エルシェ様は今日も幸せ
王立レイヴァン学院。
この国で最も身分の高い子息令嬢たちが集う学び舎では、今日も朝から華やかな空気が流れていた。その中心にいるのは、この国の王太子カイゼル。陽光を溶かしたような金髪に、深い蒼の瞳。すらりとした長身と整った顔立ちは、歩くだけで周囲の視線をさらっていく。
「カイゼル殿下、おはようございます!」
「今日も素敵ですわ…!」
令嬢たちの黄色い歓声を受けながらも、カイゼルの視線はただ一人だけを探していた。
「…いた」
中庭の噴水のそばで、小鳥にパンくずを分け与えている少女を見つける。銀色に近い淡い金髪を風に揺らし、花が咲くような笑みを浮かべる公爵令嬢エルシェだった。
「エルシェ!」
「おはよう、カイゼル!」
ぱっと振り返った笑顔だけで、カイゼルの胸は満たされる。
(……かわいい)
幼い頃から婚約者として共に育ってきた。それなのに今でも、新しく恋をした日のように胸が高鳴る。
「今日は早いんだね」
「エルシェに会いたくて、早く来てしまったよ」
「あら、私も会いたかったわ!」
カイゼルの表情が明るくなる。しかし次の瞬間。
「親友には毎日会いたいものね!」
「…………」
周囲の空気が止まった。令嬢たちは顔を見合わせる。
(またですの)
(殿下が気の毒ですわ……)
カイゼルは心の中だけでため息をついた。
(違うんだ。親友じゃない。婚約者なんだ……)
何度も伝えようとした。花束も贈った。誕生日には世界に一つだけの首飾りを贈った。月明かりの庭園で手を取ったこともある。そのたびにエルシェは嬉しそうに笑う。
『親友って最高ね!』
―…すべて友情として受け取られていた。本人はいたって真剣である。
「今日も仲良しですわね」
鋭い声が響いた。二人が振り向くと、一人の令嬢がゆっくりと歩いてくる。艶やかな黒髪に、意志の強そうな琥珀色の瞳。伯爵令嬢ヴィスカ。学院でも有名な才女であり、そして。
(今日こそ負けませんわ)
エルシェを勝手に最大のライバルと認定している少女だった。
「おはようございます、ヴィスカさん!」
エルシェは満面の笑みで挨拶する。
「おはようございます」
ヴィスカは微笑み返しながらも、心の中では燃えていた。
(その余裕、今日で終わりですわ)
彼女は一歩前へ出る。
「エルシェ様」
「はい?」
「わたくし、あなたには負けません」
堂々たる宣戦布告だった。周囲がざわつく。
(言った!)
(ついに言いましたわ!)
しかし、エルシェは目を輝かせた。
「まあ!」
ヴィスカは勝利を確信する。ようやく動揺した…そう思ったのだが。
「ライバルができたのね!」
「……はい?」
「とっても嬉しい!」
「え?」
「お互いに高め合える友達って素敵よね!」
そう言って両手を握られた。
「一緒に頑張りましょう!」
「…………」
ヴィスカの思考が止まる。
(違いますわ)
恋のライバルである。友情を深めたいわけではない。
「違っ……!」
「ありがとう!」
「だから違いますわ!」
「応援してくれるなんて!」
「誰が応援を!」
ヴィスカは思わず大声を出してしまった。周囲では令嬢たちが苦笑している。
「今日も始まりましたわね」
「ヴィスカ様、お気の毒に……」
カイゼルは遠い目をした。
(エルシェには悪意が通じない)
嫌味も、皮肉も、宣戦布告さえも。全部『応援』へ変換される。ある意味、最強だった。その少し後ろから無表情で二人を見つめる女性がいる。エルシェ専属メイド、ノア。
「……」
今日も無表情。今日も沈黙。しかし彼女の瞳だけは、ヴィスカを正確に捉えていた。
(危険度、微増)
心の中で静かに判定する。主人へ敵意を向ける者、それは排除対象。もちろん、法に触れない範囲で。
「ヴィスカ様」
「ひっ!」
いつの間にか真横に立たれていた。
「な、何でしょう……?」
「お嬢様を泣かせる予定はございますか」
「ありませんわ!」
「安心しました」
にっこり。笑顔なのに、なぜか背筋が寒くなる。
「もし、その予定ができましたら」
「できません!」
「そうですか」
ノアは静かに一礼した。
「そのほうが、お互いのためです」
「…………」
ヴィスカは顔を引きつらせた。
(このメイド、怖すぎますわ!)
一方のエルシェは、そんな空気などまるで気づかない。
「ノア!」
「はい、お嬢様」
「ヴィスカさんと今度お茶会をしましょう!」
「承知しました」
「ちょっと待ってくださいませ!」
ヴィスカが慌てる。
「わたくしはライバルでしてよ!」
「ええ!」
エルシェは嬉しそうに頷く。
「だから仲良くなりたいの!」
「どうしてそうなるんですの!?」
学院中にヴィスカの悲鳴が響いた。そのとき、校舎の鐘が高らかに鳴る。授業開始の合図だ。
「急がなきゃ!」
エルシェはカイゼルの手首を軽くつかむ。
「行きましょう、親友!」
「……うん」
カイゼルは小さく笑った。恋人として手をつなぎたい。婚約者として隣を歩きたい。そんな願いは、今日も胸の奥へしまい込む。
(いつか……)
彼女が「親友」ではなく、「婚約者」と呼んでくれる日が来るのだろうか。一方のヴィスカはぎゅっと拳を握りながらエルシェを見つめる。
「負けませんわ……!」
恋も、勝負も、絶対に。その決意を聞いたエルシェは、振り返って満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう、ヴィスカさん! 一緒に素敵な学院生活にしましょうね!」
「だから違いますわぁぁぁーーっ!!」
その叫び声は、青空高く吸い込まれていった。そして誰よりも幸せそうな笑顔で歩くエルシェは、今日もまだ知らない。王太子の一途な恋心も。ライバル令嬢の宣戦布告も。すべてを笑顔に変えてしまう自分が、この学院で一番の台風の目であることを―…。
ヴィスカは、自室で机に向かって腕を組んでいた。
「……おかしいですわ」
昨日の出来事を思い返す。
『あなたには負けません』
『まあ! ライバルができたのね!』
『一緒に頑張りましょう!』
「違いますわぁぁ!」
思い出しただけで頭を抱えた。宣戦布告をしたはずが、なぜか友情を深める約束になってしまった。あの公爵令嬢は、どうしてああも前向きなのか。
「ですが!」
ぱん、と机を叩く。
「わたくしは諦めませんわ!」
恋とは戦い。勝った者だけが、王太子の隣に立てる。
「次の作戦は―…昼食ですわ」
学院では昼休みになると、中庭や温室、図書館など、好きな場所で食事を楽しめる。もちろんカイゼルは、毎日のようにエルシェと昼食を共にしている。
「そこへ、わたくしが自然に加わるのです」
そして、優雅に談笑し、知性を見せ、美しく微笑む。完璧な作戦だった。
「今度こそ!」
「エルシェ」
「おはよう、カイゼル!」
翌朝も、エルシェは満面の笑みだった。
「今日は一緒に昼食をどうかな」
「もちろん!」
カイゼルの顔がほころぶ。
(やった……。)
一緒に昼食を食べるだけ。それだけなのに嬉しくて仕方がない。エルシェはそんな彼を見て微笑んだ。
「楽しみね!」
「……うん」
親友として、だけれど…それでも嬉しい自分が少し悔しい。
昼休み、二人は学院の中庭へ向かった。木陰には白いテーブルが置かれ、小鳥たちがさえずっている。
「今日はノアが焼き菓子も持たせてくれたの」
「楽しみだ」
穏やかな空気が流れ始めた、その時だった。
「失礼しますわ」
二人の前へヴィスカが現れた。今日はいつも以上に身だしなみを整え、優雅に一礼する。
「偶然ですわね」
(偶然ではありませんわ)
一時間前から隠れて待っていた。
「もしよろしければ、ご一緒しても?」
カイゼルは少し驚く。
「もちろん構わないが……」
すると、エルシェの目が輝いた。
「嬉しい!」
「……え?」
「ヴィスカさん、自分から仲良くなろうとしてくれたのね!」
「違いますわ!」
「照れなくても大丈夫よ!」
「照れてません!」
「カイゼル」
「な、何?」
「三人で食べたらもっと楽しいわ!」
カイゼルは苦笑した。
「そうだね」
(エルシェが嬉しそうだから、まあいいか)
三人は席についた。ヴィスカは心の中で拳を握る。
(ここからですわ)
優雅に紅茶を注ぎ、静かに話題を振る。そして、さり気なく名前を呼んで…お近づきになる!
「カイゼル様は、休日はどのようにお過ごしなのですか?」
「最近は―…」
「ヴィスカさん!」
エルシェが身を乗り出した。
「ヴィスカさん、ちゃんと名前で呼ぶようになったのね!」
「え?」
「昨日まで『殿下』だったのに!」
「……」
「すごく仲良くなれた証拠ね!」
「なんか違いますわ!」
また違う。ヴィスカは心の中で泣いた。しかし諦めない!
「殿下、お茶を―…」
「ありがとう!」
エルシェが先に受け取った。
「あら?ヴィスカさんって気遣い上手!」
「これは殿下に―…」
「私の分まで用意してくれるなんて!」
「違いますってば!」
カイゼルは吹き出しそうになるが、必死に我慢した。ヴィスカは深呼吸した。
(落ち着きなさい、ヴィスカ)
まだ終わっていない。最後の切り札がある。彼女は美しく微笑み、手作りのクッキーを取り出した。
「昨日、焼いたのです」
ちらり、とカイゼルを見る。
「よろしければ召し上がってください」
その瞬間、エルシェは立ち上がった。
「まあ!」
ヴィスカは勝利を確信した。嫉妬…ようやく嫉妬した。そう思った。
「私の分まで!」
「……はい?」
「ありがとう!」
「違いますわ!」
またである。
「殿下に―…」
「三人分あるなんて優しい!」
「二人分しかありません!」
「え?」
ヴィスカはしまった、と思った。勢いで本音が出た。エルシェは首を傾げる。
「私の分はないの?」
「……」
ヴィスカは固まる。しまった。これは、かなり感じが悪い。しかし。
「大丈夫!」
エルシェは笑顔で言った。
「気にしないで!」
「え?」
「私、お腹いっぱいだから!」
実際はまだ何も食べていない。
「だからカイゼルが二枚食べれば解決ね!」
ヴィスカは頭を抱えた。
(どうして責めないんですの!?)
その様子を、少し離れた場所からノアが見ていた。
「……」
視線はクッキー、次にヴィスカ。そしてまたクッキー。
「安全確認」
誰にも聞こえない声で呟きながら、三人へ近づく。クッキーを見つめ、ノアは一枚だけ手に取り小さく割った。近くにいた鳩へ差し出す。鳩は嬉しそうについばみ、元気よく飛び立っていく。
「問題ありません」
ヴィスカが青ざめた。
「ま、まさか毒を疑いましたの!?」
「当然です」
「当然じゃありませんわ!」
「お嬢様は世界一大切なお方ですので」
真顔だった。一切悪びれない。エルシェは嬉しそうに頷く。
「ノアって本当に心配性なの」
「光栄です」
「褒めてませんわ!」
ヴィスカの叫びに、中庭中の視線が集まる。その頃にはカイゼルは笑いを堪えきれず、小さく肩を震わせていた。
「殿下まで!」
「す、すまない……」
笑っている。楽しそうに。その笑顔を見たヴィスカは、不意に気づいた。
(……殿下、こんなふうに笑われるのですね)
いつもは凛々しく、落ち着いた王太子。けれどエルシェの隣では、年相応の青年のように笑う。その笑顔を見た瞬間、ヴィスカの胸は少しだけ痛んだ。
(やっぱり……)
敵わない。そう思ってしまった自分に、すぐ首を振る。
(いいえ! まだ始まったばかりですわ!)
エルシェはそんな彼女へ、満面の笑みを向けた。
「ヴィスカさん」
「な、何ですの?」
「今日もありがとう!」
「え?」
「昨日よりもっと仲良くなれた気がするわ!」
「…………」
ヴィスカは空を見上げた。
(この人を負かす方法…本当にありますの?)
その問いに答えられる者は、学院中どこを探しても誰一人いなかった。もちろん、一番分かっていないのは、幸せそうに笑うエルシェ本人だったのである。
昼食騒動から数日後。王立レイヴァン学院の講堂には、全校生徒が集められていた。壇上へ立った学院長は、白い髭を撫でながら穏やかに微笑む。
「諸君。今年も創立祭の季節がやってまいりました」
講堂が一気に沸き立つ。創立祭。学院最大の催しであり、生徒たちが最も楽しみにしている行事だ。
「今年も各学年ごとに劇を披露していただきます」
その一言で、あちこちから歓声が上がる。
「配役は各クラスで話し合って決めること。なお、今年の優秀賞には、王城での祝賀会への招待が贈られます」
拍手が響く中、一人だけ静かに拳を握る青年がいた。
(……来た)
カイゼルである。創立祭の劇。これは、幼い頃から何度も夢見てきた機会だった。舞台の上で王子と姫を演じ、最後に愛を誓う。台本の中の言葉だとしても、エルシェへ真っ直ぐ想いを伝えられる。
(今度こそ……)
親友ではなく、婚約者として。できれば、その先の…愛する人として見てもらいたい。
「カイゼル?」
隣からひょこりと顔を覗かせたエルシェが、不思議そうに首を傾げる。
「難しい顔をしているわ」
「あ、いや……」
「劇、楽しみね!」
ぱあっと花が咲くように笑う。
「みんなで一つのものを作るって、とても素敵!」
「……そうだね」
(やっぱり青春行事なんだな……)
少しだけ肩を落とした。その様子を、数列後ろからヴィスカが見つめていた。
(殿下は王子役に決まるはず)
王太子本人がいるのだから、誰も異論はない。問題は姫役。
(そこに選ばれるのは、わたくしですわ)
もし舞台で手を取り合い、愛を誓えば。観客の前で自然に距離を縮められる。これ以上の好機はない。ヴィスカは密かに燃えていた。そして、さらに後方…壁際に静かに立つノアもまた、無表情のまま講堂を見つめていた。
(劇……)
嫌な予感しかしない。恋愛劇、接触、抱擁、口づけの演技。頭の中で危険度が次々と跳ね上がる。
(監視対象、増加)
ノアの脳内では、すでに創立祭が警備計画へ変わっていた。
ホームルーム。教室では早速、配役決めが始まった。
「王子役はもちろんカイゼル殿下!」
「異議なし!」
「決まりですわ!」
満場一致だった。カイゼルは苦笑しながら席を立つ。
「ありがとう」
続いて担任が黒板へ「姫役」と書く。
「では姫役は?」
教室中の視線が、一人へ集まった。もちろん、エルシェに。
「婚約者ですもの!」
「ぴったりですわ!」
「本物ですし!」
当然という空気が広がる。しかし。
「ちょっと待ってくださいませ!」
勢いよく立ち上がったのはヴィスカだった。
「姫役は公平に決めるべきです!」
彼女は胸を張る。
「演技力で勝負いたしましょう!」
教室がざわつく。カイゼルは少し困ったようにエルシェを見る。
「エルシェはどう思う?」
「楽しそう!」
即答だった。
「みんなで競うのね!」
「ええ」
「青春だわ!」
「…………」
ヴィスカは少しだけ複雑な気持ちになる。
(勝負なのですけれど……)
担任もうなずいた。
「では明日、姫役のオーディションを行う」
教室が沸き立つ。エルシェも拍手した。
「ヴィスカさん!」
「な、何ですの?」
「一緒に頑張りましょうね!」
「ええ……」
また握手された。
(どうして毎回こうなりますの……)
放課後、中庭でカイゼルは深いため息をついていた。
「また遠くなった……」
本当なら、婚約者なのだから最初から姫役でいい。しかしエルシェが楽しそうにしている以上、反対できなかった。
「殿下」
振り返るとノアが立っていた。
「少し、お時間を」
「珍しいね」
ノアは静かに一礼する。
「お願いがございます」
「何かな?」
「姫役が誰になろうとも」
「うん。」
「お嬢様を泣かせないでください」
その言葉に、カイゼルは目を丸くした。
「もちろんだ」
「信じております」
ノアは珍しく柔らかく微笑んだ。
「お嬢様は、人を疑うことを知りません」
「……知ってる」
「だから傷つく時は、誰より深く傷つきます」
カイゼルは静かに頷いた。
「絶対に泣かせない」
その返事を聞き、ノアは安心したように頭を下げる。その様子を偶然見かけたエルシェは、嬉しそうに駆け寄ってきた。
「二人とも!」
「エルシェ」
「ノア!」
「はい、お嬢様」
「もう仲良くなったのね!」
「……え?」
「私の大好きな二人が仲良しだなんて、すごく幸せ!」
カイゼルは苦笑する。ノアは目を閉じ、小さく息をついた。まただ。真剣な話さえ、エルシェの中では「友情が深まった出来事」へ変換されてしまう。そんな二人を見て、エルシェは幸せそうに笑った。
「創立祭がますます楽しみ!」
恋を実らせたい王太子。恋を勝ち取りたい伯爵令嬢。主人を守り抜きたい最強メイド。そして―…。
「みんなで最高の思い出を作りましょう!」
ただ一人、青春しか見えていない公爵令嬢。四人の思惑は、創立祭という大舞台へ向かって、少しずつ動き始めていた。
翌日の放課後。学院の小劇場には、姫役オーディションを見ようと、多くの生徒たちが集まっていた。舞台袖では、ヴィスカが深呼吸を繰り返している。
「落ち着きなさい……」
鏡に映る自分へ言い聞かせる。
「今日は勝つのです」
これまで空回りばかりだった。しかし今回は違う。演技なら努力が結果になる。幼い頃から舞踏会や朗読会で鍛えられた表現力なら、誰にも負けない自信があった。一方、その隣では。
「わあ!」
エルシェが舞台の幕を楽しそうに触っていた。
「こんな近くで見るのは初めて!」
「……緊張しませんの?」
「どうして?」
「勝負ですのよ?」
「そうね!」
エルシェはにっこり笑う。
「みんなで素敵なお芝居を作るための勝負でしょう?」
ヴィスカは額を押さえた。
(やっぱり分かっていませんのね……)
その頃、客席最前列にはカイゼルが座っていた。
(エルシェ……)
婚約者だからではない。彼女が誰よりも人を惹きつける人だから、隣に立ってほしい。そう願っていた。そして壁際にはノア。今日も無表情。だが胸元には、小さな手帳を持っている。
「……」
表紙には一言。『創立祭警備計画』誰にも見せられない物騒な文字だった。
担任が舞台中央へ立つ。
「では始める」
課題は一つ『王子へ別れを告げる姫』。短い場面だからこそ、演技力が問われる。最初に名前を呼ばれたのはヴィスカだった。
「はい」
優雅に一礼し、舞台中央へ。相手役の生徒と向き合う。そして、静かに微笑んだ。
「あなたをお慕いしております」
劇場が静まり返る。
「ですが、国のため…お別れいたします」
声が震える。瞳には涙が浮かぶ。
「どうか、お幸せに」
一礼……拍手が起こった。
「すごい……」
「本当に泣いてる」
「さすがヴィスカ様!」
客席から感嘆の声が漏れる。ヴィスカは心の中で小さく笑った。
(これなら……)
手応えは十分だった。次に。
「エルシェ」
「はーい!」
元気よく返事をして舞台へ上がる。歩くだけで客席から笑みがこぼれる。
「それでは始め」
担任の合図。相手役の生徒が台詞を言う。
「姫、行かないでくれ」
エルシェは少し考えた。
「うーん」
客席が静まる。そして。
「大丈夫!」
満面の笑み。
「離れていても、お友達でしょう?」
「…………」
劇場が止まった。
「会えない日があっても!」
エルシェは続ける。
「お互い元気なら、それだけで幸せよ!」
相手役が固まる。台本にない。しかしエルシェは止まらない。
「寂しくなったら、お手紙を書けばいいもの!」
にこにこ、笑顔を浮かべる。
「今度、お土産も持って帰るわ!」
ついには観客席から笑いが漏れた。…くすくす。あちこちで肩を震わせる生徒たち。カイゼルは思わず顔を覆う。
(エルシェらしい……)
別れの場面なのに。悲しさが一つもない。全部が希望へ変わってしまう。担任も苦笑しながら鐘を鳴らした。
「終了」
エルシェは満足そうに頭を下げた。
「ありがとうございました!」
舞台を降りると、ヴィスカが待っていた。
「どうでした?」
「とても楽しかったわ!」
「……そうではなく」
「ヴィスカさんの演技、すごかった!」
エルシェは目を輝かせる。
「本当に泣きそうになったもの!」
「ありがとうございます」
「私にはあんな演技できないわ!」
その素直な言葉に、ヴィスカは少し照れた。
「あなたも……」
一瞬だけ言葉を探す。
「あなたらしい演技でしたわ」
「本当?」
「ええ」
悔しいけれど。誰にも真似できない。あれはエルシェだけの演技だった。
全員の演技が終わり、担任が結果を発表する。
「姫役は―…」
教室中が息を呑む。
「エルシェ」
「えっ?」
一番驚いたのは本人だった。
「わ、私ですか?」
「君の演技は台本とは違った」
担任は笑う。
「だが、観客全員が君から目を離せなかった」
生徒たちもうなずく。
「確かに」
「笑ってしまった」
「なんだか幸せな気持ちになった」
「だから君に任せたい」
拍手が起こる。エルシェは慌ててヴィスカを見る。
「ヴィスカさん……」
ヴィスカは一瞬だけ目を閉じた。負けた、悔しい…本当に悔しい。けれど。
「おめでとうございます」
微笑んで手を差し出した。
「素敵な姫になってください」
エルシェはその手をぎゅっと握る。
「ありがとう!」
「…………」
「一緒に頑張ろうね!」
まただ。負けてもなお、自分を仲間として見てくれる。ヴィスカは苦笑した。
(本当に敵いませんわ)
その光景を見つめるカイゼルの胸は、温かさで満たされていた。
(やっぱり……)
エルシェがいい。舞台でも、人生でも。ずっと隣にいてほしい。その想いは日に日に強くなる。そして、誰にも気づかれないようにノアは手帳へ書き込んだ。
『姫役決定。王子との接触回数増加予定。警戒レベル、最大』
小さく頷く。
「準備を始めます」
何の準備なのか。それを知る者は、まだ誰もいなかった。一方、エルシェは帰り道で空を見上げる。
「劇って本当に素敵!」
隣を歩くカイゼルへ笑いかけた。
「カイゼル!」
「ん?」
「最高の思い出を作りましょうね!」
「ああ」
カイゼルも笑い返す。
(その思い出が、君にとって恋の始まりになりますように)
そんな願いを胸に秘めながら―…。創立祭本番まで、あと二週間。誰もが準備を進める中、一人だけ。エルシェだけは、これから自分が王子に「愛しています」と告げる劇を演じることなど、まだ少しも理解していなかった。
創立祭まで、あと三日。学院の講堂では、劇の通し稽古が行われていた。舞台中央に立つのは、王子役のカイゼルと、姫役のエルシェ。客席には担任教師や生徒たちが座り、本番さながらの緊張感が漂っている。
「では、最後の場面から」
担任の声が響く。舞台はクライマックス。敵国との争いを終えた王子が、姫へ愛を告げる場面だった。カイゼルはゆっくりとエルシェの前へ歩み寄る。この台詞だけは、何度練習しても胸が苦しくなる。なぜなら―…。
(全部、本音だから)
演技ではない。何度も胸にしまい込んできた想い、そのものだった。エルシェの手を取る。柔らかな指先が触れた瞬間、鼓動が速くなる。
「姫」
静かな声。
「私は、あなたを愛しています」
講堂が静まり返る。その一言には、演技とは思えないほどの熱が宿っていた。誰もが息を呑む。ヴィスカも、思わず拳を握った。
(……本気)
誰の目にも明らかだった。これは劇ではない。王太子カイゼルが、公爵令嬢エルシェへ贈る、本物の告白だった。エルシェは一瞬だけ目を丸くした。そして、ぱあっと笑顔になる。
「私もよ!」
カイゼルの胸が高鳴る。
(もしかして――)
「一番大切なお友達だもの!」
講堂中から、小さなため息が漏れた。カイゼルは笑顔のまま固まる。
(また……友情)
「ずっと仲良しでいましょうね!」
「……ああ」
返事をする声が少しだけ震える。担任は額に手を当てた。
「エルシェ」
「はい?」
「台本には『私もあなたを愛しています』と書いてある」
「あっ」
エルシェは口元を押さえた。
「間違えちゃった!」
客席から笑いが起こる。
「ごめんなさい!」
「もう一度」
「はい!」
再び最初から。カイゼルは深く息を吸う。
(今度こそ)
「私は、あなたを愛しています。」
エルシェは真剣な顔で頷いた。
「はい!」
期待が集まる。
「私も―…」
カイゼルは息を止めた。
「あなたを……」
(お願いだ)
「大好きなお友達として愛しています!」
どっと笑い声が響いた。カイゼルは空を仰ぎたくなった。担任は椅子にもたれ、肩を震わせて笑っている。
「エルシェ」
「はい!」
「そこは『お友達として』を付けなくていい」
「そうなのですか?」
「恋愛劇だから。」
「なるほど!」
エルシェは納得したように頷く。
「難しいですね」
その一言に、ヴィスカは吹き出した。
「ふふっ……」
慌てて口を押さえる。カイゼルまで笑ってしまった。
「もう……エルシェらしい」
さっきまでの切なさが、少しだけ和らぐ。
休憩時間、エルシェは舞台袖で台本を見つめていた。
「『愛しています』」
首を傾げる。
「やっぱり照れちゃうわ」
そこへヴィスカが歩いてくる。
「少し、よろしいですか」
「もちろん!」
二人は講堂の窓辺へ移動した。しばらく沈黙が流れる。やがてヴィスカが小さく笑った。
「負けましたわ」
「え?」
「殿下を振り向かせること」
エルシェは驚いて目を瞬かせる。
「そんな勝負だったの?」
「今さらですの!?」
思わず声が裏返った。
「はい…」
エルシェは申し訳なさそうに肩をすくめる。
「わたくし、本気で殿下が好きでした」
初めて聞くヴィスカの本音だった。
「だから、あなたが羨ましかった」
エルシェは静かに聞いている。
「でも」
ヴィスカは微笑んだ。
「あなたと過ごして分かりました」
「?」
「殿下が好きになる理由が」
その言葉にエルシェは困ったように笑う。
「私、何もしてないわ」
「それが一番すごいのです」
誰にでも笑いかける。悪意を受け止めず、善意へ変えてしまう。だから周囲まで笑顔になる。
「……敵いません」
ヴィスカは素直に頭を下げた。
「これからはライバルではなく、お友達になってくださいます?」
エルシェの顔がぱっと輝く。
「もちろん!」
ぎゅっと抱きつく。
「ずっとそう思っていたわ!」
「……でしょうね」
二人は顔を見合わせ、同時に笑った。少し離れた場所。その光景を見届けたノアは、小さく頷く。
「危険人物一名」
手帳を開く。ヴィスカの名前の横に書かれていた『警戒』の文字を一本線で消した。代わりに、静かに書き加える。
『友人』
そして珍しく微笑む。静かにヴィスカの後ろに近づき一言。
「歓迎いたします」
ヴィスカは振り返り、目を丸くした。
「……それ、最初から言ってくださればよかったのですけれど」
「最初は敵でしたので」
「正直ですわね…」
そのやり取りに、エルシェはお腹を抱えて笑った。
「ふふっ、本当に仲良しになれた!」
三人も、少し離れたところから見守るカイゼルも、自然と笑顔になる。創立祭はいよいよ明日。劇の幕が上がるその日、カイゼルは決めていた。
(劇が終わったら、今度こそ)
台本ではなく、王太子でもなく、一人のカイゼルとして。もう一度、エルシェに想いを伝えよう―…。その決意だけは、誰にも気づかれることなく、静かに胸の奥で燃え続けていた。
創立祭当日。王立レイヴァン学院は、朝から祭りの熱気に包まれていた。色とりどりの花で飾られた校舎。屋台から漂う甘い香り。生徒たちの笑い声。そして講堂には、劇を楽しみに訪れた保護者や貴族たちが続々と集まっていた。舞台袖でエルシェは深呼吸をする。
「わあ……たくさんのお客様!」
「緊張する?」
隣に立つカイゼルが尋ねる。エルシェはにこりと笑った。
「少しだけ。でも、みんなが楽しんでくれたら嬉しいわ」
(……やっぱり君らしい)
カイゼルは優しく微笑んだ。舞台袖のさらに奥では、ノアが腕を組んで立っている。今日も無表情。しかし胸元の手帳には、大きく書かれていた。
『創立祭警備計画・最終版』
その隣でヴィスカが覗き込む。
「まだ持っていらしたのですか」
「念のためです」
「本当に何も起こりませんわよ」
「希望的観測は危険です」
「相変わらずですわね……」
そんなやり取りをしているうちに、開演を告げる鐘が鳴った。幕が上がる。劇は順調に進んでいく。王子と姫の出会い、別れ、再会。エルシェは練習の成果もあり、台詞を間違えることなく演じていた。そして迎えた最後の場面。舞台の上には、カイゼルとエルシェだけ。静まり返った講堂。カイゼルはゆっくりとエルシェの前にひざまずいた。台本どおりの台詞を口にする。
「私は、あなたを愛しています」
その声は穏やかだった。けれど、その瞳は練習の時よりもずっと真剣だった。エルシェは、その目を見つめる。不思議だった。胸が少しだけ熱くなる。これまで何度も聞いた台詞なのに、今日は何かが違う。
(どうして……?)
一瞬だけ戸惑う。だが舞台は止まらない。エルシェは笑顔で答えた。
「私も、あなたを愛しています」
客席から大きな拍手が湧き起こる。今度は台本どおり。担任は満足そうに頷いた。劇は大成功だった。幕が下り、出演者たちは互いの健闘を称え合い、笑顔で抱き合っていた。
「成功ですわ!」
「最高でした!」
「泣いていた方もいましたよ!」
エルシェも嬉しそうに拍手をしている。
「みんなのおかげね!」
その時だった。
「エルシェ」
カイゼルが静かに声をかける。
「少しだけ、時間をもらえるかな」
「もちろん!」
二人は講堂裏の庭へ向かった。そこは幼い頃から何度も遊んだ、小さな花壇のある場所だった。風が優しく木々を揺らす。しばらく沈黙が続いたあと、カイゼルが口を開く。
「劇の台詞じゃなくて」
「うん」
「本当の気持ちを聞いてほしい」
エルシェは首を傾げた。
「もちろん」
カイゼルは大きく息を吸う。王太子ではなく。一人の青年として。
「エルシェ」
「はい」
「僕はずっと君が好きだ」
まっすぐな瞳。逃げることなく見つめる。
「親友だからじゃない」
「……」
「婚約者だからでもない」
エルシェは黙って聞いている。
「君だから好きなんだ」
その一言で。これまでの出来事が、エルシェの頭の中を駆け巡った。誕生日の首飾り、花束、二人きりで見た月、優しい眼差し、何度も聞いた「愛しています」。
全部。
全部。
(……あ)
そこで初めて気づいた。友情ではなかった。ずっと前から、カイゼルは恋をしていたのだ。
「ご、ごめんなさい!」
エルシェは勢いよく頭を下げた。
「私、全部勘違いしていたのね!」
「……うん」
カイゼルは苦笑する。
「少しだけ」
「少しどころじゃないわ!」
エルシェは両手で顔を覆った。
「恥ずかしい……」
耳まで真っ赤になっている。そんな姿を見るのは初めてだった。カイゼルは思わず笑ってしまう。
「やっと照れてくれた」
「もう笑わないで!」
「ごめん」
二人は顔を見合わせる。そして同時に笑った。エルシェはゆっくりとカイゼルの前へ歩く。
「私ね」
「うん」
「恋って難しいと思っていたの」
少し照れながら続ける。
「でも、カイゼルといる時間が一番幸せ」
カイゼルの瞳が大きく開く。
「それって……」
「まだ恋かどうかは分からない」
エルシェは正直に答えた。
「でも」
そっとカイゼルの手を握る。
「これからは親友じゃなくて、婚約者として、ちゃんとあなたを知りたい」
一瞬の静寂。次の瞬間、カイゼルは嬉しそうに微笑んだ。
「それで十分だ」
ようやく、一歩前へ進めた。その様子を物陰から見守るニつの影。
「殿下……」
ヴィスカは目元を押さえた。
「本当に良かったですわ」
ノアは静かに手帳を開く。最後のページ。『警戒対象』そこにはもう誰の名前もなかった。ノアは小さく微笑み、その手帳を閉じる。
「任務完了」
「終わりましたわね」
「はい」
二人は顔を見合わせる。その時、エルシェがこちらへ気づいた。
「ヴィスカさん! ノア!」
大きく手を振る。
「何をしているの?」
ヴィスカは肩をすくめる。
「見守っていましたの」
「応援も」
ノアが短く付け加える。
「まあ!」
エルシェは花が咲くような笑顔になった。
「ありがとう!」
そして四人は自然と笑い合った。今日も誰かが笑っている。今日も誰かが幸せになっている。嫌味は励ましになり、勝負は友情になり。片想いは、ようやく一歩だけ実を結んだ。エルシェは青空を見上げ、いつものように微笑む。
「今日も、とっても幸せ!」
その笑顔につられるように、カイゼルも、ヴィスカも、ノアも笑う。幸せは、不思議だ。一人が本気で笑っていると、いつの間にか周りまで笑顔になる。だからきっと、明日も。
エルシェ様は今日も幸せ。
そして、その幸せは、これからもたくさんの人へ広がっていくのだろう。
ドタバタコメディ、好きです。




