第九話 戻ってきた人の話
また、やってしまいましたので、9話です。
戻ってくるつもりは、なかった。
あの文房具屋は、
「一度行けば十分な場所」だと思っていた。
困ったときに行って、
道具を一つ手に入れて、
少し楽になって、
それで終わり。
そういう場所だと、
勝手に決めていた。
でも、その日は違った。
特別に困っていたわけじゃない。
何か大きな失敗をしたわけでもない。
むしろ、
最近は少し調子がいい。
返信は、以前より早く返せている。
謝るべきときも、
変に構えず言葉にできる。
決めることも、
時間はかかるけれど、止まらない。
——なのに。
夕方、
駅前の通りを歩いていると、
無意識に足が止まった。
文房具屋の前。
理由がないのが、
いちばん厄介だった。
ベルが鳴る。
店内は、
変わっていない。
棚の配置。
光の色。
空気の重さ。
でも、
自分の立ち位置が、
少しだけ違う。
店主は、
何も言わなかった。
「何か、お探しですか」もない。
私は、
しばらく黙って立っていた。
——今日は、何を買うんだろう。
そう考えて、
すぐに気づく。
今日は、
買うものがない。
それなのに、
ここに来てしまった。
「……前にも、
来ました」
自分から、
そう言った。
店主は、
小さく頷く。
「覚えています」
それは、
社交辞令にも聞こえたし、
本当に覚えているようにも聞こえた。
私は、
棚の方を見る。
あのペン。
あのノート。
あの定規。
あの付箋。
どれも、
自分の引き出しの中にある。
「前より、
困ってない気がします」
言ってみると、
少し不安になる。
困っていないなら、
ここに来る理由が、
なくなってしまう。
「それで、
来なくなる人もいます」
店主は、
淡々と言った。
「……でも」
私は、
言葉を探す。
「なんとなく、
来ました」
「はい」
否定されない。
私は、
深呼吸してから、
正直に言った。
「前より楽なんですけど、
前より、
自分が分からなくて」
店主は、
初めて、
少しだけ考える素振りをした。
「悩みが、
変わったのですね」
「……悩み、
なんですかね」
「悩みがなくなったら、
ここには来ません」
私は、
少しだけ笑った。
確かに、
完全に満たされていたら、
こんな場所には来ない。
「前は、
できないことが
はっきりしてました」
私は続ける。
「返事ができない。
謝れない。
決められない」
「今は?」
「……できるけど、
正しいかどうかは、
分からない」
店主は、
静かに言った。
「それは、
次の段階です」
次の段階。
その言葉が、
少しだけ重かった。
「今日は、
何を買えばいいですか」
私は、
半分冗談で聞いた。
店主は、
すぐには答えなかった。
棚でもなく、
カウンターでもなく、
店の奥を見てから、
言う。
「今日は、
買わなくていいです」
「……前も、
そう言われました」
「今日は、
理由が違います」
私は、
少し身構えた。
「どう違うんですか」
「前回は、
もう持っていたからです」
「今日は?」
「選べるからです」
選べる。
その言葉が、
胸の奥で、
静かに広がる。
「ここにある道具は、
選ぶための補助です」
店主は続ける。
「戻ってきた人は、
もう一つ、
選べます」
「何を」
「使わない、
という選択です」
私は、
棚を見渡した。
使えば、
また楽になるかもしれない。
でも、
今の自分は、
楽になる前の不安も、
少し抱えられる。
「……じゃあ」
私は、
一歩、後ろに下がる。
「今日は、
何も買いません」
店主は、
それを止めなかった。
「はい」
それだけ。
私は、
店を出る。
ベルが鳴る。
外は、
いつもと同じ夕方。
歩き出して、
ふと気づく。
——あ。
今日は、
文房具のことを、
ほとんど考えていない。
考えていたのは、
自分の状態だ。
できること。
分からないこと。
それでも、
進めている感じ。
家に帰って、
引き出しを開ける。
文房具は、
そこにある。
でも、
今日は使わない。
引き出しを閉めるとき、
少しだけ思う。
——あの店は、
「解決する場所」じゃない。
「変わった自分を、
確かめる場所」だ。
そして、
確かめ終わったら、
何も買わずに、
出ていけばいい。
——また、
分からなくなったら、
戻ればいい。
そう思えること自体が、
たぶん、
ちゃんと進んでいる証拠なのだ。
また、続きを書いてしまいました。




