第一話 返信できない人のためのペン
※この物語は、
文房具屋を訪れる人たちの、
小さな選択の話です。
文房具屋に入る理由は、だいたい「必要」より「逃げ」だ。
私の場合、その日は明らかに逃げだった。
ポケットの中でスマホが小さく震えるたび、心臓が一緒に跳ねる。
画面を見なくても分かる。あの通知だ。
「この日どう?」「人数足りない」「返事だけでも」
断るべきだ。
断っていい。
いや、断らないと、また自分の予定が消える。
分かっているのに、指が動かない。
返事の文章が頭の中でぐるぐる回って、どれも「冷たい」とか「角が立つ」とか、勝手にダメ出しされる。
結局、スマホを裏返して机に置いた。
置いた瞬間に、胸の奥が少しだけ楽になる。
そして同時に、罪悪感が増える。
——また、先延ばし。
駅前の道を歩いていて、足が止まったのは、偶然だったと思う。
ガラス越しに見える棚。小さな看板。色の抜けた文字。
文房具屋。
チェーン店でも大型店でもない。
入り口のベルが、控えめにぶら下がっている。
必要なものはない。
ノートもペンも、家に余っている。
それでも、ベルを鳴らすほどには、何かが必要だった。
戸を開けると、チリン、と鳴った。
明るすぎない蛍光灯。
棚に並ぶ、ペン、鉛筆、消しゴム、付箋、封筒。
どれも普通のはずなのに、「誰かの心の中」に直接置けそうな顔をしている。
カウンターの奥に店主がいた。
年齢が分からない。若いとも年寄りとも言い切れない。
声も顔も、必要以上に印象を残さないのに、目だけは落ち着いている。
「何か、お探しですか」
売り込みではなく、確認。
それだけの調子。
「……いえ」
言ったあとで、違う、と心の中で訂正する。
探していないのではなく、探し方が分からないのだ。
棚の前を歩く。
ボールペンのコーナーで手が止まった。
一本だけ、他のペンと並び方が違う。
まっすぐ立っているのに、周囲の空気がそこだけ静かだ。
値札の横に、小さな札。
《書いたら、消えます》
私は笑いそうになって、喉の奥で止めた。
「……消える?」
独り言みたいな声が出た。
店主が、すぐ後ろに来ていた。いつの間に。
「はい」
「それ、ペンとして……」
「書けます」
「……消えるのに」
店主は頷いた。肯定でも否定でもなく、ただ事実として。
「消えます」
それだけだった。
私はペンを手に取った。
軽い。安っぽい軽さではなく、「持ち運べる安心」の軽さ。
「どのくらいで消えるんですか」
「早ければ、数分」
「遅ければ?」
「残ります」
「……え」
店主は目を逸らさない。
「残したい文字は、残ります」
「残したくない文字は?」
「消えます」
不思議と、その説明で十分だった。
それ以上聞いたら、ペンのせいにできなくなる気がした。
「……買います」
レジは静かだった。
袋に入れられたペンは、普通の買い物みたいに軽いのに、妙に「決断」の重さがあった。
店を出た瞬間、スマホが震えた。
見ないで済ませたかったが、指が勝手に動いた。
通知を開く。
「どう? 来れそう? 返事だけでも!」
既読だけがついて、画面の向こうの沈黙が伸びる。
この沈黙がいちばん苦手だ。
沈黙はいつも、相手の期待を増やしてしまう。
私は立ち止まり、ペンを袋から出した。
駅前のベンチ。座る。
スマホのメモアプリを開く。
画面に直接ペンは使えないのに、なぜかペンを握っているだけで書ける気がした。
——まず、下書き。
私は紙を探して、鞄の底からレシートを引っ張り出した。
細長い、白い紙。
十分だ。
ペン先を当てる。
するっとインクが出た。
黒く、素直な線。
《ごめん。今回は行けない》
書いた瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。
冷たい。突き放している。
もっと柔らかくしないと。
《ごめんね。今回は行けなさそう》
いや、これも逃げてる。
「なさそう」は無責任だ。
私は行けない。行かない。決めるべきだ。
《今回は行けない。予定がある》
予定は、ある。
何もしていない時間を守る予定が。
それも予定だと言い張りたい。
でも、そう書いたら角が立つ。
角が立つのが怖い。
私はレシートを見下ろした。
——最初に書いた文字が、薄くなっている。
《ごめん。今回は行けない》
本当に、消え始めている。
端から、湯気みたいに薄まっていく。
誰かに見られることもないのに、勝手に消えていく。
私は、少し笑った。
消えてくれるなら、失敗してもいい。
下書きで、相手を傷つけても、それは相手に届かない。
届かないうちに、整えればいい。
そう思った瞬間、肩の力が抜けた。
私はもう一度書く。
《誘ってくれてありがとう。今回は行けない》
さっきより少し柔らかい。
でも、まだ逃げていない。
「ありがとう」が入ると、断りが断りだけで終わらない。
次に続ける。
《また次は行きたい。都合合うとき教えて》
ここまで書いたとき、ペン先が止まった。
本当だろうか。
また次、行きたいのだろうか。
——言葉を、誤魔化していないか。
すると、なぜか不思議なことが起きた。
「また次は行きたい」の部分だけが、薄くなり始めた。
さっきの文字より、早い。
私は息を止める。
……残したい文字は残る。
残したくない文字は消える。
店主の言葉が、遅れて刺さる。
私は正直になった。
《また別の日に、短い時間なら行ける》
今の自分には、そのくらいが現実的だ。
全部投げ出して付き合うのは、たぶん続かない。
続かないなら、最初からそう言った方がいい。
その一文は、消えなかった。
レシートの上には、残る言葉と消える言葉が混ざっている。
まるで、心の中をそのまま紙に落としたみたいだった。
私はスマホを開いて、メッセージ欄に打つ。
《誘ってくれてありがとう。今回は行けない。
また別の日に、短い時間なら行ける。都合合うとき教えて》
送信ボタンを押す直前、手が止まった。
怖い。
返事が来るのが怖い。
相手が「じゃあいい」と言うのが怖い。
でも、レシートの上の文字が、静かに残っている。
残したい文字が残っているなら、送っていい。
私は、送信した。
スマホを伏せる。
心臓はまだうるさい。
でも、罪悪感の質が違った。
「先延ばしの罪」ではなく、「言ったあとの緊張」になっている。
それは、ちゃんと生きている緊張だった。
その夜、家に帰って机の引き出しを開け、ペンを置いた。
そして、ふと、文房具屋のことを思い出した。
次の日、また駅前を通った。
迷うことなく、あの店の前で足が止まる。
戸を開けると、ベルが鳴った。
店主は、同じ場所にいた。
「消えましたか」
私は頷いた。
消えたものも、消えなかったものもある。
「消えて、助かりました」
店主は「そうですか」と言った。
それだけで、褒められた気がした。
なぜか、少しだけ救われる。
「……あれ、どうして分かったんですか」
「何がですか」
「残したい文字が残るって」
店主は少しだけ首を傾けた。
「残したい文字は、残ります」
同じ答え。
でも、今度は不親切に感じなかった。
私は笑ってしまった。
「次は……何がいいですか」
店主は棚の方へ顎を向ける。
「付箋があります」
「付箋?」
「言うほどじゃないけれど、言いたいことに」
私は棚を見る。
色とりどりの付箋が、整列している。
その日、私は何も買わなかった。
買わなくてもよかった。
それでも、帰り道が少し軽かった。
引き出しの中のペンは、今もそこにある。
使うたびに、私の中の言葉が、
残るものと消えるものに分かれていく。
——それは、誰かに優しくするためでもあるし、
自分を雑に扱わないためでもあるのだと思う。
短編集です。




