「地図しか描けない地味な女」と婚約破棄されたので辺境へ行きます 〜私が手を止めた王都で、道が迷子になっているそうです〜
「リディア・エルストン。お前との婚約を、ここで破棄する」
王宮の大広間に、第二王子クラウス殿下の声が響いた。
楽団の音が止まり、ドレスの衣ずれも止まる。
シャンデリアの光の下で、何百という目が、いっせいに私を見た。
私はエルストン伯爵家の長女で、十九歳。
栗色の髪をいつもひとつに編んで、指先には落ちないインクの染みがある。
華やかさとは縁のない、よく言えば落ち着いた、悪く言えば地味な令嬢――それが、社交界での私の評判だった。
殿下と婚約して、五年になる。
そのあいだに殿下が私の名前を優しく呼んでくれたことは、たぶん一度もない。
それでも、王家と結ばれた約束を守るのが私の役目だと思って、今日まで黙って隣に立ってきた。
「理由をうかがっても?」
「決まっているだろう」
殿下は、隣に立つ金髪の令嬢の肩を抱き寄せた。
光魔法の使い手として名高い、ベアトリス・ローゼン男爵令嬢だ。
「お前は毎晩、塔にこもって地図ばかり描いている。夜会にもろくに出ない。そんな地味な女は、王子妃にふさわしくない」
くすくすと、どこかで笑い声がした。
「それから、エルストン家の『図守』の役目も、今月で終わりだ。古い地図に毎年あれだけの予算を使うのは無駄だからな。浮いた金は、俺の新しい街道整備に回す」
――ああ、と思った。
婚約破棄よりも、そちらのほうが、胸に刺さった。
図守は、エルストン家が二百年続けてきた仕事だ。
王宮の西の塔には、「王国大図」と呼ばれる大きな地図がある。この国のすべての道と川と町が描かれていて、図守は毎晩、その日に変わったところを、特別なインクで描き足していく。
新しい橋ができれば、橋を。崩れた道があれば、迂回路を。
そうして大図が正しく保たれているから、この国の道は、自分がどこへ続いているかを覚えていられる。
祖母から受け継いで、八年。
雪の夜も、熱を出した夜も、私は一晩も休まずに、その線を引いてきた。
けれど、それを知っている人は、もうほとんどいない。
殿下も、知ろうとはしなかった。
「……承知いたしました」
私はドレスの隠しから、真鍮の鍵を取り出した。西の塔の、地図室の鍵だ。
「では、お返しします。明日の夜から、王国大図の描き足しは止まります」
「ああ、好きにしろ」
「道が迷いはじめても、私のせいにはなさらないでくださいね」
一瞬、広間が静かになって、それから大きな笑い声が起きた。
道が迷う? 地図を描かないくらいで?
殿下も、肩をすくめて笑っていた。
私は一礼して、背を向けた。
泣かなかった。泣いたら、八年分の線まで、にじんでしまう気がしたから。
*
大広間を出たところで、呼び止められた。
「エルストン嬢」
振り向くと、黒い軍服の大きな男の人が立っていた。
左の頬から顎にかけて、古い傷あとが一本。
北の辺境を治めるヴァイスベルク辺境伯、レオンハルト様だ。魔物の多い土地で剣を振るい続けた、王国でいちばん恐ろしい顔の人――と、令嬢たちが噂しているのを聞いたことがある。
「突然すまない。仕事を探しておられるなら、北へ来てはもらえないだろうか」
「……仕事、ですか」
「私の領地には、地図のない森がある。『迷いの森』と呼ばれていて、入った者は三日、同じ場所を歩かされる。商人も旅人も、森を避けて遠回りするしかない」
辺境伯様は、低い声で続けた。
「今日、地図師を一人貸してほしいと陛下に願い出た。だが、クラウス殿下に『森の地図など誰も読まない』と断られてしまった」
怖い顔のまま、少しだけ眉を下げる。
「あなたの線なら、あの森も道を覚えると思う。……来てくれるなら、俸給は今の倍を出す」
倍、という言葉より。
「あなたの線なら」と言われたことのほうが、ずっと嬉しかった。
「参ります」
気づいたら、そう答えていた。
*
その夜、屋敷に帰って事情を話すと、父は長いあいだ黙っていた。
父は穏やかな学者肌の人で、図守の才は持たなかった。だからこそ、祖母と私が塔で過ごした夜の長さを、誰よりも知っている。
「……すまなかった。お前一人に、背負わせすぎた」
「お父様のせいではありません」
「北へ行くのだろう」
父は書斎の奥から、古い木箱を持ってきた。
中には、祖母が使っていた銀のペンと、図守のインクの瓶が三つ。
「持っていきなさい。お前の線は、王家のものでも、殿下のものでもない。お前のものだ」
銀のペンは、手に取ると、祖母の指みたいにひんやりしていた。
私はその夜、少しだけ泣いた。
ここなら、にじんで困る線はなかったから。
*
北への旅は、十日かかった。
ノルトマルクの城は、灰色の石でできた、飾り気のない城だった。けれど窓からは、どこまでも続く深い森が見えた。
案内された部屋には、大きな製図机が置いてあった。
南向きの窓のそばで、朝から夕方まで、紙に影が落ちない場所だ。
「あなたが来ると決まってから、急いで作らせた。足りないものがあれば言ってくれ」
辺境伯様は、それだけ言って出ていった。
机の角は、インクの瓶を倒さないように、ていねいに丸く削られていた。
「あれが、迷いの森だ」
翌朝、城の塔から森を見下ろして、辺境伯様が言った。
「……きれいですね」
「そう言った客人は、あなたが初めてだ」
その日から、私は森に入った。
辺境伯様は、仕事が山ほどあるはずなのに、毎日ついてきた。重い製図板を抱えて、私が測量をしているあいだ、黙って周りを見張っている。
森の道は、たしかに迷っていた。
朝は泉へ続いていた小道が、夕方には崖のふちで途切れている。きのう引いた線の先が、今日は別の谷へ下りている。
道たちは、自分がどこへ行けばいいのか、わからなくなっているのだ。
だから私は、一本ずつ、道に行き先を教えた。
ここは北の村へ。ここは岩場の泉へ。ここは、城へ帰る道。
祖母の銀のペンで線を引くたびに、足もとの土が、ほんの少し落ち着くのがわかる。
「本当に、道が止まった……」
十日目、同じ道を三回往復した辺境伯様が、ぽつりと言った。
「止まったのではなくて、思い出したんです。自分の行き先を」
「あなたは、そういうふうに道を見ているのだな」
辺境伯様は、少しだけ笑った。
怖い顔の人が笑うと、こんなにやさしい顔になるのだと、私はそのとき初めて知った。
昼の休みには、辺境伯様が淹れた紅茶を飲んだ。
城の人たちはみんな、最初は私を「都から来たお嬢様」と遠巻きにしていたけれど、森の道が一本ずつ落ち着くにつれて、パンや干し果物を分けてくれるようになった。
ここでは、私の線を、誰も笑わなかった。
ひとつだけ、気になることがあった。
辺境伯様は、軍服の胸ポケットに、古いハンカチを一枚しまっている。インクで何か描かれているようだけれど、ずいぶんくたびれて、色も褪せている。
私の視線に気づくと、辺境伯様はなぜか耳を赤くして、ポケットのボタンを留めてしまうのだった。
*
二十日目の夕方、城に知らせが飛びこんできた。
村の女の子が薬草を摘みに森へ入ったまま、戻らないという。
まだ地図を描いていない、東の奥だった。
「私が行く。リディアは城で待っていてくれ」
「いいえ、私も行きます」
私は製図板を抱えた。
「迷っている道の上で人を探すなら、道に行き先を教えられる者がいたほうが早いです」
辺境伯様は一瞬だけ迷って、それからうなずいた。
「……私から離れないでくれ」
日の暮れた森は、昼とはまるで違った。
足もとの道が、ずるずると向きを変える。私はランタンの明かりで地図を広げ、走り書きで線を引いた。
――この道は、小さな足あとのあるところへ。
インクが乾くより早く、ぐらぐらしていた道が、すっと一本にまとまった。
道の先の倒木の陰で、女の子は膝を抱えて泣いていた。
その前に、灰色の狼が一頭、低くうなっている。
辺境伯様が剣を抜いて前に出ると、狼はひと声吠えて、闇の中へ逃げていった。
「もう大丈夫だ」
辺境伯様が女の子を抱き上げる。怖い顔なのに、女の子はすぐに泣きやんで、その首にしがみついた。
帰り道、私は描いたばかりの線をたどって、先頭を歩いた。
道は一度も迷わなかった。
城に戻ると、村の人たちが総出で待っていた。女の子の母親は、私の手を握ったまま、何度も頭を下げた。
「あんたの地図のおかげだよ」
地図のおかげ。
その言葉を、私は胸の中で、何度もくり返した。
その夜、城の廊下で、辺境伯様が言った。
「あなたが一緒に来てくれて、よかった」
「私は線を引いただけです。狼を追い払ったのは、辺境伯様です」
「レオンハルトでいい」
辺境伯様は、少し照れたように目をそらした。
「道がわかっていれば、私は誰のところへでも駆けつけられる。……あなたがいれば、私はどこへでも行ける」
「では……レオンハルト様」
名前を呼ぶと、レオンハルト様は、また耳を赤くした。
なぜかその言葉は、地図の話には聞こえなかった。
◇◇◇
一方そのころ、王都では。
最初の三日は、何も起きなかった。
「ほら見ろ。地図ひとつで道が迷うものか」
クラウス殿下は上機嫌で、ベアトリス嬢に贈る首飾りを選びに、馬車で宝石店へ向かった。
着いたのは、王宮の厩舎だった。
「……御者、どういうことだ」
「そ、それが殿下。たしかに大通りを東へ走ったはずなのですが」
五日目、王都の大通りが、ゆっくりと輪になった。
まっすぐ走っているはずの馬車が、三十分後に同じ噴水の前に戻ってくる。パン屋に小麦が届かず、市場の魚は、行き先を失った荷車の上で少しずつ傷んでいった。
七日目には、隣国の使節団が到着した。
王宮へ向かったはずの華やかな行列は、なぜか裏町の豚小屋の前に着いた。
「クラウス! いったい何をした!」
国王陛下の雷が落ちたのは、その夜のことだ。
あわてて西の塔の地図室を開けると、王国大図は、ほこりをかぶっていた。
線のところどころが薄れ、町と町をつなぐ道が、ほどけかけている。
「ベアトリス、お前の光魔法で何とかしろ!」
「や、やってみますけれど……」
ベアトリス嬢の手から、まばゆい光があふれた。地図室は、昼のように明るくなった。
けれど、道は一本も、行き先を思い出さなかった。
翌朝、ベアトリス嬢は、実家に帰ると言いだした。
「毎日道に迷う王子妃なんて、ごめんですわ。お茶会にだって、一度もたどり着けないんですもの」
彼女を乗せた馬車は、門を出て三度、王宮の正面に戻ってきた。
「わからない……どこに、何を描けばいいんだ」
一人きりの地図室で、クラウス殿下は初めて知った。
地味だと笑ったあの線が、一人の令嬢の、八年分の夜でできていたことを。
◇◇◇
ひと月が過ぎたころ、ノルトマルクの城に、ぼろぼろの馬車が着いた。
降りてきたのは、泥だらけのクラウス殿下だった。王都から北へ来るあいだに、何度も道に迷ったらしい。
「リディア! 王都へ戻れ」
城の広間で、殿下はいきなりそう言った。
「図守の役目は返してやる。それに……婚約のことも、考え直してやってもいい」
五年間、一度も聞いたことのない、必死な声だった。
けれど、不思議なほど、私の心は動かなかった。
怒りも、悲しみも、もう王都の道のように、どこか遠くへ行ってしまっていた。
私は、少しだけ考えた。
そして、首を横に振った。
「お断りします」
「なっ……」
「王国大図は、手入れをする人を選びます。ほこりをかぶせて笑った方のところへは、私はもう戻りません」
殿下が何か言おうとしたとき、私の隣に、黒い軍服の背中が立った。
「彼女はいま、ノルトマルクの図守だ。殿下」
レオンハルト様の声は静かだったけれど、広間の空気が、ぴんと張りつめた。
そこへ、もう一台の馬車が着いた。王家の紋章をつけた、陛下の使者だった。
使者が読みあげた手紙には、こう書かれていた。
――エルストン嬢には、王国大図の写しを北から描き送ってもらいたい。あわせて、新しい図守の見習いを育ててほしい。費用は王家がすべて出し、今後はエルストン家に、図守の正当な報酬を支払う。
――クラウスは、街道整備の任を解く。代わりに、王都の道を一本ずつ自分の足で歩き、見習いたちのために、すべて書き留めること。
「ぜ、全部……? 王都の道を、全部歩けというのか……!」
殿下の声が、広間にむなしく響いた。
「ご安心ください、殿下」
私は、できるだけやさしく言った。
「地図があれば、道は迷いません。……地図ができるまでは、少し迷うかもしれませんけれど」
*
迷いの森の最後の一本に線を引いたのは、それから半月後のことだった。
すべての道が行き先を思い出した森は、驚くほど静かで、明るかった。
「終わりました」
製図板を下ろすと、レオンハルト様が、胸ポケットのボタンを外した。
取り出したのは、あの古いハンカチだった。
「これを、覚えているだろうか」
広げられたハンカチには、子どもの手で描いた、小さな地図があった。
王宮の庭の、生け垣の迷路。入口から出口まで、ぐねぐねと赤い線が一本。
すみっこに、たどたどしい字で「ここから出られます」。
息が止まった。
十五年前、王宮の園遊会。祖母について行った私は、迷路の奥で泣いている男の子を見つけた。
私はハンカチに迷路の地図を描いて、その子に渡したのだ。
「あの日から、私はずっと、あなたの線を頼りに歩いてきた」
レオンハルト様は、怖い顔を真っ赤にして、私の前に膝をついた。
「王都で、あなたが婚約者のいる身だと知ったときは、遠くから見ているだけでいいと思っていた。だが、もう遠慮はしない」
大きな手が、インクの染みた私の手を包んだ。
「リディア。これから先、私の行く道を、あなたに描いてほしい。……結婚してくれないか」
あの日の男の子が、こんなに大きくなって、こんなに真剣な顔で。
私は泣きそうになって、それから笑った。
「はい。……でも、ひとつだけ」
「なんでも言ってくれ」
「レオンハルト様も、もう迷子にはならないでくださいね」
「あなたの地図がある限り、二度と迷わない」
*
それから半年。
王都では、私が北から送る写しをもとに、三人の見習いが、毎晩王国大図に線を引いている。
道は少しずつ行き先を思い出し、大通りは、もう輪にならない。
見習いたちの机には、王都の道をすべて歩いたクラウス殿下の記録が、分厚い束になって積まれているそうだ。殿下はずいぶん痩せて、道を尋ねられると、誰にでもていねいに答えるようになったと聞いた。
ノルトマルクでは、森を抜ける新しい街道ができて、商人の荷馬車が毎日通るようになった。
村の女の子は、私の弟子になると言って、毎日城に通ってくる。
その夜、私はノルトマルクの地図の真ん中に、小さな家をひとつ描き足した。
レオンハルト様と私が、これから暮らす家だ。
道はちゃんと、そこへ続いていた。
〈了〉




