校外授業
「空が青~い……」
並んで歩くオルガの肩越しに広がる青い空を見てハズが呟いた。
「え? 何?」
前後を歩くクラスメイト達のお喋りでハズの言葉がよく聞こえなかったオルガが振り向くと、スケッチブックを脇に抱え、肩で切り揃えた癖のある茶色の髪を揺らしハズは笑って空を指差した。
「空、とっても綺麗だよ」
オルガはその空を見上げた。
小高い丘の上から見える空は周りに遮るものが何もなく、彼女の視界いっぱいに青く広がっている。風が丘を抜け薄茶色の長い髪を巻き上げた。
「本当だ……」
「……抜けるような空だよね。『青の祭り』が始まるからかなぁ、風が気持ちいいね」
長い冬が過ぎ、春になったこの時期にはことのほか暖かな海風が街を吹き抜ける。
空を仰いだ後、オルガは視線を戻した。
この丘からは街が一望に見渡せ、街のもう一つのシンボルである教会の塔が遠くに見えている。
オルガ達の住むこのリンデルツの街は二千年以上の歴史を持つ古い街だ。見えている教会の辺りは旧市街で、古くからの建物が立ち並び、迷路のように入り組んでいる。
二千年以上前の建物は流石に少ないが、町からずっと離れた所にある千二百年前の山城跡と街の中心にある城の跡が観光の為に残されていた。
その他の遺跡は地下に埋もれているものが多く、地上にあるものは今も住居やお店として使用されているものもあった。
丘の上からすぐ傍に見えているオルガ達の学校は比較的新しい新市街にある。
比較的新しいと言っても、学校の石の建物はすでに三百年以上経っており、近代的な建物と混在している新市街の中では古い方だと言えた。
その学校の辺りからもう少し南側に視線をずらすと、青いサーカステントが見えている。思わずオルガはハズに声をかけた。
「サーカステントが見える。あの辺りが中央広場だね」
「うん。今年の『青の祭り』は八〇〇年祭だから、今までになく盛大にやるんだって。サーカスの人達は暫くこの街にいるらしいよ」
同じ方向を見ていたハズが言う。
年に一度の『青の祭り』の時期になると、サーカス団員の子供達はオルガの通う学校に転校してくる。彼女のクラスに来てくれたら友達になれるのだが、その小さな夢は中等科三年生になった今も叶わずにいた。
ハズの両親は、中央広場の近くで小さなレストランをしていてサーカス団に差し入れをしている。運ぶのを手伝っていたハズはそのサーカス団員の子供達とも友達になっていた。
「今度は私も手伝ってもいい? 私も仲良くなりたいよ」
オルガはいつもハズを羨ましく思っていた。サーカスの裏側を見ることが出来るなんて、そうそう体験できる事ではない。
「いいよ、お父さんに話してみる」
ワクワクする感情を素直に見せるオルガに、ハズは笑いながら頷いた。
オルガ達は、一年前に開放されたばかりの植物園に来ていた。
彼女の学校はこの国の教育システム通り、六歳から九歳までの四年間が初等科、十歳から十五歳までの六年間が中等科、十六歳から十八歳までの三年間が高等科と別れていて、それ以上は大学や専門学校へ行く事になっている。オルガ達十二歳は中等科の三年生だ。
学校からこの植物園までは歩いて十五分程の距離にある。そのため学校の近くに出来たこの施設を校外授業で訪れることは多かった。
絵画の時間や自然科学の時間、たまに自由科学の時間もこの植物園を訪れたりする。
植物園は街の中から丘へ上がる広い階段を登りきった所に建っていた。
少し前までこの辺りは野原が広がっていて、この植物園の場所には丘の上の古いガラスの温室と、その傍に生えているこの街のシンボルの大きなケヤキと、ここに住む人の小さな家だけが建っていた。丘の下からは緩やかな小道が続いていたらしい。
両親が若かった頃の、まだオルガが生まれる前の話だ。
生徒達は来慣れた場所であるにも関わらず、今日はいつになく様子が違った。そわそわと落ち着きがなく、好奇心に満ち溢れ、それとなく緊張している。
この日は特別な日で、世界の中でもここの植物園にしかない物を見せてもらえる事になっていた。
それはまだ正式に公開されてないため、世界中の人々を驚愕させた割に、本物は研究者しか見たことがなく、一般人は研究者達がネットに上げた写真や研究各書物でしかお目にかかれていないという『青い薔薇』だった。
この薔薇の出現で国は威信をかけて研究に取り組んだ。植物学者を募り国の予算と企業からの融資や募金を募り、十年以上の歳月をかけて研究に取り組んだけれど、この薔薇の解明は今もできていない。
その薔薇は、ある日突然その場所に生えてきたのだという。街の人より一足早くオルガ達中等科の三年生が見る事が出来るのは幸運以外の何物でもなかった。
「はーい! ではみなさん! もう一度点呼を取りますから、並んでー」
突然、前を歩いていた担任のリンジー先生が振り向いて大きな声を張り上げた。
「ハズ! オルガ! こっち! 早く!」
クラスメイトのリーザが列から大きく遅れていた二人に手招きをしている。オルガ達は慌てて列の中に入った。
点呼を取りながらリンジー先生は綺麗な列を作るように促した。
「みなさん、今日は、特別に植物園の館長さんが『青い薔薇』を見せて下さるのよ。けして騒がないように、暴れないようにお願いしますよ!」
先生の言葉に生徒達は黙ってぞろぞろと入園口の建物の中に入って行った。幼馴染のテッドも緊張した面持ちで列に並んでいるのが見える。
少し冷んやりした建物の中は、右奥に事務所があって、その手前に植物に関する本を置いている小さな図書室があった。左側には広いスペースがあって、たまにここで授業が行われる。まっすぐ進むとそのまま建物を突っ切る形で園内に入るようになっていた。
入園口の建物としてはそれだけなのだが、隣接して大きな研究施設が建てられている。それは植物園を取り囲み、隔離する様な壁の役割を果たし、途中からは高い壁がずっと奥まで続いていた。入園口が小さいのは後付けだからだ。
その入園口前にいつもの植物園のお姉さんが立っていた。
「今日もよろしくお願いします」
リンジー先生はお姉さんに向かってにこやかに挨拶するとそのまま振り向いた。
「どうぞ、みなさん中に入ったら丘の上に古いガラスの温室がありますから、そこまで行ってくださいね。一番高い所にあるガラスの温室です。その場所で、館長が待っています」
生徒達はぞろぞろと園内に入って行った。
この植物園の研究施設はまだ建てられて十二年しか経っていない。本当は大規模な研究施設になるはずだったらしい。でも、研究対象だった『青い薔薇』の研究が途中から全く進まず、何の結果も出せないまま、結局各スポンサーが下りてしまった。
自活しなければいけなくなった施設は街の植物園として開放されることになった。そして植物園として生まれ変わってまだ一年しか経っていない。
だから園内は大きな樹木は頂上のケヤキの樹木一本しかなかった。
広い施設の中は点々とガラスの温室が建っていて、緩やかな小道が温室を縫うように丘の上まで続いている。
植物園としての庭はいろいろと工夫され、植物の合間の園路として歩ける様になっていたり、水辺の植物を鑑賞できる場所があったり、所々にベンチがあり、公園のように自由に座れるようになっていた。そしてここからは一番上のガラスの温室より、そこから少し離れた所にある、昔から生えていた大きなケヤキの方がよく見える。
そのケヤキの木は樹齢が七百から千年の間と言われ、驚く程の大きさになっている。若い時のケヤキの木特有の伸びやかな枝振りは、年月と共に雄々しく曲がりくねったものに変化していた。しかしドッシリとした重厚感と安心感は群を抜いている。
近代に入って起こった二度の戦火も潜り抜けたケヤキの木は、今や神の木とまで言われていた。
そのケヤキの少し離れた場所にガラスの温室は建っている。
植物園が出来る前から建っていたガラスの温室は、他の近代的な温室とは少し違う。ガラスを支える鉄骨は綺麗なアーチを描いていてそれだけで装飾品の様だ。古いガラスはよく手入れされていて、ガラス職人であるオルガの父親がメンテナンスを担当していた。
オルガの両親は、昔よくあのガラスの温室に入ったらしい。その頃そこに住んでいた友達に会いによく訪れていたという。
大切な思い出だと両親はよくオルガに話してくれる。
緩やかに伸びる小道は途中で二手に分かれ、いつも行く道ではないほうの道が、やっぱり緩やかに古い温室に繋がっている。
リンジー先生は当然のように古い温室への道を選んだ。
「きっとここは、そのうち綺麗な森になるだろうね」
ハズがそっとオルガに耳打ちした。その道の周りには奥の方まで様々な高さの樹木の苗が植えられている。
「うん」
森の中に立つガラスの温室の姿を容易に想像することが出来た。それを思いオルガも笑った。きっと、そのうちもっと樹木が育って、古いガラスの温室は森を抜けて行きつく場所になるだろう。
オルガは他の生徒より、あの一番古い温室の中に入るのを楽しみにしていた。寧ろ『青い薔薇』を見る事よりも、古いガラスの温室に入る事の方が嬉しかった。
想像すると気持ちが落ち着かなくなる。
やっとあのクリスの温室に入る事が出来るのだ。
丘の上からゆっくりと古い温室の屋根の部分が見えてきた。アーチの部分も見えてくる。緑の中に少しずつ全貌が見えてきて、近付くととても大きい事が解る。
両親がいつも話してくれるからか、オルガは古い温室の中をとてもよく知っている気持ちになっていた。
「温室の一番奥の部屋にクリスの研究室があってね。父さんは一度、その研究室に蜂鳥を入れてしまった事があるんだ。あの時ばかりは、いつも穏やかなクリスが怒ってさ」
「そうそう、あの時、あなた粘着性の強いテープを使って蜂鳥を捕まえたのよね。あの後、蜂鳥についたテープを外すのが大変だったんだから」
父のエリックと母のレイチェルの幼馴染だったクリストファーという名前のその人は、植物の研究をしていたという。
「身のこなしが私なんかよりよっぽど優雅で……クリスを見ていると少し腹が立つこともあったわ」
「元々がこの辺りの地主の息子なんだから受けた躾が違うんだ、対抗心を燃やしてどうするんだよ」
笑うエリックをレイチェルは拗ねたように睨む。
両親の話すクリストファーという人物はとても興味深い人だった。大金持ちの家の人だったらしいが、起源は十世紀前後の古い貴族に繋がるという。彼の父親が亡くなった後、財産を分与する際に、相続したこのガラスの温室ごとこの丘だけを貰い、必要最小限を手元に残し、後は自分のお兄さんに全部あげてしまったらしい。
「欲が無いと言うのも考えものよ。研究バカで外に出る事が少ないせいか、全く世間に無頓着だったの」
「確かに……テレビすら持っていなかったね。でもパソコンは持っていたよな……」
「それは殆ど研究レポートを纒めるためにしか使っていなかったじゃない。クリスがインターネットでニュースを仕入れるとか、メールのやり取りをするとかはなかったわよ。研究内容を大学に送るのにメールの方が楽だといくら教えても、今までのように紙の媒体が良いと受け入れなかったわ……あのパソコン、ネットに繋げてなかったんじゃないかしら……絶対そうよ」
「確かにな……携帯電話が流行り始めた頃、必要に迫られて一緒に買おうとしたんだが……キッパリと断られたな。連絡が付きにくいと言うと、自分は研究室にいるんだから必要なら家に電話をするか温室に来いってね」
「映画を観に行こうとしても音が五月蝿いって言うし、コンサートに行こうとしてもクラシック以外は雑音だと言うし……」
機械音痴だったのだろうか? 文明の利器も必要最小限にしか使用していなかったようだ。堅物の人かと思いきやそこはそうでもなかったらしい。
「でも、本を読む量は半端なかったよな……」
「研究室にいなければ図書館だったものね」
クスクスっと母が笑う。
「何と言うか……日頃は穏やかで、エリックのやることなす事面白がってよく笑ってたわ」
「何を言ってる。君のやる事をよく笑っていたんだぞ」
「違うわ、貴方よ」
オルガは二人を見ながら、多分この二人を見て笑っていたのではないかと思う。
「何を楽しみにして毎日を過ごしていたんだろう?」
オルガは二人の話を聞きながら疑問に思った事を口にした。父と母は顔を見合わせ当たり前の顔をする。
「植物の研究以外何もなかったんじゃない?」
「植物の研究以外何もなかっただろうな……」
今のご時世、そんな稀有な人がいた事自体、不思議な感じがする。
ほぼ同時に同じ事を言う両親にここまで気が合うとは……と少し呆れながらもオルガは羨ましくも思った。
オルガは目の前の古いガラスの温室を見上げた。
ここがそのクリスの研究室なのだ。鉄骨は黒く光り美しく装飾された模様が、近くで見るとなお一層特別感を醸し出している。中央にあるドームを境に左右対称に作られている様は、まるでガラスの宮殿のようだ。
有名な芸術家の作品だと聞いたことがあるが、その芸術家の人はガラスの温室を、ここしか手掛けていないらしい。見るからに重厚で美しいガラスの温室。オルガは胸の鼓動が高鳴るのをいつも以上に感じた。