一つで済むなら
明日に、延ばすな。
会議室の空調は一定で、外の時間を感じさせなかった。
長机の上に並んだ資料は、どれも同じような体裁で、同じように線が引かれている。
「このルートだと、ここが引っかかります」
担当者がレーザーポインタで一点を示す。
スクリーンには、地形図と既存区画、そして一本の直線が重ねられていた。
「回せない?」
「回すと今度はこっちが干渉します。勾配も基準を外れます」
別の案が表示される。
線はわずかに曲がるが、別の場所に赤いマークが灯る。
「結局、どのコースでも同じか」
「はい。ここだけは避けきれません」
沈黙が落ちる。
資料をめくる音だけが、一定のリズムで続いた。
「一件で済むなら、ここで決めるのが一番現実的だな」
誰かが言う。
異論は出ない。
「条件は満たしてる。工期も読める」
「補償も標準でいけます」
言葉はどれも正しい。
正しいものだけが、机の上に残っている。
「じゃあ、このラインで現地確認」
結論は簡潔だった。
線は、ほとんど最初からそこにあった。
現地は静かだった。
測量テープが引かれ、白い杭が一定間隔で打たれていく。
図面の上の直線が、地面の上に現れる。
「座標、合ってます」
端末と杭の位置が一致する。
数値にズレはない。
「このまま通すと、ここにかかるな」
*************
家に帰ると、郵便受けに厚みのある封筒が挟まっていた。
差出人のロゴに見覚えがある。健康管理センター。人間ドックの結果だ。
靴を脱ぎながら封を切る。
紙はきれいに折られていて、数値と所見が整然と並んでいる。
「要精査? 胃が……なんだって?」
視線が一行に止まる。
具体的な言葉は並んでいるが、意味が頭に落ちてこない。
そのままページをめくる。
他はだいたい基準内だ。大きな問題は見当たらない。
だから余計に、その一行だけが浮く。
机の端に書類を置く。
時計を見ると、もう遅い時間だった。
三日後の予定が頭に浮かぶ。
新設道路の現地で、最後に残った一件の立ち退き交渉。
どのルートを取っても避けられない場所。
条件はすべて揃っている。あとは話を通すだけだ。
検査のことは、後でもいい。
そういう順番にする。
書類を閉じ、軽く指で叩いて揃える。
紙の角が、きれいに揃う。
「……あなた……」
台所の方から声がする。
振り返る。
「何?」
「さっき、郵便来てたでしょ」
「ああ、検査の結果」
「どうだったの」
少しだけ間を置く。
「大したことない。ちょっと引っかかっただけ」
そう言って、封筒を持ち上げる。
重さは変わらない。
明日の段取りを思い出す。
資料の確認、訪問の順序、説明の流れ。
「……明日、行ってきます」
言葉は自然に出た。
誰に向けたものか、自分でもはっきりしない。
書類は、そのまま机の上に置かれている。
まだ、開いたときの形を保っていた。
「まず、今の状態を見てみましょう。人間ドックのときは……レントゲンですね。では、胃カメラで直接確認しましょう。軽易であれば、そのまま処置も可能です」
白衣の男は淡々と言った。
説明は一通り受けた。サインもした。
必要なことは、すべて終わっている。
更衣室で検査着に着替える。
薄い布越しに、室内の温度がそのまま伝わる。
待合の椅子に腰を下ろす。
呼ばれるまで、やることはない。
腹が鳴る。
昨日の晩から何も入れていない。
「これが終わったら俺、ラーメンとチャーハンを食べるぞ」
名前を呼ばれた。
すっくと立ち上がった。
モニターに、暗い管の内部が映る。
光が当たるたびに、粘膜が濡れた色を返す。
「……少し力を抜いてください」
声が遠くにある。
*************
「……あー、主任、病院行くって休んじゃって。任せるって言われたって、俺この仕事噛んでないのに、わかんねえよ」
「そのカメラ使って。場所が確認できたら、アームで除去しちゃって」
「ほいほい。これ触るの、研修以来なんだけど」
操作卓の前で、指がいくつかのスイッチをなぞる。
映像が拡大される。
輪郭がはっきりする。
「……まあ、いいか……」
軽く、押す。
*************
「……あれ……」
検査室の空気が少しだけ止まる。
「綺麗ですね」
モニターに映るのは、均一な色調。
異常所見は見当たらない。
器具がゆっくりと引き抜かれる。
診察室に戻る。
医師は一度画面を見直し、それから端末に手を伸ばした。
短い通話。
「……大変申し上げにくいのですが、事故があったようです。カルテが一人分、ずれていまして」
言葉は丁寧だった。
内容もはっきりしている。
「本来の対象ではなかった可能性がありますが……現時点で異常は確認されていません。今回の検査費用はこちらで負担します」
少し考える。
胃は問題ない。
検査代もかからない。
それで十分だ。
「……まあ、いいです」
席を立つ。
外に出ると、空気が軽い。
腹がまた鳴る。
――ラーメンとチャーハン。
それに、唐揚げもいけるな。
歩き出す。
頭の中は、もう店のことでいっぱいだった。
*************
「ここで、いいんだよな……」
*************
突然、空に柱が落ちてきた。
雲を突き抜け、一直線に地表へ叩きつけられる。
「なんだ、あれは」
誰かの声が、すぐに掻き消える。
地面が揺れる。
大地震のような振動が連続し、建物が軋み、街路が裂ける。
遅れて、雷のような轟音が空を覆う。
それは一箇所ではない。
視界の外、音の届かない遠方でも、同じ現象が同時に起きている。
世界のあちこちで、同じ形の破壊が繰り返されていた。
空から落ちてくるのは、ただの柱ではない。
正確に、まっすぐに、何かを貫くためのものだ。
胃のあたりが、ふっと軽くなる。
違和感が消える。
――綺麗ですね。
声が、どこかで重なる。
*************
作業卓の上で、光が収束する。
巨大な球体が、ゆっくりと持ち上げられる。
「取れた。でっかいから時間かかった~ もう定時回ってるじゃん」
作業者が肩を回す。
指先には、まだ微細な振動が残っている。
空間の奥行きは、人間の感覚とは一致しない。
距離も時間も、別の単位で測られている。
後方から足音。
「すまないね、時間がかかってしまって」
主任が入ってくる。
「ちょうど終わりました。これで、次元間道路が通せますね」
軽く球体を掲げる。
表面には、まだ微かな光の揺らぎが残っている。
主任は一歩近づき、それを見た。
そして、止まる。
「……これ、隣の星系だぞ」
「まじ?」
短い沈黙。
遠くで、別の作業音が続いている。
止まる気配はない。
「明日には道路工事が始まる。俺もやるから、今からやり直すぞ」
「えー、残業ですか?」
愚痴のように言いながら、手元の球体を見下ろす。
少しだけ考えて、
男は、それを軽く放り投げた。
青い球体は、弧を描いてどこかへ飛んでいった。
誰かがフラグを踏んだから?




