第八話 何も買わない人の話
※この物語は、
文房具屋を訪れる人たちの、
小さな選択の話です。
その日は、最初から買うつもりがなかった。
理由は特にない。
ただ、
もう十分に持っている気がした。
ペンも、ノートも、
定規も、付箋も。
引き出しを開ければ、
あの文房具屋で手に入れたものが、
ちゃんと揃っている。
それなのに、
足は自然と、
あの通りに向かっていた。
ベルが鳴る。
店内は、
いつもより少しだけ静かに感じた。
棚は同じ。
光も同じ。
でも、
自分の方が変わっている。
——今日は、何に困ってるんだろう。
そう考えて、
何も思いつかないことに気づく。
それが、
少しだけ不安だった。
店主は、
何も言わなかった。
「何か、お探しですか」も、
今日はない。
ただ、
そこにいる。
私は、
ゆっくりと棚の間を歩いた。
ペン。
ノート。
定規。
鉛筆。
付箋。
どれも、
もう知っている。
——今の自分には、
どれも必要ない。
そう思った瞬間、
胸の奥に、
小さな引っかかりが生まれた。
必要ない、
という判断を、
私はいつも後回しにしてきた。
欲しいかどうか。
使えるかどうか。
役に立つかどうか。
でも、
「今はいらない」と言うのは、
意外と難しい。
私は、
カウンターの前に立った。
「……今日は、
買わなくてもいいですか」
店主は、
すぐに頷いた。
「はい」
即答だった。
その答えに、
少しだけ肩の力が抜ける。
「ここは、
何も買わない人も来ます」
「……何しに?」
「確かめに」
「何を?」
店主は、
一拍置いてから言った。
「もう、
自分でできるかどうかを」
私は、
その言葉を、
しばらく噛みしめた。
自分で、できる。
返事を書くこと。
謝ること。
決めること。
急がないこと。
比べすぎないこと。
抱えすぎないこと。
期待を置き直すこと。
——全部、
道具がなくても、
できるかもしれない。
私は、
何も手に取らないまま、
しばらく立っていた。
居心地が悪くない。
買わないのに、
追い出されない。
説明もされない。
「それでもいい」と、
空気が言っている。
「……ここは」
私は、
言葉を探しながら続けた。
「困ってる人のための店、
なんですよね」
店主は、
否定もしなかったし、
肯定もしなかった。
「困っているかどうかを、
確かめる場所です」
私は、
小さく息を吐いた。
困っていない、
と思いたかった。
でも、
困っていないかどうかを、
確認しに来ている時点で、
少しは困っている。
それでも、
前ほどではない。
「……じゃあ」
私は、
鞄を持ち直す。
「また、
困ったら来ます」
店主は、
いつもの調子で言った。
「はい」
それだけ。
私は、
何も買わずに、
店を出た。
ベルが鳴る。
外の空気は、
少しだけ冷たい。
歩き出して、
ふと、
気づく。
——あれ。
今日は、
何も解決していない。
何も決めていない。
何も書いていない。
何も測っていない。
それなのに、
胸の奥が、
静かだ。
帰り道、
スマホが震える。
私は、
反射で見なかった。
一呼吸置いてから、
ポケットにしまう。
——今は、
大丈夫。
そう思えることが、
一番の変化だった。
家に着き、
引き出しを開ける。
ペンも、
ノートも、
定規も、
付箋も、
ちゃんとある。
でも、
今日は使わない。
引き出しを閉める。
暗くなった部屋で、
ふと、
文房具屋のことを思い出す。
あの場所は、
何かを買うための店じゃない。
「自分でやれるか」を、
確かめに行く場所だ。
——そして、
できなくなったら、
また戻ればいい。
それだけで、
少しだけ、
明日が軽くなる。
続きを書いてしまいました。
全七話の予定だったのに。




