序章
ヴァレンティナ王国の中でも最も安全とされる王城。王城の中でも火が放たれ、人の悲鳴やガラスが割れる音が絶え間なく聞こえてくる。ここまできたら、もう負けは決まったようなものだ。マリアーヌは覚悟を決める。
マリアーヌがすべき事はただ一つ。
自身の命を以って、これ以上の戦火を起こさないよう、エルダイン皇国に懇願することだ。王と王太子は既に戦死し、他の兄弟姉妹は他国へ逃げている。この国に残る王家の血筋はマリアーヌ、ただ一人だ。
王家の姫らしく、純白のドレスにダイヤのティアラを身にまとった。大丈夫、怖くない。マリアーヌは小刻みに震える手をぎゅっと強く握りしめる。
王座の間で皇国の軍人たちを待つマリアーヌの耳に、大勢の足音が聞こえてきた。マリアーヌは王家の一員としての役目を果たすべく、唇を引き結び前を向く。ヴァレンティナ王国の国民の顔を思い出す。国民のためなら、やってみせる。逃げ出しそうになる弱い心を必死に押さえつける。
ついに、王座の間の扉が開かれた。
扉の開く音とともに、軍人たちがマリアーヌに向かって歩いてきた。軍人たちの姿を認め、彼らの目にも美しく見えるように細心の注意を図りながら、マリアーヌはカーテンシーをする。
マリアーヌの前で、足音が止まった。皇国の軍人の上層部だろうか。マリアーヌが声を発しようと唇を開いた時、マリアーヌの耳に届いたのは、剣と剣が激しく撃ち合う音だった。
マリアーヌは思わず前を向く。
何故…ここに……
マリアーヌの騎士であるノエルと軍人が闘っている。
複数人の軍人がいたものの、ノエルとやりあっているのは1人の軍人だけだった。
軍人とノエルの力の差は明白で、ノエルは腹部を激しく刺される。
「姫様……お逃げくださ…………………」
ノエルは言葉にならない言葉を発し、音を立てて倒れた。ノエルの身体からは血が大量に流れ出し、マリアーヌのドレスの裾を赤黒く染めていく。
「ノエル、ノエル……!どうしてここにいるの…!!!ここはわたくししか居ないはずだったのに………!!!」
マリアーヌは横たわったノエルの身体に触れる。まだ暖かい。致命傷でなければ、まだ助かるはず。ノエルの身体を抱きしめ、軍人を睨んだ。
あれは……
ノエルを切りつけた軍人は、戦場にはあまりにも似つかわしくない人間離れした美しさを持つ男だった。
窓から入る光が男の漆黒の髪を照らした。
男の澄んだ蒼い瞳が、マリアーヌを見つめる。
マリアーヌは息を呑んだ。
男に見覚えがあった。
「ルイ……皇子………」
「マリアーヌ姫、久しぶりですね」
ルイはしゃがみ込み、マリアーヌに向かってにこやかに微笑んだ。その笑顔は2年前から変わってはいない。
「この男はノエルだったんですね。久しぶりだから気づかなかった」
ルイは楽しそうにマリアーヌに話しかける。ノエルの返り血なのか、ルイの頬には血がついている。
知人を斬りつけたのに、その表情には後悔が一切感じられない。
「昔からノエルは要領が悪かったですよね。マリアーヌ姫なんて置いて逃げ出せば良かったのに。ね?そう思いませんか?」
呆然とするマリアーヌに対し、ルイは一方的に話し続ける。
「あぁ、そうだ。ガイル!マリアーヌ姫を連れて帰ろう。褒美です、貴方の妻にしていいですよ」
「はっ………?どうして俺が……?」
「戦場にはよくあることでしょう?さぁ、いつまでも座ってないで立ち上がって!ほら!早く!」
ルイは徐ろに立ち上がり、マリアーヌの腕を強く握りした。腰が抜けたマリアーヌを力技で無理やり立ち上がらせようとする。
ノエルは微動だにしない。もしかしたら、もう……。
マリーナの目から涙が零れ落ち、頬を伝う。
「あれ?泣いちゃいました?被害者面は止めてくれません?あなたの母国が侵略されたのも、全ては、マリアーヌ姫、あなたのせいですよ」
「どうして!!わたくしは貴方に何もしてない!!」
「覚えていないなんて酷いですね……?2年前、私を騙したじゃないですか」
「………っ!それだけで………!」
「あははははははははははははははは!!!」
ルイがマリアーヌの腕から手を離し、急に大声で笑い出す。ルイの声が広間に響き渡った。
「あなたにとってはそれだけのことなんですね!私がどれだけ苦しんだことか!!!」
ルイはマリアーヌに対して苛立ちを顕にする。ルイは手にした剣をマリアーヌへ向けた。
国民の命の嘆願ができていないが、少しでもルイの気持ちが収まったらいい。マリアーヌは覚悟を決め、ぎゅっと目を瞑った。
頬に何か、暖かいものが触れた。
マリアーヌが恐る恐る目を開けると、ルイが歪んだ瞳でマリアーヌを見ている。
ルイは自分の肌についた返り血をマリアーヌの頬に擦りつけ、うっとりとした表情を浮かべる。
「あなたを、汚してやりたい」