邂逅(1)
ナルナは役所で正式な依頼を受けるやいなや、食料と遠洋航海用の魔道具を買い入れ武器を新調し海に飛び込んだ。もちろん持ち金は無かったのでテミュにつけておいた。彼女からの依頼なのだ、それぐらい許してくれるだろうとナルナは脳天気に考えていた。
装備を整える経費すら出さないことから、依頼者がこの依頼をどう考えているか推測することは十分可能だったが、ナルナの頭には未知の冒険にどう挑むかでいっぱいだった。
まずナガラ・ヌガラを出て北東に4日ほど進む。そこからは温かい流れ(※1)に乗って5日も行けば北方航路だ。本来であればナガラ・ヌガラから直接北上し流れに合流すればすれば5日で済むのでが、クロブスの災いによって直行航路は塞がれてしまっている。
そうは言っても、地上を馬で行くのであれば数週間を要する道を10日かそこらでたどり着けるのは正に海の恵みであった。
(それにしても、島のように大きな船か)
ナルナが立ち寄った幾つかの港町でもその噂は広がっているようだった。「海で魚人よりも早いものはうわさ話だけだ」ということわざがあるほど、噂が広まるのは早い。まして情報の鮮度が命である商人の国家では、ありとあらゆる噂が一瞬で海を渡るのだ。そしてどの港でも噂を聞くということは、それだけ衝撃的、かつ確度の高い情報だということを表している。
(船かぁ。ほんとにそんなに大きいのかな。島ぐらい大きいっていうのは大げさでも、30身分ぐらいはあるのかな)
意外なことだが、魚人たちは余り巨大な船を持っていない。自ら船を’引く’事ができる彼らにとって、船とは荷車に等しいものなのだ。
巨大な船は確かに多くの物資を運べるが、魚人の商人一人一人が運べる物資の量は陸の人間のそれとは比べ物にならないため、海運需要が常に飽和気味なのだ。
結果として魚人の交易は量を重視するのではなく、必要な物を必要な場所により早く運ぶという、利便性に重点を置いて発展してきた。
そのため巨大な船といっても精々が10身分ーーー10から20mであり、それにしたところで一部の大商人が権勢を示すがてらに保有しているものに過ぎなかった。ニーダーラントの船に初めて接した魚人たちが衝撃を受け模倣を始めたが、経済的需要がないため停滞している状況にあった。
ナルナが今まで見た最も大きな船も、子供の頃に父親が自慢気に見せた20m級の貿易船だった。それでも幼心に感嘆したものだったが、島ほども大きいといえばその数倍あってもおかしくはない。
(楽しみだな)
敵か味方かも分からない存在に脳天気な期待を抱きながら、ナルナは海を往く。
先程から微かに港の歌声が聞こえてきた。水は空気中よりも音をより遠くに大きく伝えるので、古くから魚人の港には、入港者を案内するための歌い手がいるのだ。自然、より美しい歌は人気が出る。
ナルナは様々な芸事を仕込まれ、それらをことごとく無視して武芸に励んでいたわけであるが、唯一歌だけは性に合った。ナルナ自身、自分はそれなりの歌い手であることに自信を持っていたし、歌を歌うことと聞くことは戦い以外の数少ない趣味だった。
そんなナルナからしても、この歌い手は筋がいい。
「〜〜〜♪」
思わず鼻歌を歌いながら、ナルナは北方航路の中心港バリクィに向かっていく。
バリクィは環礁である。長さ10km、幅8km程の楕円形で、大小30個程の島が浮かぶ。環礁は魚人にとっては非常に過ごしやすい場所で、殆どの富豪は別荘として小さな環礁を持っているほどだ。
バリクィは環礁の中ではかなり大型で、位置的にも交易網の中心に位置していたため、交易所だけではなく旅の疲れを癒やす宿場も充実している。
情報も集まりやすく、ナルナはここを拠点にして問題の船の調査をするつもりでいた。
ナルナが環礁に入ると、水中に幾つか派手な色の看板が目に入ってくる。港、商店、宿等など。
当然娼館も商いを行っており、珊瑚でピンク色に装飾された、色っぽく裸体を晒す戯画が描かれた看板もあった。ナルナは少し顔を赤くして目をそらす。すると目立たない位置にあった酒場の看板が目に入った。
情報を集めるといえば人の出入りが激しく、口がゆるくなる酒場と相場が決まっている。オマケに酒場は大抵安宿も兼ねているから一石二鳥だ。看板を見るに高級な宿もあるが、懐事情を考えれば選択肢などあってないようなものだった。
’バリクィの真珠屋’は海辺からほど近い通りの、少し奥まった小道にあった。飾り気もない小ざっぱりとした店構えだ。
ナルナは木製の押戸を押そうとし、ふと背に負った槍に気付いて布で覆い隠すと、改めて押戸を抜けた。席はカウンターが10かそこら。テーブル席が5つはあったが、8割がたは客で埋まっていた。
昼間は料理も出しているのだろう、家族連れも2組いた。それなりに繁盛しているようだ。
結構当たりもしれない、とナルナは空いていたカウンター席に腰掛け、黒貝貨(※2)を2枚テーブルに置いた。
「おう、いらっしゃい」
「こんにちわー。とりあえずディンブフ(※3)1杯もらえます?」
「お、真っ昼間っから駆け付け1杯かい。いいねぇ姉ちゃん、気に入ったよ」
髭面をした筋骨隆々の店主はその強面に似合わないほど愛想よく笑うと、カウンターの下から陶器を取り出し中に入ったディンを三分の一ほどコップに注ぐ。そしてカウンターの裏にあったドアから出ると、ガラスのボトルを取り出して戻ってきた。
その時ボトルが纏った僅かな冷気がナルナの頬を撫でる。
「え、それまさか冷えてるの?」
「おうよ。うちの嫁さんが魔法を使えるもんでな、俺の店は嫁さんで持ってるようなもんよ。
普段は冷えてるやつは別料金なんだが、ま、サービスだ」
自慢げに語りながら、店主は残った三分の二を炭酸水で満たし、木製の混ぜ棒でかき混ぜてナルナの前に置いた。
「へいお待ちどう」
ナルナはコップをひっつかみディンブフを喉に流し込む。冬の海のように冷たい炭酸が乾いた喉を瑞々しく刺激し、酒精が後からボンヤリとした熱を伝えてくる。
数秒と立たぬ間にコップの水位は半分ほどまで減った。
「……ぷはぁああッ! 美味しい!」
「いい飲みっぷりだなぁ。ところで姉ちゃん見ねえ顔だが、どっから来たんだ」
「んぐっ……んぐっ……ぷへぁ、ナガラ・ヌガラよ」
「へえ、そりゃずいぶん遠いところから。商いかい?」
「ちょっとした噂の真相を調べに、ね。島みたいに大きい船を見かけたって話なんだけど、おじさんは何か知らない? あ、あとこれおかわりで」
訪ねながら、ナルナは追加の金をテーブルに置いた。情報だってタダではないことぐらいはナルナも理解していたので半分は情報料代わりだ。
おうよ、と答えた店主は手早く二杯目を作りナルナに差し出す。
「で、なんだっけ、でかい船の話だったか。知ってるも何も、ここらじゃ最近その話で持ちきりだ」
「ホント!? 詳しく聞かせて……」
「おいおいそんなに慌てんなよ、俺よりも娘から聞いたほうが早いぜ。おーい、キエル」
「はいはい、今行くよ」
店主が声をかけると、店内で給仕をしていた少女がカウンターに近づいてくる。ナルナよりも頭一つ分低い、目がクリクリとした可愛い少女だった。元気な看板娘といった雰囲気だ。
店主はキエルと呼んだ少女の頭を鷲掴みするようになでた。
「俺の娘だ。嫁さんに似て美人でな、まぁ姉ちゃん程ってわけじゃねえがなかなかの……」
「もう父さん、そういう無駄話はいいから」
「ああそうだったな。この姉ちゃんがあの船の話を聞きてえんだってよ。お前、この間直接見たんだろ? ちょうどいいと思ってな」
「直接見た!?」
ナルナは驚きの声を上げ、コップをこぼしそうになり慌ててそれを掴み直した。
噂話の詳細を聞ければいいと思っていたところに、予想外の大当たりだ。ナルナは興奮気味にキエルに詰め寄った」
「何時、何処で見たの? ほんとに島みたいに大きいの?」
「ちょ、ちょっとお客さん落ち着いて……見かけたのは昨日です。ここから北に行ったところに小さな村があるんですけど、そこにいる知り合いに届け物を持っていく途中でした。
遠くから聞いたこともないような音が聞こえてきたんです。なんていえばいいのか、ゴゴゴーって感じの音が規則的に」
魚人の耳は良い。特に水中では目に見えないほど遠くの音を拾える。そして幼い頃から海とともに生きてきた魚人なら、海の中で聞こえる大抵の音は判別が出来るのだ。
その魚人である彼女が聞き覚えのないと行った音。それに未知の匂いを強く嗅ぎ取ったナルナは強く何度も頷いた。
「で、私気になっちゃってその音の方に向かっていったんですよ。しばらく近づいていったら、今度は空からも変な音が聞こえてきて、そっと海面に上がってみたんです。
そしたら、なんて言うか、見たこともない……大きな虫みたいなものが空を飛んでて」
「虫?」
「じゃないかもしれないですけど、こう、角ばってて、尻尾がついてて、ものすごい速さで飛んでいきました。
それでちょっと怖くなって、もう帰ろうと思ったんです。
その時かなり遠くに船みたいなものが見えたんですよ。よく見えなかったけど、あんなに遠くから見えたんだからものすごい大きさだったと思います。島と見間違ったかなって思ったんですけど、あの辺りに島なんてなかったですし……」
「それが噂の船かもしれない、ってことね」
キエルは多分、と自信なさげに頷いた。
「ま、娘だけじゃなくて北に行った連中は何人も同じようなこと言ってるよ。だもんで最近じゃ北に行くやつは結構少なくなってるんだ。
ま、わざわざ危険に近づく物好きはいねえからな」
店主が食器を洗いながらそう補足する。
見間違いの可能性もある。しかし彼女が語る色々な情報は、それらが明らかに普通でないことを感じさせた。
嘘を言っている風にも見えない。そもそも、ナルナは嘘を言われるということを考慮の埒外として、特に疑うこともなくキエルを信じた。数日前には平民の家族が数世代遊んで暮らせるほどの金を騙し取られたばかりでありながら、特に後悔も反省もなく人を素直に信じられることは、彼女の数少ない美点の一つではあった。
「ここから少し北って行ってたけど、海図はある?」
「あ、はい。あの壁に掛けてある海図で、赤い印のついているところです」
ナルナは席を立って指さされた先にあった海図に近寄り、距離と方角を確認した。少し主要航路からは外れているが、さほど遠くはない。
窓から空を見れば日はまだ高かった。ナルナの速さを持ってすれば日が沈む前に十分到着するはずだ。
「情報提供ありがとう!」
ナルナはぐいとディンブフ飲み干し、空になったコップを乱暴気味にカウンターに置くと、ドタバタと手荷物をまとめた。
「いえ、それほどのことじゃ……って、そんなに急いでどうしたんですか?」
「これからそこに行ってみるわ。今からならまだ余裕で間に合うだろうし」
「い、今からですか?」
「おいおい、話を聞いてなかったのか? 何があるか分からねえ、危険だぞ」
店主は純粋な心配からナルナに翻意を促した。娘にも、あれから北には行くなと言いつけているのだ。
外面を見ればどこぞの令嬢かと思う美しさを持つナルナが、危険から身を守れるようには見えなかった。
しかしナルナにとってこの手の誤解は今までごまんと受けてきた。慣れた調子でいたずらっぽく笑いながら、槍にかけてある布を少し解き、穂を覆った鞘も僅かにずらした。
穂先に反射した光が危なげに光り、店主たちはわずかに息を呑む。
「大丈夫よ、これでもそれなりに腕は立つから」
それに、と続けてナルナは野性的な笑みを浮かべた。
「危険だからいいんじゃない? きっと楽しいことになるわよ」
温かい流れ(※1)
古くから魚人の大陸貿易航路として利用されてきた海流。
暖流であり、現在は正式名称が南中大洋海流となっている。
黒貝貨(※2)
ナガラ・ヌガラ近郊の一部の諸島にしか生息していない貝の貝殻を利用した通過。
流通量・産出量は厳重に管理されており、密漁などが発覚した場合は極刑も含めた厳罰となる。
ナガラ・ヌガラの影響が強い航路沿いの都市には広く流通している。
ディンブフ(※3)
ディンと呼ばれるヤシの蒸留酒を割ったもの。
レシピは特に決まっておらず、ベースがディンであれば全てまとめてこう称する。