31.背筋
眼が覚めると、心配そうな両親の顔があった。
そのことに驚き、戸惑いながらリュディアは自身のベッドから上半身を起こした。いつの間に自分は帰ってきたのかと、内心首を傾げる。
「お父様……? お母様……?」
「大丈夫かい? 私の天使、どこか痛いところは?」
「ディア、恐かったでしょう?」
父親に確かめるように頬を撫でられ、母親に抱き締められ、ようやく眠る前にあった出来事を思い出す。
「大丈夫ですわ」
正確には、もう大丈夫だった。ひとしきり泣いたためか、今は妙に感じるほど冷静に事実として受け止められる。
両親を安心させるために微笑むと、それぞれが安堵の色を見せ、リュディアはそれだけ心配させたのだ、と申し訳なさに胸が痛んだ。
「お父様、お母様、ごめんなさい。わたくしが我儘を言って無理矢理付き合わせたので、どうかカトリンは責めないでください……っ」
冷静になって、自分の軽率な行動の責任をメイドのカトリンが取らされる可能性に、リュディアは気付いた。
庭師見習いの少年が寝込んだと聞いて、最初は怒ったが、段々時間が経つにつれて心配が勝った。よくよく考えれば、彼が池に落ちたのは自分を助けようとしてのことだったので、罪悪感まで湧いた。
いつもなら彼に会いに行く時間になると、心配と罪悪感が限界に達し、カトリンに見舞いに行きたいと懇願したのだ。顔を一目見れば安心するから、と押し通したのは自分だ。
そのときは、あんなことになるなんて欠片も思わなかった。己を軽視した結果を、巻き込んでしまったカトリンが被るなんて嫌だった。
「駄目だよ」
父親のジェラルドから、静かに断られ、リュディアはずしんと胸が重くなる。
「ちゃんとメイド長からお説教を受けないとね」
リュディアがぽかんと見上げると、片目を瞑ってジェラルドが笑う。
「なかったことにしないためにも、カトリンは反省しないと駄目になるよ」
全くのお咎めなしでは彼女は余計に自分を責めてしまう、と全て自分のせいにするのは自己満足だと諭され、リュディアもまた彼女の主人としての至らなさを反省した。
「ごめんなさい」
母親の腕の中で俯く愛娘を見て、ジェラルドは苦笑する。
「ディアを叱るつもりはなかったんだけどね……」
「どうしてですの……?」
叱られるべきは自分だ。いくら家族愛が強い父でも、今回の件は見過ごす訳がない。リュディアは疑問の眼を父に向ける。すると、同じ色の瞳が柔らかく細められた。
「だって、もう叱られただろう」
そういう顔付きだと指摘され、リュディアは言い当てられたことに驚く。
会いに行った庭師見習いの少年に、会った瞬間に喝破され、助かったら最初に咎められた。ただ心配されたり、無事を安堵するだけだと思っていたからとても驚いた。どこかで彼が自分に甘いと思っていたことに気付いて恥ずかしくなった。
甘やかされたくないと思っていながら、彼に甘えきっていた事実に気付かされた。
また、彼をそうさせるほどに心配させたと、握られた手の強さと呟く声が震えていたことで知った。握られた手の熱を思い出して、両手をぎゅっと握り込む。
「すでに反省をしている相手に、また同じことで責めるなんて意味がないからね」
「ディアは、反省するだけで終わらせないのでしょう?」
「はい……っ」
二度と彼を悲しませないと決めた。その決意のままに、母の腕の中でリュディアはしかと首肯した。
なら、今はただ無事を喜ぼうと改めて両親に抱き締められた。
幾日かして、第一王子のロイが見舞いも兼ねてリュディアを訪ねてきた。
庭に面した壁に硝子戸が多く、色とりどりの洋蘭がそこから覗く応接室の一つに案内する。室内から見る庭も絵画のようでいい、とロイは煌々しい笑顔を見せた。
いつものように紅茶の支度を終えたメイドのカトリンを下がらせ、人払いをする。温かい紅茶で一息を吐いた頃になり、ロイは蜂蜜色の瞳を暖炉の熱で溶かすように微笑んだ。
「さて、何かな? リュディア嬢」
期待を孕んだようにも見えるその瞳を見据え、リュディアは口を開いた。
「……以前、利用しろとおっしゃいましたよね」
「ああ」
婚約の話をした際の条件を、ロイは微笑みで肯定する。リュディアを婚約で制限する代わりに、ロイないし婚約者の立場を利用する権利が彼女にはある、と提示した。
「では、利用させていただきますわ」
不敬と取られるだろう言葉を、彼女なりの決意をもってリュディアは口にする。
「僕と婚約する、と?」
ロイの確認の言葉に、リュディアは首肯した。
「はい。現時点でロイ様以上に、わたくしの結婚相手に適した方はおりませんもの」
「理由を聞いても?」
婚約する理由ではなく、決断に至る理由をロイは問う。
「わたくしは、わたくしの大事な者たちを守る力がほしいのです」
誰も悲しませたくはない。少なくとも、自分の手の届く範囲の者たちが笑っていられる未来がほしい。
「そのために、わたくしは世界を知りたいのですわ」
世界のすべてを知りたいのではない、自身の価値を知り身の振り方を見極めるために、自分を取り巻く世界がどういうものかを把握したい。ただの公爵令嬢のままでは狭い世界しか見えない。リュディアが思いつく一番手っ取り早い手段が王族であるロイとの婚約だった。
だから、ロイを利用する。王族と縁を持つことによる制限も、自身だけで身を守れないリュディアには好都合だ。
リュディアの決意の籠った瞳に、ロイは一度瞬き、そして表情を綻ばせた。
「いや、リュディア嬢は実に凛々しいな」
「ザクみたいなことを言わないでください……」
女性向けの表現を用いているが、今のロイの言い振りは庭師見習いの少年にカッコいいと褒められたときのそれだ。褒められている気がしなくて、リュディアは半眼になる。ロイは妙なところが彼と似てしまった。
だが、彼と異なり、失礼した、とすぐに詫びてくれた。
「では、交渉成立だな。これからよろしく頼むよ、婚約者殿」
椅子から立ち上がり、歩み寄ったロイはリュディアに手を差し出した。
リュディアも立ち上がり、差し出された手を握り返す。
「よろしくお願いいたします。ロイ様」
ああ、それから、とロイはにこやかに付け足す。
「勿論、どちらかに乞う相手ができたときには婚約解消するから、その点において隠し事はなしにしよう」
「わかりました……けど、ロイ様にはそういう方がいらっしゃるんですの?」
まるで相手ができるのが前提の口振りに、リュディアが訊ねると、ロイは笑みを深くした。
「まだ分からないんだ」
「はい?」
「まだ出逢っていないからな」
出逢うのは確定事項らしい。彼の確信がどこからくるのか判らず、リュディアは首を傾げる。ロイはただ微笑み返すだけで、仔細を語る気はないようだった。
そして、ロイはある可能性を提示する。
「リュディア嬢が出逢う方が先かもしれないな」
「わたくし、は……」
否定も肯定も即座に出ず、リュディアは言葉に詰まる。一体何が喉に引っかかったというのか。
一度躊躇った答えに、リュディアが困窮していると、くつくつと音が聞こえ、視線をやるとロイが可笑しげに笑っていた。
「ロイ様?」
「いや……、僕たちはお互いが眼中にないのだと思ったら、なんだか可笑しくて……っ」
ロイに言われて初めて気付いた。リュディアもロイも婚約者になった相手を好きになる可能性を一切考慮せずに話していた。
勿論、嫌いな訳はなく好意がある相手だが、それは飽くまで友人として、だ。
「そういえば、そうですわね」
気付いてしまうとなんと滑稽な話だ、絶対に好きにならない相手と望んで婚約するなんて。リュディアも可笑しさが込み上げてきて、一緒になって笑った。
一頻り笑ったあと、互いに眼を合わせる。
「わたくし、ロイ様が好きですわ」
「僕も、リュディア嬢が好きだよ」
するりと伝え合い、またさらりと受け取る想い。
絶対に好きにならない相手であり、だからこそ絶対に嫌いにならない相手だ。
きっと大きな決断をしたのだろう、とリュディアは頭の片隅で思う。だが、共謀者が彼だと大したことではないように感じるから不思議だ。
この日の決断を後悔する日が来るのだろうか。
ふと考え、即座に首を横に振る。
きっと、誇りに思いこそすれ後悔はしないと確信に近い予感がした。
年が明け、新年を祝うパーティーで正式にロイとリュディアの婚約が公表された。
その数日後、リュディアは邸の庭を一人で散策していた。パーティーでは多くの人に婚約のことを騒がれたが、我が家の庭にいるとそれも嘘のような静けさだった。
冬の庭にリュディアの歩を進める音だけが短く鳴る。
通い慣れたあるようでない道を辿る。気付けば一人でも目的地に着けるほどになっていた。これも成長と言っていいのだろうか、とリュディアは内心ごちる。
普段案内をする彼がそうするから、知らず小さく唄を口遊む。
そうして見えた垣根を、外套のフードを被ってから潜り抜けた。
開けた視界には、冴えた白い陽光が降る場に西洋木蔦を纏った噴水が鎮座していた。蔦は直接噴水に根を張らず、木で作られた柵が一周しており、その柵に絡みついている。
そんな噴水を労わるような配置をしたであろう張本人は、噴水の傍らでうずくまって作業をしていた。
「あれ? お嬢」
見ていたら、こちらに気付いて庭師見習いの少年が顔をあげた。軍手のままで汗を拭ったためか、頬に土が付いている。
気付いていないだろう土に、リュディアは笑みを零した。
「まだできてないのに」
完成した状態で見せれないのを残念そうに彼が呟く。リュディアは庭師見習いの少年の隣まで移動し、彼が作業していたものを見る。
「兎?」
そこにあったのは寒白菊の白い毛と紅弁慶の紅い眼をした白兎だった。
「これなら雪兎よりは持つだろ?」
噴水の縁に座して眺められるように描かれた兎は一匹だけだが、まだ完成していないと言っていたのでこれから増えるのかもしれない。
「可愛いですわ」
絵心に自信がなかったのか、リュディアの感想に庭師見習いの少年はそっと安堵の息を吐いた。
去年、雪兎が溶けるのを残念がり、父のジェラルドに魔法までかけてもらったのを覚えていたのだろう。些細な一つ一つの思い出を覚えていてくれている事実と、その優しさに心が温かさで満ちる。
「完成したら、フローラにも見せたいですわ」
「おう、いいぞ」
妹も喜びそうだと言うと、彼は笑って了承してくれた。次の予定が立って、リュディアは近い未来が楽しみになる。
また作業に戻ろうとする彼を、リュディアは呼び止める。
「ザク」
「なんだ?」
首を傾げながらも、こちらを向いて庭師見習いの少年は続く言葉を待つ。
冷えた空気を一度吸い込んで、リュディアは告げた。
「もう、ダンスの代役は必要ありませんわ」
「へ?」
「ロイ様と婚約しました」
吸い込んだ空気で心の臓が冷えたような錯覚を覚えた。ただの事実を告げただけだと言うのに。
庭師見習いの少年は、銅色の瞳を丸くして、一拍置いて理解したようだった。
「おめでとうって言っていいのか?」
気遣わしげに問われ、リュディアは笑ってしまう。最初にリュディアの意に沿うものかを心配するのか。彼は本当に自分を優先しすぎだ。
「分かりませんわ」
「は?」
「だって、わたくし、ロイ様のことが好きですけど好きじゃありませんもの」
大好きな絵本に出てくる王子様そのもの。エルンスト家にとっても最良の相手。好きにならない方が奇怪しい。
だが、実際にその奇怪しいことが起こってしまったのだから仕様がない。
庭師見習いの少年はじっと考える素振りを見せる。
「……お嬢は、嫌じゃないんだな?」
最終確認で訊かれ、リュディアは晴れ晴れと笑ってみせた。
「わたくしが決めたことですもの」
「そっか。お嬢はカッコいいな」
善し悪しではなく、ただ彼にとっての最上級の賛辞を受ける。彼が静かに微笑むのを見て、やはり少し大人びたと感じる。
「嬉しくありませんわ」
「褒めてるのに」
「褒めてません」
態と剥れて見せると、誇らしげな笑顔を向けられた。そんな風に笑われると、彼が誇れる自分でいようと思ってしまう。
「最後に一曲、相手してくださる?」
リュディアが手を軽く持ち上げると、庭師見習いの少年は心得た、と軍手をズボンのポケットにしまい、恭しくその手を取った。
「喜んで」
お互いワルツのリズムを口遊み、噴水の周りを踊る。
リュディアは、すっと背筋を伸ばす。
彼が最初に最上級の賛辞をくれたのがそれだったから。
この先の未来に何があるとしても、背筋を伸ばして臨もう。