致死率100%のウイルスが蔓延した終末世界、なぜか『末期癌』の俺たち夫婦だけが生き残る~不治と偽り特効薬を隠していた製薬会社に五億円を賠償させ、諦めていた我が子を授かるまで~
食器棚の一番下の引き出し――かつて俺が自分の店の十席のカウンターで使っていた麻のテーブルクロスのすぐ下に、色褪せた感熱紙が縁までぎっしりと詰まった古いビスケットのブリキ缶がある。
料理のレシピではない。
そこに詰め込まれているのは、『ヘリオス製薬・黒沢先端腫瘍クリニック』から発行された百四十二枚の領収書だ。
総額、四千八百六十万円。
そのブリキ缶の中には、俺が一日十六時間、十二年間休まず厨房に立ち続けて貯めた預金のすべてと、亡き両親が遺してくれた実家の抵当権、そして何より――去年、二束三文で手放すことになった俺のトラットリアの店舗と、炭素鋼の包丁セット、そして樹齢百年の檜の一枚板で作ったカウンターの売却契約書が眠っていた。
すべては、ヘリオス製薬が特許を独占する維持療法薬『オンコレスト7』を買うために消えた。
一本八十万円もするその白濁した注射液は、決して癌を「治す」とは約束しない。ただ「進行を数ヶ月凍結させる」という名目で、患者の銀行口座から最後の1円が消えるまで化学の首輪で繋ぎ止めるための薬だった。
そして、俺たちの口座残高がついに三千円を切り、保険会社から「支払い能力のない末期患者」として分類されたまさにその日。
ヘリオス製薬の筆頭株主であり院長でもある黒沢一朗教授は、事務的な微笑みを浮かべて退院勧告書にサインをし、「残された数週間は、ご自宅で穏やかにお過ごしください」と俺たち夫婦を病院から放り出したのだ。
今、江東区にある俺たちの四階のアパートの閉め切った窓の外で、東京は死んではいなかったが、鉛色の空の下で苦しげに喘いでいた。
十日前から、日本全土に『灰壊死病』――致死性ウイルス『タナトス』による緊急事態宣言が発令されていた。
過去のパンデミックとは異なり、そのウイルスは肺をただ炎症させるのではなく、人間の「細胞分裂の受容体」に直接結合し、臓器が自己修復する能力そのものを完全に停止させてしまう。新陳代謝の遅い高齢者や、ベッドの上でじっと動かない者は激痛に耐えながら数週間持ちこたえるため、都内のあらゆる病院の廊下は患者で溢れ返っていた。だが、若く、健康で、生命力に満ち溢れた人間ほど、わずか三日から四日で全身の組織が崩壊して死に至るのだ。
階下の通りからは、一定の間隔で「水を煮沸して飲むように」「救急外来に殺到しないように」と呼びかける防災無線の無機質なアナウンスが響き、遠くで都心へと往復する軍用救急車のサイレンが混じり合っていた。
だが、俺たちの小さな台所の中だけは、オーブンでローストした牛骨と、しんなりしたセロリが弱火の寸胴鍋の中でコトコトと煮える温かい香りに包まれ、この三年間部屋に染みついていた消毒液と薬のシートの臭いをようやく消し去ってくれていた。
俺は色褪せた仕事用のエプロンを腰に巻き、細くなりすぎた指で木べらの柄を握りしめてコンロの前に立っていた。
首の後ろで結んだ綿のバンダナの下には、もう髪の毛が一本も残っていない。八ヶ月前から俺の胃を蝕んでいるステージ4のスキルス性胃癌は、溶けた鉛を全身に流し込まれたような重だるい疲労感を俺に与え続けていた。
それでも、十二時間煮込み続けたブロード(出汁)の表面から黄金色の脂をゆっくりと正確な手つきですくい取っている今、俺の痩せこけた顔には、ここ数年感じたこともなかったほどの静かな安らぎがあった。
「……蓮? 台所で何をやっているの? クリニックの先生から、脂っこいものも、塩分も、赤いお肉も絶対にダメだって言われていたじゃない……」
廊下から、そよ風のように微かな妻・美桜の声が届いた。
美桜は華奢な肩には大きすぎるベージュの羊毛のカーディガンを羽織り、台所の入り口の柱に寄りかかって立っていた。
彼女の頭にも柔らかいスカーフが巻かれている。三年前、俺たちが子どもを授かろうと願っていたまさにその時に見つかった悪性リンパ腫は、半年前に再発し、すでに両肺へと転移していた。
俺は美桜の方へ振り返って微笑み、銅鍋の底を見せてやった。
何ヶ月も前から冷凍庫の隅に少しずつ取っておいた玉ねぎの皮、パセリの茎、パルミジャーノ・レッジャーノの硬い皮、そして牛のスジや軟骨が、鏡のように艶やかで濃厚な琥珀色の『フォン・ド・ボー(褐色出汁)』へと姿を変えていた。
「黒沢クリニックの連中なら、金のない患者に対しては水曜日から門を閉ざしてるよ、美桜」
俺は穏やかな声で言い、上の戸棚からクリスタルのワイングラスを二つ取り出した。
「それにさっきラジオで言っていた。都内の集中治療室は定員の三百パーセントを超えたそうだ。外じゃ酸素ボンベ一本や抗生物質の一箱を巡って、検問所で殴り合いが起きている。階段を一段上がるだけの白血球すら残っていない俺たち二人のところにウイルスが入ってきたら、一晩ともたないだろうさ」
美桜は自分の青白い両手に視線を落とし、それから俺の肩越しに、廊下の突き当たりを見つめた。
そこには、三年前から鍵が掛けられたままの「白い扉」があった。
あの扉の向こうには、段ボールに入ったまま一度も組み立てられていないブナ材のベビーベッドと、封すら切られていない綿のベビー服の箱が二つ置かれている。
高濃度の『オンコレスト7』の大量投与によって美桜の卵巣機能が永久に焼き尽くされ、二度と子どもを授かることはできないと医師から告げられた夜――俺たちはあの部屋の床で抱き合って一晩中泣き明かし、翌朝、俺が鍵を閉めた。
そしてその二年後、俺の胃にも手術不可能な末期癌が見つかった時、俺たちは「親になれない」どころか「一緒に年老いることさえできない」のだと悟ったのだ。
これから先、五十年の未来がある人間にとって、このパンデミックは地獄そのものだっただろう。
だが、すでに社会から切り捨てられ、賃貸アパートのベッドで一人ずつ順番に消えていくことだけを宣告されていた俺たち二人にとって、十月の風に乗ってやってくるその感染症は、まるで慈悲のように思えた。どちらかが一人きりになって、もう一人の骨を拾う必要がないからだ。
「ベランダの窓、開けてあるの?」
夕暮れの涼しい風に白いカーテンが膨らむのを見て、美桜が静かに尋ねた。「住宅密集地じゃ、ビル風の気流に乗ってウイルスが入ってくるって言っていたけれど……」
「だから開けたんだよ」
俺は美桜に歩み寄り、細くなったその腰を抱き寄せて、温かい額にそっと唇を落とした。
「俺たちの最後の日々を、上の階の金持ち連中みたいにガムテープで目張りした暗闇の中で過ごす気はない。俺はこの家に秋の風を入れたいんだ。それに今夜は、味のないオートミールのお粥なんか食わない。席に着いてくれ、奥さん。シェフが今日の午後ずっと、お前だけのために腕を振るったんだ」
美桜は開け放たれた窓のそばの小さな木のテーブルに腰を下ろした。窓の外からは、もうすぐ降り出しそうな雨の湿った匂いと、遠く隅田川の上空を飛ぶヘリコプターの鈍いローター音が届いていた。
俺は温めた陶器の深皿を二つテーブルに並べた。
皿の真ん中には、冷蔵庫に残っていた最後の二百グラムの小麦粉と二個の卵を使って麺棒で手打ちしたラビオリを盛り付けてあった。中にはブロードを煮出すのに使った牛すね肉をほぐして詰め、上から黒く輝くベルベットのようなフォン・ド・ボーのソースをたっぷりとかけ、蒸気で柔らかく戻した最後のパルミジャーノの皮をすりおろして散らしてある。
そして俺は、パントリーの一番暗い奥から、店を手放した時にも決して売らなかった「最後の一本」を取り出した。
俺たちが結婚した年のヴィンテージの『バローロ』だ。
そのラベルの上には、四年前、美桜が自分の手で書いた小さな黄色いメモが貼られたままになっていた。
『あの子が生まれた日に開けること』
コルク栓が鈍い音を立てて瓶の口から抜けた瞬間、美桜の瞳から大粒の涙が溢れ出した。だが、その乾いた唇には、花の咲くような明るい笑みが浮かんでいた。
「……そのワイン、もう一生開けないって決めていたのに」
グラスに注がれていくルビー色の液体を見つめながら、美桜が囁いた。
「料理人の厨房に無駄な食材はない、っていつも言ってただろ?」
俺は美桜の向かいに座り、グラスを掲げた。抗がん剤の副作用で指先はわずかに震えていたが、俺は妻の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「こんな極上のワインを、ここで酢に変えちまうなんて許されない罪さ。……俺たち二人に乾杯しよう、美桜。たとえ親にはなれなくても、この世界が俺たちに残りカスみたいな時間しかくれなくても……俺はお前と過ごした一日たりとも、他の誰かの人生と取り替えたいとは思わない」
「私もよ、蓮。一分だって、取り替えたくないわ」
グラスが澄んだ音を立てて触れ合った。
ワインは温かく、力強く、まるで生きているようだった。治療で荒れた俺たちの喉を優しく焼きながら、赤い雫が胸の奥へと落ちていく。
俺たちはゆっくりと時間をかけてラビオリを味わい、皿に残った最後のフォン・ド・ボーの一滴までパンで綺麗に拭って食べた。塩の旨味、バターの香り、そして肉の深い味わいが、長い冬眠から覚めたように俺たちの細胞の隅々にまで染み渡っていく。
まだ俺が二十四歳だった頃、築地の魚市場の裏で仲買人が捨てようとしていた鯛の頭や中骨を自転車のカゴに回収しに行き、雨の中で美桜と初めて出会った日のことを、俺たちは何時間も笑いながら語り合った。
その夜、俺たちはモルヒネも睡眠薬も飲まなかった。
東京の夜風が入ってくるよう寝室の窓を少し開けたまま、一枚の羽毛布団の中に潜り込んで固く手を繋ぐと、このまま二人一緒に眠りの中へと溶けていけることを願いながら、目を閉じた。
◇
翌朝、俺たちを目覚めさせたのは「死」ではなかった。
マンションの外階段を何かが転げ落ちる鈍い衝撃音と、地の底から響くような乾いた咳き込み、そして直後に五階の重厚な防犯扉が内側から二重ロックされる金属音だった。
俺はぼんやりする頭で目を開けた。パジャマの上に上着を羽織り、美桜には布団の中にいるよう言ってから玄関の扉を開けた。
四階と五階の間の大理石の踊り場に、ひっくり返ったルイ・ヴィトンのスーツケースと一緒に倒れ込んでいたのは、最上階のペントハウスに住む金融コンサルタントの橘だった。
この二年間、俺と美桜が化学療法用のニット帽を被り、病院の薬袋を提げてエレベーターに乗るたびに、まるで貧乏人の伝染病でも見るかのように露骨にシルクのハンカチで鼻を押さえ、壁際にへばりついていた男だ。
今、その橘がシルクのパジャマ姿で冷たい大理石の上でガタガタと震えていた。
首筋と手首には、『灰壊死病』のステージ2に特有のドス黒いスレートグレーの網目模様が浮き出ている。彼の肌に斑点が出たのを見た妻が、たった今彼をペントハウスから閉め出し、彼が年間二百万円の会費を払っていたはずの富裕層向けプライベート医療サービスは、単に電話回線を抜いて逃亡したのだった。
「た、助けてくれ……」
橘は起き上がる力すらなく、恐怖に見開かれた目を俺に向けて喘いだ。「救急車を……金を払う……病院へ連れて行ってくれたら、現金で五十万円やる……!」
俺は一円も受け取らなかった。
マスクすら着けないまま三段の階段を下り、痩せた肩に彼の体を担ぎ上げた――不思議なことに、八十キロ近い彼の体重を持ち上げても、いつもの胃を突き刺すような激痛が全く走らないことに俺自身が驚いていた。
そして、通りを巡回していた民間防衛隊の医療パトロール車に引き渡すため、彼をマンションのエントランスまで引きずっていったまさにその時。
橘の体が激しい痙攣のような咳の発作に襲われ、俺の顔面――唇と両目のど真ん中に向かって、血と唾液の飛沫をまともに吐きかけたのだ。
彼をストレッチャーに乗せた黄色い防護服の救命士たちは、まるで死刑囚でも見るような悲痛な目で俺を見た。
「……旦那さん、今、粘膜に最大濃度のウイルス飛沫を直接浴びましたよ」
曇ったバイザーの奥から、救命士の一人が震える手で消毒液のボトルを差し出した。「家に戻って、中から鍵を掛けてください。今のウイルス量じゃ、今夜を待たずに発症します。申し訳ないが、もう空きベッドが一つもないんです」
俺は階段を上がって部屋に戻り、冷たい水で顔を洗った。美桜を怖がらせないよう何も言わなかったが、窓を開けていた以上、すでに俺たち二人の肺の奥深くまでウイルスが入り込んでいることは疑いようがなかった。
激突は、その日の真夜中にやってきた。
まるで生きたまま溶鉱炉の中に放り込まれたかのようだった。
俺と美桜は同時に、体温計の目盛りが『40.4度』まで跳ね上がる猛烈な高熱に襲われた。
シーツは沸騰したような汗でびっしょりと濡れ、心臓が耳の奥で毎分百四十回の早鐘を打ち、胃から胸、そして骨髄の芯に至るまで、目に見えない二つの巨大な軍勢が俺たちの血管の中で互いを食い破りながら殺し合っているような、凄まじい灼熱感が駆け巡った。
悪寒に震える美桜を汗まみれの胸に強く抱きしめながら、俺は意識が遠のく中で思った。
(ああ、ついに来た。これで終わりだ)
だが――その高熱は、きっかり三十六時間続いた。
そして四日目の夜明け、最後の枯れ草の一本まで焼き尽くした山火事が消えるように、熱はピタリと止んだ。
俺が目を開けた時、秋の朝の太陽が寝室を明るく切り裂いていた。
大きく口を開けて深く息を吸い込む。末期癌特有の浅くヒューヒューと鳴る呼吸か、あるいは両腕に広がる灰壊死病の黒い斑点が目に入るはずだった。
しかし、俺の肌は驚くほど綺麗だった。そして俺の肺は、咳一つ出ることなく、冷たく澄んだ朝の空気で底の底まで満たされたのだ。
俺は弾かれたように上半身を起こした。
隣では、美桜がすでにマットレスの縁に座っていた。彼女は両手で自分の首筋――左の鎖骨のすぐ上を必死に触っていた。四日前まで、そこにはガラス玉のように硬く腫れ上がった二つのリンパ節の腫瘍があり、水を飲み込むことさえ困難にしていたはずだった。
「蓮……!」
美桜が震える声で俺を振り返った。一年以上も土気色だった彼女の頬に、嘘のように鮮やかな薔薇色の血色が戻っていた。
「胸の痛みが全部消えてるの。それに、首のここのしこりが……ほとんどなくなってるわ。蓮、私の首を触ってみて……どうしてしこりが縮んでるの!? どうして私たち、死んでないの!?」
俺は美桜の温かい首筋に指を当てた。硬く盛り上がっていた悪性リンパ腫の塊が、指先で探してもほとんど分からないほど小さな粒に縮んでいた。
自分の腹にも手のひらを強く押し当ててみる。先週まで肋骨の下で石のように硬く主張していた胃癌の塊が消え、痛みは微塵もなかった。代わりに俺の腹の底から、三十代の健康な男のような猛烈で獰猛な「空腹の音」がグゥッと鳴り響いた。
「服を着ろ、美桜」
俺は微塵も震えなくなった両足でベッドから立ち上がり、言った。「佐藤先生のところへ行くぞ」
家を出る前、俺は三つの大きな密閉ガラス瓶を取り出し、三日前に仕込んでおいた牛骨と髄の濃縮ブロード四リットルを縁までなみなみと詰めた。そしてそれを、俺の革製の包丁ケース――中には愛用の包丁と業務用の料理用ガスバーナーが入っている――と一緒にリュックサックへと詰め込んだ。病院の医師たちも患者たちも、何日も温かい食事を口にしていないと分かっていたからだ。
俺たちは『東京市立総合医療センター』までの三キロの道のりを、自分たちの足で歩いて渡った。
東京の街は死んではいなかったが、深く傷ついていた。薬局の前には防毒マスクを着けた警官に監視された長い沈黙の行列ができ、市立医療センターの広場には自衛隊が六つの巨大な空気膜テントを設営していた。
救急外来の廊下には、数百人の一般市民が折り畳み式の簡易ベッドに横たわって生理食塩水の点滴に繋がれ、徹夜で目の窪んだ医師や看護師たちが、血漿輸血で少しでも壊死の進行を遅らせようとベッドからベッドへと必死に走り回っていた。
俺たちは三階の公立腫瘍科の検査室で、佐藤慶子医師を見つけた。
鉛筆一本で髪を無造作に束ね、皺だらけの白衣を着た五十代の女性医師だ。二年前、ヘリオス製薬の犯罪的な薬価設定を公に告発して大学病院から追放され、俺たちが検査代すら払えなくなった時も、ずっと無償で診察を続けてくれた東京で唯一の良心とも言える腫瘍内科医だった。
俺たちが携帯用酸素ボンベもつけず、自分の足でしっかりと検査室に入ってきたのを見た瞬間、佐藤先生は手に持っていたカルテを床に落とした。
「蓮くん!? 美桜さん!?」
佐藤先生は駆け寄ってくるなり、熟練の手つきで俺たちの脈と美桜の首筋に触れた。「ちょっと待って……美桜さんの鎖骨上リンパ節の腫れが八割以上縮小しているじゃない! 蓮くんの腹水も消えている! 一体どんな薬を使ったの!?」
「五日間、窓を開けっ放しにして吸ったウイルス入りの空気と、ステージ2の感染者から顔面にまともに浴びた血混じりの咳ですよ、先生」
俺は佐藤先生と病棟の看護師たちのために、まだ温かい濃縮ブロードのガラス瓶をデスクの上に並べながら答えた。「四十度を超える熱が三十六時間続いて……今朝起きたら、こうなっていました」
佐藤先生は食事には目もくれなかった。眼鏡の奥の瞳を鋭く輝かせると、すぐさま俺たち二人から静脈血を二本ずつ採血し、細い針で迅速生検を行って、検査室の中央モニターに接続された走査型電子顕微鏡の下へとサンプルをセットした。
十分後。
佐藤先生は椅子の背もたれに両手でしがみついたまま、息を呑んで高精細モニターの画面を凝視していた。
「信じられない……」
佐藤先生は細胞画像を拡大しながら、掠れた声で囁いた。「ここを見て……完璧な『生物学的パラドックス』が起きているわ!」
俺と美桜は画面を覗き込んだ。
「いい、タナトス・ウイルスが健康な人間を殺すのは、ウイルスが正常な細胞の『テロメア(染色体の末端)』に結合して、細胞の自殺遺伝子を強制的にオンにしてしまうからなの」
佐藤先生は科学者としての興奮に声を震わせながら説明した。
「だけど、あなたたち二人の体内にあったステージ4の悪性腫瘍細胞は『生物学的な不老不死』なのよ! 無限にテロメラーゼ酵素を出し続け、細胞の自殺スイッチが最初から壊れている! ウイルスがあなたたちの体内に大量に入ってきて細胞を止めようとした時、あなたたちの癌細胞は死の命令を無視しただけじゃない――増殖するためにあらゆるタンパク質を貪り食う『飢えた癌細胞』が、ウイルスの外殻を格好の『エサ』として認識し、片っ端から食い尽くしてしまったのよ!」
美桜が両手で口元を覆った。「私たちの癌が……ウイルスを食べたの?」
「相討ちになったのよ!」
佐藤先生はモニターの上で、破壊された癌細胞の残骸の周りに輝くリンパ球を指差して叫んだ。
「これまで癌細胞は正常な細胞のフリをして隠れていたから、あなたたちの免疫システムは癌を攻撃できなかった。でも、癌細胞がウイルスを内部に取り込んで食い荒らしたことで、ついにあなたたちの免疫システムが『敵の場所』を完全に認識して目を覚ましたの! しかも、固形癌である蓮くんの『胃癌』と、血液の癌である美桜さんの『悪性リンパ腫』という二つの異なる腫瘍の中で弱毒化されたウイルス株を、夫婦で同じ部屋で呼吸して交換し合った結果……あなたたちの骨髄が、世界で唯一の『キメラ型万能抗体』を作り出した! タナトス・ウイルスを十二時間で完全に消滅させ、同時に白血球に命じて末期癌そのものを解体させる分子よ! あなたたち二人の血漿があれば、明日までにこの病院に入院している患者全員を救う血清が作れるわ!」
美桜が声を上げて泣き出し、三年間見せたこともなかったような強い力で俺の腕を握りしめた。
俺たちを苦しめ抜いた死の病が、何百人もの命を救う希望へと変わったのだ。
だが、俺たちは「ネットワーク」のことを計算に入れていなかった。
市立医療センターの電子顕微鏡と血液分析装置は、厚生省の全国疫学データベースとオンラインで直結していたのだ。
コンピューターが『ウイルス中和率100%・悪性腫瘍退縮確認 ―― 患者ID:蓮&美桜(旧・黒沢クリニック患者)』というコードを自動登録したまさにその瞬間、端末の赤い通信ランプが激しく点滅した。
「佐藤先生、LANケーブルを抜いてください!」
画面の隅に『ヘリオス製薬・中央サーバーへの自動データ転送完了』という文字が浮かび上がったのを見て、俺は咄嗟に叫んだ。
だが、遅すぎた。
◇
二十二分後。
大型ヘリコプターの激しいローター音が市立医療センターの三階の窓ガラスをビリビリと震わせ、眼下の敷地では、『ヘリオス製薬・バイオセキュリティ部門』の黄金のロゴが入った三台の黒い装甲SUVが検疫のバリケードを強引に突破して急停車した。
病人を助けに来たのではない。
陽圧防護服に身を包んだヘリオス製薬の武装私設警備兵八人が、制止しようとする当直の医師や看護師たちを乱暴に突き飛ばして腫瘍科フロアのガラス扉を封鎖し、佐藤先生の検査室の扉を蹴り開けたのだ。
その中央から、迅速抽出用の遠心分離機と、厳重にロックされた分厚いアルミ製の保冷ケースを運ぶ二人の助手に支えられながら足を踏み入れてきたのは――黒沢一朗教授その人だった。
俺たちから四千八百六十万円を最後の一円まで搾り取って病院から追い出したあの男には、もはやテレビのシンポジウムで見せていた傲慢な威厳は微塵もなかった。
シルクのシャツの襟元は脂汗と血で汚れ、唇はどす黒い紫色に変色し、皺だらけの両手の甲には、すでに『灰壊死病』のドス黒い網目模様がくっきりと浮かび上がっていた。彼自身も感染し、指先の震えから見て、肺が崩壊するまで残り六時間を切っていることは明白だった。
「いたぞ、君たち……!」
黒沢は血走った目で、銀の握りのついた杖を俺と美桜に突きつけた。
「六本木の中央サーバーがこの貧民病院の端末から血液データを傍受した時、すぐに君たち二人のことだと分かったよ! 警備兵、作業台の上にある血液サンプルをすべて押収し、この二人の患者を社用ヘリへ連行しろ! 彼らは三年間、我が社の特許薬『オンコレスト7』を投与されていたのだ! すなわち、彼らの体内で発生したあらゆる抗体および細胞変異の知的財産権は、100パーセント我が『ヘリオス製薬』に帰属する!」
「正気ですか、黒沢教授!!」
佐藤先生がサンプル保管用の冷蔵庫の前に両手を広げて立ちはだかった。「外の廊下には、三十人の子どもたちを含む二百人以上の市民が、今この瞬間も死にかけているんですよ! 蓮くんと美桜さんの血漿があれば、今すぐここで全員分の抗体を無償合成できるんです!」
「全員分だと!?」
黒沢は鼻でせせら笑った直後、激しい咳の発作に襲われて二つ折りにうずくまり、血の混じった唾を吐き出した。
「昨夜、六本木の政府地下バンカーの換気ダクトにウイルスが侵入したのだ! ヘリオス製薬の取締役会の半数と、三人の大臣、そして我が社の大株主たちが全員感染しておる! この二人の血液は今すぐ六本木へ運び、彼らの『生きたステージ4の癌細胞』と抗体を、我々取締役の静脈に直接注射せねばならんのだ! 一般市民どもの分など、我が社が商業特許を登録したあとで、我々が決めた薬価で買わせてやればいい!」
二人の警備兵が、美桜の両腕を掴もうと一歩前に出た。
コンマ一秒のうちに、俺はリュックサックのファスナーを引き開け、革ケースから右手で刃渡り二十五センチの鍛造牛刀を、そして左手で業務用の『料理用ガスバーナー』を抜き放った。
圧電着火のトリガーを引く。――カチッ、ゴォォォォッ!!
千三百度を超える青いジェット炎が検査室の空気を切り裂いて噴き出し、作業台の上の血液スピッツと、俺自身の捲り上げた左腕の静脈からわずか一センチの距離で激しく唸りを上げた。
「誰も指一本動かすな!!」
俺の怒号は、開け放たれた検査室のガラス窓の向こう――騒ぎを聞きつけて廊下に集まっていた何十人もの医師、看護師、そして患者の家族たちのところまで雷鳴のように響き渡った。
「もしお前の警備兵が半歩でも前に出たら、まずこの台の上の血液サンプルを灰にし、その一秒後に俺はこの千三百度の炎で自分の腕の血管を炭になるまで焼き切る! 極度の熱ショックとアドレナリンが血流に放出された瞬間、血漿の中のキメラ抗体はすべて熱変性してただの泥水になるぞ!」
黒沢は石のように凍りつき、震える両手を振り上げて警備兵たちを制止した。「と、止まれ! 全員止まれ、馬鹿者ども! 彼らに触れるな!」
俺は杖にすがって荒い息を吐く老教授を見下ろし、次に、彼の助手が生体認証ロック付きの胸に抱え込んでいる「アルミ製の保冷ケース」へと視線を固定した。
「ここにいる医師や看護師たちの前で、一つだけ論理的な説明をしてもらおうか、黒沢教授」
俺は外の廊下にいる全員にもはっきりと聞こえるよう、声を張り上げた。
「俺たちの血液の中には、ウイルスを食い尽くしている最中の『生きたステージ4の悪性腫瘍細胞』がまだ大量に含まれている。もし今日、あんたや大株主の億万長者や大臣たちが、灰壊死病から生き延びるために俺たちの血を自分の静脈に注射したら……二ヶ月後には、あんたたち全員が俺たちと同じ末期癌患者になって死ぬはずだ。あんたは俺から四千八百六十万円と店を奪い取った時、俺の目を見て『ステージ4の癌を根治する薬はこの世に存在しない』と誓ったよな? だったらなぜ、自分たちの血管に俺たちの末期癌を注射することを少しも恐れていない? ――そのアルミケースの中に、一体何が入っているんだ!?」
黒沢の顔が蝋人形のように真っ白になった。「き、君たちには関係のないものだ! ただの安定化試薬だ!」
俺は青いバーナーの炎の先端を自分の腕の皮膚に近づけ、チリッと産毛が焦げる匂いを立たせた。「三秒やる、黒沢。三、二……」
「開けろ!! 今すぐ開けろォッ!!」
死の恐怖に完全にパニックに陥った黒沢が、助手の腕を平手で引っ叩いて絶叫した。
助手がステンレスの作業台の上でロックを解除し、保冷ケースの蓋を持ち上げた。
冷却素子が低く唸る黒いウレタンフォームの中に、淡い黄金色に輝く『十二本の円筒形アンプル』が整然と並んでいた。すべて高圧自動注射器に装填されている。
佐藤先生が身を乗り出してガラスに刻印された金属ラベルの文字を読み、ハッと両手で口元を覆って、病棟全体が振り返るほどの悲鳴のような声を上げた。
「『プロトコル・Hゼロ ―― 取締役会極秘特許・2018年製』……!」
佐藤先生は怒りの涙で瞳を潤ませながら、廊下にいる全員に聞こえるように大声で読み上げた。「『選択的腫瘍反転ベクター。単回投与による固形癌および血液癌の七十二時間完全根治薬』……!!」
病院の廊下が、激しい怒号と慟哭で爆発した。
去年、末期癌で家族を亡くしたばかりの二人の看護師がその場に泣き崩れ、周囲の医師たちは人間の皮を被った悪魔を見るような目で黒沢を睨みつけた。
「……2018年製、だと?」
俺は囁いた。後ろにいる美桜が、拳を握りしめて激しく震えていた。
「美桜が病気になったのは2023年だ。俺の癌が見つかったのは去年だ。……てめぇらは『八年も前から』、たった一回の注射で癌が完治する薬を自分たちの金庫に隠していたのか!? 一本八十万円もする偽の維持薬を売りつけて美桜の体をボロボロにして子どもを産めない体にし、俺から一生の仕事だった店を奪い、病棟で何百万人もの患者が泣きながら死んでいくのを眺めながら……2018年から特効薬に鍵を掛けて隠していたのかァッ!!」
「世界の製薬市場を維持するためには、そうするしかなかったのだ!!」
黒沢は激しい咳とともに血を吐きながら、検査室のリノリウムの床に両膝から崩れ落ちて叫んだ。
「たった一回の注射で治ってしまう病気など、ビジネスとしては完全な失敗作なのだよ! 慢性腫瘍の維持療法は我が社の売上の70パーセントを占めておった! もし『Hゼロ』を世に出してみろ、ヘリオス製薬は二十四時間で倒産しておったわ! だから創業者一族と取締役会のためだけに封印していたのだ! だが昨夜、このウイルスから生き延びる唯一の盾が『ステージ4の癌に感染すること』だと判明したため、金庫を開けて生産ラインを稼働させたのだ! まず君たちの癌細胞でウイルスを食い尽くさせ、二日後にこの『Hゼロ』で癌を消去する! 頼む、その血液スピッツを渡しなさい! そうすればこの黄金のアンプルを二本置いていき、君たちを大金持ちにしてやろう!」
俺は、自分たちが何年もかけて見殺しにしてきた一般市民のベッドの前で、床に這いつくばるその男を見下ろした。
「お前はもう二度と、誰の命も金では買えないぞ、黒沢」
俺は左手の青い炎を唸らせたまま、石のように冷たい声で宣告した。「今夜死にたくなくてその血液スピッツが欲しいなら、ここにいる全員の証人の前で、今すぐ俺の『三つの条件』をすべて実行しろ。さもなきゃ、お前がこの床の上で窒息して死ぬのを最後まで見届けてやる」
「な、何でもやる! 言ってくれ!」
「一つ目」
俺はリュックサックから古いビスケットのブリキ缶を取り出し、色褪せた百四十二枚のヘリオス製薬の領収書をステンレスの作業台の上にぶちまけた。
「ここには、てめぇらが特効薬を金庫に隠しながら俺たち夫婦に偽の治療薬を売りつけて搾り取った『四千八百六十万円分』の領収書がある。今すぐお前の役員用端末を開き、ヘリオス製薬の会長資産口座から俺たちの口座へ『悪質医療詐欺に対する損害賠償金』を即時送金しろ。元本の四千八百六十万円に、美桜の体を傷つけた慰謝料を十倍乗せて――きっかり『五億円』だ。非課税かつ取消不能の即時決済で今すぐ振り込め」
進行する低酸素症で激しく震える手で、黒沢は助手から防弾タブレットをひったくり、生体認証センサーに親指を押し当てて緊急送金を承認した。三十秒後、美桜のポケットの中のスマートフォンが、即時着金完了の通知音とともに震えた。
「二つ目」
俺はバーナーを下げずに続けた。「そのケースに入っている十二本の『Hゼロ』のうち、十一本は今すぐこの佐藤先生の作業台の上に置いていけ。お前が持って帰れるのはお前自身の分の一本だけだ。しかもそれは、三つ目の条件が完了したあとでしか渡さない」
俺は、全国ネットワークに接続された検査室の中央端末と、廊下に集まった何十人もの医師や看護師たちが一斉に録画を開始して黒沢に向けているスマートフォンのカメラを指差した。
「三つ目だ。今すぐその端末に、お前の会長用マスターキーを入力しろ。ヘリオス製薬の中央サーバーの最高機密ロックを解除し、『プロトコル・Hゼロ』の完全な化学構造式と工業合成プロトコルを、世界中のすべての公立病院、国立大学、公的研究機関へ向けて無償で一般公開し、あらゆる特許権を永久に放棄しろ。そしてその直後に、俺と美桜の細胞株およびキメラ抗体を『完全無償・特許フリー』でこの東京市立総合医療センターへ寄贈する書類にサインしろ。今夜から、ウイルスの治療血清も癌の根治薬も、すべての市民に無料で配られる。お前たちの帝国は今日で終わりだ、黒沢。選べ。誰も薬の値段のせいで死なない世界でただの人間として生き延びるか、あと五時間でここで死ぬかだ!」
全国へ生中継される無数のカメラのレンズに囲まれ、自分の首筋まで迫り上がった灰色の壊死斑の恐怖に完全に心を折られた製薬帝国の頂点は、深くうなだれた。
黒沢は震える指で二十四桁のマスターコードを端末に入力し、エンターキーを叩いた。
検査室のモニターに、緑色の完了バーが表示された。
『全世界パブリックドメイン送信完了 ―― プロトコル・Hゼロおよびキメラ抗体配列の一般公開を完了しました』
その瞬間、市立医療センターの廊下という廊下から、涙と歓喜の叫びが入り混じった割れんばかりの拍手が沸き起こった。
それを見届けてから初めて、俺はカチリと音を立ててガスバーナーの火を消した。
黒沢が人道に対する罪で衛生警察に身柄を拘束される前に、彼の命だけを繋ぎ止めるための血漿スピッツ一本とアンプル一本を投げ渡し、残る十一本の黄金のアンプルが入ったアルミケースのすべてを、俺は佐藤先生の両手へと託した。
十分後。
小児科と救急病棟の患者たちを救うための血清製造ラインがフル稼働を始める中、俺と美桜は公立外来の処置ベッドに並んで腰掛け、しっかりと手を繋いだ。
そして佐藤先生自身の手によって、俺たちの命を救ってくれた皮肉で愛おしい腫瘍の最後の痕跡を永遠に消し去る黄金の『Hゼロ』が、俺たち夫婦の腕へと静かに注射された。
◇
翌年の春は、少し静かになったけれど、確かに息づいている新しい東京の街へとやってきた。
商店街のシャッターは再び開き、通りには焼きたてのパンの香りと、満開の桜の花びらが舞っている。
ヘリオス製薬の腐敗した帝国は解体され、すべての工場と研究施設は新しく発足した公衆衛生省に接収された。俺たち夫婦や全国の癌患者たちが公立病院へ無償提供した細胞株のおかげで『灰壊死病』は六週間足らずで完全に制圧され、そして人類の歴史上初めて、すべての公立病院で『Hゼロ』が無料で投与されるようになり、末期癌の病棟はこの地上から姿を消した。
俺は黒沢から回収した賠償金のごく一部を使って、かつて手放したあの檜のカウンター十席のトラットリアを買い戻し――残りの四億五千万円はすべて佐藤先生の腫瘍科と小児科病棟へと寄付して――今日からまた、磨かれた銅の寸胴鍋を火にかけ、最初の日と同じようにすべての骨と野菜の端材から出汁を取り始めていた。
そしてもう一つ。
二月の定期検診の際、佐藤先生は、ヘリオス製薬の億万長者たちが金庫に隠していた時には決して気づくことのできなかった、『Hゼロ』の驚くべき副次効果を発見していた。
タナトス・ウイルスの猛烈な増殖エネルギーを喰らい尽くしたステージ4の癌細胞に『Hゼロ』が作用すると、薬はただ腫瘍を消滅させるだけではなかったのだ。その莫大な生命エネルギーをそのまま反転させ、あらゆる臓器や組織をゼロから作り直す『全能性幹細胞(万能細胞)』へと変化させ、何年も前に抗がん剤の毒性で焼け爛れ、瘢痕化して機能を失っていた内部臓器や生殖組織までも、二十代の頃のように完全に再生させてしまったのである。
四月のその朝、春の暖かい風がすべての開け放たれた窓から吹き込むアパートの台所で、俺は木のこね台の上で手打ちパスタの生地を力強くこねていた。
俺の頭には再び黒々とした豊かな髪が生え揃い、腕には太い筋肉が戻り、これからの五十年の人生を生きる男の深い呼吸が胸を満たしていた。
その時、廊下から――長い間閉ざされていた鍵穴の中で、小さな金属の鍵が二回回る、カチャリ、という澄んだ音が聞こえた。
俺は小麦粉のついた手を止め、エプロンで拭いながら廊下へと出た。
突き当たりにある「白い扉」――俺たちが決して親にはなれないと宣告されたあの夜に鍵を掛けた扉が、大きく開け放たれていた。
四月の眩しい太陽の光が小さな部屋いっぱいに降り注ぎ、ブナ材のベビーベッドが入った段ボール箱の上で、金色の埃の粒をキラキラと踊らせている。
窓辺には、再び肩まで伸びた黒髪と、淡い色のスカートを春風に揺らしながら、美桜が立っていた。
美桜が俺の方へと振り返った。
言葉は出なかった。あふれる涙が頬を伝ってこぼれ落ち、声にならなかったからだ。だが、その輝くような満面の笑みの下で、彼女の指先は佐藤先生から渡された白い検査結果用紙――くっきりと浮かび上がった二本の赤い陽性ラインと、『妊娠六週目』の小さなエコー写真を強く握りしめていた。
俺は三歩で廊下を駆け抜け、美桜の両脇を抱えて宙へと抱き上げると、その額に自分の額を押し当て、ついに開かれた部屋の太陽の光の中で、二人で声を上げて泣きながら笑った。
やがて俺はそっと美桜を床に下ろし、部屋の隅の段ボール箱を見つめると、シャツの袖をまくり上げて言った。
「ベランダの椅子に座って、切ってある果物を食べててくれ、美桜。……店を開けに行く前に、俺には組み立てなきゃならないベビーベッドがあるからな」
【完】
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます!
「すべてを奪われ死を覚悟した末期癌の夫婦」が、皮肉にもその病によってパンデミックを生き延び、暴利を貪っていた製薬会社の闇を暴いて本当の幸せと新しい命を取り戻すまでの物語、いかがでしたでしょうか?
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