴方はその前に今の成績をなんとかなさい」
すかさずリンジー先生の声が被さってくる。それを聞いてみんな大笑いになった。
「今からだよ! 今から!」
テッドが真っ赤になっている。オルガとハズも声を上げて笑った。
「みんな、よく僕の小難しい話しを聞いてくれたから、今から残りの時間は、この温室の中を自由に見て廻ってもいいよ」
彼の言葉に歓声が起きた。
「暴れる事だけはやめてね! 植物を傷つけない事! 物を壊さない事! それだけは守って!」
リンジー先生が慌ててみんなに声を掛けた。それでも慌てる先生を尻目にみんなは温室の中に散れて行く。
リーザはお兄さんを捕まえて、『青い薔薇』の事をもっと聞こうと質問し始め、ハズは持ってきたスケッチブックを広げ始めた。
「私、この薔薇をスケッチするけど、オルガはどうする?」
「うん、私は……ちょっとその辺見てくる」
オルガは曖昧に笑いハズから離れ、奥の方に歩きだした。『奥にクリスの研究室があって……』という父さんの言葉が頭を過ぎった。クラスメイト達から一人離れ、迷路の様な園路を進むとそれ以上奥へは進めない突き当たりに出た。
(奥の方って、この辺りかなぁ……)
四方は植物だらけで入口が解らないが、その向こうに部屋があるようだ。壁の辺りを触りながら歩いていると、難なく蔦で覆われた扉を見つけた。
両親に聞いていなければ、こんな所に扉があるとは思わないだろう。
手が隠れていたドアノブに触れる。(あった……)オルガはそっと深呼吸をした。そして思い切ってドアを開けてみる。ドアは蔦の重みで全開は出来なかったが、人が入れるくらいには開いた。後ろを見ると誰もいない。オルガはそっと中に入った。