第二話 英雄譚の結末は
退屈で平凡な授業が終わる。
チャイムの音と共に始まる放課後は、学生にとっては一日の中の第二ラウンドが始まった様なものだ。
むしろ学業よりも放課後の活動に力を入れている学生の方がほとんどであるだろうから、そう考えれば勉強という余分を終えた本番の始まりかもしれない。
早々に校門を飛び出し家路を辿ったマコトは学校指定の鞄を片手に軽快な足取りで階段を上がる。
其処は団地の一角。どこにでもある様な集合マンションの一角。
母と息子での二人暮らしの、マコトの家だった。
「……ん?」
いつものように鍵を指し、そこで手応えがないことに気がついた。鍵をブレザーのポケットに無造作に入れてドアノブを回せば何の抵抗もなく扉が開く。
「ただいま」
言葉を告げて、靴を脱ぐ。マコト以外でこの家の鍵をもっているのは二人だけ。メグミは今学校にいるのだから、後はもう候補は一人しかいない。
そんな事を考えるでもなく家の中はすでに食欲をそそる匂いでいっぱいだった。即座に腹が自己主張を始め、マコトは自室に向かう事もせずリビングへと直行する。
「あらマコト、おかえりなさい」
案の定、リビングにあるキッチンにはエプロンを身に纏った母親が軽やかな手つきで早い夕食を作っているところであった。
「今日は早かったんだな、母さん」
「そうなの、今日は早く上がらせてもらえる日でね。せっかくだから夕飯作って待ってようと思ったのよ。マコトはこれからバイトなんでしょ?」
「ああ、飯食ったら行ってくる」
「なら先に手を洗ってきちゃいなさい、すぐにできるからね」
鞄をソファに放り投げ、ついでにブレザーも脱ぎ捨てる。暑苦しいネクタイは衣替えの時期までまだ当分つけていなければいけないが、家の中ではそんな縛りは関係ない。早々に剥ぎ取って同じように放り捨てた。
第二ボタンまで外して、そのまま手洗いうがいを済ませて戻れば宣言通り夕食ができ上った所だった。
時間としてはまだ5時になっていない頃合い。夕食には早すぎるが、この後のバイトを思えば腹ごなしにはちょうどいい。
「ほらほら、座って座って。いっしょに食べるの久しぶりだから、なんだか母さん、嬉しくなっちゃうな」
「大袈裟すぎだろ」
にこやかに告げながらテキパキと食事を並べていく。
焼き魚に豆腐の味噌汁。青菜の御浸しに根菜の煮物、甘い出汁巻き玉子と、そのバリエーションは純和風そのもの。
「さ、食べましょうか」
いただきます、と行儀よく手を合わせ、マコトの目の前に座った母親が言葉を投げる。
――まったくもってミスマッチな光景だよな。
マコトは胸中だけで呟いた。
目の前には透き通るほどの金髪を頭頂で結んだ美女が優雅な仕草で箸を操り食事をしていた。
その瞳は蒼く煌めき、白く滑らかな肌は未だ衰え知らず。とてもではないが子供一人を生み育てているとは思えないほどの美貌。
一言で言えば外国の美女、それがマコトの母親だった。
故に、二人の外見はまるで似通っていない。
マコトと言えば黒髪黒目の純和風の日本男児そのものだ。
身長こそ平均よりも高いが最近ではまるで珍しくもない。スラリとした、けれど着痩せのする引き締まった身体もその相貌もまったくの父親譲りだ。
唯一と言っていい特徴は細く長い眉と切れ長の瞳くらいのものだろう。だからマコトと母が一緒にいる時は一度として親子とみられる事は無い。それが悩みなんだといつか母がぼやいていた姿を見た事がある。
それでも、マコトは自分が彼女の息子である事を疑った事は一度もない。
「そういえばマコト、まーた人前で魔法を使ったでしょ」
「いや、あれは緊急事態だったしさ……」
どうして使った事を知っているのか、なんて疑問はとうの昔に過ぎ去っている。微妙な気まずさだけが胸を突き、思わず箸が止まり視線を逸らす。
「なんだか久々に大きな魔力を感知したかと思えば建設現場の落下事故がニュースでやってるんだもん。巻き込まれた子供は奇跡的に助かりました、とかその子を助けたのは女の子らしいとか聞いたらもう犯人はマコトよね?」
「犯人って、それじゃあ俺が事故を起こしたみたいじゃねぇか」
「あらほんと。でもどうせ、偶々居合わせたメグミちゃんが子供を助けに行っちゃって、あわてたマコトが思わず魔法を使って解決したっていうのが本当の所なんでしょ?」
「ったく、わかってんなら一々聞くなよな、母さん」
「たまには母親らしく心配してあげないとって思ってね。いくら自分の息子が魔法を使えてちょっとやそっとのことで挫けない子だって知ってても、親なんだから心配くらいはするわよ?」
「へいへい。ま、問題なんてねぇよ。母さんの魔法があれば俺はなんだって対処できるんだから」
「そういうのを過信、っていうのよマコト。魔法は万能じゃないんだから、油断はしちゃダメ」
箸を止め、真剣な眼差しを向けてくる母親に、彼は肩を竦めるだけで答えた。
マコトの母は名をシャロン・V・ライトノーズ、という。
今でこそ武藤シャロンなどと名乗り外国人の若奥様として御近所で絶大な人気を誇っているが、そもそも彼女は外国人ではない。
それどころか、この世界の人間ですらなかった。
端的に言えば、異世界人、というやつである。
そんな異世界人の母を持つ彼――武藤誠は勇者の息子である。
此処とは別次元の異なる世界。世界の法則も環境もまるで違う、まるで御伽話のような不思議の世界――コズモス。其処こそが母シャロンの故郷であり、父であり英雄である大和が召喚された世界である。
小さな頃から聞かされたそれは胸躍る冒険活劇の様な話しだった。
『光の巫女』と呼ばれていた王国の姫君であった母が世界の危機を救うべく召喚した勇者、それがマコトの父だ。そして二人は共に旅をし世界を救った。その過程で恋に落ち、なぜか父である大和はシャロンを連れてこの世界へと戻り、そしてマコトが生まれた。
よくあるファンタジーだ。使い古された英雄譚。
けれど一つだけ違うのはそれがマコトにとって父と母の体験した現実であり、そしてその異世界の血が自分にも流れているのだという事。
マコトの母は魔法使いであった。それも『光の巫女』と呼ばれるほどに強力な魔法使い。
その力が、彼の中にも宿っているのである。
「油断はしないしするつもりもねぇけどさ、それでもこんな平和な世界で油断するなって方が無理じゃないか?」
「そりゃあこっちの世界は母さんの故郷みたいに危なくは無いわよ。危ないっていう観点が違うものね、命の危険が少ないわ。でも今日みたいな事は起こるものだし、いつ誰に何が起こるのかなんてわからないのが人生よ」
「そりゃそうだ。いつ何時どっかのお姫様に異世界に呼び出されるかわかったもんじゃねぇからな」
「あ、それ母さんのことバカにしてるでしょマコト」
「してねぇよ。事実だ事実」
ちょっとからかっただけで子供のように憤慨する母に肩をすくめる。きっと子供っぽいこんな仕草を同級生が見たら見惚れるのだろう、などと他人事のように考える。まだ四十代になっていない母は性格も合わせて二十代と言われてまったく違和感がないのだ。
「そういえばメグミちゃんは? 今日はいっしょじゃなかったの?」
「いつもいっしょってわけじゃねぇからな」
「あら、てっきりあなた達二人の関係って『いつもいっしょ』なのかと思ってたわ」
「そりゃ単に幼馴染で家が近所だからだろ」
「それだけが原因じゃない様に思えたんだけどなー」
「言ってろ」
立場逆転と言わんばかりにニヤニヤと笑みを浮かべる母にマコトは立ち上がって言葉を切る。
「ごちそうさま」
「はい、お粗末さまでした」
異世界の王国で姫君として過ごしてきた母はその舌も肥えている。それ故に彼女の作る料理は抜群に旨かった。不機嫌な表情とは裏腹にかなり満ち足りた気分でマコトは食器を洗い場へと下げる。
「食器はお水に浸けておいてくれればいいからね。あとは母さんがやっておくから」
「ん、サンキュ」
「いいのよ。それにマコト、もうそろそろ行く時間でしょ?」
「ん――、そうだな」
バイトの時間までもうすぐそこまで迫っていた。時間の経過は思っている以上にあっという間だ。
財布と携帯だけをポケットに入れて、ブレザーを羽織る。春の季節とはいえ夜はまだ冷たい。
「頑張ってね、マコト」
「あいよ」
「ほんと、マコトのお陰で母さん助かってるんだから」
「大袈裟すぎんだよ、ったく」
当たり前のように玄関まで見送りに来る母に気恥ずかしさからいつも以上に口調が乱暴になる。今どき高
校二年になって親に見送られる事を喜ぶような男はいないだろう。
「帰りは遅いんでしょ? 鍵開けとこうか?」
「大丈夫だって。俺だって鍵くらい持ってるんだし、それに最近の夜は物騒だからな」
「あら心配してくれてるの? 母さんだって魔法が使えるんだけどな?」
「油断すんなって言ったのはそっちだろうが」
「ふふ、じゃあ鍵は掛けとくから無くさないようにね」
「ガキじゃねぇんだから大丈夫だ」
鍵の入っているポケットを叩き、振り返る。
「んじゃ、いってくる」
「はい、いってらっしゃい」
母の笑顔に見送られ、マコトは玄関の戸を開けた。
● ● ●
「ほんとマコトくんは働き者で助かるよ」
「まぁこっちもその分のバイト代はしっかり貰ってるんで」
店長の感謝の言葉を聞き流し、マコトはすっかり陽の沈んだ街へと出た。
とっぷりと暮れた夜の街は既に二十三時を回っている。翌日が休日であるからこその残業であるが、本来であれば高校生の勤労時間は二十二時までだ。それが法律でありルールだが、マコトはそれを一時間も上回っていた。完全な法令違反でありバレたらマコトどころか店も危ないが、それがバレるなんて事は無いだろうとマコトも店長も高をくくっている辺りが重傷だ。
ブレザーを羽織ってきて正解だったと、ふとそんな事を考えた。今が春とはいえまだこの時間ともなれば冷えるのだ。
疲れもあって吐息が漏れる。わずかに白みを帯びたそれが闇へと溶けていく。
高校に入学した直後にバイトを始めたから、かれこれもう一年以上も続けている事になる。
ありきたりな居酒屋バイトは時給も良く、また個人で営んでいる店長もバイト仲間も気さくで居心地のいい空間だ。それにこうして時折規則違反の残業をやらせてもらえるところがマコトにはありがたかった。
店長はああ言ってマコトが残る事をありがたがっているし、言葉を聞いた者からすればマコトが店の為に残業していると思うだろう。けれど、現実はその逆である事をマコトは知っている。
マコトの家は母子家庭だ。本来であれば稼ぎ頭であるはずの父はとうの昔に行方知れずであり、そうなってから既に十年近くなる。
マコトの家の窮状を知るからこそバイト先の店長は母を助けるために働くマコトの為を思ってわざと残業時間を増やしてくれているのだ。土日などの学校がない日などは雑用と称してマコトを呼び出しボーナスを出すことまでしてくれている。きちんと働かせてその対価として給料を支払っている所はマコトに対する一種の社会教育でもあるのだろう。
「なんつーか、今さらな話しだけど俺、あの人にだけは一生頭が上がんねぇんだろうな」
店長の優しさを思い、そんな言葉がついて出た。
だからだろう、つい、らしくもなく弱音が零れた。
「世界を救った英雄のその後は、ハッピーエンドじゃねぇのかよ……」
それは絞り出すかのような苦しさを伴って。
思わず、血が滲むほどにその拳を握りしめる。
果たして一体誰が知ろうか。
かつて英雄と呼ばれた姫君とその息子が集合団地の一室を借り爪に火を灯すような生活を送っていようなどという事を。
かつて王国の姫として王室で何不自由なく暮らしていた姫が、身を粉にして働きながら息子を育てているなどという事を。
かつて世界の危機をその手で救ったはずの勇者が、一番守るべきはずの家族を見捨て消えてしまったという事を。
――――それはよくある英雄譚。
勇者によって世界を救われた王国の姫は勇者と恋に落ち、そしてその後に結ばれる。
後には約束された幸せな未来が二人を、そして新たに生まれるだろう家族を祝福し、その生涯は幸福に満ちている。
そんな、ありふれたハッピーエンドは、しかし訪れない。
現実では勇者は行方をくらまし、姫は汗に塗れて働き、生まれた子は勇者を憎む。
それは残酷な世界の、けれどありふれた物語。
勇者の息子として生まれ落ちたマコトの、それが真実であった。
――――トゥルルルルッ
「――――ん?」
暗い方向に思考が沈んでいた所へ、それを打ち切る様な音が夜道に響いた。
ポケットから携帯を取り出すと、ディスプレイに表示される名前は『愛美のお母さん』だ。
「もしもし」
『あ、マコトくん? よかったぁ、やっとつながった! ごめんね急に、メグミのお母さんだけど』
「わかりますよ。どうしたんすか急に?」
開口一番にほっとした気配が伝わってくる。けれどどこか焦っているようでもあって、
『ねぇマコトくん、メグミって今あなたといっしょにいたりするのかしら?』
その言葉は期待に震えていた。
「メグミ? いや、今日はいっしょじゃないですよ。生徒会で歓迎会やるって言ってたからそっちだと思うんですが」
『……それがね、メグミったら帰ってくるって言ってた時間からもう二時間以上も経ってるのに戻ってこないのよ』
「――――え?」
思わず、その足が止まる。まるで石にでもなってしまったかのようにマコトの身体も思考も全てが動きを止めて。
『ねぇマコトくん、メグミから何か聞いてないかしら? もしくはそっちに何か連絡がいってないかしら?』
「…………いや、来てないし聞いてもないですね」
発した言葉はどこか凍えていた。自分でもひどく冷え切っているのがわかる。電話の向こうでメグミの母親が息を飲む音が聞こえた。
「おばさん」
けれどそれは一瞬だ。瞳に光が灯る。
強く、強く。
「今バイトが終わったばかりなんでちょうどよかったです。俺がちょっと探してくるんでおばさんは家にいてください。ほら、ちょっと寄り道してただけでそのうち帰ってくるかもしれないでしょ」
その言葉は安易な慰めだ。気休めでしかない。それでも、マコトはメグミの母親に少しでも安心してもらいたかった。
『そ、そうよね。あの娘も、もう高二だし、夜遊びの一つや二つくらい、したって不思議じゃないもんね……』
「そうっすよ。だから大丈夫です。安心してください、メグミの事は俺が」
『えぇ、ごめんねマコトくん。でも、ありがとう。マコトくんなら安心できるから』
その言葉はまるで祈りのようでもあった。
電話を切って、すぐに画面を開き直し電話帳をスクロール。すぐに電話を掛ける。
『あらマコト、どうしたの? もしかしてまた残業かしら?』
いつものように明るく柔らかな声が多少なりともマコトに冷静さを取り戻させる。
それでも、その後の言葉が強張ってしまった事は仕方のない事だろう。
「悪い母さん、帰りが遅れる」
『まぁこの時間の電話ならそういう事なんでしょうけど、それよりもマコト――バイトで遅くなるんじゃないのね?』
「ああ、メグミが帰ってこないってさっき電話があった」
マコトの言葉の調子から様子を察知したのだろう母の言葉に、端的に言葉を返す。それに応じる様にすぐに母の言葉にも真剣さが表れる。
『わかったわ。メグミちゃんのお母さんにはわたしの方からも連絡を入れておくから大丈夫よ』
「ん、ありがと母さん。それから――また魔法を使う」
『そう。メグミちゃんが危険なのね?』
「いや、それはわかんねぇ。生徒会の歓迎会ってことしか知らないから。でも、なんだか嫌な予感がする」
『ならマコト、遠慮なく使いなさい。あなたの力は、こういう時の為にあるのだから』
「ああ、わかってる。事と次第によっては遠慮はしない」
「よろしい。それからわかってるわね、マコト。きちんとメグミちゃんを守るのよ」
「もちろんだ」
満足そうに母が頷くのが見えた気がした。
電話を切り、大きく息を吸って吐く。
「光よ――」
自らの魔力を起動させる詠唱文言。
母から授かった異世界の力を呼び覚ます。
この世界に満ちる魔力は少ない。異世界での魔力行使に慣れた母は魔法が使いづらいと言っていた。
けれどそんな物はこの世界で生まれたマコトには関係ない。
少ないなら少ないなりに、最小で最大の力を引き出す様に扱うだけ。
右手を翳す。
心臓の高鳴りに合わせるように魔力が巡る。
「待ってろメグミ、――すぐに見つけ出す」
それはマコトの決意を示す様に、淡い銀光を発する魔法陣が起動した。