71.エピローグ
ざくざくと緑の草の上を駆ける少年がいた。
方向を確認せずがむしゃらに走っているため、本来石畳がある道から逸れ、芝生の広がる場所を横切る状態になっている。
不意に走っていた足を絡ませた少年は、前方につんのめり、そのまま転けてしまう。
「うっ」
芝生の上で、大した怪我はしなかったものの、少年は痛みに表情を歪める。涙が出そうになったが、それはなんだか悔しくて堪えた。
涙は堪えられても、痛みがなくなる訳ではなく、転倒したのは目の前の芝生のせいだと感じた少年は、ぶちぶちと草を千切り始めてしまう。
「こらこら、坊主。芝生を毟られたら困る」
それに反応したのは、ちょうどその芝生で作業をしていた男だった。慌てて、少年の脇の下に手を入れ、持ち上げることで行動を止める。
ぶすっと不機嫌な表情を貼り付けたままの少年は、千切った草を両手で握ったまま作業服の男がいた場所を見遣る。そこには底の浅い皿のような籠があり、自分の手にしているのと似た草が盛られていた。
「お前も同じ草むしってるじゃないか」
「坊主には同じに見えるかもしれねぇけど、ちょっと違うんだよ」
少年を降ろして立たせたあと、籠から一つまみの草を取り、少年の握り込んだ草に近付ける。
「ほら、坊主の持ってるヤツの方が緑が青いだろ。こっちの緑が薄いのは勝手に生えてきたヤツだから取ってたんだ」
近くで比べて見てみると、確かに少年の握る草は緑が濃く、青々としていた。よくこんな見分けがつくな、と言ったら、慣れているからだ、と作業服の男は笑った。説明を受け、ようやく千切ってはいけない方の草を取ったのだと理解した少年は、握っていた草を差し出した。
「返す」
「ありがとな」
返されても元には戻せないと解っていながら、男は受け取り、少年に礼を言った。悪いことをしたのだと理解し、少年が草を返したからだ。
「転けてたけど、どっか怪我してないか? あ、ほっぺ赤いな」
わずかに付いた土や草を払いつつ、擦り傷などがないか足元から上へと男が確認すると、少年の左頬が赤らんでいた。転倒したときに打つけたのかと、男が心配すると少年はそれを否定した。
「これは、たたかれた」
不機嫌なまま、少年は呟く。
「何で、叩かれたんだ?」
誰かに打たれたと少年が言うので、そうされた理由があるのか問うと少年は押し黙った。
しかし、しばらくして、ぽつりと零した。
「ブスって言った」
「女の子か?」
こくり、と少年は首肯する。眉を顰めたままの少年に、男は仕方ないとでもいうように笑った。
「その娘、ブスだったのか?」
「だって、オレの方が美人だっ」
自身の方が容姿が優れていると主張する少年は、その主張通りの美しさを持っていた。柔らかく波打つ金糸の髪は眩く、藤色の瞳は長い睫毛に縁どられている。唇も血色のよい桃色で、肌は打たれた箇所の赤が目立つほどの白さだった。
正しい主張に男は可笑しそうに笑う。
「そりゃ、大概のヤツより坊主は美人だろうな」
「……っなのに、父様も母様もアイツのことばっかり可愛いって言った!」
経緯は判らないが、両親が自分を打った少女のことばかり褒めたために、少年は拗ねてしまったらしい。その少女に親の愛情を盗られると思ったのだろう。
「そっか」
屈んで、ずっと少年と視線の高さを合わせたまま、責めるでもなく問いかけだけをして男は話を聞いた。
「で、ブスだったか?」
もう一度問われ、少年はしばらく考えた。少女の容姿を思い出す。地味な色合いのよくある色の髪と瞳をした少女だった。
「……ブス、じゃない」
自分を打ってきたから中身に関しては可愛げがないと感じるが、容姿だけでいえば素朴なだけで器量が悪い訳ではなかった。
「じゃあ、それは謝らないとな」
こくり、と少年が首肯したのを確認して、男は少年を持ち上げた。
「うわっ」
謝りに行こう、と男は少年を肩車して邸の正面玄関へと歩き出す。急に高くなった視点に少年は驚いたが、いつもよりずっと高くて広い視界に少なからず気持ちが高揚した。
作業着の男に運ばれて開いたままだった正面玄関のドアを潜ると、少年の両親たちとこの邸の面々が待ち受けていた。
「よかった、ハルくん戻ってきたっ」
「ハルっ、アンタねぇ、自分を美人って言うのと相手をブスって言うとのは違うって教えたでしょ!」
「あっ、お前狡いぞ!」
少年の母親は戻ってきたことに安堵し、父親は言葉を間違えてはいけないと叱った。それとは別に、肩車されている少年を羨ましがって少女の兄と思しき少し歳上の少年が男の足にしがみついた。
しがみつかれた男は、足元の歳上の少年に後でな、と断りを入れ、肩車をしていた少年を降ろした。
「ほれ」
男に軽く背中を押され、少年は少女の前に立たされる。銅色の瞳を前にして、躊躇した少年は一度眼を逸らし、それから意を決して正面から少女を見た。
「……さっきの、ウソ。ごめん」
「ん。いーよ。リゼもたたいて、ごめんなさい」
「よし。二人とも偉いぞ」
お互いの謝罪が済んだ瞬間、わしわしと大きな手に二人の頭は撫でられる。突然のことに少年は驚くが、少女にはいつものことのようで嬉しそうにはしゃいだ声をあげていた。その笑った表情は可愛いといえるものだと、少年は思った。
「いつまでその格好でいますの? そのままではリーゼルやイグナーツの服まで汚れてしまいますわ」
「悪い」
邸の主に忠告され、そうだった、と男は上下が繋がった作業着のボタンを外し簡単に脱ぎ取った。
服の上から作業着を纏っていたようで、シャツを着てズボンを穿いており軽装ではあるが自分と同じ貴族のそれに少年は眼を丸くする。てっきりこの邸の使用人だとばかり思っていた。
本当の使用人に脱いだ作業着を預け、男はリーゼルと呼ばれた少女を抱き上げた。
「それにしても、なんで叩いたんだ? リゼ」
「……リゼがたたかなかったら、お兄ちゃんがぐーでぶってた」
「そっか、兄ちゃんが嫌われたくなかったんだな」
「僕は、リゼを悪く言う奴なんか、嫌われても平気だ!」
「だめ」
頑として譲らない妹に、兄はすでに謝って済んだことを蒸し返せなくなった。兄は不承不承、少年に手を差し出す。
「イグナーツ・フォン・エルンストだ。リゼに免じて、よろしくしてやる」
「ハルトヴィヒ・フォン・ルードルシュタット」
差し出された手を握り返して、ハルトヴィヒはイグナーツを見る。自分より一つか二つ上であろう彼は、淡い金の髪に淡い青の瞳をしていた。
「リーゼルです。お兄ちゃんもきれーでしょ?」
「うん……」
兄にぴとっとくっついて名乗るリーゼルは、第一に自分の兄の自慢をした。審美眼を正しく鍛えられているハルトヴィヒは、彼女の言い分を認める。彼の答えに満足げに笑うリーゼルは、鳶色の髪と銅色の瞳でハルトヴィヒを運んできた男と同じ色合いだった。
「お父さんおっきーから、肩車楽しかったでしょ」
「え」
「俺はイザークだ。よろしくな、ハル」
また屈んで同じ高さで名乗られ、ハルトヴィヒは意外そうに呟いた。
「じゃあ、公爵様?」
公爵家であるエルンスト家の令息と令嬢の父親ならば、彼が公爵かと思った。しかし、イザークはそれを笑い飛ばして否定する。
「違う違う。奥さんのディアが公爵様」
促されて彼の隣を見上げると、淡い金の髪に淡い青の瞳の女性がいた。イグナーツはその容姿の美しさ含め彼の母と酷似しているのだと、ハルトヴィヒは知る。
「わたくしは、リュディア・フォン・エルンストと申します。お目にかかれて光栄ですわ、ハルトヴィヒ様」
見惚れるほどの綺麗な所作で礼を執るリュディア。頭をあげ、すっと背筋を伸ばすその一連の動作をハルトヴィヒは思わず見届けてしまった。
「立ち話もなんだし、さっさとお茶淹れてくれない?」
「ニコラウス様……、ご自身の家かのように先に行かないでくださいません?」
「お姉様は私にとって永遠にお姉様なので、もう家族のようなものですよね」
「フィル様、お気持ちは嬉しいのですが、きちんと旦那様に忠告なさってください」
どうして擁護する言い分が先に出るのか、とリュディアは弱る。ルードルシュタット夫妻はどちらも本当にクセが強い。それでも邪険にできないのだから仕方がない、とリュディアは苦笑をひとつ落とした。
行きましょう、と促されてイグナーツたちもニコラウスが案内された部屋へと入っていく。
呆気にとられるハルトヴィヒが玄関先に残され、彼にイザークが声をかけた。
「ハル、行こう」
当たり前のように差し出される手は、ハルトヴィヒの知っている貴族の手ではなかった。ごつごつとした掌を確認して、イザークを見上げると、彼は解らず首を傾げた。
「どうして、公爵じゃないんだ?」
「そうだなぁ」
家督を男子なのに継いでいない理由を問われ、どう答えるか思案する。
「柄じゃないから、かな」
似合わないだけで断るのかとハルトヴィヒが余計に首を傾げると、続きがあった。
「だって、俺の奥さんの方がカッケーもん」
彼女が公爵である方が相応しい、と誇らしげにいうこの笑顔を、ハルトヴィヒは先ほども見た。兄を自慢したときのリーゼルと同じ顔だ。
公爵ではないけれど、彼は確かに彼女の父親なのだと解った。
そんな彼の手を掴み、ハルトヴィヒは歩き出す。
イザークという男の歩んできた人生に、少し興味を覚えた。
fin.
ザクたちを見守ってくださり、ありがとうございました。
願わくば、モブすらを読んだ方が自分を大事にする人生を歩んでくれますように。
また番外編でお会いしましょう。
(コミックの書き下ろしでもお会いできたら、幸いです)
※番外編(N8238FJ)







