ソラの翼
「……これが……竜なのか?」
ジークリフトが尋ねてきた。
「はい……翼のある竜のソラです」
ジークリフトは王女には目もくれず、ソラだけを見ながらゆっくりと近づいて来た。王女は急いでソラを見上げる。
「ソラ、こちらは隣国ルガリアードのジークリフト王子ですよ」
王女の言葉にソラはジークリフトを見つめ、少し首を下げて見せる。途端に、ジークリフトは飛び上がらんばかりに驚いた。
「竜は賢いとは聞いていたが……言葉がわかるとは……」
ジークリフトは真っ直ぐにソラを見上げ、少し緊張気味に直接ソラに話しかけた。
「君に……触れてもいいだろうか?」
今度はジークリフトの言葉に、ソラはゆっくりと頭を下ろして来る。ジークリフトは一瞬身を強張らせたが、自分の目の前に下ろされたソラの鼻先に触れるとホッとしたように大きく息を吐いた。
「凄いな……」
そして、ジークリフトは王女に最高の笑顔を向ける。
「私はずっと竜に会いたかったのだ」
王女の鼓動が速くなった。
「よろしくソラ……」
その笑顔は直ぐにソラへ向けられたが、王女の鼓動は治る様子がなかった。
ソラは隣国のジークリフトに心を開いたのか、気持ち良さそうに鼻を触らせている。ジークリフトはしばらくソラの鼻づらを撫でていたが、その手を止めて王女を見た。
「ソラに手綱が付けられているが、乗って飛んでもいいのか?」
ジークリフトの言葉に、王女は慌てて答えた。
「いいえ、それはいけません。馬に乗るのと同じなのですが……飛ぶのは、決まった者でなくてはいけません」
ジークリフトは残念そうに手綱に触れた。
「乗馬は得意なのだがな」
そして、哀願するように王女を見つめる。
「ほんの少しでいい……乗っては駄目だろうか?」
王女は少し首を傾げた。本当ならソラ付きの兵士が戻って来るのを待つ方が賢明だろう。本来ならば、王女の判断で乗せるわけにはいかないのだが……王女の中にはジークリフトの願いを聞き届けてあげたいという気持ちが大きくなっていた。初めての竜なのだから、存分にソラに接してもらいたい。少し乗るくらいだけなら、きっとかまわないだろう。
「では……ほんの少し、ただ乗るだけなら……」
「良いのか?!」
王女の言葉に、ジークリフトは目を輝かせ、まるで少年のように喜んだ。王女は何だか自分より年上のジークリフトが可愛らしく思えて来る。
そんな事を思われているとも知らず、ジークリフトは繰り返し王女に確認を取り、王女の手を取りギュッと握りしめた。王女は少しドキドキしながら、ソラに声をかける。
「ソラ、ジークリフト様を乗せてあげて
王女の言葉にソラはすぐに反応した。さっきよりもずっと低く頭を下げ、胸を地面につける。そうすると、ソラの腕によじ登って安定した翼の間の背中に行く事ができた。
「気をつけて乗ってくださいね」
王女は声をかけた。が、ソラの腕に足をかけたジークリフトは難なくソラの背に乗り込み、リードに繋がる手綱を取ろうと手を伸ばす。
その時、慌てふためいた叫び声が聞こえてきた。
「ジークリフト王子! 何をされているのです!!」
ルガリアードの家臣達が渡り廊下の向こう側から二人を見つけ、窓から身を乗り出している。
「殿下! 降りてください!!」
残りの家臣は中庭への出口を探している様だ。ジークリフトは悪い事をして見つかった子供のように一瞬焦った顔になった。
「降りた方が良いですね……」
王女が声を掛けると、余程残念なのだろう、ジークリフトはキュッと唇を結んだ。その間も家臣達は庭への出口を見つけ、こちらに走って来る。
「手を貸しますから降りてください。これ以上は叱られますから」
王女は少しだけジークリフトの願いを聞いてあげられた事に満足していた。そして、王女がソラの腕に足をかけ手を差し出した、その瞬間、意を決したようにジークリフトは王女の腕をつかむと力任せに引き上げた。
「あっ! 何を!!」
「いいから君も一緒に乗って!!」
そして、ジークリフトは自分の後ろに王女を乗せると急いで手綱を取り、グッと引っ張った。家臣達はすぐそこまで来ている。それを見降ろしながら、ジークリフトはソラに叫ぶ。
「頼む! 飛んで!!」
ジークリフトの気持ちが大きくて、ソラは慌ててその声に反応した。
「おぉ!!」
ソラが立ち上がると、家臣達はその大きさにたじろぎ、駆け寄るスピードが落ちた。しかしすぐに必死な形相で王子に訴える。
「殿下!! いけません!!」
だがソラは家臣達をそっちのけで、翼を大きく広げた。
「ソラ! 飛ぶんだ!!」
ジークリフトの声が響くと、ソラは 大きな翼を力強く羽ばたき始めた。
「ジークリフト王子!!」
家臣達は翼で起こる風のため近寄ることも出来ない。その間もソラは翼を動かし、足で地面を蹴るとついに空間へ飛び上がった。
「すまぬ!! すぐ戻るから! 見逃してくれ!!」
徐々に離れて行く家臣の姿に、ジークリフトは叫んだ。王女は、その一瞬の出来事になす術もなく、王子の腰にしがみついていた。
眼下に城の建物が見え、アルカス王子が唖然とした表情で見上げているのが見える。それも少しづつ小さくなっていく。風がうねりを上げて耳元を過ぎて行った。ソラが力強く羽ばたき高く舞い上がるたびに、その風に襲われる。
家臣達の声はとうに聞こえなくなっていた。二人はソラの背にしがみついたまま、目を開けることが出来ない。
ある程度の所まで浮き上がると、ソラの翼はゆっくりとした動きになった。風の音は強いが、強風は少し治まっている。果たして自分はどこにいるのか……王女がそっと目を開けると、目の前に広がる景色は一変していた。
街の塔が自分のいる場所よりずっと下に確認でき、街を行く人々が蟻の様に小さく小さく蠢いているのが見える。上を見ると空の雲が手の届くほどに近く感じ、前方には木々に覆われた山がまるで苔の塊のように見える。そして更にそのずっと奥に雪を被ったハボニアの連山が連なっているのがよく見えた。
王女は声を上げる事もできなかった。眼下に広がる、見たことのない景色は王女を圧倒して声を忘れてしまったのだった。沸き起こる驚きと感動は、王女の何もかもを呑み込んだ。
王女の視界の先には豊かな農地が広がっている。どこまでも続くその大地は、この国の豊かさを十分に示していた。
ソラはリングレント国の独特の地形である険しいハボニア連山に向けて飛んでいたが、ゆっくりと旋回すると今度は海に向けて飛び始めた。暫くすると前方に海が見えて来て、ソラはゆっくりと、だが真っ直ぐに海を目指している。
「ソラ……海へ向かっているのか?」
ソラの向かう方向が海であることに気付き、ジークリフトの声が少し弾んだ。それに答えるように、ソラは海を目指す。
遥か遠くに見えていた青い海はどこまでも青く見え、普段は見ることの出来ない程の高い場所から見ても、前方に広がる景色は空と海の境目しかない。そのうち、真下に陸地がなくなり、ソラは完全に海の上を飛び始め、王女の前方はグラデーションの青一色になった。
青い世界に漂う感覚が、王女の心を占め、言いようのない感動に涙が出そうになる。所々に白い波が見え、海の水が太陽の光を浴びキラキラと光るのがよく見えた。
「……何て綺麗なんでしょう……」
それはまるで、海が生きていて王女を歓迎しているかのようだった。
「あっ……」
王女が声を発した途端、ジークリフトが振り向いた。そこで始めて王子は一緒に連れて来てしまった王女の存在を思い出したようだ。王女はジークリフトの腰にしがみついたまま満面の笑みを浮かべた。無理やり連れてきてしまった王女のその姿を見て、ジークリフトは少しホッとしたように笑う。
「空から見る海は綺麗だな!」
「えぇとても!」
王女は瞳を輝かせたまま大きな声で返事をすると、キラキラと光る海に視線を移す。思いもよらぬこの出来事で二人は空から見る地上の様子に夢中になっていた。
「空から見る地上が、こんなに素敵だとは思ってもみませんでしたわ!」
王女はジークリフトに対する緊張感が薄れていた。
「わたしも空を飛ぶのは初めてなのです!」
王女の言葉に、ジークリフトは一瞬意外そうな顔をした。
「君は飛んだことはなかったのか?」
「えぇ! ソラに触れることは許されているのですが、飛ぶことはまだ許されていないのです」
言いながら、父ディオニシス王の怒りの顔が思い浮かんだ。しかし王女にとっては、今この瞬間、ジークリフトとソラの背に乗り大空を飛んでいることの方が遥かに重要な事だと思え、父に許されていないことなど、どうでもよい気分になっている。王女はその事をジークリフトに伝えたかった。
「こんなきっかけをくださって、ありがとうございます!」
嘘のないその笑顔に、ジークリフトは素直に笑い返した。
「確実に、君のお父上の怒りを買うと思うが……この経験に比べればどうという事はないな」
そう言いつつも、ジークリフトの中でもこの素晴らしい体験を無下にしたくないようだ。
「叱られても大丈夫です! わたしもへこたれませんから!」
「私は君の様な妹が欲しかった!」
ジークリフトは優しい笑顔を王女に向けると、進行方向を向いた。
ソラは今度はユックリと旋回し、離れてしまった陸を目指した。海から見える陸は山陰がくっきりとして、深い緑と海の青のコントラストが一段と美しく見える。遠くから望んだ港街は山から続く街道が白い糸のように見え、その糸が集まる場所が街になっている。その様子がこの高さから見るとよくわかった。近づくに連れ人々の往来の様子も見え始め、ソラの飛行に見上げる人も見えて来る。
「あっ! ほらあそこ! カモメがついて来ている!」
突然、ジークリフトが指差しながら声をかけた。指さされた方向を見ると、確かに二人に興味を持ったカモメが、ソラの後ろから左右に蛇行しながらついて来ている。まるでソラを煽っている様だ。そのうち、さらに数羽のカモメの一団がやって来た。でも、ソラはおかまい無しで悠然と飛んでいる。その様子が王女には心地良かった。ものに動じないソラを誇らしく感じる。
「ソラ! 最高だ!」
きっとジークリフトも同じ様に感じたのだろう。思わず叫んだジークリフトにソラは呼応するように一声大きく鳴くと、街の上をぐるりと周り、それからリングレントの城へ向けて飛び始めた。
「ソラが喜んでいます!」
王女はそう言いながら、ジークリフトとソラが仲良くなったことがなにより嬉しかった。ジークリフトの後ろ姿を見つめ、嬉しくて思わず腰に回している腕に力が入る。
ソラは今度は確実に城を目指し始めた。次第に城に近付くのを確かめながら、王女はこの小さな冒険が終わりに近づいている事を感じていた。もうすぐこの奇跡は終わるのだ、そう思い王女は片方の手を離すと自身が座るソラの背を軽く撫でた。ソラが二人を乗せて飛んだ時間は、そう長くはない。でも、素晴らしい体験だった。
「ソラ……ありがとう! 私は生涯この経験を忘れない! 君は大きな視野で物を見る事を現実的に教えてくれた! 最高の私の友だ!」
喜びで高揚したジークリフトが叫ぶ。ソラは城の上空に差し掛かると、城壁よりずっと高く飛び、一度城の上をぐるりと周った。上空から下を見ると大勢の兵士達がソラの動向を仰ぎ見ているのがわかった。ソラがいつも降りる場所には、すでに大勢の城内の人々が集まっている。その中にディオニシス王とアルカス王子の姿もある。少し離れた場所には、先ほどジークリフトを止めようとしたルガリアードの側近達もいた。ディオニシス王の顔は怒りに満ちていたし、側近達は気が気ではないような表情で立っている。
その様子を確認してから、ジークリフトは王女を振り向いた。
「地上へ降りると説教が待っているな……でも、私は飛んだことを後悔しない! 乗せてくれてありがとう」
「わたしも後悔いたしません! 貴方と共に飛べた事を忘れません!」
王女は心からの笑顔を向けた。ジークリフトは頷いて見せた後、舞い上がる風を避けようと目を細める。ソラは背を丸め極度にスピードを落としながら、地上へ降り立つ準備をしているようだ。程なくしてガクンと落ちる感覚があり、ソラは地上に降り立った。と同時に待ち構えていたソラ付きの兵士が駆け寄って来る。
「お二人共ご無事で!」
そう言いながら、ジークリフトの投げた綱を受け取った。
ジークリフトは王女に笑いかけると、先にソラの背から飛び降り王女に手を差し出した。ジークリフトのその行動は、抱きとめるから安心して飛んでおいでと言っているように思える。王女は躊躇なく大きくジャンプをするとジークリフトの胸元めがけて飛び降りた。ちゃんと抱きとめてくれるという安心感が、王女を大胆にさせる。ジークリフトは王女をしっかりと抱き止めてから微笑み、王女はその笑顔を見て朗らかに笑った。
「今度はフィールに会ってください。フィールもソラに負けず劣らずとても素敵な竜なのですよ」
ジークリフトは楽しそうに笑いながら頷いた。この事件の共犯である事が二人の距離を縮めていた。
「あぁ! 約束だ……次に会えるのを楽しみにしている」
そして、そっと王女を離した。
気がつくと、ルガリアードの側近達が傍に来ていた。
「ジークリフト様! ご無事で……」
中の一人は泣きそうになっている。その姿を見ながら、ジークリフトは済まなそうに詫びた。
「心配をかけて悪かった……だが、何にも代え難い体験をさせてもらった」
治まらない興奮がジークリフトを雄弁にしていた。そう言って笑うジークリフトに、アルカス王子が厳しい顔で近付いて来た。
「無事でよかった……しかし……」
何か言いたげな風ではあるが、言葉を切るとディオニシス王の前へ向かうよう仕草で示す。王女もジークリフトも覚悟を決めなければならなかった。視線の先に立つディオニシス王の表情は怒りが見えていて、まともに見ることが出来ない。ディオニシス王の前に進むと、興奮を抑えつつジークリフトは先ずは自分の行動を詫びた。
「許可もなく竜に乗り、王女までも連れ出してしまい、申し訳ありませんでした!」
王女とジークリフトはディオニシス王の言葉を待った。
「うむ……無事で何よりだ……」
ジークリフトを見据え、押し殺したようなディオニシス王の声が漏れた。
「頭を上げられよ……」
低い声のトーンから怒りは頂点に達している事が窺える。二人は覚悟を決めるしかなかった。ディオニシス王の目は怒りでいっぱいになっている。その目を見た瞬間、二人の喉の奥で唾がゴクリと音を立て落ちていった。
ディオニシス王は真っ直ぐにジークリフトを見ていた。そして、一喝する。
「いい加減になされよ!! 貴公は上に立つ人間としての自覚があるのか!!」
その怒りは、身も竦む程のものであり、怒鳴り声は国中に聴こえるのではないかと思う程のものだった。
「そしてソル!! お前は何故ジークリフト殿下を止めぬのだ!!」
ディオニシス王の説教は延々と続き、最終的には王女は自室で一週間の謹慎を命じられ、ジークリフトは滞在期間中ずっと、ジークリフトより一つ年上のカイル王子と共に民を率いる人としての講義を受ける羽目になった。
ジークリフトが帰る時、王女の謹慎は解けていなかったため、会うことは出来なかったが、二人の中ではそれからもずっと、この出来事は忘れられない体験として心に残り、王女の中では、これを境に恋心が大きく育つことになっていく。




