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エルシェ様は今日も幸せ

作者: 伊丹 宝
掲載日:2026/07/08

王立レイヴァン学院。


この国で最も身分の高い子息令嬢たちが集う学び舎では、今日も朝から華やかな空気が流れていた。その中心にいるのは、この国の王太子カイゼル。陽光を溶かしたような金髪に、深い蒼の瞳。すらりとした長身と整った顔立ちは、歩くだけで周囲の視線をさらっていく。


「カイゼル殿下、おはようございます!」

「今日も素敵ですわ…!」


令嬢たちの黄色い歓声を受けながらも、カイゼルの視線はただ一人だけを探していた。


「…いた」


中庭の噴水のそばで、小鳥にパンくずを分け与えている少女を見つける。銀色に近い淡い金髪を風に揺らし、花が咲くような笑みを浮かべる公爵令嬢エルシェだった。


「エルシェ!」

「おはよう、カイゼル!」


ぱっと振り返った笑顔だけで、カイゼルの胸は満たされる。


(……かわいい)


幼い頃から婚約者として共に育ってきた。それなのに今でも、新しく恋をした日のように胸が高鳴る。


「今日は早いんだね」

「エルシェに会いたくて、早く来てしまったよ」

「あら、私も会いたかったわ!」


カイゼルの表情が明るくなる。しかし次の瞬間。


「親友には毎日会いたいものね!」

「…………」


周囲の空気が止まった。令嬢たちは顔を見合わせる。


(またですの)

(殿下が気の毒ですわ……)


カイゼルは心の中だけでため息をついた。


(違うんだ。親友じゃない。婚約者なんだ……)


何度も伝えようとした。花束も贈った。誕生日には世界に一つだけの首飾りを贈った。月明かりの庭園で手を取ったこともある。そのたびにエルシェは嬉しそうに笑う。


『親友って最高ね!』


―…すべて友情として受け取られていた。本人はいたって真剣である。


「今日も仲良しですわね」


鋭い声が響いた。二人が振り向くと、一人の令嬢がゆっくりと歩いてくる。艶やかな黒髪に、意志の強そうな琥珀色の瞳。伯爵令嬢ヴィスカ。学院でも有名な才女であり、そして。


(今日こそ負けませんわ)


エルシェを勝手に最大のライバルと認定している少女だった。


「おはようございます、ヴィスカさん!」


エルシェは満面の笑みで挨拶する。


「おはようございます」


ヴィスカは微笑み返しながらも、心の中では燃えていた。


(その余裕、今日で終わりですわ)


彼女は一歩前へ出る。


「エルシェ様」

「はい?」

「わたくし、あなたには負けません」


堂々たる宣戦布告だった。周囲がざわつく。


(言った!)

(ついに言いましたわ!)


しかし、エルシェは目を輝かせた。


「まあ!」


ヴィスカは勝利を確信する。ようやく動揺した…そう思ったのだが。


「ライバルができたのね!」

「……はい?」

「とっても嬉しい!」

「え?」

「お互いに高め合える友達って素敵よね!」


そう言って両手を握られた。


「一緒に頑張りましょう!」

「…………」


ヴィスカの思考が止まる。


(違いますわ)


恋のライバルである。友情を深めたいわけではない。


「違っ……!」

「ありがとう!」

「だから違いますわ!」

「応援してくれるなんて!」

「誰が応援を!」


ヴィスカは思わず大声を出してしまった。周囲では令嬢たちが苦笑している。


「今日も始まりましたわね」

「ヴィスカ様、お気の毒に……」


カイゼルは遠い目をした。


(エルシェには悪意が通じない)


嫌味も、皮肉も、宣戦布告さえも。全部『応援』へ変換される。ある意味、最強だった。その少し後ろから無表情で二人を見つめる女性がいる。エルシェ専属メイド、ノア。


「……」


今日も無表情。今日も沈黙。しかし彼女の瞳だけは、ヴィスカを正確に捉えていた。


(危険度、微増)


心の中で静かに判定する。主人へ敵意を向ける者、それは排除対象。もちろん、法に触れない範囲で。


「ヴィスカ様」

「ひっ!」


いつの間にか真横に立たれていた。


「な、何でしょう……?」

「お嬢様を泣かせる予定はございますか」

「ありませんわ!」

「安心しました」


にっこり。笑顔なのに、なぜか背筋が寒くなる。


「もし、その予定ができましたら」

「できません!」

「そうですか」


ノアは静かに一礼した。


「そのほうが、お互いのためです」

「…………」


ヴィスカは顔を引きつらせた。


(このメイド、怖すぎますわ!)


一方のエルシェは、そんな空気などまるで気づかない。


「ノア!」

「はい、お嬢様」

「ヴィスカさんと今度お茶会をしましょう!」

「承知しました」

「ちょっと待ってくださいませ!」


ヴィスカが慌てる。


「わたくしはライバルでしてよ!」

「ええ!」


エルシェは嬉しそうに頷く。


「だから仲良くなりたいの!」

「どうしてそうなるんですの!?」


学院中にヴィスカの悲鳴が響いた。そのとき、校舎の鐘が高らかに鳴る。授業開始の合図だ。


「急がなきゃ!」


エルシェはカイゼルの手首を軽くつかむ。


「行きましょう、親友!」

「……うん」


カイゼルは小さく笑った。恋人として手をつなぎたい。婚約者として隣を歩きたい。そんな願いは、今日も胸の奥へしまい込む。


(いつか……)


彼女が「親友」ではなく、「婚約者」と呼んでくれる日が来るのだろうか。一方のヴィスカはぎゅっと拳を握りながらエルシェを見つめる。


「負けませんわ……!」


恋も、勝負も、絶対に。その決意を聞いたエルシェは、振り返って満面の笑みを浮かべた。


「ありがとう、ヴィスカさん! 一緒に素敵な学院生活にしましょうね!」

「だから違いますわぁぁぁーーっ!!」


その叫び声は、青空高く吸い込まれていった。そして誰よりも幸せそうな笑顔で歩くエルシェは、今日もまだ知らない。王太子の一途な恋心も。ライバル令嬢の宣戦布告も。すべてを笑顔に変えてしまう自分が、この学院で一番の台風の目であることを―…。





ヴィスカは、自室で机に向かって腕を組んでいた。


「……おかしいですわ」


昨日の出来事を思い返す。


『あなたには負けません』

『まあ! ライバルができたのね!』

『一緒に頑張りましょう!』


「違いますわぁぁ!」


思い出しただけで頭を抱えた。宣戦布告をしたはずが、なぜか友情を深める約束になってしまった。あの公爵令嬢は、どうしてああも前向きなのか。


「ですが!」


ぱん、と机を叩く。


「わたくしは諦めませんわ!」


恋とは戦い。勝った者だけが、王太子の隣に立てる。


「次の作戦は―…昼食ですわ」


学院では昼休みになると、中庭や温室、図書館など、好きな場所で食事を楽しめる。もちろんカイゼルは、毎日のようにエルシェと昼食を共にしている。


「そこへ、わたくしが自然に加わるのです」


そして、優雅に談笑し、知性を見せ、美しく微笑む。完璧な作戦だった。


「今度こそ!」






「エルシェ」

「おはよう、カイゼル!」


翌朝も、エルシェは満面の笑みだった。


「今日は一緒に昼食をどうかな」

「もちろん!」


カイゼルの顔がほころぶ。


(やった……。)


一緒に昼食を食べるだけ。それだけなのに嬉しくて仕方がない。エルシェはそんな彼を見て微笑んだ。


「楽しみね!」

「……うん」


親友として、だけれど…それでも嬉しい自分が少し悔しい。



昼休み、二人は学院の中庭へ向かった。木陰には白いテーブルが置かれ、小鳥たちがさえずっている。


「今日はノアが焼き菓子も持たせてくれたの」

「楽しみだ」


穏やかな空気が流れ始めた、その時だった。


「失礼しますわ」


二人の前へヴィスカが現れた。今日はいつも以上に身だしなみを整え、優雅に一礼する。


「偶然ですわね」


(偶然ではありませんわ)


一時間前から隠れて待っていた。


「もしよろしければ、ご一緒しても?」


カイゼルは少し驚く。


「もちろん構わないが……」


すると、エルシェの目が輝いた。


「嬉しい!」

「……え?」

「ヴィスカさん、自分から仲良くなろうとしてくれたのね!」

「違いますわ!」

「照れなくても大丈夫よ!」

「照れてません!」

「カイゼル」

「な、何?」

「三人で食べたらもっと楽しいわ!」


カイゼルは苦笑した。


「そうだね」


(エルシェが嬉しそうだから、まあいいか)


三人は席についた。ヴィスカは心の中で拳を握る。


(ここからですわ)


優雅に紅茶を注ぎ、静かに話題を振る。そして、さり気なく名前を呼んで…お近づきになる!


「カイゼル様は、休日はどのようにお過ごしなのですか?」

「最近は―…」

「ヴィスカさん!」


エルシェが身を乗り出した。


「ヴィスカさん、ちゃんと名前で呼ぶようになったのね!」

「え?」

「昨日まで『殿下』だったのに!」

「……」

「すごく仲良くなれた証拠ね!」

「なんか違いますわ!」


また違う。ヴィスカは心の中で泣いた。しかし諦めない!


「殿下、お茶を―…」

「ありがとう!」


エルシェが先に受け取った。


「あら?ヴィスカさんって気遣い上手!」

「これは殿下に―…」

「私の分まで用意してくれるなんて!」

「違いますってば!」


カイゼルは吹き出しそうになるが、必死に我慢した。ヴィスカは深呼吸した。


(落ち着きなさい、ヴィスカ)


まだ終わっていない。最後の切り札がある。彼女は美しく微笑み、手作りのクッキーを取り出した。


「昨日、焼いたのです」


ちらり、とカイゼルを見る。


「よろしければ召し上がってください」


その瞬間、エルシェは立ち上がった。


「まあ!」


ヴィスカは勝利を確信した。嫉妬…ようやく嫉妬した。そう思った。


「私の分まで!」

「……はい?」

「ありがとう!」

「違いますわ!」


またである。


「殿下に―…」

「三人分あるなんて優しい!」

「二人分しかありません!」

「え?」


ヴィスカはしまった、と思った。勢いで本音が出た。エルシェは首を傾げる。


「私の分はないの?」

「……」


ヴィスカは固まる。しまった。これは、かなり感じが悪い。しかし。


「大丈夫!」


エルシェは笑顔で言った。


「気にしないで!」

「え?」

「私、お腹いっぱいだから!」


実際はまだ何も食べていない。


「だからカイゼルが二枚食べれば解決ね!」


ヴィスカは頭を抱えた。


(どうして責めないんですの!?)


その様子を、少し離れた場所からノアが見ていた。


「……」


視線はクッキー、次にヴィスカ。そしてまたクッキー。


「安全確認」


誰にも聞こえない声で呟きながら、三人へ近づく。クッキーを見つめ、ノアは一枚だけ手に取り小さく割った。近くにいた鳩へ差し出す。鳩は嬉しそうについばみ、元気よく飛び立っていく。


「問題ありません」


ヴィスカが青ざめた。


「ま、まさか毒を疑いましたの!?」

「当然です」

「当然じゃありませんわ!」

「お嬢様は世界一大切なお方ですので」


真顔だった。一切悪びれない。エルシェは嬉しそうに頷く。


「ノアって本当に心配性なの」

「光栄です」

「褒めてませんわ!」


ヴィスカの叫びに、中庭中の視線が集まる。その頃にはカイゼルは笑いを堪えきれず、小さく肩を震わせていた。


「殿下まで!」

「す、すまない……」


笑っている。楽しそうに。その笑顔を見たヴィスカは、不意に気づいた。


(……殿下、こんなふうに笑われるのですね)


いつもは凛々しく、落ち着いた王太子。けれどエルシェの隣では、年相応の青年のように笑う。その笑顔を見た瞬間、ヴィスカの胸は少しだけ痛んだ。


(やっぱり……)


敵わない。そう思ってしまった自分に、すぐ首を振る。


(いいえ! まだ始まったばかりですわ!)


エルシェはそんな彼女へ、満面の笑みを向けた。


「ヴィスカさん」

「な、何ですの?」

「今日もありがとう!」

「え?」

「昨日よりもっと仲良くなれた気がするわ!」

「…………」


ヴィスカは空を見上げた。


(この人を負かす方法…本当にありますの?)


その問いに答えられる者は、学院中どこを探しても誰一人いなかった。もちろん、一番分かっていないのは、幸せそうに笑うエルシェ本人だったのである。




昼食騒動から数日後。王立レイヴァン学院の講堂には、全校生徒が集められていた。壇上へ立った学院長は、白い髭を撫でながら穏やかに微笑む。


「諸君。今年も創立祭の季節がやってまいりました」


講堂が一気に沸き立つ。創立祭。学院最大の催しであり、生徒たちが最も楽しみにしている行事だ。


「今年も各学年ごとに劇を披露していただきます」


その一言で、あちこちから歓声が上がる。


「配役は各クラスで話し合って決めること。なお、今年の優秀賞には、王城での祝賀会への招待が贈られます」


拍手が響く中、一人だけ静かに拳を握る青年がいた。


(……来た)


カイゼルである。創立祭の劇。これは、幼い頃から何度も夢見てきた機会だった。舞台の上で王子と姫を演じ、最後に愛を誓う。台本の中の言葉だとしても、エルシェへ真っ直ぐ想いを伝えられる。


(今度こそ……)


親友ではなく、婚約者として。できれば、その先の…愛する人として見てもらいたい。


「カイゼル?」


隣からひょこりと顔を覗かせたエルシェが、不思議そうに首を傾げる。


「難しい顔をしているわ」

「あ、いや……」

「劇、楽しみね!」


ぱあっと花が咲くように笑う。


「みんなで一つのものを作るって、とても素敵!」

「……そうだね」


(やっぱり青春行事なんだな……)


少しだけ肩を落とした。その様子を、数列後ろからヴィスカが見つめていた。


(殿下は王子役に決まるはず)


王太子本人がいるのだから、誰も異論はない。問題は姫役。


(そこに選ばれるのは、わたくしですわ)


もし舞台で手を取り合い、愛を誓えば。観客の前で自然に距離を縮められる。これ以上の好機はない。ヴィスカは密かに燃えていた。そして、さらに後方…壁際に静かに立つノアもまた、無表情のまま講堂を見つめていた。


(劇……)


嫌な予感しかしない。恋愛劇、接触、抱擁、口づけの演技。頭の中で危険度が次々と跳ね上がる。


(監視対象、増加)


ノアの脳内では、すでに創立祭が警備計画へ変わっていた。





ホームルーム。教室では早速、配役決めが始まった。


「王子役はもちろんカイゼル殿下!」

「異議なし!」

「決まりですわ!」


満場一致だった。カイゼルは苦笑しながら席を立つ。


「ありがとう」


続いて担任が黒板へ「姫役」と書く。


「では姫役は?」


教室中の視線が、一人へ集まった。もちろん、エルシェに。


「婚約者ですもの!」

「ぴったりですわ!」

「本物ですし!」


当然という空気が広がる。しかし。


「ちょっと待ってくださいませ!」


勢いよく立ち上がったのはヴィスカだった。


「姫役は公平に決めるべきです!」


彼女は胸を張る。


「演技力で勝負いたしましょう!」


教室がざわつく。カイゼルは少し困ったようにエルシェを見る。


「エルシェはどう思う?」

「楽しそう!」


即答だった。


「みんなで競うのね!」

「ええ」

「青春だわ!」

「…………」


ヴィスカは少しだけ複雑な気持ちになる。


(勝負なのですけれど……)


担任もうなずいた。


「では明日、姫役のオーディションを行う」


教室が沸き立つ。エルシェも拍手した。


「ヴィスカさん!」

「な、何ですの?」

「一緒に頑張りましょうね!」

「ええ……」


また握手された。


(どうして毎回こうなりますの……)







放課後、中庭でカイゼルは深いため息をついていた。


「また遠くなった……」


本当なら、婚約者なのだから最初から姫役でいい。しかしエルシェが楽しそうにしている以上、反対できなかった。


「殿下」


振り返るとノアが立っていた。


「少し、お時間を」

「珍しいね」


ノアは静かに一礼する。


「お願いがございます」

「何かな?」

「姫役が誰になろうとも」

「うん。」

「お嬢様を泣かせないでください」


その言葉に、カイゼルは目を丸くした。


「もちろんだ」

「信じております」


ノアは珍しく柔らかく微笑んだ。


「お嬢様は、人を疑うことを知りません」

「……知ってる」

「だから傷つく時は、誰より深く傷つきます」


カイゼルは静かに頷いた。


「絶対に泣かせない」


その返事を聞き、ノアは安心したように頭を下げる。その様子を偶然見かけたエルシェは、嬉しそうに駆け寄ってきた。


「二人とも!」

「エルシェ」

「ノア!」

「はい、お嬢様」

「もう仲良くなったのね!」

「……え?」

「私の大好きな二人が仲良しだなんて、すごく幸せ!」


カイゼルは苦笑する。ノアは目を閉じ、小さく息をついた。まただ。真剣な話さえ、エルシェの中では「友情が深まった出来事」へ変換されてしまう。そんな二人を見て、エルシェは幸せそうに笑った。


「創立祭がますます楽しみ!」


恋を実らせたい王太子。恋を勝ち取りたい伯爵令嬢。主人を守り抜きたい最強メイド。そして―…。


「みんなで最高の思い出を作りましょう!」


ただ一人、青春しか見えていない公爵令嬢。四人の思惑は、創立祭という大舞台へ向かって、少しずつ動き始めていた。


 




翌日の放課後。学院の小劇場には、姫役オーディションを見ようと、多くの生徒たちが集まっていた。舞台袖では、ヴィスカが深呼吸を繰り返している。


「落ち着きなさい……」


鏡に映る自分へ言い聞かせる。


「今日は勝つのです」


これまで空回りばかりだった。しかし今回は違う。演技なら努力が結果になる。幼い頃から舞踏会や朗読会で鍛えられた表現力なら、誰にも負けない自信があった。一方、その隣では。


「わあ!」


エルシェが舞台の幕を楽しそうに触っていた。


「こんな近くで見るのは初めて!」

「……緊張しませんの?」

「どうして?」

「勝負ですのよ?」

「そうね!」


エルシェはにっこり笑う。


「みんなで素敵なお芝居を作るための勝負でしょう?」


ヴィスカは額を押さえた。


(やっぱり分かっていませんのね……)


その頃、客席最前列にはカイゼルが座っていた。


(エルシェ……)


婚約者だからではない。彼女が誰よりも人を惹きつける人だから、隣に立ってほしい。そう願っていた。そして壁際にはノア。今日も無表情。だが胸元には、小さな手帳を持っている。


「……」


表紙には一言。『創立祭警備計画』誰にも見せられない物騒な文字だった。







担任が舞台中央へ立つ。


「では始める」


課題は一つ『王子へ別れを告げる姫』。短い場面だからこそ、演技力が問われる。最初に名前を呼ばれたのはヴィスカだった。


「はい」


優雅に一礼し、舞台中央へ。相手役の生徒と向き合う。そして、静かに微笑んだ。


「あなたをお慕いしております」


劇場が静まり返る。


「ですが、国のため…お別れいたします」


声が震える。瞳には涙が浮かぶ。


「どうか、お幸せに」


一礼……拍手が起こった。


「すごい……」

「本当に泣いてる」

「さすがヴィスカ様!」


客席から感嘆の声が漏れる。ヴィスカは心の中で小さく笑った。


(これなら……)


手応えは十分だった。次に。


「エルシェ」

「はーい!」


元気よく返事をして舞台へ上がる。歩くだけで客席から笑みがこぼれる。


「それでは始め」


担任の合図。相手役の生徒が台詞を言う。


「姫、行かないでくれ」


エルシェは少し考えた。


「うーん」


客席が静まる。そして。


「大丈夫!」


満面の笑み。


「離れていても、お友達でしょう?」

「…………」


劇場が止まった。


「会えない日があっても!」


エルシェは続ける。


「お互い元気なら、それだけで幸せよ!」


相手役が固まる。台本にない。しかしエルシェは止まらない。


「寂しくなったら、お手紙を書けばいいもの!」


にこにこ、笑顔を浮かべる。


「今度、お土産も持って帰るわ!」


ついには観客席から笑いが漏れた。…くすくす。あちこちで肩を震わせる生徒たち。カイゼルは思わず顔を覆う。


(エルシェらしい……)


別れの場面なのに。悲しさが一つもない。全部が希望へ変わってしまう。担任も苦笑しながら鐘を鳴らした。


「終了」


エルシェは満足そうに頭を下げた。


「ありがとうございました!」


舞台を降りると、ヴィスカが待っていた。


「どうでした?」

「とても楽しかったわ!」

「……そうではなく」

「ヴィスカさんの演技、すごかった!」


エルシェは目を輝かせる。


「本当に泣きそうになったもの!」

「ありがとうございます」

「私にはあんな演技できないわ!」


その素直な言葉に、ヴィスカは少し照れた。


「あなたも……」


一瞬だけ言葉を探す。


「あなたらしい演技でしたわ」

「本当?」

「ええ」


悔しいけれど。誰にも真似できない。あれはエルシェだけの演技だった。






全員の演技が終わり、担任が結果を発表する。


「姫役は―…」


教室中が息を呑む。


「エルシェ」

「えっ?」


一番驚いたのは本人だった。


「わ、私ですか?」

「君の演技は台本とは違った」


担任は笑う。


「だが、観客全員が君から目を離せなかった」


生徒たちもうなずく。


「確かに」

「笑ってしまった」

「なんだか幸せな気持ちになった」

「だから君に任せたい」


拍手が起こる。エルシェは慌ててヴィスカを見る。


「ヴィスカさん……」


ヴィスカは一瞬だけ目を閉じた。負けた、悔しい…本当に悔しい。けれど。


「おめでとうございます」


微笑んで手を差し出した。


「素敵な姫になってください」


エルシェはその手をぎゅっと握る。


「ありがとう!」

「…………」

「一緒に頑張ろうね!」


まただ。負けてもなお、自分を仲間として見てくれる。ヴィスカは苦笑した。


(本当に敵いませんわ)


その光景を見つめるカイゼルの胸は、温かさで満たされていた。


(やっぱり……)


エルシェがいい。舞台でも、人生でも。ずっと隣にいてほしい。その想いは日に日に強くなる。そして、誰にも気づかれないようにノアは手帳へ書き込んだ。


『姫役決定。王子との接触回数増加予定。警戒レベル、最大』


小さく頷く。


「準備を始めます」


何の準備なのか。それを知る者は、まだ誰もいなかった。一方、エルシェは帰り道で空を見上げる。


「劇って本当に素敵!」


隣を歩くカイゼルへ笑いかけた。


「カイゼル!」

「ん?」

「最高の思い出を作りましょうね!」

「ああ」


カイゼルも笑い返す。


(その思い出が、君にとって恋の始まりになりますように)


そんな願いを胸に秘めながら―…。創立祭本番まで、あと二週間。誰もが準備を進める中、一人だけ。エルシェだけは、これから自分が王子に「愛しています」と告げる劇を演じることなど、まだ少しも理解していなかった。





創立祭まで、あと三日。学院の講堂では、劇の通し稽古が行われていた。舞台中央に立つのは、王子役のカイゼルと、姫役のエルシェ。客席には担任教師や生徒たちが座り、本番さながらの緊張感が漂っている。


「では、最後の場面から」


担任の声が響く。舞台はクライマックス。敵国との争いを終えた王子が、姫へ愛を告げる場面だった。カイゼルはゆっくりとエルシェの前へ歩み寄る。この台詞だけは、何度練習しても胸が苦しくなる。なぜなら―…。


(全部、本音だから)


演技ではない。何度も胸にしまい込んできた想い、そのものだった。エルシェの手を取る。柔らかな指先が触れた瞬間、鼓動が速くなる。


「姫」


静かな声。


「私は、あなたを愛しています」


講堂が静まり返る。その一言には、演技とは思えないほどの熱が宿っていた。誰もが息を呑む。ヴィスカも、思わず拳を握った。


(……本気)


誰の目にも明らかだった。これは劇ではない。王太子カイゼルが、公爵令嬢エルシェへ贈る、本物の告白だった。エルシェは一瞬だけ目を丸くした。そして、ぱあっと笑顔になる。


「私もよ!」


カイゼルの胸が高鳴る。


(もしかして――)


「一番大切なお友達だもの!」


講堂中から、小さなため息が漏れた。カイゼルは笑顔のまま固まる。


(また……友情)


「ずっと仲良しでいましょうね!」

「……ああ」


返事をする声が少しだけ震える。担任は額に手を当てた。


「エルシェ」

「はい?」

「台本には『私もあなたを愛しています』と書いてある」

「あっ」


エルシェは口元を押さえた。


「間違えちゃった!」


客席から笑いが起こる。


「ごめんなさい!」

「もう一度」

「はい!」


再び最初から。カイゼルは深く息を吸う。


(今度こそ)


「私は、あなたを愛しています。」


エルシェは真剣な顔で頷いた。


「はい!」


期待が集まる。


「私も―…」


カイゼルは息を止めた。


「あなたを……」


(お願いだ)


「大好きなお友達として愛しています!」


どっと笑い声が響いた。カイゼルは空を仰ぎたくなった。担任は椅子にもたれ、肩を震わせて笑っている。


「エルシェ」

「はい!」

「そこは『お友達として』を付けなくていい」

「そうなのですか?」

「恋愛劇だから。」

「なるほど!」


エルシェは納得したように頷く。


「難しいですね」


その一言に、ヴィスカは吹き出した。


「ふふっ……」


慌てて口を押さえる。カイゼルまで笑ってしまった。


「もう……エルシェらしい」


さっきまでの切なさが、少しだけ和らぐ。






休憩時間、エルシェは舞台袖で台本を見つめていた。


「『愛しています』」


首を傾げる。


「やっぱり照れちゃうわ」


そこへヴィスカが歩いてくる。


「少し、よろしいですか」

「もちろん!」


二人は講堂の窓辺へ移動した。しばらく沈黙が流れる。やがてヴィスカが小さく笑った。


「負けましたわ」

「え?」

「殿下を振り向かせること」


エルシェは驚いて目を瞬かせる。


「そんな勝負だったの?」

「今さらですの!?」


思わず声が裏返った。


「はい…」


エルシェは申し訳なさそうに肩をすくめる。


「わたくし、本気で殿下が好きでした」


初めて聞くヴィスカの本音だった。


「だから、あなたが羨ましかった」


エルシェは静かに聞いている。


「でも」


ヴィスカは微笑んだ。


「あなたと過ごして分かりました」

「?」

「殿下が好きになる理由が」


その言葉にエルシェは困ったように笑う。


「私、何もしてないわ」

「それが一番すごいのです」


誰にでも笑いかける。悪意を受け止めず、善意へ変えてしまう。だから周囲まで笑顔になる。


「……敵いません」


ヴィスカは素直に頭を下げた。


「これからはライバルではなく、お友達になってくださいます?」


エルシェの顔がぱっと輝く。


「もちろん!」


ぎゅっと抱きつく。


「ずっとそう思っていたわ!」

「……でしょうね」


二人は顔を見合わせ、同時に笑った。少し離れた場所。その光景を見届けたノアは、小さく頷く。


「危険人物一名」


手帳を開く。ヴィスカの名前の横に書かれていた『警戒』の文字を一本線で消した。代わりに、静かに書き加える。


『友人』


そして珍しく微笑む。静かにヴィスカの後ろに近づき一言。


「歓迎いたします」


ヴィスカは振り返り、目を丸くした。


「……それ、最初から言ってくださればよかったのですけれど」


「最初は敵でしたので」

「正直ですわね…」


そのやり取りに、エルシェはお腹を抱えて笑った。


「ふふっ、本当に仲良しになれた!」


三人も、少し離れたところから見守るカイゼルも、自然と笑顔になる。創立祭はいよいよ明日。劇の幕が上がるその日、カイゼルは決めていた。


(劇が終わったら、今度こそ)


台本ではなく、王太子でもなく、一人のカイゼルとして。もう一度、エルシェに想いを伝えよう―…。その決意だけは、誰にも気づかれることなく、静かに胸の奥で燃え続けていた。






創立祭当日。王立レイヴァン学院は、朝から祭りの熱気に包まれていた。色とりどりの花で飾られた校舎。屋台から漂う甘い香り。生徒たちの笑い声。そして講堂には、劇を楽しみに訪れた保護者や貴族たちが続々と集まっていた。舞台袖でエルシェは深呼吸をする。


「わあ……たくさんのお客様!」

「緊張する?」


隣に立つカイゼルが尋ねる。エルシェはにこりと笑った。


「少しだけ。でも、みんなが楽しんでくれたら嬉しいわ」


(……やっぱり君らしい)


カイゼルは優しく微笑んだ。舞台袖のさらに奥では、ノアが腕を組んで立っている。今日も無表情。しかし胸元の手帳には、大きく書かれていた。


『創立祭警備計画・最終版』


その隣でヴィスカが覗き込む。


「まだ持っていらしたのですか」

「念のためです」

「本当に何も起こりませんわよ」

「希望的観測は危険です」

「相変わらずですわね……」


そんなやり取りをしているうちに、開演を告げる鐘が鳴った。幕が上がる。劇は順調に進んでいく。王子と姫の出会い、別れ、再会。エルシェは練習の成果もあり、台詞を間違えることなく演じていた。そして迎えた最後の場面。舞台の上には、カイゼルとエルシェだけ。静まり返った講堂。カイゼルはゆっくりとエルシェの前にひざまずいた。台本どおりの台詞を口にする。


「私は、あなたを愛しています」


その声は穏やかだった。けれど、その瞳は練習の時よりもずっと真剣だった。エルシェは、その目を見つめる。不思議だった。胸が少しだけ熱くなる。これまで何度も聞いた台詞なのに、今日は何かが違う。


(どうして……?)


一瞬だけ戸惑う。だが舞台は止まらない。エルシェは笑顔で答えた。


「私も、あなたを愛しています」


客席から大きな拍手が湧き起こる。今度は台本どおり。担任は満足そうに頷いた。劇は大成功だった。幕が下り、出演者たちは互いの健闘を称え合い、笑顔で抱き合っていた。


「成功ですわ!」

「最高でした!」

「泣いていた方もいましたよ!」


エルシェも嬉しそうに拍手をしている。


「みんなのおかげね!」


その時だった。


「エルシェ」


カイゼルが静かに声をかける。


「少しだけ、時間をもらえるかな」

「もちろん!」


二人は講堂裏の庭へ向かった。そこは幼い頃から何度も遊んだ、小さな花壇のある場所だった。風が優しく木々を揺らす。しばらく沈黙が続いたあと、カイゼルが口を開く。


「劇の台詞じゃなくて」

「うん」

「本当の気持ちを聞いてほしい」


エルシェは首を傾げた。


「もちろん」


カイゼルは大きく息を吸う。王太子ではなく。一人の青年として。


「エルシェ」

「はい」

「僕はずっと君が好きだ」


まっすぐな瞳。逃げることなく見つめる。


「親友だからじゃない」

「……」

「婚約者だからでもない」


エルシェは黙って聞いている。


「君だから好きなんだ」


その一言で。これまでの出来事が、エルシェの頭の中を駆け巡った。誕生日の首飾り、花束、二人きりで見た月、優しい眼差し、何度も聞いた「愛しています」。


全部。


全部。



(……あ)


そこで初めて気づいた。友情ではなかった。ずっと前から、カイゼルは恋をしていたのだ。


「ご、ごめんなさい!」


エルシェは勢いよく頭を下げた。


「私、全部勘違いしていたのね!」

「……うん」


カイゼルは苦笑する。


「少しだけ」

「少しどころじゃないわ!」


エルシェは両手で顔を覆った。


「恥ずかしい……」


耳まで真っ赤になっている。そんな姿を見るのは初めてだった。カイゼルは思わず笑ってしまう。


「やっと照れてくれた」

「もう笑わないで!」

「ごめん」


二人は顔を見合わせる。そして同時に笑った。エルシェはゆっくりとカイゼルの前へ歩く。


「私ね」

「うん」

「恋って難しいと思っていたの」


少し照れながら続ける。


「でも、カイゼルといる時間が一番幸せ」


カイゼルの瞳が大きく開く。


「それって……」

「まだ恋かどうかは分からない」


エルシェは正直に答えた。


「でも」


そっとカイゼルの手を握る。


「これからは親友じゃなくて、婚約者として、ちゃんとあなたを知りたい」


一瞬の静寂。次の瞬間、カイゼルは嬉しそうに微笑んだ。


「それで十分だ」


ようやく、一歩前へ進めた。その様子を物陰から見守るニつの影。


「殿下……」


ヴィスカは目元を押さえた。


「本当に良かったですわ」


ノアは静かに手帳を開く。最後のページ。『警戒対象』そこにはもう誰の名前もなかった。ノアは小さく微笑み、その手帳を閉じる。


「任務完了」

「終わりましたわね」

「はい」


二人は顔を見合わせる。その時、エルシェがこちらへ気づいた。


「ヴィスカさん! ノア!」


大きく手を振る。


「何をしているの?」


ヴィスカは肩をすくめる。


「見守っていましたの」

「応援も」


ノアが短く付け加える。


「まあ!」


エルシェは花が咲くような笑顔になった。


「ありがとう!」


そして四人は自然と笑い合った。今日も誰かが笑っている。今日も誰かが幸せになっている。嫌味は励ましになり、勝負は友情になり。片想いは、ようやく一歩だけ実を結んだ。エルシェは青空を見上げ、いつものように微笑む。


「今日も、とっても幸せ!」


その笑顔につられるように、カイゼルも、ヴィスカも、ノアも笑う。幸せは、不思議だ。一人が本気で笑っていると、いつの間にか周りまで笑顔になる。だからきっと、明日も。


エルシェ様は今日も幸せ。


そして、その幸せは、これからもたくさんの人へ広がっていくのだろう。



ドタバタコメディ、好きです。

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