リナレス城の温室
一番下にイラストがあります。
二度目に会ったのはリングレントの建国二百年のお祝いから二年が過ぎた、王女が七歳の時だった。
隣国のルガリアードは竜の居るリングレントに比べ、東北に位置していた。
春になると、それまで大地を覆っていた雪が溶け出し、あらゆる動植物達が目覚め始める。
リングレントは国内の北側の地域以外は、ほぼ温暖だったが、標高の少し高いルガリアードは冬には南側の一部を除き多くの地域を雪で覆われる。それだけに、ルガリアードの人々の春に対する憧れは大きかった。
ルガリアードには、毎年春に行われる『すずらん祭り』があった。春を知らせるスズランの花が開き始める頃、『すずらん祭り』は行われる。そして、その祭りの後からルガリアードは一気に春へと変貌してゆくのだ。
リングレントのディオニシス王とアリシア王妃は、毎年『すずらん祭り』のフィナーレに、宮殿で催される舞踏会に招待されていた。
その年の舞踏会も行く予定にしていたのだが、直前になってアリシア王妃が酷い風邪を引いてしまった。ディオニシス王は仕方なく舞踏会は断り、その代わりにこども達を連れて祭りの名物とされた、サーカス見物をすることにした。これを聞いた三人の子らは大喜びだ。
遠い異国から巨大な動物がやってきて、サーカスの人々と共に芸を披露する、という触れ込みを聞かされたこども達は想像力を膨らませた。その動物はこの国にいる竜達よりも大きいのだろうか? 竜達よりも賢いのだろうか? 披露する芸とはどんな物なのだろうか? 興味は尽きる事なく、こども達の頭の中で膨らんでゆく。
そしてこの旅行は、王女にとっては初めての旅行でもある。待ち遠しい心は頂点に達し、王女の興味は尽きない。宮殿以外の場所で宿泊する事も、長い時間馬や馬車に乗る事も、ルガリアードへ行く事も、全てが初めての体験なのだ。
しかし、この計画は実行される事はなかった。
出発を数日後に控えたある日、ルガリアードから『すずらん祭り』を取りやめる報せが来たのだ。
理由はルガリアードのブルーナ王妃が死去した事にあった。元々身体が弱かったブルーナ王妃はここ二、三年寝込む事が多くなっていた。その為リングレント国の建国二百年の祝にも長旅は身体に障るからと辞退していたのである。
リングレントのアリシア王妃にとってブルーナ王妃の死去は、余りにも辛い出来事だった。二人は心からの良き友だったのだ。病み上がりではあったが、アリシア王妃はどうしても葬儀に出ると言い張った。
ディオニシス王はルガリアードの弔の儀には一家総出で出向く事に決めた。
楽しいはずの旅が一転して悲しい旅になった。いつもは、街道沿いの街の視察をしながら時間をかけて行くのだが、この時は真っ直ぐにルガリアードへ向かう。
王女の初めての旅は、馬車の中から外を眺めるだけとなった。口数の少ない馬車の中で、王女はジークリフトをはっきり思い出せなかったが、自分のその時の気持ちは微かに覚えていた。優しく笑う顔を思い出そうとしたが、ぼんやりとしていて彼に対しては良いイメージだけが残っている。
王女は前に座る母を見た。病み上がりのアリシア王妃もぼんやりと外を見ていた。ただでさえ覇気のない横顔は、消え入りそうに見える。この母が突然居なくなってしまったら……。それを考えるだけで、王女は身震いした。
母を亡くしたジークリフト王子は、今頃どのような気持ちで居るのだろう。
ルガリアードに到着すると、通りに出ている人々も疎らで、街の全てがひっそりとしていた。
一行はそのまま、葬儀を執り行う教会へ向かった。教会の前の広場には、ルガリアード国の人が全て集まったのではないかと思われる程の人々が集まっている。その光景は、ラディウス王一家がどれほど国民に慕われているかを物語っていた。
教会に入ると、すでに数多くの人々がいた。リングレントの王一家が入って行くと、人々はその道を開け、王一家は祭壇の奥へと進んでいく。
人々が開けるその道の先に、ブルーナ王妃は胸の所で手を組み横たわっていた。大きな十字架の下の祭壇の上に美しい布が敷かれ、色取り取りの花で周りを埋め尽くしている。
横たわるブルーナ王妃はとても美しい人だった。アリシア王妃はその姿を見て人目も憚らず大粒の涙を零した。取り乱すことはなかったが、何度も何度も目頭を押さえてはブルーナ王妃の姿を見つめ続けている。
葬儀に並ぶラディウス王の横にジークリフトの姿はなかった。出席する事が出来ないほど憔悴しているのかも知れない。
王女は横たわるブルーナ王妃の横顔を、美を司る女神のようだと感嘆と悲哀の気持ちで、ただただ見つめていた。
別れの儀式は静かに始まった。司教が頭を垂れて祈りの言葉を口にする。それは、音楽のように教会の中に拡がっていく。王女は周りの人と同じように頭を垂れて、手を組んだ。
長い祈りの言葉が終わって、顔をあげると、いつの間に来ていたのか、ラディウス王の隣にジークリフトの姿があった。
ジークリフトの顔は無表情で、真っ直ぐに祭壇上のブルーナ王妃を見ている。その姿を見て、王女はあぁそうだった……と思いだした。初めて会った時も、ジークリフトは何を考えているのかわからない表情だった。こうして見ると、ジークリフトはその母のブルーナ王妃にもよく似ている。
やがて、儀式は祭壇の前に置かれた棺の中に、祭壇上のブルーナ王妃を寝かせる儀式に移行して行った。
司教の祈りと共に選ばれた司祭達が祭壇上の布ごとブルーナ王妃を花で覆ったまま持ち上げ、ゆっくりと棺の中に寝かせてゆく。ラディウス王は寝かされた自分の妃に近付くと、もう一度しっかりとその顔を見つめ、そっと手を延ばしその頬に触れた。
ラディウス王がどれほど妃の事を愛していたのか、その様子だけで見ている人々には痛いほど伝わっていた。我慢出来なくなった侍女達の啜り泣きがあちらこちらから聞こえて来る。
ラディウス王は何度もブルーナ王妃の頬を撫で、最後に口づけをして離れた。
次にはジークリフトが棺の傍に立ち、母との別れに入る。ジークリフトの顔はこちらから見えなかったが、しばらく立ったまま母を見下ろし、それから静かに離れた。自分の位置に戻り、振り向いたジークリフトの表情は、やはり無表情だった。
突然、教会の鐘が鳴り響いた。それが合図のように街中の塔の鐘が、ブルーナ王妃のために打ち鳴らされる。やがてその音は人々の祈りと一つになって、高く高く空へ舞い上がって行く。
その荘厳さに、幼い王女は言いようのない思いに駆られ涙が出た。
ブルーナ王妃の遺体はこのまま一日の間置かれ、翌日埋葬される事になっていた。国中の人々の献花の列は止まることがない。
ディオニシス王と二人の王子達は一泊した後帰っていったが、アリシア王妃と王女はその後も三日留まる事にした。
その夜、アリシア王妃は王女にブルーナ王妃との様々な出来事を静かに話してくれた。
「私とブルーナはね、生涯の友なのです」
そう話し出したアリシア王妃の瞳には溢れ出た涙が玉になっている。こぼれ落ちる前にアリシア王妃はそっと涙を拭った。
王女は母の話から『生涯の友』と言うものは、人に勇気を与え、心を強くし、優しくする物なのだと知った。
翌日、ブルーナ王妃の埋葬の儀が執り行われた。
ジークリフトは、初めから無表情のまま参列していたが、儀式の終わる直前に一人城へ帰ってしまった。
王女はその姿を見て寂しさを感じた。涙も見せず悲しみも見せないジークリフトの態度は、王女にとって理解し難いものだ。
王族や貴族は感情を表に出す事を良しとしない。その事は十分にわかっている。王女も感情を素直に出した時、侍女に注意される事が多かった。
でも、それとこれとは別のように思う。
(ラディウス王は素直に悲しみを見せていたわ……ちゃんと伝わって来たもの)
でもジークリフトの姿からは何も伝わって来なかった。そして今も何を考えているのだろう。ちゃんと視線を合わせれば、無表情の瞳のその奥に何かを見る事は出来るのだろうか?
埋葬の儀式は進み、ブルーナ王妃の眠る石棺を土に埋めると主だった人々だけが残り、人々はそれぞれ戻り始めた。
アリシア王妃はブルーナ王妃と二人だけで語らう時間が欲しいとその場に残る事にし、王女に部屋に戻っているよう申しつけた。
アリシア王妃が細かい指示を侍女に伝えている最中、王女は言いつけを守り部屋に戻るべく歩き出した。
沢山の人が庭に出ていた。その間を抜け王女は歩いて行った。
王女の泊まっている館は宮殿と別棟だったが、今いる場所から城をぐるりと回らなければならなかった。王女はふと宮殿内を横切れば近道になると思い、宮殿に入って行った。
宮殿の中は喪中ということもあって静かだ。時折りどこかで靴の響く音と共に侍従達の声が聞こえるが、それもすぐに遠くなり聞こえなくなる。
王女は自分の泊まる館の方向の出口に向かって歩きながら、周りを見回した。
ルガリアード国の宮殿は美しい事で名を馳せている。見上げると、その理由がよくわかる。
美しい装飾を持つ真っ白の柱は、壁の模様と色を際立たせるのに十分過ぎる程の役目を果たしており、宮殿の細部に至って、全てが統一された美の元で作り上げられている。
何がどう美しいのか、王女にはまだ理解するには幼すぎたが、この宮殿が際立って美しいという事は理解できた。
どの位歩いただろう。気付けば王女は自分が何処にいるのかわからなくなっていた。館に向かって歩いていた筈なのだが、宮殿内は、王女が思うほど単純な構造ではなかった。
真っ直ぐに突き抜けられると思っていたら行き止まりだったり、階段に繋がっていたり、明らかに違う方向へ向かっていたり。王女は自分の場所を把握する事が出来なくなってしまった。
迷ってしまった事に気付く前に、何度か侍従とすれ違ったが、特に咎められる事はなかった。王女自身迷っている自覚がなかったため、城内の侍従に尋ねる事もしなかった。
気付いた時には時すでに遅し、ここは城の中のどの辺りなのだろう。大きな窓はあるが、外の音も聞こえない。
(どうすれば良いかしら……)
外部の音が聞こえない事で遮断された閉塞感が、王女をなお不安にさせていた。耳を澄ませてみても、王女の周りは静寂しかない。
王女は自分の泊まる館の方向を知りたいと、大きな窓の外を見て歩みを止めた。
王女の視線の先には、窓の外に大きなガラスを嵌め込んだ壁があった。その向こう側に植えられている緑の木々の姿が、ここからもハッキリと見える。
(あの場所から出る事が出来るかもしれない)
王女はその壁の場所へ向かった。ガラスの壁がある場所はすぐにわかった。そこへ近づくと、外の緑が溢れんばかりに見えたのだ。ガラスのドアを一枚開けると、難なくその場所に入る事ができた。
しかし、扉を抜けると王女は驚きで目を見張った。外だと思っていたその場所は、大きな建物の中だったのだ。その中は信じられない程明るく、建物の石壁の所々が大きくくり抜かれガラスの板が嵌め込まれている。さっき見えた壁はこの部分のようだ。上を見ると屋根にもガラスが嵌め込まれている。この部屋が明るいのは、ふんだんに使われたガラスを通って入ってくる太陽の光が、この部屋の中を照らすからだった。
さらに王女を驚かせたのは、建物の中が庭園になっているという事だ。大きな木が幾つも植えられていて、程良い木陰を作っていた。その樹木の根元には小さな木立が数多く植えられていて、花を付けた木立も沢山あり、仄かな花の香りがしている。
園路の先は湾曲していて見えないようになっているが、そのせいだろうか広がりを感じる。建物の中ではあったが、配置された花々と木々が心地よい空間を作りだし、まるで楽園のようだ。
何処かで水の音がしている。きっとこの中の何処かに水の流れがあるのだろう。
王女は溜息をつき、周りを見回した。余りにも見事な庭園に声も出ない。
進んでいくと園路は二手に別れ、それぞれが更に奥へと繋がっている。どちらに行こうか……そう思いながら王女はさっきまでの不安が薄れているのを感じた。
そのまま道なりに奥の方へ行くと、ベンチが置いてあるのか、背もたれのある木の椅子の端が見えた。少しここで休ませてもらおうと、更に歩き木立を廻り込んだ所で、王女はベンチの向こう端に人が一人、こちらに背を向けて座っているのに気付いた。
その人は背中を丸め、頭を抱えるようにして座っている。
王女は驚いて、急いでその場所を離れようとした。だが、それがジークリフトであるのに気づき、動けなくなった。
ジークリフトは、王女が入ってきた事に気付いていなかった。それだけでなく彼は声を殺して泣いていた。肩が小刻みに震えているのが見える。
身動きできないまま王女はその後ろ姿を見つめた。立ち去るには思いがけない出来事でどうして良いのかわからなくなってしまったのだ。
不意にジークリフトは頭を上げた。鼻をすすって手で涙を拭い、自分の前方の花を眺めそのままガラスの天井を仰ぐと、その向こうに見えている青い空に向かって話しかけ始めた。
「……まだ話したい事が沢山あったのに……母上、今の私はどうやって約束を守ればいいのか解らない……」
その姿を見た王女は今までのジークリフトの態度を漸く理解した。
(あぁ、この人は皆の前で泣く事が出来なかったのだわ)
そして、目をギュッと瞑った。見てはいけない、聞いてはいけない、そんな思いが湧き上がってくる。もし自分なら隠し通してきた状態を人に知られたくはないだろう。
目を開けジークリフトを見ると、彼はまだ王女に気付いてはいなかった。このままジークリフトが気付く前に出て行こう。そう思って、王女は後ろへ下がった。
その時、足元の小枝を踏んでしまった。やけに大きくパキッっという音がして、王女は目を瞑り身を硬くした。




