第十二話 奪うこと、報いること
支給された村の衣装に身を包み、見よう見まねで胸当て手甲足甲を装着し、最後にフードの付いた上着を羽織った。そうして抜き身のままの大地神剣を腰元に差せば、なんちゃって兵士の完成だ。
「お、なかなか様になってるじゃない、マコト」
「ほんとほんと、なんだか格好良いよ」
パチパチと手を叩くメグミに、ニヤニヤと笑みを浮かべるディン。それにマコトは自らの格好を見渡しながら眉根を寄せた。
「鏡が無いってだけでこうも不便だとわな。つーか絶対似合ってねぇだろこれ」
どうにもコスプレ感が否めない。けれど今日はこの格好をしないと命に関わる、とディンが真剣な目で言っていたのだから仕方がなかった。
「まぁその内に慣れるし馴染むさ、あんたも服装もね。さてと、じゃあさっそく準備ができたから行くとしましょうか」
昨日に続いて村の為の仕事、というやつだ。前回が本番前の下準備だとすれば、今回からはいきなりの実践だ。今日からマコトはディンと同じ村の戦士として働くのだという。
「気を付けてね、マコトちゃん」
「ああ、メグミこそ頑張れよ」
「うん。でもわたしは大丈夫。リーアさんが優しく教えてくれるし、他の人たちもみんな良い人だから。あ、なんだったらヒスイを連れていく?」
「いや、ヒスイはメグミといっしょだ。――ヒスイ、頼んだ」
「キュア!」
定位置の様に胸に抱かれたヒスイはマコトの言葉に「まかせろ!」とばかりに頷いた。若干の不安はある物の、現状でメグミを守れるのはヒスイだけ、任すしかないのだ。
「はいはい、出発前の別れが済んだならさっさか行くよマコト」
割り込むようにやや呆れ気味に、ディンはくいっと首を外へと向ける。
「ああ。――じゃあ、行ってくる」
「うん、行ってらっしゃい」
村での二日目の朝はこうして始まったのだった。
ディンに連れられてやってきたのは昨日同様訓練場だ。グラッドの屋敷を正面に、その右側に建てられたそれは家というよりは大きな集会施設の様でもある。その建物の、広場を挟んで丁度真向いの炊事場では今頃メグミが働き出している頃だろう。
「ん? なんか同じ格好の奴らが大勢いるな」
建物の前には整列するように深緑のフードを被った者たちが立っていた。来ている服はマコトと同じ物で、防具と思わしき装備も同じだ。皆が皆腰に剣を吊るし、弓を背負っている。
「あんたが昨日あたしにボコボコにされた場所はあたしら戦士が使う宿舎兼溜まり場。で、その訓練場が昨日の場所ってわけ」
「なるほどな。じゃああそこで突っ立ってる連中は皆お前と同じこの村の戦士ってわけだ」
「そういうこと」
「で、お前だけ服の色が違うのには何か意味があるのか?」
よくよく見れば違うのは色だけに留まらない。どうやらディンが持つ弓は他の者たちとは違う特別せいらしく。そった弓の両端にそれに合わせるように刃が付いていた。
「あたしはこの村の戦士団を束ねてるの。いわゆる団長ってやつ。あたしら真紅の烈兵にとって『紅』っていうのは特別でね、村でこの色を着られるのは親父とリーア、そしてあたしだけなのさ」
「へぇ。いわゆる特別な証ってやつか。グラッドは当然としてお前はこの戦士団の団長だからってわけか」
「そういうこと。ちなみにリーアは元戦士団団長で、あたしの先々代さ。今じゃ裏方を取り仕切る炊事場の女将。仕事の役割的には親父よりも偉いよ。」
「はぁ、すごい奴にこき使われてるんだなメグミは」
「ははっ、そうかも。でもリーアが扱き使うってことはそれだけ期待されてるって証だからメグミもすごいと思うよ。昨日のご飯だってすっごく美味しかったし」
思い出したのかお腹をさすりだすディンに、マコトもつられてつい腹が鳴りそうになる。
「でもあんた、けっこうあっさりあたしが団長だって受け入れたね」
「あん? そりゃお前ほどの強さなら不思議じゃないだろう。昨日あれだけボコボコにされたんだ、嫌ってほど思い知らされたよ」
「はははっ、それもそうか。でも不思議よねマコトって。男ってやつは大抵女に上に立たれたくないとか強さを認めたくないって奴ばっかなのに」
「人それぞれだろ。昨日も言ったが俺にお前を舐めてかかるだけの余裕なんざねぇんだよ。それに、実際に肌で実感した実力差だ、これで認めないって方がどうかしてると思うぜ」
「――――」
「ん? どうした?」
不意に立ち止まったディンに、マコトは怪訝そうに振り返る。
「――――ううん、なんでもない」
「そうか?」
「ええ。なんていうかさ、あたし、あんたのそういうとこ、結構好きかも」
「はぁ?」
「ははっ、ちょっとらしく無かったね。ほら、行くよマコト」
首を傾げるマコトにディンは普段の勝気な笑みを浮かべてさっさと先へと進んで行ってしまう。もう一度その態度に首を傾げてから後を追いかけるマコト。すぐに戦士たちの待つ宿舎前に辿り着いた。
ディンが姿を現すと、待機していた戦士たちが一様のその背筋をぴんと伸ばした。そしてその後ろから付いてきたマコトに一斉に視線が集まる。
突然の注目に一瞬驚いたマコトだが、
(これで敬礼でもしてきたらそのまんま軍隊だな)
呑気な事を考えつつ彼らに視線を巡らせた。フードを被っているため正確な事はわからないが、どうやら同い年の者たちもいるらしい。年齢が上でも精々五つくらいだろう。
「――――聞け」
一同を見渡して、ディンはそう口を開いた。それだけで一斉に視線が集まる。心なしか声音も変わり、堂に入ったその姿は中々に様になっている。
「彼の名前はマコト。もう噂で流れているらしいが、あの勇者ヤマト様と同じ異世界からの来訪者だ。中には私と共に神殿で戦った者もいるが、彼の実力は知っての通りだ。今後しばらくの間、この戦士団の一員として活動をする。もっとも、しばらくはあたしが面倒を見る事になるが。――何か質問は?」
疑問符を投げかけているにもかかわらず、文句は無いな、とばかりにまるで睨むようにディンはぐるりと見回した。好奇心とは別の意味で強い視線が何人かから向けられる。おそらくはディンが言った通り、神殿にいた者たちのものだろう。
「ちょっと待てよ!」
不意に、強い苛立ちの籠った声が上がった。
「どういうことだよディン! この異世界人を俺たちの戦士団に加えるだと? 正気かお前!?」
「もちろん正気だ。お前こそあたしに意見する気かキール」
苛立ちに苛立ちを返す様に、普段からは想像もつかないほど険呑な声を発するディンに対し人垣を蹴散らす様に一人の男が前へと出た。
「突然やって来た得体の知れない異世界人と共に働けとか正気とは思えないな! それにお前が面倒を見るって、要するに子守が外せないド素人だろう? 正直言ってイカレてるとしか思えねぇ」
「その子守が必要なド素人にコテンパンにノされたのはどこのどいつだキール? 知らなかったよ、お前がそんなに恥の上塗りが好きだったなんてな」
「なんだとこの野郎!」
冷たい視線を投げかけるディンに、キールと呼ばれた男は怒りのあまりフードを破り捨てるように剥がし吼える。ディンと同じ赤毛をツンツンと逆立てた髪型はまさに怒髪天の様だ。顔つきはまだ若干幼さを残し、おそらくは同い年くらいだろう。
どこか他人事のように観察をするマコトにはその顔に心当たりがまるでなかった。もっともこの村で交流があるのはディンとグラッドだけなのだ、そもそも身に覚えがまったくない。
「なぁディン、こいつは俺を知ってるのか?」
ふと気になった事がつい口を付いて出た。けれど、それにキールが烈火のごとく反応をした。
「ふざけんじゃねぇぞお前! 人の事を思いっきり蹴り飛ばしておいて忘れたとは言わせねぇぞ!」
「はぁ?」
「わからないのも無理はないよマコト、だってあの時のあんたにとっちゃきっとその他大勢の一人だ。一々顔を把握する事にまで気が回って無かったんじゃない?」
「あの時ってのは、どの時だ?」
「ほら、神殿で始めてやりあった時よ。いきなりあんたに斬りかかって逆に返り討ちで蹴り飛ばされたバカがいたでしょ? それがあいつってわけ」
「あー……、そういや、そんなことも、あったなぁ……」
すっかり忘れていたとばかりにマコトは視線を宙に彷徨わせる。ディンの言う通りメグミを守る事にひっし過ぎて一々覚えてなどいなかった。その態度に、キールの怒りが頂点に達する。
「テメェ……」
青筋を浮かべながらさらに前へ。その手は腰元の剣に伸び、
「――――ッ!?」
一歩、前へと踏み出そうとしたその足元に、鋭い音を立てて矢が尽き立った。
「そこまでだキール。その腰元の腐った手を降ろし、ゆっくりと下がれ」
いつの間に構え、射ったのか。その挙動すらわからないほどの早技で追撃の矢を構えたディンが赤い瞳を燃え上がらせてキールを睨む。
「これ以上の恥さらしはこのあたしが許さない。文句があるというのなら――まずはあたしに言ってみろ」
真っ赤な瞳が射抜くようにキールを睨む。それを睨み返したキールは、けれどやや腰が引けていた。
「――――――ちっ」
焔を灯すその瞳に気押されるように、舌打ちを零すとキールは手を降ろし身を引いた。
「それでいい。他にあたしに意見のある奴はいるか? いないな? なら出発だ!」
一矢で場を治めたディンの叫びに、他の戦士たちは胸を叩いて応じるのだった。
● ● ●
「なんか意外だったな」
ディンについて森を歩きながらマコトはそう言った。
「なにが?」
「さっきの奴さ。なんて言うか、ディンはもっと冷静に治めるのかと思ってた。それがあんな――」
「あんな荒っぽいやり方をするなんてってわけ? 止めてよねマコト、あんたまでそんな事を言い出すなんて」
「あん? 別に大人しくやれって言ってるんじゃねぇよ、そうじゃなくて、お前のいつもの余裕みたいなやつがなかったなって話し。必要以上にムキになってる気がしたんだよ」
「…………。さてね、覚えてない」
「つまり、自覚があるってことだろ?」
「…………」
ふいっと視線を逸らすディン。それにマコトはこれ以上触れて欲しくないのだと察した。マコトにだって触れて欲しくない事柄はある、彼女の気持ちはその気まずげな表情だけで理解できた。
「――で、そろそろ何を目的にこうしてうろついているのか教えてくれないのか?」
話しを変えるように、マコトはぐるりと森を見渡した。
「あれ、そういえば言ってなかったけ?」
その対応に乗る様に、今度はきょとんとしたような瞳が返ってくる。それにマコトは大仰に頷いて見せた。
「あっちゃー、キールの奴が余計なちゃちゃいれてくるから忘れてたわ。ごめん、マコト」
「べつにいいけどさ、で、なにが目的なんだ?」
「そうだね、まずあたしら戦士のこの村での役割なんだけど、これは主に二つ。危険からの防衛と、食料の調達である狩猟。ほとんどこれだけで戦士団とは言ってるけど実態は村の警護隊なの。後は定期的な神殿の見回りね」
「ああ、だからあの時お前たちはあそこにいたのか」
「そういうこと。で、今回の目的だけど、実はあの時の出来事が絡んでるのよ」
「どういう事だ?」
問いかけるマコトの声音が低くなる。あの得体の知れない獣に襲われた出来事は、まさに命がけに等しい戦いだった。生まれて初めての、そして出来る事なら二度と味わいたくない命のやりとり。
自然とマコトの眼つきが鋭くなっていく。
「あの時あんた達を襲った獣、あれをあたしらは探しているの」
「あの獣を?」
「そう。あの炎の獣、通常の魔獣ともどこか違う異様な姿。あの獣はね、本来この森にはいない生き物なのよ」
「なに?」
眉根を寄せたマコトに、ディンは笑みを浮かべて前方を指差した。斥候役を務めている戦士の一人が何かを発見したようで、キールたち前方を歩く戦士に何かを伝えている所だった。
「おそらくあそこに魔獣が現れるからマコト、見ててごらんよ」
まるで予言のように告げられた言葉を証明するかのように森の中から獣が姿を現した。
それは緑の体毛を生やした豹の様な獣だった。スラリと長い胴体はしなやかで、四肢は細く素早そうである。ピンと尖った耳を引くつかせ、鋭い瞳を戦士たちへと向けている。
「あれは緑豹ね。魔獣の中ではおとなしい方で、こういった森に良く生息しているの。仲間意識が高くて比較的温厚な魔獣。でもね」
ディンの言葉とはまるで真逆、現れた緑豹は低い唸り声を上げると突如として戦士に飛び掛かった。
「――散れ!」
キールが叫び声を上げる。
即座に取り囲むように四方に散った戦士たちが構えた剣でまるでヒット・アンド・ウェイの様に緑豹に攻撃を繰り出していく。応戦する間もなくあっという間に緑豹は倒された。
「今のはなんだよ?」
「緑豹っていうのは集団行動を基本にする魔獣なの。でも今の緑豹は一匹、そして大人しい性格に反して攻撃的。これはね、この一匹が仲間を守るための楯となった証拠よ。彼らは仲間を守る時、とてつもない攻撃性を発揮するの」
「俺たちが奴らの住処に入っちまったって事か?」
「いいえ、違うわ。きっと、すでに攻撃を受けていたんだと思う」
「もしかして、あの時の獣にか?」
「さぁ、それはわからない。けれど、無関係でも無いと思うわ」
二人が会話をしている最中に戦士たちは倒した緑豹を手慣れた手つきでまとめあげていく。
「あの獣、どうするつもりだ?」
「魔獣っていうのは普通の動物と違ってその身に宿した魔力を自らの力として扱える動物を指すの。そして総じてそういう生物の肉や毛皮は質が良いわ。あたしたちはただ殺すなんて真似は絶対にしない。その全てを糧として用いるわ」
「なるほどな」
目の前で繰り広げられた弱肉強食の命のやりとり。けれどそこに一方的な殺戮で無い『遣り取り』を見出しマコトは大きく頷いた。
「それよりもマコト、気づいた?」
「何がだよ」
「あら、さっきの話しを忘れたわけ? 言ったでしょ、あの時あんたが戦った魔獣は普通の魔獣とは違ったって」
「あぁ、そういえば……」
「さっきの緑豹を見ればわかるだろうけれど、魔獣っていうのは宿している魔法色をその身体に表す事がほとんどなの。さっきの緑豹は名前からもわかる通り魔法色は『緑』。実際に毛並みだって鮮やかな緑色だったでしょ」
淡々と処理されていく緑豹を見る。その色は確かに緑色をしていた。
「でも、あんたが戦ったあの獣の色はおかしかった。通常、赤に黒が混じった色を持つ魔獣なんていないわ。いいえ、例えもしいたとしても、あんな魔獣この森には絶対にいないのよ」
「それは、確かなのか?」
「そもそも森に囲まれたこの土地に赤の魔法色を宿した獣はいないわ。もっと霊峰に近い山岳や森を抜けた先にならいるけれどこの辺りには絶対にいない。それはこの『熾火の森』を預かる真紅の烈兵として断言するわ。あの獣はこの森に湧いた異常よ」
赤い瞳を真っ直ぐに捕える。冗談を言っている風にはまるで見えない真剣な眼差し。
戦士としてのディンの言葉を受け、マコトは頷いた。
「だから俺を連れてきたってわけだな。戦った事がある俺を」
「その通り。今この森には明確な異変が起こっているわ。聞いたわよね、あたしたちの目的を。これは普段の警護に位置する、その中でも特殊な任務。それに、あたしの勘だけどさ、きっと今回の出来事、あんたと無関係じゃないと思うわよ」
確信に満ちた表情で、ディンはそう告げるのだった。
慎重に、一つの痕跡すらも見落とすまいと丁寧な探索が続けられてしばらくの後。
探索の間にマコトはディンから森での注意点や探索などの基本的な知識を教わっていた。
「それにしてもつくづく不思議よね、あんたって」
「なにがだよ」
「だってこれだけ森での歩き方を知らないくせに、この世界にやって来てから少なくとも丸一日は森を歩いたわけでしょ? それで一度も魔獣に襲われないとか、どんな幸運よ」
「あ? 森の歩き方を知らなくても魔獣の回避くらいはできるぞ」
「は? どういうことよ?」
宙空に手を翳したマコトに、ディンは眉根を寄せる。そんな彼女に応えるようにマコトの掌に魔法陣が現れる。
「――――星海図」
突如現れた精緻な魔法陣が魔力波を放つ。それは並の様にマコトを中心に円形に放出され、突然のその現象にキールを始め他の戦士たちも何事かとどよめいた。
「マコト……、それって魔法?」
「ああ、いわゆる索敵魔法だな。今探れる距離は少ないけど、相手の位置を俯瞰できるから便利なんだ。で――ほら、俺を中心にして魔力反応が複数。これはディンたちの事で、それ以外で探れる範囲には何も見られないからとりあえずの危険は無いってわけだ。俺はこうやって森を進んできたんだよ」
当たり前のように示された魔法に、しばしディンは呆然と言葉を失った。それは他の者も同様で、何か異様な光景を見る様な眼差しでマコトを見ていた。
「ん? どうしたんだよ?」
「お前、本当にいったい何者なんだよ異世界人……」
「あ?」
手にした弓をぎゅっと握りしめ言葉を発したキールに、マコトは苛立ち交じりに視線を向ける。その時、展開し続けていた魔法陣に新たな反応が現れた。
「おい! 気をつけろそこ、でかい反応だ!」
咄嗟に叫び声を上げ森の奥を指差すマコト。そこはキールからやや離れた、斥候の戦士が立つ地点。彼もまたマコトの異様な魔法に気を取られ、斥候としての役目をほんの一瞬だけ忘れてしまっていた。
「――――ッ!?」
まるで巨木がのしかかってくる様に、それは姿を現した。
「ひっ――緑大熊ッ!!??」
背後から音も無く忍び寄り、突如横から振り抜かれた巨大な腕撃に、斥候の戦士は咄嗟に盾にした弓を構え、
「馬鹿野郎……ッ!!」
キールが戦士の首根っ子を捕まえて後ろへと投げ飛ばす。巨椀の一撃は弓をへし折り、けれどその凶暴たる大爪は僅かに傷をつけるのみ。ギリギリの所で命を救われた男は投げ飛ばされた姿勢のまま恐怖に身を竦ませた。
「GRRRAAAAAAAAAAAA――――ッ!!!」
森を震わせるほどの咆哮が轟く。
獣の名は緑大熊。通所を「メガロス」と呼ばれるこの森の固有種だ。
その種の体長は優にニメートルを超え、その巨椀から繰り出される腕撃は木々を薙ぎ倒しその凶爪は大地を抉る。けれど何よりも恐ろしいのはその巨体を誇りながらも今の今まで斥候にさえ気づかせなかった隠密力にある。緑の斑模様は森に溶け込み、柔らかな肉球が音を完全に消せし去ってしまう。そして、巨体で在りながら隠密性を可能にさせる俊敏性。それこそがこの緑大熊最大の特徴であり、脅威であった。
「キール!!」
矢を番えたディンが叫ぶ。
咄嗟に戦士を庇ったキールはその為に自らのバランスを崩しており、武器すら構えられないほどに無防備だ。
そしてそれは、瞳を血走らせ唸る様に息を吐く緑大熊にとっては絶好の隙。
通常の種でさえニメートルを超えるが、今回の緑大熊に至っては一回り以上大きく三メートル以上は在るだろう。その巨体をして驚くほどの俊敏さを見せる緑大熊はその隙を逃すことなくあっという間にキールを己の間合いに取り込んだ。
「く――――っ!?」
「GAAAAAAAAAAAAAAAA!!」
咆哮と共に腕が降り上げられ、その凶爪が風を切り裂いて襲いかかる。
その俊敏さはディンの速射の腕をも越え、周りの戦士に至っては武器を構える暇すらなく。
キールは一秒先に訪れる絶対的な己の死に対し、ただ呆然のその暴風の様な一撃を見る。
だからこそ、その現象をハッキリと目に焼き付けた。
「――――光鎖」
死の静寂を切り裂くように、その声音は力強く森に響き渡った。
「――――――――え?」
目の前でそれを見せられたキールはただただ目を丸くして固まった。遠巻きに見ていた戦士たちは皆なにが起きたのか理解できずに瞳を瞬かせ、ただ一人、隣でその行動を見せつけられたディンはあまりの桁違いさに戦慄した。
マコトが左腕をかざしていた。右手には未だ星海図の魔法を発動させたまま、突き付ける様に伸ばした左腕をまるで狙いを定めた銃口の様に緑大熊にピタリと向け鋭い眼差しで睨む。
「Gaa……AAAAAAAAAAAAっっっ!!」
呻くように声を上げるも緑大熊はその巨椀をキールに届かせる寸前で振り下ろしたまままったく動けずにいる。
どれだけ暴れようと、どれだけもがこうとびくともしないそれ。
緑大熊の身体は今、突如現れた魔法陣から伸びた二本の光の鎖に寄って雁字搦めに拘束されていた。
「……え、――ぁ、え……?」
目を白黒とさせるキール。目の前では唸りを上げる緑大熊が唾を撒き散らしながら必死になって振りほどこうとやっきになっている。僅かでも拘束が緩めば即座に攻撃される間合いにいながらも、なお呆然と現状が理解できない。
「おいディン、とりあえず押さえたけどこの後どうするよ? つーか、力が強すぎて長くは抑えられねぇぞ」
「――――えぇ、そうね。仕留めるわ、緑大熊の中でも一回りも大きなまさに怪物。とてつもない獲物よ」
切り替えるように息をついて、ディンはそう言って番えた弓を背に背負い直す。
「マコト――」
「ど、どけ異世界人! 俺が仕留めてやる!」
言葉を遮る様に、あるいは何かを振り払う様に。キールは血走らせた瞳で必死の形相を浮かべて叫んだ。そのまま腰に吊るした剣を勢いよく抜き放ち歯を食いしばる様にして緑大熊の前に出る。
「このくそ熊ヤロウ、俺が」
「――――キール!っ!」
剣を振りかぶったキールに雷鳴の様なディンの怒号が轟いた。それに、びくりと身体を振るわせ硬直するキール。
「お前はいったいどこまで恥を上塗りする気だキール。戦士と自負するのなら剣を降ろせ、そいつはマコトの獲物だ!」
「――――っ」
「は? 俺?」
唇を噛みしめ肩を震わせながら振りかぶった剣を下げるキールに、なんの事かもわからないマコトはきょとんとした瞳を向けた。
わずかに、掲げた左腕が震える。
「ああ、そうだマコト。コイツはお前の魔法で拘束した。あんたが捕えた獲物だ。なら、仕留めるのはマコト、お前の義務だ」
赤い瞳が真っ直ぐにマコトを捕える。射抜く様なその眼光は一切の否定を許さず、発した言葉は深くマコトを突き刺した。
「俺が、仕留める……」
呆然と言葉を零す。気がつけば星海図の魔法は解け、空になった右の掌にじんわりと汗をかいていた。
「いいかマコト、緑大熊はあたしら全員を殺しに来て、そしてお前がそれを捕え阻止した。自覚は無くともこれも命のやりとりだ。安全な村の中じゃない、危険と隣り合わせの森の中だ、いつ殺されても殺してもおかしくは無い弱肉強食の剥き出しの世界がここなんだよ」
「…………」
「さっきの緑豹とは違う、こいつは狡猾で凶暴だ。逃がして再び襲いに来ないなんて保証はない。むしろその逆、必ずやってくる。なぜなら、緑大熊にとってそうしなければ自分やその仲間が危険だからだ」
「危険?」
「そう。野生の動物は魔獣だろうと変わらない、命の危機がない限りめったやたらに襲いかかってなんてこないんだよ、そんな事をする畜生は人間だけだ。だからこそ、緑大熊は生きるためにあたしらを襲う。なら、お前がやるべき事はなんなのか、わかるだろ」
諭すようなその言葉に、マコトはゆっくりと瞼を閉じ深呼吸をする。
そして、覚悟を決めるように見開いた。
「わかった、あいつは俺が仕留める」
腰に吊るした大地神剣に手を伸ばす。触れた持ち手がやけに冷たく感じる。
「へっ、おいどうしたよ異世界人! まさかビビってんのか?」
「ああ、びびってるよ。ものすっごくな」
「えっ……」
真っ直ぐに前だけを見つめて零された言葉にキールは言葉を失う。
「なるべく一撃で落してやる。苦しめるつもりはないけど、初めてなんだ、すまないな」
次いで発せられた言葉は誰に対してでもない、目の前の獣に対してだった。
パチンッ、と留め金を外すだけで抜き身の剣は簡単に手に収まった。
魔法の維持を意識だけで行い、しっかりと両手で剣を握る。
何故か手に馴染んでいた重さが、今は異様なほどに重かった。
じっと、真っ直ぐに己だけを見つめてくるマコトの視線に気が付くと、光の鎖で手足を拘束されそれでも力の限りで暴れていた緑大熊は、彼のその瞳を見て何故か暴れるのを止めて大人しくなる。
「――――」
「――――」
命を狩る者と、狩られるもの。
僅かに交錯したその視線、ほんの刹那に満たない時間はとてつもなく澄んだ静寂だった。
「すまない。そしてありがとう。――――貰うぞ、お前の命」
そうして。
大上段に振りかぶられた大地神剣が光を放つ。
マコトの意志を反映するかのように輝いたそれは刀身を鋭く尖らせる。鋭利なそれに反し柔らかなその輝きは、まるで緑大熊の死を悼む祈りの様で。
「――――ッ!」
渾身の力で振り下ろされた一撃は寸分の狂いもなく緑大熊の首を落とし、その僅かな後に血飛沫が盛大に舞う。
どさっ、と。精一杯の礼儀を以って地面に降ろされる獣の亡骸。
それを見下ろすマコトの背中が、泣きじゃくる子供の姿の様にディンには見えていた。
● ● ●
その帰還はとてつもない大騒ぎで以って迎え入れられた。
炊事場で夕食の仕込みをしていたメグミたちの元へもその騒ぎは届き、何事かとばかりにリーアと外へ出る。
中心は村の入り口。人だかりが敷かれ、村中の人々が集っているのではないかと思えるくらいの大騒動。
「ったくなんだいなんだいこの忙しい時に寄って集っちまってさぁ。――――って。ははぁ、なるほどこいつは納得の大物じゃないか!」
悪態から一変、リーアの眼差しが戦士のそれへと変化する。感心するような視線の先には先頭をあるくディンとマコト、次いでその後ろには台車に乗せられ運ばれる、大きな獣の姿があった。
「――――っと、ごめんよメグミ。ついつい戦士時代の癖で見惚れちまって忘れてた、あんたにとっちゃあこの光景はちょいとばかし刺激が強すぎたねぇ」
「――――ううん。それよりごめんリーアさん、わたし、ちょっとだけ行ってきても良いかな?」
「うん? ああ、あの坊やの所だね。いいともいいとも、行って存分にねぎらってやりな。どうやらあの様子じゃああの坊やも狩りに一役買ったみたいだしね。おそらくトドメはディンの奴だろうけど、それでも貢献したってんならたいしたもんだ! 存分に誉めておやりよ!」
「ありがとう、リーアさん!」
リーアの言葉もほどほどに、許可が出た時点でメグミは駆けだしていた。その背を追いかけるようにヒスイが飛んでいく。
楽しげなリーアとは裏腹に、メグミの視線はマコトへと釘づけになっていた。
「――――マコトちゃん!」
歓声をかき消す様に耳に届いたその声に、マコトは無表情を向けた。
「マコトちゃん、どうしたの? なにがあったの?」
息せき切って駆けつけたメグミはマコトの元に辿り着くなりその手を握ってそう尋ねた。それに淡々とした表情を見せるマコト。代わる様にディンがメグミに笑顔を向けた。
「さっき森で大一番があったのさ。ほら見なよメグミ、この大物。みんな勘違いしているけどさ、マコトが一人で仕留めたんだよ」
「マコトちゃんが……?」
「そう、だからさメグミ――」
笑顔から一転、ディンはそっとメグミの耳元に口を寄せた。
「リーアにはあたしから言っとくから、こいつのこと任せていいかな? 獲物をしとめてから様子がおかしいんだ。まぁなんとなく事情はわかるんだけど、きっとあたしじゃどうしようもできない事だから」
「マコトちゃん……」
静かに歩を進めるマコトはどこか心ここにあらずといった様子だ。瞳はメグミを見ていても、その心は何も捉えていないかの様だ。
「――――――――。ねぇディン、このあとこの動物は、どうなるの?」
「え? あぁ、えっとこのあとはね、いったんリーアの所に運んで、それからリーアが音頭をとって捌いて調理してってな感じで、まぁちょっとしたお祭り騒ぎになるかな。緑大熊ってのはめったに獲れない獲物だからさ、この肉を使った料理はこの村の伝統料理でもあってね、狩りをした戦士を讃える祝いの食事でもあるんだ。だから料理も炊事頭であるリーアが音頭をとって行うものでね、まぁこれからだいぶ騒がしくなるよ。それにこれだけの大物はめったにお目にかかれないしね」
「そっか……。うん、わかったよ!」
ディンの言葉にほんの少しだけ思案の様子を浮かべて、メグミは思いきったように頷いた。
「じゃあディン、マコトちゃんのことお願いね!」
「え? え、ちょっとメグミ!?」
急にかけ出したメグミの背中を、ぽかんとした様子でディンは見送った。中途半端に伸ばした手が空を掴み、呆気に取られただ首を傾げる事しかできない。
「えっと、どういうこと、これ?」
疑問はむなしく、宵闇の空気に溶けていった。
「リーアさん!」
かけ出していったと思ったらすぐに戻って来た。
リーアが慌ただしく指示を飛ばしている所にメグミが息を切らせて戻ってくる。どうした、という疑問はメグミの表情を見て止まった。代わりに、リーアは真っ直ぐに目を見て問いかける。
「メグミ、あんたまさか、この後の仕事に混ざるつもりかい?」
「ううん、違うよ。わたしにやらせてリーアさん。わたしに、あの動物の料理をさせてください!」
「自分の腕前を披露して、あたしに目をかけられて調子に乗った、ってわけじゃあなさそうだねぇ。メグミ、あんたあの獲物が一等上等な代物で、これから行う料理があたしらにとっては大切なものだってわかっていってるのかい?」
「それはディンが言っていたよ、でもそんなの知らない。でもねリーアさん、あの動物は、あの命は、マコトちゃんが獲ってきてくれたものなの。ならその命に報いる事がわたしのやるべき事。だから、あの動物の料理はわたしがする!」
腕組みをして見つめてくるリーアに、メグミは拳をぎゅっと握りしめまっすぐに見つめ返す。
どうしてここまで必死で強固に意志を押し付けてくるのか当然のようにリーアにはわからない。
ただ、明確な強い決意を以ってメグミがこの場で自分に意見を告げている事だけはよくわかっていた。
「――――」
「――――」
沈黙という名の意志の押し付け合いは、けれどごくわずかだった。
「あんたならきっと、緑大熊だって今まで食べた事がないくらい旨くしちまうんだろうね」
「わたしの出来る全てを使って、美味しくしてみせるよ!」
「ああ、わかった。良いじゃないかメグミ。なら――今回の料理頭はあんただ。補佐はあたしがしっかりと勤めてやるから、いっちょうやってやろうじゃないか!」
明日も投稿します