弐
祖父の実家は山奥にあって最寄りの駅まで車で三十分以上はかかる所にある。名主だった旧家でそこを父親のいとこに当たる人が継いでいた。
父親はその家を本家と呼んでいる。
駅でその本家の息子が迎えに来てくれた。兄と同じ年のショウさん。兄はこの人と馬が合うらしくよく電話でやり取りをしている。
「こちらに来るのはミキオの宮参り以来か。トキオはカズおじさんが亡くなってからサッパリ来なくなったからな」
カズおじさんというのはオレ達の祖父ちゃんのことだ。
本来、あの家はその祖父ちゃんが継ぐはずだったが、やんちゃが過ぎて弟に譲ったと祖父ちゃんはよく話していた。この人の父親とオレの父親は年が同じで仲が良かった。
だから、あの年までオレ達は一家で夏はこちらに来ていた。特に祖父ちゃんとオレとミキオの三人はほとんど夏をこちらで過ごした。
「道、広くなっただろう?ウチの山まで繋がるようになって便利になったが、余所の奴が入り込んで、山を荒らしたり小火騒ぎがあったりで、いろいろ厄介なんだ」
風の音がうっとうしい。生返事を繰り返すオレの目線をミラー越しに確かめた父親のいとこの息子。オレはこの人が苦手だった。
名前の知らない木だけが続く道。
子供の頃が帰って来る。そしてオレの心に沈めた約束。
車が見覚えのある門をくぐり抜けた。重そうな瓦屋根の日本家屋。
変わっていない。ここでショウさんは妹のリツさんとお祖母さんの三人で暮らしている。リツさんは確かオレより二才上だから二十三才のはずだ。でも、小柄なせいか同級生のような雰囲気だ。軽く挨拶をすると久しぶりと笑顔で返してきた。
庭の向こうに幹の太い銀杏の木が見える。今は若い葉の枝を背負った苔色の屋根。御堂と呼ばれている小さな神社のような建物。この家には昔からの習わしが残っていて子供は数えで七才になるとそこに手形の絵馬を奉納する。それを宮参りと呼んでいた。オレ達兄弟の手形もある。
「 実はミキオな。あんな事になる前にここに来て、御堂にも少しの時間籠もっていた」
「えっ?ミキオが?」
知らなかった。
そうか、ミキオはリュウちゃんに会いに来たのか。ショウさんは御堂の方へオレを招くように歩いて行った。御堂の中は八畳ほどの板場で壁に手形の絵馬が掛かっていた。そして、さして高くない屋根に近いところに能面が飾られていた。
そうだ。あの時、ミキオの宮参りの時、ミキオはあの能面が怖いと言って泣いた。オレにすがって「お面が怖い」
と泣いた。
目で追って手形を見つけ、そっと手を重ねた。
「ミキオ」
そしてオレの手。チビで半分もない手を重ねるとチクリとした。
能面が睨んでいる。
そして「帰ってこい」と言った。
オレは答えて能面に手を合わせた。
この時ショウさんがオレの手を射るように見ていたのをオレは知らなかった。
御堂を出ると覚えたてのホトトギスの声がした。夜鳴くホトトギスは不幸を連れて来る。そんなことを言ったのは誰だったかな、と、まだ、そんな事を考える。そんな自分が可笑しかった。
勝手口から家にまわるとお祖母ちゃんが一人の男の人と話し込んでいた。父親より年上なのか頭はすっかり白くなっていた。その人はオレを見ると怯えるように後退りした。
「カズさんとこのトキオちゃんよ。大きくなったでしょう。今は大学の三年生よね?この人はハヤシさんと言って、昔、お母さんがウチで働いていたのよ。失業したと言って、それならと手伝って貰っているの、ちょうどあの子達の父親が亡くなったばかりで男手が欲しかったから助かっているのよ」
「ハヤシさん?ああ、あのふっくらとしたおばあさん?」
「そう、そう、さすがカズさんの孫ね。頭がいいわ。そのお母さんももう亡くなってしまっているけど貸していた家にそのまま住んでいるのよ」
その人はすっかり恐縮して頭を下げた。
「すみません。顔と髪型まで余りにも似ているので幽霊かと思ってしまって」
「…あぁ、いいですよ。母親もそうだから」
頭を下げながらその人が出ていくとお祖母ちゃんがオレの手をギュッと握ってくれた。
「…祖父ちゃん」
祖父ちゃんの夢で目が覚めた。この家の仏間には一族の遺影が全て飾ってある。オレはそれが見たくなって布団から出た。懐かしい大好きだった祖父ちゃん。
「祖父ちゃん、祖父ちゃんならミキオのいる所、知っているだろう」
そして、もう一人、懐かしい顔。ショウさん達の弟リュウちゃん。
リュウちゃんはオレと同じ年。たった五才の時に事故で死んだ。
そして、リュウちゃんの母親も後を追うようにその年の暮れに亡くなった。リュウちゃんが死んでオレ達はこの家には来なくなった。
死んだ子供と同じ年頃の子を連れて行くのは両親にとって忍びなかったのだろう、と、今ならわかる。
そのおじさんも一昨年、病気で亡くなった。あの時も父親はひどく落ち込んでいた。当然だ。仲の良かった同じ年の従兄弟が亡くなった。オレはそんなことも忘れていた。
リュウちゃんはあの時のままだ。
「リュウちゃんにはミキオはわからないかな」
リュウちゃんの隣のミキオの写真は高校生の制服姿。
あの日の前日にオレが美容室に行って家に帰ったらミキオも同じ髪型になっていた。同じCDを買ったり、読んでいる本が同じだったり、そういう偶然が本当にオレ達は多かった。あの時は父親と母親は本当に大笑いした。
あれが家族の最後の本当の笑顔だった。
また、泣きそうになった。横の祖父ちゃんがオレを見ろと言った。
わかっている。
祖父ちゃん、祖父ちゃんの言いたいことわかるよ。
いつも、どんな時も忘れない。祖父ちゃんとの約束。
ミキオもだれも知らないオレと祖父ちゃんの約束。
「祖父ちゃんだろ?ミキオを使ってオレをここに呼んだの。もう、馴染んだよ。オレのモノだ」
いつもオレが持っていたようにミキオはリュウちゃんとの約束を持っていたのだろうな。リュウちゃんとミキオ、二人だけの約束。ドクンと呼んだ。ミキオのことで沈めていたオレの約束。
パンパンと両手で自分の頬を叩いた。
「もう、大丈夫。オレはオレに戻るよ」
「ブランコまだある」
ここでオレ達は笑っていた。何が楽しかったのかもわからない。そんなチビっ子だったオレ達を祖父ちゃんがこのブランコに座って見ていた。
「ここに居たんだ」
リツさんはこうして話すとやはり年上なのだと思う。子供と話すように話しかけてくる。
「あっ、ブランコ懐かしくて」
「そう、そう、ここでスイカ食べたり花火したりしていた。…私、毎日あの夏を思っている。このブランコに座ってリュウと話すのよ。今日あったこと。お兄ちゃんも死んだ父さんもそうだった。元気か?とか寒くないか?とかここで言っていた。…ミキオちゃんのこととか。ごめんね。こんな言い方変だけどお兄ちゃん楽しそう。チィちゃん来てくれて。だって生きていたらリュウはチィちゃんみたいになっていたはず…」
ブランコに座ると確かにあの頃に帰る。
ああ、だからこのブランコそのままなのか。ミキオとリュウちゃんの声が走り出した。置いてきぼりのオレ。まだ目線の定まらないオレに現在から声が聞こえた。
「そういえばあの時、チイちゃんとカズおじさん、夕方になるとどこかへ行ってなかった?ミキオちゃんが付いて行こうとすると私に預けて行ってしまうから、どうしてかな、といつも思っていたの」
「そうだった?覚えてないな」
あの時、祖父ちゃんとオレはアソコに行っていた。銀杏の木の裏の獣道。
「存在さえ言ってはいけない」と約束をした所。