小さな冒険
ジークリフト王子との四度目の出会いは、更に二年後の事だった。それまでにジークリフトがリングレントを訪れる事は度々あったが、兄達を交えて夕食を共に取る事がある位で、親しく言葉を交わす機会はなかった。
四度目の出会いに関しては偶然の出来事だったが、偶然も重なれば奇跡になる。
十二歳という年齢は、心が少女からほんの少し大人へと移行する。それまでの間は、自分の半径数メートルの範囲内しか気にならなかった事が、もう少し大きな視野でものを見る事が出来る様になり、質問をした答えの裏とその先が知りたくなる。それと同時に相手が何を考えているのか、少ない自分の経験からでも察する事ができるようになる。そのくせまだ周りが正確に見えていなくて思い込みで暴走するのだ。
ある日、王女は下の兄のカイル王子からある告白を聞いた。
四つ違いのカイルはその事を誰にも言えず、言う気もなかったらしいが……後に、王女に打ち明けたのは自分へのけじめだったのだと話してくれた。
カイルは街の娘に恋をしていた。ハーブのお茶を扱うお店に勤めている彼女に身分を隠し、ただの騎士だと偽っていたらしい。
ある時、父王と供に商業の視察に出かける事が決まった。それがその女性のいる地域だったようだ。きっと街の住人達は、こぞってその王族の親子を見にやって来るだろう。洞察力の優れた彼女が気付かぬ筈はなく、本当の事がわかってしまえばきっともう会う事は出来なくなる。
「彼女は……真っ直ぐな生き方をして来た人だから、私のついた嘘を許してはくれないだろう」
カイル王子はそう言って寂しそうに笑った。
人を思う気持ちを知り始めていた王女は、兄の気持ちを察すると、いても立ってもいられなくなり、視察のその日こっそりと後をつける計画を立てた。その人とカイルの仲を、力のない自分がどうする事も出来ないが、せめてカイルが苦しんでいる事だけは伝えたい。
視察団は全員馬で出かける事を聞いた王女は、自分もその日乗馬の練習をする事にした。身なりは持っているドレスの中で一番質素なものに着替え、見てわかる装飾品はすべて外し、癖のある髪は一本にゆるく編んで垂らし、リボンで結ぶだけにする。
侍女達は王女の格好を見て首を傾げた。
「その格好で乗馬をなさるのですか?」
王女付きの侍女のシリルの質問に、王女は嘘を用意していなかった。いつもは邪魔になるからと髪をひっつめて結い上げ、それでも可愛くしたくて髪飾りを使うのだ。
「そうです、いけないかしら? 今日はこういう気分なの」
ドギマギしているせいか、言葉が強くなる。何だかおかしい、そう思われても仕方ないが王女はそれで通した。
「いけないわけではありませんが……せめて上着は着られた方がよろしいのでは? 馬上は風が当たりますから……」
それもそうだ、兄を追いかけている途中で寒くなって引き返すのでは意味がない。王女が上着を着ていると別な侍女が部屋に入ってきた。
「姫様、準備はお済みですか? 乗馬の先生が姫様の馬を連れて、いつもの広場でお待ちしているとの事です」
「……」
王女はそれを聞いて咄嗟に返事が出来なかった。乗馬の練習と言ってしまったおかげで、先生が動くことになり、しかも自分の鞍と馬は先生と供にある。計画では先生が現れる前に馬と鞍の準備を終え、今まで習った事を一通りやるとの理由をつけて出かけようと思っていた。それが、早くも先生が来てしまったのだ。
乗馬の練習とは言わずに、遠出の散歩とすれば良かった。そうすれば、王女と一緒に自分の馬がいなくなっても可笑しくはなかったのに。
だがすぐに考え直す、それでは王女一人に腕の立つ護衛の兵士が二、三人付きかねない。そうなると、とても彼らを撒くことは不可能だろう。
「姫様? ご気分が悪いのでしたら……」
王女の様子にシリルが声をかけた。
「あ、いいえ……今行きます」
乗馬の鞭を手に取りながら、王女は頭の中をフル回転させた。
(何とかしなければ……)
シリルを伴って部屋を出ながら、王女は他に意識を向かわせ隙を探そうと話し出した。
「お父様と兄上は出発されたのかしら?」
「えぇ、先ほど玄関の前にお二人の馬の準備がされていましたので……そろそろお出になる時間ではないでしょうか?」
「……それにしても、お父様がカイル兄様を連れて行くのは珍しいですわね」
「そうでもありませんよ。最近はカイル様をお連れすることが多いようです」
「……そう?」
隙を探すとなるとシリルはなかなか手ごわい。良く出来る侍女を持つとこのような時に苦労するのだ。その王女の苦労も知らず、シリルはわざとらしく大きな溜息をついた。そして、苦言を呈するかのように王女に声を掛ける。
「……姫様……私は姫様が乗馬をなさる事に反対です」
「なぜかしら?」
「乗馬が必要な事はよく承知しておりますが……障害物の練習は……ちょっと……」
「あら、馬で走るのは平原だけだとは限らないでしょう? 先生は障害物を越える練習もしておいた方が、もしもの時に都合が良いとお考えなのよ」
「もしもの時とはどのような場合の事を言われているのですか? 私は寧ろこの間のように、姫様が打身と捻挫と擦り傷だらけになる方が問題だと思います」
シリルの言う事は耳が痛かった。少しずつ上達しているものの、障害物を超えるには体が浮いてまだ安定感が足りなかったのだ。
「障害物ですもの、傷を作ってこそ上達するものよ」
「姫様が男子ならばそれで良いでしょう。でも、姫様は女子なのです……それをお忘れなく」
王女は肩を竦めた。
「せっかく傷が治ったと思ったら……」
ブツブツ言うシリルを尻目に王女は考えていた。乗馬を辞めるか……しかしそれでは馬に乗る理由が出来ない。今更遠出の散歩は言えず、このままでは乗馬の練習をミッチリとする羽目になり、父と兄の後を追う事が出来ない。
王女は焦り始めていた。今日を逃しては、カイルの慕う女性にはもう会えないだろう。会うなら彼女がショックを受けるだろう今日が一番いい。兄の気持ちを彼女に伝えるならその機会を逃してはならない。
遠くから使節団と街の人の様子を見ていれば、きっと見つけられる。わからなければハーブのお茶を扱うお店を片っ端から当たれば良い。
王女は自分の使命の様にそう感じていた。
自分の馬が使えないのであれば、他の馬で行くしかない。その問題は、厩舎へ行けば何とかなるだろう。最大の問題は、どうやってこの従順なシリルを自分から遠ざけるかだ。
長い廊下を黙って歩きながら、王女は小さく溜息をついた。窓の外に視線をやると、太陽を浴びた樹木の葉がキラキラと光を反射している。その樹木の間から何かが見えた。立ち止まってよく見てみると、それは翼のない竜のフィールだった。
「フィール!!」
突然の王女の大きな声にシリルは驚いて王女を見た。
「何て事、今日はフィールが城に来てるのね!」
王女から遠く離れた場所にいるフィールは、指の先程の大きさにしか見えなかったが、確かに長い尻尾と独特の頭の角が見て取れた。
「わたし、フィールに挨拶をして来ますわ。それから乗馬へ向かうので、先生には少し遅れると伝えて頂戴」
渡りに船だった。フィールに会えるし、シリルを自分から離すことが出来る。王女は満面の笑みでシリルにそう言うと駆け出した。廊下の先に庭へ出る場所がある。そこから外へ出ると思い切り走り出した。
「姫様!」
シリルの声が後ろで響いていたが、王女は構わず走り始めた。フィールは王女の気配を感じたのか立ち止まってこちらを向いているようだ。そのフィールに向けて王女は全速力で駆けて行く。近づくに連れ、フィールは完全に王女の方向に身を向けていた。
「フィール! ここで会うのは久し振りですね!」
その大きな足元に抱きつきながら、王女は嬉しそうに見上げた。フィールは笑っているように見える。
「嬉しいわ! 元気でした? いつ山から降りて来たのです?」
問いかける王女にフィールは手を差し出した。フィールのゴツゴツとした手は、人間一人を乗せることが出来るほど大きい。その手に王女はちょこんと座り込み、フィールは王女が座るのを確認するとゆっくりと手を胸の位置まで持ち上げた。
「今日は? 仕事が済んだら山に帰ってしまうのかしら? それとも、城に泊まるのですか?」
王女の問いかけにフィールは少し首を動かし、ククッと喉から音を出した。その途端、王女にはフィールの言わんとする事が分かるような気がする。
「そう! ソラも一緒に城に留まるのですね! 素敵!」
王女は思わずフィールの胸元の柔らかな鱗に抱きついた。フィールとの会話はいつも心に流れ込んで来て感じ取ることが出来る。みんなはそれを思念だと言っていた。安心感と喜びとの混じった不思議な感覚は、フィールと接する度に王女の中に起こってくる。それはすべての人がそうであるようで、フィールはいつも周りの人の笑顔を誘った。
暫くの抱擁の後、王女は徐にフィールを仰ぎ見た。
「フィール、一つお願いがあるのですが……聞いてくれますか?」
そして、王女はカイル王子の事を一通り話した。
「それでね……カイル兄様の慕う方に、カイル兄様の本当の気持ちを伝えることが出来れば……きっとその方は兄様のついた嘘を許してくれると思うのです」
フィールは黙って王女の話す事を聞いている。
「だから、私が少しでも力になれないかと思っているのだけど……」
王女は話す事で決心を固めていた。
「フィール、私を助けてくれないかしら……今、城を抜け出すにはあなたの力が必要なの」
王女の訴えに、フィールは考えているようだった。
「お願い!」
フィールの手の中で王女はフィールの目を見つめた後、目を閉じて手を合わせる。暫くすると目を閉じた王女の頭上で、フィールの溜息のような鼻息が聞こえた。王女が顔を上げるとフィールは仕方がないですねと言っているようだ。
「ありがとう! フィール! あなたに迷惑はかけません! ただ……私をこのままあなたの陰に隠して厩舎まで行った後、門番の人達に挨拶に行くだけで良いですから」
そして、後は門番がフィールに気を取られている間に、全力でフィールの脇を馬で駆け抜ければいい。フィールは了承したようで、王女の隠れる場所を作るために両手でお椀を作った。
「ありがとう」
王女はフィールの手の中で、出来るだけ体を丸めた。こうしておけば誰かが見たとしても、フィールが何かを運んでいるようにしか見えないだろう。王女が動かぬ限り、その手の中に王女が居るなどと思いもよらぬに違いない。
ユサユサ身体を揺らしながら、フィールは方向転換し歩き始めた。
厩舎に行く途中で、乗馬の練習をする広場を通るが、事を察知したフィールは少し遠くを歩いてくれた。指の間から広場の様子が見える。乗馬の先生は暫くは王女が来ないものと見たのか、王女の馬を柵にくくりつけている。そして、フィールに気付くと手を振った。
「フィール! 姫様との面会は終わったのか?!」
今にもこちらに走って来るような様子に王女は焦ったが、フィールがそれに答えるように一声鳴いたため先生はそれ以上近付いては来なかった。フィールの手の中で王女はドキドキしながら「ありがとう」と小さく声をかけ、フィールは素知らぬ顔でユサユサと歩いて行く。
厩舎に近付くと、フィールは腕を下ろしそっと王女を地上に降ろした。そして、王女に反対側の出入り口へ向かうよう促す。反対側にたどり着いた王女を確認して、フィールは厩舎の入口を覗いた。その途端、馬の中にはフィールに慣れていないものもいるようで、馬房の中が騒然となった。
「おい! どうしたんだ急に!」
突然に興奮し出した馬をなだめていた数人の兵士が、その原因に気付き笑い声がする。
「何だ! フィール! お前の仕業かぁ」
暫くすると、厩舎の中が静かになった。厩舎の陰に隠れていた王女が覗くと、兵士達はみんなフィールの周りに集まっていて、中には誰もいない。それを確認し王女はそっと厩舎に入った。
出入り口側に置いてある鞍の中から、端に置かれている物を手綱と一緒に拝借し、一番手前の落ち着き払った馬の柵を開けると王女は出かける準備を始めた。
「少し城を抜け出すから……今は騒がないでね」
王女は馬を安心させるように鼻を軽く叩きながら、手綱やら鞍やら鎧やらを馬に装着していく。装着し終え外の様子をうかがうと、兵士達の軽い笑い声がしていた。厩舎に入ってくる気配はない。
「良い子ね……」
王女はもう一度馬の鼻先をなでるとそのまま手綱を引き、静かに外へ出た。出来るだけ馬の足音がしないように草の上を歩き、ある程度厩舎から離れると、王女は馬に跨がった。乗馬の練習と言う事になっているのだから、見つかった場合に馬を引いているより乗っていた方が都合がいい。
「フィール! また来いよ~!」
「あいつがこうして来てくれると、嬉しいものだな」
王女が馬と出て行ってすぐに、兵士達が話しながら厩舎に入って行った。まだ、端の馬がいなくなっていることに兵士達は気が付かない。フィールは次の仕事にかかっていた。一番近い城門の方へユサユサと歩いて行く姿が見える。王女は厩舎の中を気にしつつも、軽快に馬を慣らし始めた。
フィールは門の近くに達したようだ。両サイドの門番がフィールの側に寄り声をかけている。
閉まる門の外側の兵士がフィールの側へ行くために、わざわざ門を開け場内に入る姿が見えた。
(今だ!)
王女は馬の手綱を緩め、その腹を蹴った。途端に馬は軽快に走り出す。馬上にいると馬の蹄の音がやけに大きく聞こえた。
(兵士達にこの音が聞こえません様に……)
そう願いながら厩舎の方を振り向くと、慌てた兵士達が厩舎の外に出て来る所だった。
身を低くしながら真っ直ぐ前を向きスピードを上げると、王女はフィールの大きな体の脇を一気に駆け抜けた。蹄の音に門番達が慌てた様子が見て取れたが、門の外へ出てしまえば後は突っ走ればいい。
「やったわ!」
王女はフィールを振り向き、ありがとうと手を上げた。まずは成功だといっていいだろう。使節団の通る道はカイルから聞き出し大体わかっている。後はその場所を探して追い駆けるだけ……そう思うものの、このスピードのままでは街の人に迷惑がかかるのは目に見えていた。
その先の大通りには人々が行き来している。大通りに差し掛かる前にスピードを落とそうと、王女は手綱を引き締めた。しかし、馬の反応が悪く思うようにスピードが落ちてくれない。もう一度手綱を引くが、馬はスピードを落とさず走り続けている。
「ねぇ、お願いスピードを緩めて!」
馬に声を掛けるが、それを理解してくれる訳もなく王女は焦り始めた。このまま行くと街の大通りにそのまま出てしまう。それだけは避けたかった。街頭に出ている人達が馬のスピードに驚いて道を空け始めている。
「暴れ馬だ!!!」
「女の子が乗っているぞ!!!」
道を開けながらも、野次馬が集まって来るのがわかる。
(どうしよう! なんとかしなければ!)
王女は必死に考えた。街の大通りに出る前にY字路があり右への道が川の方へ向かっている。そちらに馬の向きを変えられたら何とかなるかもしれない。目印の建物が目に入った途端、王女は力任せに手綱を右へ引いた。
馬は微かに右へ進行方向を変えた。ホッとしたもののやはり何かおかしい。手綱の感触が馬と繋がっているとは思えないのだ。厩舎で馬に手綱を取り付ける時、何もおかしい所はなかった筈だ。この脇道は大通りに比べて人通りは少なかったが、驚いた人々が王女と馬を必死に避けている。前方に川がある。橋に向かうには直角に曲がり川の脇の道を行かなければいけないだろう。
(この手綱の感触で馬の進路を変えることなんて出来るのかしら?)
目前に視界を横切る川を確認しながら、王女は冷静になるよう努力をした。川と路を仕切るための木の柵が目前に迫っている。
(……無理だわ)
手綱は既に引き締める事が出来なくなっていた。王女は馬の鬣を掴み太腿を引き締めると、振り落とされないようその首にしがみつく。馬はそのまま突進すると一メートルほどの柵を一気に飛び越え、緩やかなカーブを描いて大きな水柱と水音と共に川の中程に落ちて行った。
水しぶきは橋の欄干を超えて高く上がり、人々は呆然とそれを見ていた。
下の兄のカイルの恋。
こちらも面白いエピソードが満載なので第二部で書く予定です。




