第四話 急ぎすぎる人のための時間がかかる定規
※この物語は、
文房具屋を訪れる人たちの、
小さな選択の話です。
急いでいるつもりはなかった。
ただ、いつも少しだけ早足で歩いている。
エスカレーターは右側。
信号は青になりきる前に前傾姿勢。
メールは通知が来たら、反射で開く。
急がなければ、置いていかれる気がしていた。
何に置いていかれるのかは、
正直よく分からない。
その日も、
仕事を終えて、駅に向かって歩いていた。
時計を見る。
まだ余裕はある。
それでも足は緩まない。
——早く帰らないと。
理由はない。
家で何かが待っているわけでもない。
ただ、「早く」が習慣になっている。
気づけば、
また文房具屋の前に立っていた。
このところ、
この店に来る頻度が増えている気がする。
ベルが鳴る。
店内は、いつも通りだった。
静かで、落ち着いていて、
急ぐ理由が見当たらない空間。
店主が顔を上げる。
「何か、お探しですか」
「……時間が」
言いかけて、やめた。
時間が、どうしたいのか。
自分でも分からない。
私は、定規の棚に目を向けた。
金属製。
プラスチック。
木製。
長さも、目盛りも様々だ。
その中で、
一本だけ、横に寝かされている定規があった。
値札の下に、小さな文字。
《測ると、時間がかかります》
私は、思わず鼻で笑った。
「……意味あります?」
店主は、すぐ後ろにいた。
「あります」
即答だった。
「長く測れる、とかじゃなくて?」
「時間が、かかります」
それ以上、言い換えない。
私はその定規を手に取った。
見た目は普通だ。
重くも軽くもない。
特別な仕掛けも見えない。
「測ると、どうなるんですか」
「測るあいだ、
急げなくなります」
「……それ、欠点じゃないですか」
店主は、否定しなかった。
「そう思う人は、
買いません」
私は一瞬、
棚に戻そうとして、止めた。
急げなくなる。
それは、今の私にとって、
ちょっとした脅し文句だった。
「……ください」
レジに置いたとき、
定規は少しだけ、重く感じた。
家に帰っても、
癖はすぐには抜けない。
夕食を作りながら、
時計を見る。
シャワーを浴びながら、
残り時間を計算する。
——何の時間?
自分で自分に突っ込んで、
苦笑する。
机に向かい、
書類を広げた。
明日までに、
目を通しておけばいい資料。
今日やらなくてもいい。
でも、
「早く終わらせたい」が先に立つ。
私は、定規を取り出した。
紙の上に置く。
ページの端を、測る。
……何も起きない。
拍子抜けした、その瞬間。
時計の針が、
やけに大きな音を立てた気がした。
カチ、カチ。
こんな音、
さっきまでしていただろうか。
私は、定規を持ったまま、
線を引こうとした。
そのとき、
妙な感覚があった。
——動かない。
手は動いているのに、
気持ちが追いつかない。
線を引くまでに、
一呼吸。
二呼吸。
普段なら、
一瞬で済ませる動作だ。
定規を当て、
位置を確認し、
息を整える。
その間、
頭の中に、余計なことが浮かんだ。
この資料、
そんなに急ぐ必要あるか。
明日、
ちゃんと読んだ方がいいんじゃないか。
今、
眠くなってきていないか。
——考えている。
いつもなら、
考える前に手が動く。
線を引き終えたとき、
妙な疲労感があった。
たった一本の線なのに。
私は、椅子にもたれた。
急ぐときほど、
自分の状態を無視している。
それが、
この定規を使うと、
嫌でも見えてしまう。
その日は、
資料を途中で閉じた。
「今日はここまで」
口に出してみると、
少しだけ罪悪感が減った。
翌日も、
私は文房具屋に立ち寄った。
ベルが鳴る。
店主は、
変わらずそこにいる。
「測れましたか」
「……時間が、かかりました」
「それで」
「途中で、やめました」
店主は、少しだけ頷いた。
「急がない、という判断ですね」
「判断、ですか」
「何もしないのも、
一つの選択です」
私は、その言葉を噛みしめた。
急ぐのをやめる。
それは、
怠けることでも、
逃げることでもない。
選ぶことだ。
「次は、何がいいですか」
私が聞くと、
店主は鉛筆の棚を指した。
「書くと、
字が変わるものがあります」
私は、
また少しだけ笑った。
今日は、
字まで変えたくない。
私は何も買わずに、店を出た。
ポケットの中で、
スマホが震える。
反射で取り出しそうになって、
やめた。
歩く速度を、
ほんの少し落とす。
街の音が、
少しだけ、戻ってきた。
引き出しの中の定規は、
今もそこにある。
使うたびに、
私の時間は伸びる。
正確に言えば、
伸びていたことに、
やっと気づける。
——急がなくても、
世界は、ちゃんと進んでいる。
短編集です。




