シャリファ
翌日、朝食を軽く済ませ、王女はシャリファに会いにいく為に先触れを出そうとした。会いに行っても良いかお伺いを立てるのだが……。
「今の時間は、多分散歩をされている時間だと思いますよ。先触れを出すより偶然を装った方が話せるかもしれません」
王女はエリスロットの言うことも一理あると考えた。
彼女が嫁いで来た頃、王女はシャリファと意思疎通を図ろうと何かと努力したのだが、彼女はかなか心を開いてはくれなかった。慣れるまでは致し方ないと距離を取り、そのままになってしまっていたのだ。それは配慮に欠けた振る舞いだったかもしれない。
自責の念が胸をつく。
自分は少し薄情だった。自分の思いだけで先走り相手の気持ちを考えていなかった。
他の国に嫁ぐ今になって漸く本当の意味で他国へ嫁ぐことへの不安を知ることになるとは……。
初めの頃こそ兄と仲が良くなかった彼女が最近は話をするようになったとエリスロットが言っていた。
それは彼女の心に変化が生まれたということだ。自分は避けたまま今まで来てしまったが、その相手に急に話がしたいと伝えても警戒されてしまうだろう。
王女はエリスロットの助言を素直に受け入れた。
「シャリファ妃は、今、言葉を覚えようとなさっているようです。通訳を介せず話せるかもしれないですね」
エリスロットの情報網は確かだ。会えるのなら今かも知れない。
王女はシャリファがいつも行くという散歩コースを行く事にした。
「良い天気ですね……」
シャリファがいつもいるという東屋へ向かいながら王女は空を仰ぎ見た。
外は気持ちの良い爽やかな風が吹き、秋の空気になっている。秋風が吹き始めたと言っても、日中はまだまだ暑い。太陽は夏の容赦ない光より和らいでいるが、その陽射しを遮るように日傘を差し王女は歩いた。
その散歩コースは王女がいつも歩く散歩コースよりずっと海側に近く、高い場所からは街の向こうに海が見えた。シャリファが好む散歩コースからは海が見えるのだ。それは故郷を思う時間なのかもしれない。
シャリファ妃は海のずっと遥か向こうの対岸にある国から嫁いで来た。
その国の者は男女共に顔の彫りが深く少し肌の色が陽に焼けて濃く、男性は精悍で豪快だが生真面目な人が多く、女性は美しく聡明な人が多いと言う。
その噂に違う事なく、シャリファは大層美しい姫であった。
王女は初めて会った時を思い出していた。
黒い瞳は大きく切れ長の目を縁取る長い睫毛と髪は黒々と艶めいて、癖のない真っ直ぐな髪は一つに結い上げ頭の高い位置から背中に流れる様に真っ直ぐに降りていた。
一つだけ噂と違う所を挙げるなら、シャリファの肌は抜けるように白い。その肌の白さと美しい黒髪がシャリファを神秘的に見せていた。
伏せ目がちなその様子が余りにも神神しくて、初めて会った時の感動は今でも覚えている。
シャリファの国の更に南には、砂だらけの土地があると言う。どこまでも砂ばかりのその場所は日中は陽の光で恐ろしく暑く、夜になると驚くほど寒いらしい。
常夏ではないが冬もない国。そんな所から嫁いで来たシャリファはこの国をどう思ったのだろう。
「あちらにシャリファ妃はいらっしゃるようです」
エリスロットの示す方に団体が見えた。
「ここは海が臨めるのね」
呟く王女にシリルが耳打ちする。
「あの東屋はアルカス殿下がシャリファ妃の為に建立したものです」
「そう……兄上が……」
「シャリファ様に取ってはお気に入りの場所だそうで、よくこちらにお出でだと聞いております」
王女は微笑んだ。兄の優しさがシャリファに伝われば良い。
王女は一瞬歩みを止め大きく息を吸うとまた歩き出した。
シャリファの侍女がこちらに気付いた。東屋の中に入り屈む姿が見える。王女はそれを確認しながら近付いて行った。
もうじきに辿り着く手前で、シャリファの騎士が近付いて来た。彼は異国の服を着て背が高く浅黒い肌の美丈夫だった。黒い髪と力強い瞳が彼の存在を強烈に印象付けている。
「御用向きをお尋ねいたします」
流暢にこの国の言葉を話し、シャリファを守ろうという気概が見える。こちらはイリスとエリスロットがスッと前に出た。
「シャリファ妃に御目通り願いたい」
「その理由を述べてほしい」
「少しお話をしたいと望んでおります。出来ればお二人だけで……お時間が許すならお願いしたい」
イリスの言った「二人だけで」と言う言葉に、騎士は少し眉を顰めた。
「それは……」
「義妹ぎみなのです。義姉上との交流は美しいとは思いませんか」
エリスロットが人たらし全とした笑顔で畳み掛ける。
「我等は邪魔立てせぬように控えておきましょう」
無表情のイリスの隣で『ね!』とばかりに笑みを深める様は、エリスロットの相手に物を言わせない常套手段である。シャリファの騎士は眉間の皺を深めた。
「主君に聞かねば返事は出来ない。少し待たれよ」
東屋に戻る異国の騎士の後ろ姿を目で追った後、エリスロットが振り向いた。
「大丈夫です。話せますよ」
暫くすると騎士が戻って来た。先程の取っ付きにくさは変わらず、表情は硬い。
「良いとの事だ。侍女と騎士はここで待機してもらう」
「……了承した。だがシャリファ様の側へ行く所までは護衛するが、良いか?」
「……いいだろう。では、王女はこちらへ」
先に歩くシャリファの騎士の背後を着いて行き、背後にはエリスロットが居る。案内されながら王女が前方を見ると、シャリファの侍女達が東屋を離れて行く所だった。
王女は少し緊張していた。二人きりというこんな形でシャリファと話すのは初めての事である。
東屋は階段を三段上がった所に建てられている。その階段を上がるとテーブルの向こうにシャリファが座っていた。艶のある美しい黒髪を頭の高い所で結い上げ、そこから背に流している。美しい顔は以前の印象より穏やかに見える。
王女が東屋に入るとエリスロットとシャリファの騎士はそこから離れ、それを確認したシャリファが立ち上がった。
「茶はないが座ると良い」
シャリファの言葉に王女は微笑んだ。
「ありがとうございます。それよりも、わたしの御無礼をお許し下さり感謝致します」
「?……御無礼?」
シャリファはその言葉が解らないのか小さな声で呟き何度か言葉を反芻していた。
そのシャリファに対し王女はにっこりと微笑んだ。
「シャリファ様、言葉を話せる様になっていたのですね」
王女の言葉にシャリファは頷いた。
「学んでいる」
「もっと早くこうして話に訪れていたら良かったと思います」
「……私がわからなかった」
「でももっと早くに親しくなっていれば……」
王女の言葉を遮る様にシャリファが首を振った。
「違う、変化が起きた」
「変化?」
「変化だ」
シャリファは自分の胸の上を掌でトントンと叩いた。
「ここの変化だ。知らないと解らない。伝えないと解らない……だから伝える事、学ぶ」
「……それは……この国を知りたいと思ったと言う事ですか?」
「そう、それとアルカス……」
「あ……兄上の事も?」
「私の言葉、わかるか?」
「はい、わかります」
シャリファは心からホッとした表情になった。
「お前の事も知りたい。義母の事も義父の事もカイルの事も同じ、この国の人々と外を歩きたい。だから学ぶ」
「そうだったのですね……ずっと努力なさっていたのですね」
「努力?」
「はい、想いを込めて頑張る事です」
「あぁそう……努力している」
努力の意味を知りシャリファは笑った。初めて見る笑顔はとても自然だった。
母の言う通りだ。彼女には時間が必要だった。兄との事は心配することは無かったのかもしれない。
「安堵致しました。わたしも嫁ぐ事になったので……シャリファ様にご挨拶をしておきたかったのです」
王女の言葉にシャリファは大きなその瞳で王女を見詰めた。
「それは私と同じ……あ〜……なんと言う……せ……せい……」
シャリファは言葉が出てこない様で手を唇の下に持って来て悩んでいたが、すぐに思い出した様で顔を上げた。
「あぁ……政略結婚だな?」
「はい……そうです」
シャリファは王女の瞳を覗き込んだ。
「怖いか?」
「……えぇ、そうですね」
「私も怖かった。解らない場所、知らない人、言葉、食べる物、みな違う」
王女は頷いた。それを見てシャリファはさらに続けた。
「心を故郷に置いた。アルカスは夫だが知らない人。自分の行動、解らなかった」
「……そうですね……それはとても良くわかります。どうすれば良いのか分からなかったのですね」
シャリファは少し黙った後口を開いた。
「……ルガリアードの王子は?」
王女は少し笑った。
「ご存知だったのですね」
「知っている。聞いた……辛いか?」
シャリファの直球の質問に戸惑いながら王女はテーブルに視線を落とした。
「そうですね……」
辛くはないはずはない。でももう覚悟を決めていのだ。それでもジークリフトを思うとどうしようもない気持ちが襲ってくるようで言葉が繋げられなくなる。
しばらく黙った後、王女は顔を上げた。
「わたしは決めたのです」
「決意、大事」
「はい。とても大事だと思っております」
「うむ……私も同じ。私も想う者、いた」
シャリファが徐に言った。視線は遠くの海に向けている。
「悲しく辛かった……だが、今は良い思い出」
「シャリファ様がこちらに嫁ぎ今までの……その……この六年の間に思い出に変化するものなのですか?」
「する」
言い切るシャリファを王女は不思議な感覚で見た。
「アルカスが理由。私は思い出の者の今でなく、アルカスの今が知りたい」
あぁ……そうなのだ。シャリファは恋していた人より目の前の兄上に想いを寄せるようになったのだ。変化が生まれたのだ。それは少し嬉しいが……。
王女は自分自身を考えた。ジークリフトを忘れる事が出来るのだろうか? 幼い頃より慕っていた人を高々数年の時間の経過で思い出に出来るのだろうか。
今の自分には答えを出す事は出来ないし、自信がない。
「私の国、女は家の敷地の外、出ない。ここは、女も外、出る……私は驚いた」
話を聞くと、高貴な女性達は家の中で生涯を過ごすという。
外に出る場合は外の見えない乗り物で移動するらしい。散歩など出来ないし自由に歩き回る事も許されないのだという。
女性は保護する者であると同時に、囲う者であるという考え方からなのだそうだ。
元々が遊牧の民だった名残で、女性は家族以外の男性とは接触しない。遊牧の民の時代の女性達は奪われ連れ去られたのだという。それから長い間、女性を外へは出さなくなった。結婚も親が決め、当日に顔を合わせ外の見えない輿で相手の家へ連れて行かれる。徹底して外とは遮断されるのだ。
「よくそのような生活を我慢強くされていましたね……」
王女は心底驚きシャリファに言った。
「当たり前のこと。街の女は私より少し自由だ」
「それでも……信じられません」
「……今、私は自由だ。ここで自由を得た」
「……そうですか」
「毎日が楽しい……」
王女にとっては衝撃的な話であったが、シャリファは清々しく笑った。
「お前も自由である事、望む」
「……ありがとうございます」
王女は素直にお礼を言った。その言葉の中にシャリファの思い遣りを感じる。
国の習慣の違いとは、何もかもが違うという事だ。シャリファはそれを受け入れた。今はこの国で生きていく覚悟があるという事なのだろう。
一通り話を終え、王女は気になっている事をシャリファに聞いてみた。
「あの……伺い難いのですが……その、シャリファ様に言葉を教えて下さっているのは殿方ですか?」
「……殿方?」
「男性の事です」
「あぁそうだ。私の家臣のジャミルが先生。さっきお前を連れて来た」
「あぁ……そうでしたか……」
王女は納得した。
「何故だ?」
「いえ……その……言葉が少し、何と申しますか……男性の口調なので」
その途端シャリファが驚いた顔になった。
「私の言葉は男なのか?」
「えぇそうです。男性の……しかも騎士言葉といいますか……」
「な!」
シャリファは口を押さえた。
「本当か?」
「はい……残念ながら」
シャリファは真っ赤な顔になった。全く知らずに話していたようだ。
「ど……どうすれば良い?」
真っ赤な顔のまま、シャリファは慌てた。
シャリファは王女より年齢が四歳上だが、その様子はひどく可愛らしく見えた。
「大丈夫です。指南役をつければ良いのです」
「指南役?」
「先生の事です。でも……私は……何というかシャリファ様のその物言いが好きですけれど……」
シャリファは王女の言葉の意味がわからないようで首を傾げる。
「これは男の言葉、女は違う言葉」
「兄上はこのことに対して何か言っていましたか?」
シャリファはしばらく考えた後言葉を繋げた。
「アルカスは……よく頬杖して笑って見ることが多い」
「それならきっと兄上もシャリファ様のその物言いを気に入っているのだと思います」
途端にシャリファは少し赤くなり、俯き加減にアルカスがいいなら良いと呟いた。
その時、東屋の下に何かが運ばれて来た。お茶の良い香りがふわりと漂っている。
「あら……シリルですね」
二人が見ている間に、シリルとシャリファの侍女がお盆を運び入れてきた。お盆の上にはお茶とお菓子が載っている。
「喉を潤して頂きたくてご用意させて頂きました」
手短にそれだけを言うとシリルとシャリファの侍女はテーブルの上にお茶の準備を始めた。そつなく動く二人を眺めながら王女は海の方を見た。
目の前の海は、いつだったかジークリフトと共にソラの背中に乗って飛んだ海だ。あの頃はこんなふうに他国へ嫁ぐなど考えてもいなかった。
ジークリフトの面影を追いながら王女はシリルが入れてくれたカップを持ち上げた。
シリルももう自分にはついてくることはできない。
その寂しさを王女はお茶と共に飲み込んだ。
こうして午前中いっぱいをシャリファとの会話に費やし、王女は自室へと戻った。とても有意義な話が沢山出来たと思った。王女はこの国を発つ前にシャリファと話せた事が何よりも嬉しかった。
アルカスとシャリファの事情も第二部で。
と言っても、第一部はまだまだ終わらない……。
もしよろしければ、感想など意見を頂けると力になります。