第五話 比べてしまう人のための、他人の字になる鉛筆
※この物語は、
文房具屋を訪れる人たちの、
小さな選択の話です。
比べるつもりは、なかった。
最初は、ただの確認だった。
同じ仕事をしている人が、どんな評価を受けているのか。
自分と、どれくらい違うのか。
気づいたら、
確認は習慣になっていた。
成果。
進捗。
誰が早く、誰が上手くやっているか。
見なければいい。
そう思っても、指が勝手に動く。
自分の画面を閉じたあと、
他人の画面が頭に浮かぶ。
——自分は、遅れているんじゃないか。
その日も、
帰り道で、自然と文房具屋の前に立っていた。
ベルが鳴る。
棚の配置も、
空気の重さも、
もう見慣れてきた。
店主は、
こちらを見るでもなく、
見ていないでもない位置にいる。
「何か、お探しですか」
「……鉛筆」
口に出してから、
なぜ鉛筆なのか、自分でも分からなかった。
「書くと、字が変わるものがあります」
店主は、
まるで予想していたかのように言う。
私は、
鉛筆の棚を見る。
数は多くない。
でも、一本だけ、
置き方が違う。
横に寝かされている。
転がらないように、
小さな溝に収まっている。
札には、短く書かれていた。
《他人の字になります》
「……誰のですか」
「あなたが、
一番よく見ている人の字です」
私は、その言葉に、
少しだけ胸が詰まった。
よく見ている人。
無意識に、
比較している相手。
「……戻りますか」
「最後は」
店主は、
そこまでしか言わなかった。
鉛筆を手に取る。
普通の重さ。
少しだけ、芯が柔らかい。
家に帰って、
ノートを開いた。
いつも使っているノートだ。
自分の字が並んでいる。
私は、
一行、書いた。
——文字が、違う。
形。
角度。
力の入り方。
はっきりと、
“自分じゃない字”だった。
見覚えがある。
同僚の字だ。
いつも、
提出物がきれいで、
要点を外さない人。
胸の奥が、
きゅっと縮む。
もう一行、書く。
やっぱり、同じ字。
私は、
鉛筆を持つ手を止めた。
——こういうふうに、
書けたらいいのに。
そう思った瞬間、
少しだけ、
楽になっている自分に気づく。
羨ましさと、
安心感が、
同時に来た。
比べるのがつらいのは、
負けているからじゃない。
「自分のやり方が、
分からなくなる」からだ。
私は、
鉛筆を置いて、
深呼吸した。
そして、
もう一度、書いた。
——今度は、
少しだけ、
字が違った。
完全に他人でもない。
完全に自分でもない。
混ざっている。
数行書くうちに、
徐々に、
自分の字に近づいていく。
最後の一行。
それは、
いつもの私の字だった。
——戻った。
翌日、
文房具屋に寄る。
ベルが鳴る。
「戻りましたか」
店主が言う。
「……はい。
途中、混ざりましたけど」
「それで、十分です」
「でも、
比べなくなったわけじゃありません」
店主は、
少しだけ首を傾ける。
「比べるのを、
やめる必要はありません」
「え」
「参考にするか、
責めるかの違いです」
私は、
その言葉を、
しばらく考えた。
「次は、何がいいですか」
私が聞くと、
店主はノートの棚を見た。
「余白が、
広すぎるものがあります」
私は、
小さく息を吐いた。
まだ、
余白を見る勇気はない。
その日は、
鉛筆だけで帰った。
引き出しの中で、
鉛筆は、
他の文房具と並んでいる。
今は、
普通の鉛筆だ。
それでも、
書き出す前に、
一瞬だけ思う。
——誰の字で、
書こうとしている?
その問いが浮かぶだけで、
私は、
少しだけ、
自分に戻れる。
短編集です。




