深層心理インフェルノ
うん、待ってる。
呼吸がままならない。まるで咽にコンクリートを流し込まれたような気分だった。それでも、呼吸ができていると認識できているのは、ときどき首から漏れてくる高い周波数のせいだ。身体は凍えきっている。しかし、背中に伝播するコンクリートの冷たさが、かろうじて身体に体温が残されていることを教えてくれていた。しかし、それももう残り僅かだ。俺にはわかる。そう、俺の身体は確実に蝕まれているのだ。
緩慢に……、
死を待ち焦がれるほど、
ゆるやかに。
顎を引いて体温を奪っている物体を眺める。ステンレス製の魚が胸の奥深くまで侵入していた。闇に反射する銀色がきらきら光っていて綺麗だった。まるで本当に生きているかのような、そんな輝きだ。もしかしたら、深海にだったらこんな魚がいても良いのかもしれない。そいつは人間が好物で、特に裏切り者が殊のほかお気に入りだ。そいつに掛かれば、どんな場所に隠れていたって裏切り者だとわかれば、悪魔みたいに現れてくる。そして、その鋭利な先端を使って心臓を抉り出そうと襲い掛かってくるのだ。そう思うと、急に笑えてきた。なるほど。俺を殺すには、うってつけの生物じゃないか。
咽に違和感を覚える。
それからしばらく経って、口から粘度を持った液体が零れてきた。口の中が鉄の匂いでいっぱいになる。堪らずに咳き込む。ステンレスに斑が浮かび上がった。グロテスクな色合いだ。悪魔と呼ぶには相応しいのかもしれない。
「あなた、見たことがあるわ」
女の声に、俺は顔を上げる。勿論、アズミではなかった。でも、俺が良く知っている顔だったことに間違いはない。
「お前も……」言葉を無理やり音に乗せる。劣化した煉瓦みたいなひび割れた声だった。「そんなふうに、喋ることができるんだな」
女は、一瞬眼を大きく見開いて、それから口を斜めにしてから眼を細める。
「思い出したわ。あなた、あの人の友達ね」
「友達?」鼻息を漏らして俺も口を斜めにする。「久しぶりに聞く言葉だ」
「最後に聞いたのは、いつ?」
「さあな……、母親の身体の中に這入っていた頃だったか」
女はますます口を斜めにして、屈み込んで俺に近づく。そのとき、人工の香料が鼻についた。眉を顰めているのが自分でもわかる。
「面白い人だわ……、あなた、死ぬのは怖くないの?」
「恐怖を覚える前に、この様だ」両手を広げて女に応える。「早くこいつを、抜いてくれないか? 重くてしかたがないんだ。楽に、なりたい」
「私は、あなたともう少し話したいのだけれど?」
「話し? 俺と一体、なにを話すっていうんだ?」女を睨む。しかし、直ぐに思い直して、俺は無表情を取り繕った。「いや、話をしよう。俺は、お前に訊きたいことが、ある」
「訊きたいこと?」
「ああ、色々な。冥土の土産だよ。俺が行き着く先は、地獄の最下層に決まっているからな。色々と、持ち合わせが、必要なんだ」
片眉を上げて、女は俺を見つめた。
「コキュートスまで堕ちていくつもり? あなた、裏切り者なの?」
「ああ、そうだ。俺は、裏切り者だ」俺は、胸に刺さっているステンレス製の魚に視線を落とす。「それよりも、だ。こいつを、遣したのはお前の意思か?」
「どういう意味?」
「あいつに、アズミに頼まれたんじゃないのか?」
「意味がわからないわ。でも、少なくとも私の行動に他人の意思が介入することはなくてよ」
「つまり、お前の意思だっていうことだな?」
女は無言で頷いた。
「次だ」腰を浮かせて女に近づく。相変わらず香料の匂いがきつい。「一体、お前はここでなにをやっているんだ? 社会的立場にいるお前が、どうして、こんなことをやっている?」
「ルールだからよ」女は応えた。「あの人が奇跡を起こす為のルールなの、必要なことよ」
「人を殺すのがか?」
「そうよ。とても大切なことなの」
「オーケー、わかった。次だ」女が口笛を吹く。俺は舌打ちをして女を睨んだ。「お前は、自分の意思でやっていると言ったな? 自分の行動に他人の意思は介入していないと?」
「ええ、そうよ」
「だったら、どうしてルールを尊重する? そのルールには、あの人とやらの、意思は介入していないのか?」
「彼は、そんなことは望んでいないわ」女は少しだけ瞼を伏せた。しがし、直ぐに顔を上げて表情を取り繕う。「私が勝手にやっていることよ」
「そうか、だったら良い。あいつの身体を使っているのが気に入らないが、あいつが望んでいないなら、それで良い」
「優しいのね、あなた」
「どうでも良いだけさ」
「そう。他に訊きたいことは?」
「お前は、誰だ?」
「私は、あの人よ」
「あいつは、そんな香水をつけたことは、一度もない」
女は微笑んだ。
それから、俺の耳に唇を寄せて、女はそっと名前を囁く。
「他に訊きたいことは?」
「充分だ」
「そう」
女はおもむろに頷いてから、俺の胸を眺めた。
「いや……、待ってくれ。最後に、頼みがある」
「今更、命乞い?」
「惜しむ命なんて、もうないだろ」
「それもそうね。あなたのお願いって、私にかしら?」
「違う。あいつだよ。お前はこれをポケットに仕舞ってれば良い」左手を女に掲げる。
「それだけで良いの?」
「充分だ。あいつならわかってくれる。厭な仕事だがな」
「なるほどね。あなたは確かに裏切り者ね」
女は俺に微笑んだ。
俺も女に微笑み掛ける。
やがて女は、おもむろにステンレス製の魚に手を伸ばした。
ずるりと、
魚が身体から剥がれていく。
視界が急激に霞んでいく。
もう女も魚も見えなくなった。
きっと、役目を終えて地獄にでも還ったのだろう。
それとも、深海か?
まあ、どちらでも良い。
うん、待ってる。
女の声が聴こえた。
あの女の声でも、ましてやアズミの声でもない。
イズナの声だった。
最後に聞くには、ふさわしい声だ。
裏切り者の俺には相応しい声。
でも、
もう俺にはお前のところへいけそうにない。
もう待ってなくても良いんだ。
俺を忘れろ。
俺を捨ててしまえ。
アズミにそうしたように、
イズナが俺を棄てるんだ。
もうなにも見えない。
あいつも、
あの女も、
アズミも、
イズナさえも。
視える、
大穴に繋がれた巨人の姿が、
あれはカイーナ、
あれはアンテノーラ、
あれはトロメーア、
そしてあれはジュデッカ。
氷漬けにされた十二枚の羽。
俺から全てを奪えたか?
どうなんだ?
神様……。