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『文房具屋には、決めるための道具が置いてある』  作者: くろめがね


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第三話 決められない人のための最後の一行ノート

※この物語は、

 文房具屋を訪れる人たちの、

 小さな選択の話です。

決められない、という状態は、

何もしていないようでいて、

実はずっと動き続けている。


頭の中だけが。


どちらでもいい、と思っているわけではない。

むしろ逆だ。

どちらも捨てがたい。

どちらを選んでも、後悔しそうな気がする。


だから、決めない。


決めない、という選択を、

何度も選び続けている。


私が文房具屋に入ったのは、

その日も、帰り道だった。


会社を出て、駅に向かう途中、

あの通りを通らない理由はなかった。

特別な用事もない。

ただ、今日も一つ、決められなかった。


「今の仕事を続けるか、

 別の部署に異動願いを出すか」


締切は、もうすぐだ。

出さなければ、今のままになる。

出せば、少しだけ状況は動く。


どちらも、正解に見えない。


文房具屋のベルが鳴った。


店内は静かで、

棚も、光も、第一話や第二話のときと変わらない。

変わらないことが、少しだけ安心だった。


店主が顔を上げる。


「何か、お探しですか」


「……決めたいことがあって」


言ってから、

あ、今のは少し踏み込みすぎたな、と思った。


でも、店主は驚かない。


「そうですか」


それだけだった。


私はノートの棚の前に立った。

サイズも、厚みも、色も様々だ。


その中で、一冊だけ、

手前に置かれているノートがあった。


表紙は無地。

色も、特徴もない。

値札の下に、小さな文字。


《最後の一行だけ、残ります》


私は、思わず声に出した。


「……最後の一行?」


店主が横に来る。


「はい」


「最後に書いた一行だけ?」


「正確には、

 最後に“決めた”一行です」


少しだけ、言い換えが入った。

そこに、意味がある気がした。


「他は……?」


「消えます」


「必ず?」


「はい」


私はノートを開いた。

中は普通の罫線。

紙の質も、特別高そうではない。


「決めなかったことは、残りません」


店主はそう付け足した。


それは、

どこか、現実と同じだと思った。


家に持ち帰って、

机に向かう。


ノートを開くと、

白いページが、こちらを見返してくる。


私は、ペンを持ったまま、

しばらく何も書けなかった。


決めたいことは一つなのに、

書ける文章が、いくつも浮かぶ。


《異動願いを出す》


強すぎる。

勢いだけで書いている。


《今の部署に残る》


これも、逃げのような気がする。


《もう少し考える》


それは、決めない、という決定だ。

このノートは、

たぶん、それを許してくれない。


私は、一度、どうでもいいことを書いてみた。


《今日は早く寝る》


数分後、文字は薄くなり、

跡形もなく消えた。


——決めていない。


次に書く。


《異動願いを出したい》


「したい」は、希望であって、決断じゃない。


消えた。


《異動願いを出すべきだ》


「べきだ」は、

誰の声なのか分からない。


消えた。


ページは、

書いては消え、

書いては消え、

何度も白に戻る。


私は、少し苛立ち始めていた。


「なんで……」


独り言が、部屋に落ちる。


決められない理由は、分かっている。

異動して、うまくいかなかったらどうする。

今の部署に残って、後悔したらどうする。


どちらを選んでも、

未来の自分が、

今の自分を責める気がしている。


私は、深呼吸して、

正直に書くことにした。


《異動して、失敗するのが怖い》


消えない。


《今のまま残って、

 何も変わらないのも怖い》


これも、消えない。


二行とも残っている。

でも、どちらも「決断」ではない。


——怖い、という事実。


私は、その二行を見つめた。


怖いのは、

選択そのものじゃない。

選んだあとに、

一人で責任を引き受けることだ。


そう気づいた瞬間、

頭の中の騒音が、少し下がった。


私は、新しいページを開いた。


《異動願いを出す。

 合わなかったら、戻る相談をする》


少しずるい書き方だ。

でも、現実的だ。


数分待つ。


インクは、消えなかった。


私は、その一行を読み返す。


完璧ではない。

強い覚悟でもない。


でも、

「動く」ことだけは、はっきりしている。


私はスマホを手に取り、

異動願いのフォームを開いた。


送信ボタンの前で、

一度だけ、ノートを見る。


最後の一行は、まだ残っている。


私は送信した。


その夜、

不思議と、よく眠れた。


翌日、

文房具屋に立ち寄る。


ベルが鳴る。


店主は、いつもの場所にいた。


「残りましたか」


「……はい。一行だけ」


「それで十分です」


「でも、

 正解かどうかは、まだ分かりません」


店主は、首を振らなかった。


「正解は、

 残りませんから」


私は、その言葉に、少し救われた。


「次は、何がいいですか」


私が聞くと、

店主は定規の棚を指した。


「測るのに、時間がかかるものがあります」


私は、少しだけ苦笑した。


今日は、まだ測りたくない。


私は何も買わずに、店を出た。


家の机の上には、

あのノートがある。


他のページは、すべて白い。

最後の一行だけが、残っている。


迷った証拠でもあり、

決めた証拠でもある。


それを見るたび、

私は思う。


——決めるというのは、

未来を固定することじゃない。


「ここから動く」と、

自分に許可を出すことなのだ。


短編集です。

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