苦しい想い
最後の部分に出会った頃のディオニシス王とアリシア王妃のイラストがあります
ソラとフィールに会いに行った後、王女は少しだけ気持ちが落ち着いていた。気持ちが軽くなる事はないが、少なくともソラとフィールを守ることが出来るという自負は王女の力となった。
彼等は王女がルーディアへ嫁ぐ事を聞き悲しんだが、どうする事も出来ないのを知っているようだった。
自室に戻ると直ぐにイリスがディオニシス王の呼び出しを受けた。
「呼び出しついでに食事を取ってくると良い」
エリスロットが気を回し、イリスに先に休憩を取るように言うのが聞こえる。王女もそうするように目配せをして促すと、イリスは素直に従い下がって行った。
部屋ではシリルが待っている。
「姫様、分別の方は終わりましたので、後でお時間をいただきます」
「今では駄目なのですか?」
怪訝な思いでシリルに尋ねると、シリルはエリスロットに目線を送った。
「持ち物の確認ですよ、殿方の前では気が引けると思うのです……姫様がそれでいいのなら、私は構いませんが」
「……そうね、後がいいわね」
王女もついエリスロットに目線をやる。確かにそうだ。下着など絶対に殿方に見られたくないものもある。
だがエリスロットはにこやかに笑った。
「いえ、私が扉前で待機しますよ。存分に検分なさると良い」
そして彼はさっさと出て行った。
その姿を目線で追いながらシリルは苦笑する。
「本来なら数日かけてする作業ですが、今回は持ち物は少ないのですから一時間半程で片付くでしょう。待ってて頂いても問題はないと思います」
王女は頷くしかない。
持ち物は見やすいように衣服と道具に分けられていた。
「シリルは完璧ですね」
「二度手間は煩わしいだけですから……こちらの椅子にお座りください。私達が広げますので確認を……」
「わかりました」
王女が椅子に座るとシリルの他に二人の侍女がついた。
「ではまずこちらから」
シリルが声をかけると侍女二人がドレスを広げ、王女に見せた。王女がそのドレスを確認し了承すると畳んで衣装箱に入れる。了承しないと省かれる。
その作業を繰り返し行い最後の一枚を広げた時、王女は胸に痛みを覚えた。
「こちらですが……置いて行かれるのかお持ちになるのか……判断が付きませんでしたので」
最後に広げられたドレスは、『スズラン祭り』の舞踏会で王女が着たものだった。
最後の最後まで悩みシリルの「エレガント」の一言で決めたあの水色と薄紫のドレス。一年前の出来事が思い出される。
舞踏会の最中は悲しみに暮れたが、後にジークリフトの思いを知り二人は結ばれる事になったのだ。
『堪らなく美しかった……』
ジークリフトはそう言ってくれた。そして心を奪われたのだと……。
王女は目を閉じた。あれからたったの一年しか経っていない。いや、正確に言えば一年も経っていない。ジークリフトの前でしか着ないであろうそのドレスを、持って行くべきか否か。王女は胸の痛みが治まらないその疼きを感じながら首を振った。
「置いて行きます」
「……そうですか」
侍女達は思い出のドレスをリングレントに残す方に分けた。
王女は目線でそれを追い、疼く痛みを無視しようと試みた。だが、痛みは消えない。
「では次、宝飾品に参ります」
シリルの声がした。侍女の一人が持って行くための衣装箱の蓋を閉じる。
何とも言いようの無い感情が王女を襲った。叫び出したいような泣き喚きたいような……。心が震える。喉の奥が震える。五感が軋むように指先が握り込められて、王女の顔が歪んだ。自分の首にかけてある小さなペンダントの鎖に手が伸びる。王女が生まれた時に父が作ったお守りのペンダントは、いつも常に王女の首に飾られていた。その鎖を持つ手が握り込まれる。
「お願い……やはり持って行きます! あのドレスを衣装箱に入れて! わたくしの荷物の中に!」
ジークリフトとの唯一の繋がりだった。あの幸福を思えば辛くなる。でも、失くしたくない想いだ。彼と結ばれなくとも彼との思い出は手元に残したい。
シリルが静かに近付いて来る。侍女達は音を立てる事なく部屋から居なくなった。シリルがハンカチで王女の頬を拭う。王女は自分の頰が濡れている事に気付いていなかった。
「姫様……泣いても良いのですよ」
呻くような声が漏れる。人の前で王女は初めて声を上げ泣いた。いつもなら許してくれないはずのシリルもこの時ばかりは王女を抱き締めたまま何も言わない。シリルの暖かな手が優しく王女の背中を摩り、王女は思いの丈を絞り出すように泣いた。
「落ち着きましたか?」
「えぇ……ありがとう、シリル」
それから暫くしてシリルが声をかけると、王女はすぐに返事をした。思い切り泣いた事で王女は落ち着きを取り戻していた。
「続きをいたしましょう」
シリルが声をかけると侍女二人が戻って来た。その二人の侍女の瞳が少し赤い。
それから確認作業は粛々と進んだ。ドレスに加え、靴、髪飾り、宝飾品、化粧道具、文具、書籍、食器、寝具等数多くの物を確認し短い分別の時間は終わった。
扉前に待機しているエリスロットに終わった事を告げると、イリスはまだ戻って来ていなかった。
部屋に入ったエリスロットは、隅に積み上げられた荷物を見て腕を組む。
「荷物はこれだけですか……少な過ぎるのでは?」
「どうなるのかわからないのです。とりあえずの生活には沢山の物は必要ないでしょう。嫁ぎ先が落ち着いた後に、こちらより送る事も念頭に置いておけばいかがでしょう。差当りはこれ位で良いと思いますよ」
シリルの意見は最もだ。エリスロットも納得顔で軽く頷いている。
「目処がついたのですから、お茶を入れましょう」
シリルがお茶の準備をし始めるとドアを叩く音がした。侍女の一人が対応し何かを話した後、侍女はシリルに話をしている。シリルは頷きお茶の準備を彼女に任せると、王女の傍へやって来た。
「姫様、今日は少し早いですが夕食に致しましょうと王妃様からの言伝です」
シリルの言葉を聞いて王女は母アリシア王妃の元へ行く事を思い出した。
「……お母様に呼ばれていたのを忘れていました」
「それは夕食の後でも良いのではないでしょうか?」
いつに無くシリルが優しい。王女は笑った。
「シリルがそんなに優しいと変な感じよ。いつもならお母様との約束を忘れていたら叱るでしょう?」
「……もう姫様は子供ではありませんからね。一人の成人した大人として、これからは自分の責任で物事を決めていかなければなりません。そうですね……今はその練習ですね」
優しいけれど反論の隙のない言い方に、王女はシリルに少し突き放されたような気がして眉間に皺を寄せた。
「……王女らしい振る舞いをせねばならぬ事はわかっています」
婚姻が決まった時から度々思う事ではあったが、この家族から離れ、この国を出る、という現実を王女は受け止めなければならなかった。
ジークリフトに嫁ぐと決まった時は、家族と離れる事より好きな人の側に居られる幸せの方が心を占めていた。でもルーディアのゼファール王に嫁ぐと決まった今は、絶望的な寂しさと不安で心は一杯になっている。
「食事に行きます」
揺れる心に惑わされぬよう王女は立ち上がった。
十五歳を過ぎてから夕食は必ず家族皆で摂るようになっている。
アリシア王妃がこの国へ嫁いだ時、故郷では家族皆で夕食を取る習慣が無かったのだそうだ。嫁ぐことが決まって、両親や兄弟姉妹達との別れは思う程十分では無かったと言う。
自分の娘にはその思いをさせたくなくて、嫁ぐまでの時間を家族で過ごしたいと言う母の願いでもあったのだが、今はともすれば重苦しい空気になりかねない。
夕食を取るための部屋は家族がゆっくりと寛げるよう広めではあるが落ち着いた部屋を用意されていた。ここにはそれぞれの従者と騎士達が、少しだけ離れた所で待機出来るようになっている。
王女が部屋へ入ると既にディオニシス王とアリシア王妃は席に着いていた。
「遅くなりました」
声をかけ座ろうとした時、上の兄アルカスが入って来た。続けて下の兄カイルも入ってくる。
席に着いた彼ら三人の顔をディオニシス王は順に見て、眉を顰めた。
「アルカス、お前の妃は今日も来ぬのか?」
「申し訳ありません、彼女は気分が優れぬと言うので……」
「そうか……」
いつもの事だった。兄の妃は自分達とは距離を置いている。
「皆揃ったな」
穏やかな表情を努めて作っている父の顔は少し疲れが見えていた。母はいつものように優しげだが、憂いを含んでいる。兄達は何も言わず王女の顔を見つめている。
「では始めよう」
父の一言で食事が運ばれて来た。
鶏の肉と根野菜とハーブを煮込んだ香草煮、細かく切った肉と野菜に味を付けた物を、潰したじゃが芋に乗せて焼いた一皿、串に刺した羊の肉には香辛料が掛けてあり香ばしく焼かれ、野菜のスープは鶏の出汁と魚の出汁の二種類ある。
目の前に運ばれてくる料理はどれも美味しそうだ。特別なご馳走では無いがこの日常を愛しく感じる。
ご馳走が並べられると、皆自然にテーブルに肘を付け手を組み神に祈りを捧げた。この日常に感謝をし、家族で揃う事に感謝をする。祈りを捧げた後に皆はめいめい自分の料理に手を付け始めた。
父は自分の皿に載せられた香草煮を見て少し微笑み、王女に声を掛けた。
「お前の好きな料理だな……沢山食べなさい」
「はい」
王女は素直に微笑んだ。美味しいものを食するのは嬉しい。
香草煮を口にすると香草と共に野菜の甘みがフワッと広がり、旨味が口の中に広がる。鶏の肉はホロホロと崩れ噛まなくてもいいほどに柔らかい。色々な味の中に優しいハーブの香りが立つ。
「……美味しい」
「羊の串焼きも美味いぞ」
「先ずは香草煮からですわ」
王女の反応を家族皆で楽しんでいる。兄達も口にしながら頷いている。ワインを口に料理を堪能し、穏やかな時間は過ぎていった。
「準備の方は終わったのか?」
カイルが聞いてきた。
「はい、全て整いました。いつでも立つ事が出来ます」
「そうか……」
なんでも無い事のように受け流しながら、王女は笑った。
「カイル兄様は途中まで送って下さるのでしょう?」
「あぁ……私の部隊がつくことになっている」
「それならば荷運びもお願いして宜しいのでしょうか?」
「それは問題ないが……」
カイルの話す途中で母が手を挙げて合図をした。皆が黙って母を見る。
「ごめんなさいね。その話は食事中はしたくないのです。料理と貴方達の会話を楽しませて頂戴」
母の言葉に皆が黙り、会話の糸口を探し出す。
暫くの間があって母が話題を示した。
「今日はソラとフィールに会いに行ったのでしょう? 彼らの様子はどうでした?」
「元気でしたわ。わたくしは今日初めて施設の現場を見せて頂きました。本当にとても大きい施設なのですね」
王女が言うとアルカスが笑った。
「お前には近づくなとばかり言っていたからな……完成は間近だ。屋根が出来上がると中は見えぬ。屋根が半分はもう出来上がっているから全部は見えぬとは言え、今、中を観る事が出来たのは幸運だったな」
「はい、地中にあるのに通気性を重視していると聞きました。どのような構造をしているのですか? とても興味があります」
アルカスは笑みを深めた。
「やっと興味を持ったか」
アルカスは簡単に構造を説明し始めた。空気の通りは温かいものは上へ上がり冷たいものは下へ下がると言う自然の摂理を利用したものだった。
「小川を施設内へ引き込んだのもその一環を担う為だ。持続可能である事も大事なのだ。お前も覚えておくと良い、何かの役に立つ事もあるだろう」
「そうだったのですね……ハボニア山からの吹き降ろしの風の利用なのだとばかり思っていましたわ」
「それも計算ずくだ。単純そうに見えて実は非常に複雑なのだぞ。数科学の苦手なお前には難しいかも知れぬがな」
アルカスとの話の中にカイルが割り込んで来る。しかも、嫌な事を言う。王女はカイルを睨んだがカイルは何処吹く風だ。
その様子をディオニシス王とアリシア王妃は楽しそうに眺めている。
ひとときの楽しい食事が終わると、父と兄達はまた執務に戻らなくてはならない。ルーディア対策に気を抜く事は出来ないのだ。
「殿方はまた仕事に戻らなくてはなりませんが……貴女は、少しわたくしの部屋へ」
母に言われ、王女は素直に従った。
母の部屋は落ち着いた雰囲気の調度品で纏まっている。王女は部屋に入り勧められるまま長椅子に座った。母の侍女がお茶を直ぐに出し、食後のゆっくりとした時間を過ごせるように色々と準備されていた。
母も隣に座るとそっと手を差し伸べ王女の頰を優しく撫でた。
「……お母様?」
母の眼差しが揺れるのを観て王女は思わず声を掛けた。
「えぇ……わかっているの。今度の事は貴女にどれだけ酷な事をしているのか……」
母は先程まで見せていた穏やかな表情を消し、悲痛な表情をしていた。王女は微笑んだ。
「お母様、大丈夫ですわ。わたし先程気付いたのです」
「……何をです?」
「わたしはアルカス兄様の妃であるシャリファ様と同じ境遇なのだと」
「ソル……」
「政略結婚と言うものが、自分に降りかかるとは思ってもみなかった、わたし自身が甘いのです。今ならシャリファ様の気持ちを察する事が出来ます」
「そう……」
「きっとシャリファ様もアルカス兄様と結婚が決まる前にお慕いしていた方がいたのではないでしょうか? それを何も思わずに、何故お兄様を拒むのかと言う此方の都合ばかりを押し付けていたように思います。あ……でもお母様だけはそうではありませんでしたね」
「人にはそれぞれの事情があります。あの方は時間をかける必要があるのですよ。考え方も文化も日常も何もかも違う国へ嫁いで来たのです。アルカスもその事は良く理解しています。それよりも……」
アリシア王妃は王女の両手を握った。
「貴女の強さを信じましょう。良いですね。今後何があっても決して自ら命を絶たない事。それだけはしてはなりません。神の教えに背く事は貴女自身を貶める事になります」
「はい、お母様」
「それだけは約束してくれますか?」
「はい、お約束致します。何があろうと自ら命を絶つ事は致しません」
はっきりと言葉にするとアリシア王妃は少し安心したように小さく微笑んだ。だがもう一度王女の手を強く握ると、一度視線を落とす。そして顔を上げた時、アリシア王妃は静かに口を開いた。
「もう一つ伝えなければならぬ事があります」
「はい」
アリシア王妃はジッと王女の顔を見つめた。
「シリルの事です」
「……シリル?」
「えぇ……今回の貴女のルーディア行きにシリルは連れて行けません」
「……」
王女は思わず振り向きシリルを見た。シリルは黙って俯いている。何かの間違いであって欲しいと慌てて王女は口を開いた。
「……何故ですか? シリルはわたくしの一番の理解者です。彼女が居ないとわたくしはどうすれば良いのですか?……お母様、お願いです。シリルを連れて行く事を許してください」
王女は必死にアリシア王妃に懇願した。シリルを見つめ泣きそうになるのをひたすら我慢する。
「駄目なのです……シリルは連れては行けません。これはお父様が決めた事です」
容赦のない母の言葉に王女は目を凝らした。そんなことってあるだろうか? シリルだけは何があろうとついてきてくれると疑いも持たなかった。
「何故ですか? 何もかも諦めたではありませんか。それなのにシリルまでわたくしから取り上げるおつもりなのですか?」
アリシア王妃は涙ぐんでいた。
「違うのです。貴女とシリルの命を守るためです」
母の一言は王女を黙らせた。王女の頰を涙が伝う。
「……どう言う、事ですか?」
「この婚姻はいつどうなるか分からないものです。ですから貴女に付ける侍女達は、剣の使い手で固める事にしました。シリルは命を投げ打っても良いと……それでも貴女に着いて行くと言ったのです。でも、足手まといになる可能性の方が高い……それで、諦めてもらいました」
「……」
シリルを振り向くとシリルは肩を震わせている。
「……申し訳御座いません……私では姫様のお役に立てないのです。こんな事になるとは、夢にも思っておりませんでした。こんな事になるのが解っていたら、剣も乗馬も身につけていたのに、姫様……申し訳ありません。姫様を守る為に、私は辞退致しました」
王女はやっと自分の置かれている立場を理解したように思った。こう言う事なのだ。自分がこの度婚姻を結ぶ相手との関係は、いつどうなるのか分からない、そう言う事なのだ。
「あ……あぁ……」
言葉にならない何かが湧き上がってきた。震える指先を母が握りしめ、そのまま引っ張られる様に母の胸の中に抱きしめられた。
何も考えたくはなかった。この悪夢の様な出来事はいつまで続くのだろう。王女はぼんやりとそう思っていた。
次に自分の前から居なくなるのはエリスロットだろうか? それともイリスだろうか? 必要だと思う人が徐々に自分の周りから居なくなる。その感覚は王女をゾッとさせた。
「諦めないで……」
母の声が耳元で聞こえていた。王女は脱力感に苛まれぼんやりと視線を彷徨わせた。
エリスロットとイリスが居る。彼等は何も言わず何かに耐える様に王女を見つめている。母に抱かれたまま王女は目を閉じた。
自分に必要な人達が少しづつ居なくなっていく。でも人生を投げ出す事は出来ない。何に希望を見出せば良いのか、今はそれすらも分からない。
ふと兄嫁のシャリファを想う。彼女もこんな絶望の中、嫁いで来たのだろうか? 優しい母の腕の中で王女はそう思った。
あぁそうだ。シャリファならこの気持ちの収め方を知っているかも知れない。今まで避けて来た相手だが、王女は無性にシャリファと話がしたいと思った。