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血染めのライラック

プロローグ




白い壁と、ステンドグラスから差し込む色とりどりの光。いつもは優しいオルガンの音も、今日はどこか悲しげに響いている。僕は、教会の長い木の椅子に座って、祭壇の奥にある白い棺を見つめていた。


あの中に、マリアのお母さんが、眠っている。


ほんの数日前まで、優しく笑いかけてくれていたマリアのお母さんが、もうこの世にいないなんて、どうしても信じられなかった。


マリアは最前列にうつむいて座っている。マリアのお父さんは、マリアが5歳の時に交通事故で死んでしまった。今から6年前のことだ。それから、マリアのお母さんはお父さんがいない中、愛情をもってマリアのことを育てていたはずだ。僕とマリアは家が近くて、幼稚園も同じで、その時から仲良しだ。友達の少ないマリアと、僕はいつも一緒にいた。小学校に上がってからも、僕はよくマリアの家に遊びに行っている。僕が遊びに行くと、マリアのお母さんはいつでも喜んで迎え入れてくれていた。時々、クッキーを焼いてくれていたっけ。


でも、半年前に心臓の病気が見つかって、マリアのお母さんはあっという間にいなくなってしまった。もう、マリアの両親は2人ともこの世にいないんだ。


マリアの隣には、マリアの兄であるヨウスケ兄ちゃんも座っている。ヨウスケ兄ちゃんの背中も、いつもよりずっと小さく見える。


僕はヨウスケ兄ちゃんとも、小さい頃からずっと一緒に遊んでいた。近所の公園で秘密基地を作ったり、自転車で少し遠くまで冒険に行ったり。マリアが一緒の時も多かったけど、時々、二人でキャッチボールをして遊んだりもした。兄ちゃんはいつも優しくて、僕のどんなわがままにも付き合ってくれた。僕が小学校に入ってからは、ヨウスケ兄ちゃんは中学に入って少し忙しくなったけど、それでも時々時間を見つけて遊んでくれた。


ヨウスケ兄ちゃんが大学に入ったのは今年の春だった。希望していた大学に合格した時の、兄ちゃんの嬉しそうな顔を今でも覚えている。これから一人暮らしを始めるんだって、少し寂しそうだけど、でも新しい生活にワクワクしている様子だった。


まさか、こんなことになるなんて。


僕は二人から目を離し、窓の外に見える、すっかりさみしくなった木々を見つめた。12月。年の暮れに、こんなことが起こるなんて、春に想像できただろうか。


マリアの家族は、XXX教という宗教を信仰している。小さい頃から、マリアやヨウスケ兄ちゃんから、その教えについて色々な話を聞いた。XXX教では、人が死んで棺に入る瞬間が、その人にとって一番美しい姿だと教えられているらしい。苦しみから解放され、安らかな眠りにつく、その姿こそが最も尊いのだと。


XXX教にはほかにも、色々な教えがあった。家族を大切にしなさい、困っている人には親切にしてあげなさい、毎日、神さまに祈りなさい、ほかにも、いろいろあるそうだ。それを守らないと、死んだ時に天国へ行くことができないのだと。天国では、生前の行いが清らかだった者だけが、美しい姿のまま、先に逝った家族全員と再会することができるのだそうだ。僕の家族はXXX教とはかかわりがないけど、マリアやヨウスケ兄ちゃんとよく遊ぶ僕は、それなりにXXX教にも詳しい。


マリアのお母さんは、XXX教の教えを深く信じていた。いつも穏やかで、誰に対しても優しく、教会の活動にも熱心に参加していた。だからきっと、今、天国で先に亡くなったマリアのお父さんと再会して、幸せに過ごしているに違いない。


でも、マリアとヨウスケ兄ちゃんのことを考えると、胸が締め付けられるような気持ちになる。お父さんが亡くなってから、お母さんは二人にとって、たった一人の大切な家族だった。そのお母さんまでいなくなって、これから二人はどうなってしまうんだろう。まだ幼いマリアのこと、大学に入ったばかりでこれからという時のヨウスケ兄ちゃんのことを思うと、いてもたってもいられなかった。


葬儀が終わって、参列者が一人、また一人と教会から出て行く中、僕はマリアのそばにそっと近づいた。マリアは、祭壇の方をじっと見つめて、小さな肩を震わせていた。


「マリア…」


僕が声をかけると、マリアはゆっくりと顔を上げた。その瞳は赤く腫れていて、今にもまた涙が溢れそうだった。


「…マサキ」


マリアの震える声が、僕の名前を呼んだ。僕は何も言えずに、ただマリアのそばに座り込んだ。


しばらくの沈黙の後、マリアはぽつりぽつりと話し始めた。


「お母さん、きっと幸せだったんだ」


僕は、マリアの言葉の意味がすぐに理解できなかった。


「だって…だって、一番キレイな姿で、私たちに見送ってもらえたんだもん」


マリアは、そう言うと、少しだけ微笑んだ。その笑顔は、無理をしているように見えて、僕の心を締め付けた。


「お母さん、いつも言ってた。『死ぬ時は、一番美しい姿でいたい』って。XXX教の教え通りに、苦しまずに、安らかに眠るように逝けたんだから…きっと、天国で、お父さんと会えているよね」


マリアの言葉は、幼いながらも、XXX教の教えを深く信じていることを物語っていた。死んだお母さんが美しい姿で天国へ行ったのだと信じることで、マリアは悲しみを乗り越えようとしているのかもしれない。


「棺の中のお母さん、とても綺麗だったね」


僕はマリアの目を見つめて言った。マリアはまた少し微笑んで、頷いた。


「私も…私も、いつか死ぬ時は、お母さんみたいに、一番美しい姿でいたい。」


マリアは、そう言って、祭壇の奥の白い棺をじっと見つめた。その小さな瞳には、強い決意のような光が宿っているように見えた。


「それで、天国でお母さんやお父さんに会うんだ。」


小さくも、はっきりした声でそう言った。純粋な気持ちが、僕の胸に深く突き刺さった。


マリアのことを、僕は、これからもずっと守り続けたいと思った。あのお母さんの分まで、ヨウスケ兄ちゃんと一緒に、マリアを支えていきたい。まだ小学五年生の僕には、具体的に何ができるかわからないけれど、それでも、マリアのそばにいて、マリアの笑顔を、ずっと守りたい。


教会の外に出ると、優しい春の光が僕たちを包み込んだ。マリアの瞳には、まだ深い悲しみの影が残っていた。僕は、マリアの小さな手をそっと握った。マリアは、少し驚いたように僕を見上げたけれど、すぐに、小さく微笑んで、僕の手を握り返してくれた。その温もりが、僕の心に、かすかな希望の光を灯してくれた気がした。






第一章 発見






太陽がジリジリとアスファルトを焼く、真夏の暑い日だった。セミの声がけたたましく響く中、僕はマリアの家へと続くいつもの道を、少し早足で歩いていた。


マリアとは、幼稚園からの幼なじみだ。家も近くて、小さい頃から毎日一緒に遊んでいた。秘密基地を作ったり、近所の公園で日が暮れるまで鬼ごっこをしたり。マリアは明るくて、笑うと目が細くなる、可愛い女の子だった。


でも、あの日から、マリアは変わってしまった。


マリアのお母さんが、心臓の病気で亡くなったんだ。教会での葬式の日、マリアは悲しみながらも、しっかり生きていくんだという覚悟を見せていた。でも、それからしばらくして、マリアは学校にも来なくなり、ずっと自分の部屋に閉じこもってしまった。


マリアには、ヨウスケというお兄ちゃんがいる。ヨウスケさんは、お母さんが亡くなってすぐに大学を辞めて、働き始めた。マリアのために、朝早くから夜遅くまで、ずっと働いている。だから、マリアとゆっくり話す時間も、なかなか取れないみたいだった。


僕は、学校から帰ると毎日マリアの家に行って、一緒に遊んだ。”あの日”から、マリアは全然話をしてくれなくなってしまった。ただ、窓の外をぼんやりと眺めているだけ。僕が話しかけても、小さく首を振るだけだった。それでも、僕は毎日、マリアの部屋に通った。絵本を読んだり、折り紙をしたり、学校であった面白いことを話したり。


少しずつ、本当に少しずつだけど、マリアは再び僕に話しかけてくれるようになった。最初は小さな声だったけれど、だんだんといつもの明るい声に戻っていった。一緒に笑うことも増えた。僕が何か面白いことを言うと、クスクスと笑って、それが僕とっては何よりも嬉しかった。マリアの笑顔を見るたびに、僕の方も、言いようのない幸せな気持ちになったんだ。


今日も、いつものように、学校が終わってからその足で、マリアの家に向かっていた。夏の強い日差しが照りつける中、道の端に咲いたヒマワリが、元気いっぱいに黄色い花を咲かせている。僕は、今日マリアと何をしようかな、と考えながら歩いていた。新しい漫画を一緒に読もうか。それとも、テレビゲームで遊ぼうか。


そんなことを考えていると、角の向こうから、見慣れた顔が見えた。近所の交番にいる立花さんだ。立花さんは、いつもニコニコしていて、近所の子どもたちにも人気がある。


「よう、悪ガキ。また悪さするのか?」


立花さんは、いつものように、にやにやしながら僕に話しかけてきた。


「違うよ。マリアの家に行くんだ。」


僕がそう答えると、立花さんは少し顔を和らげて言った。


「ああ、そうか。お前も立派だな。マリアちゃんのこと、よろしく頼むぞ。」


「うん。」


僕は、力強く頷いた。立花さんの言葉が、なんだか心強かった。マリアはきっと大丈夫。今日もまた、いつもの笑顔を見せてくれるはずだ。


マリアの家に着いた。白い二階建ての、少し古くなった家だ。庭の花壇には、マリアのお母さんが大切に育てていたライラックが咲いていたはずだけど、今は手入れする人がいないから、雑草が生えている。僕は、玄関のチャイムを鳴らした。


何度かチャイムを押したけれど、誰も出てこない。いつもなら、すぐにマリアかヨウスケさんが出てきてくれるのに。ヨウスケさんは仕事でまだ帰ってきていないだろうけど、マリアはいるはずだ。僕は、数回チャイムを押した。それでも、誰かが出てくる気配はない。


変だな、と思った。マリアはいつも家にいて、チャイムを押すとすぐに玄関まで迎えに来てくれる。まさか、まだ寝ているのかな?


僕は、そっと玄関のドアを開けてみた。


「マリア、いる?」


声をかけたけれど、やっぱり返事はない。家の中は、静まり返っていて、少し不気味な感じがした。


マリアの部屋は二階にある。階段をゆっくりと上った。心臓が少しドキドキしている。なんだろう、この嫌な予感は。


マリアの部屋のドアの前まで来た。ドアは少しだけ開いていた。


「マリア?」


声をかけながら、ぼくはそっとドアを開けた。


部屋の中に入った瞬間、僕は息を呑んだ。


マリアが、天井からぶら下がっていた。


首にはロープが巻かれていて、体が力なく揺れている。顔は、首を吊ったことで、信じられないほど醜く歪んでいた。目は大きく見開かれ、口は半開きになっている。


「うそだろ…」


僕の足は、まるで地面に縫い付けられたみたいに、動かなかった。全身の血の気が引いていくのが分かった。頭の中が真っ白になって、何も考えられない。目の前の信じられない光景が、現実のものだと理解するのに、時間がかかった。


どうして?どうしてこんなことに?まさか…そんなわけがない…。


僕は、ガクガクと震える足で、なんとか部屋から這い出した。階段を転げ落ちそうになりながら、一階に降り、必死で家の電話を探した。手が震えて、なかなか電話番号を押せない。


やっとの思いで警察に電話をかけ、状況を説明した。声がうまく出なくて、何度も聞き返された。


電話を切った後も、僕はしばらくその場に座り込んだまま動けなかった。頭の中はぐちゃぐちゃで、何を考えればいいのか分からなかった。ただ、マリアの変わり果てた姿が、何度も何度も、僕の目の前に浮かんできた。


これから、どうすればいいんだろう。


マリアはもういない。一緒に笑っていた、優しいマリアは、もうどこにもいない。


ヨウスケさんは、今頃、まだ仕事をしているだろうか。マリアがこんなことになったなんて、知ったらどうなってしまうだろう。


僕は、ただただ、これから先のことを考えると、不安で押しつぶされそうだった。マリアのいない世界で、僕はこれから、どうやって生きていけばいいんだろう。


静まり返った家の中には、外の蝉の声が響いている。太陽はまだ高く空に昇っているのに、僕の心の中は、鉛のように重く、 暗闇に包まれていた。










第二章 誓い






白い壁、高い天井、ステンドグラスから差し込む光が、祭壇の十字架をぼんやりと照らしている。ここは、マリアのお母さんの葬儀と同じ教会だ。あの時は、マリアは小さな体で、でも気丈に、参列者一人一人に頭を下げていた。お母さんの顔は穏やかで、まるで眠っているようだった。棺が開けられて、みんなで花を手向けたのを覚えている。


でも、今日は違う。マリアの棺は固く閉じられている。祭壇に飾られた、少しはにかんだ笑顔の遺影だけが、そこにマリアがいた証だ。棺は開いていないのではなく、開けられないんだ。


あの変わり果てた姿を見つけてから数日たったけど、僕はまだ現実を受け入れられていなかった。あんなに明るくて、いつも僕のくだらない話に笑ってくれたマリアが…前日だって、一緒に過ごしていたのに。


喪主である、マリアの兄のヨウスケさんの顔は、教会の白い壁よりも青白い。目はうつろで、時折、祭壇の写真を見つめては、深くため息をついている。ヨウスケさんは身長が高く、がっしりした体格なのに、今日は背中が丸まって小さく見える。


教会の中には、黒い服を着たたくさんの人がいる。神父様の低い声が響き、聖歌隊の歌声が悲しく胸に迫る。僕は教会の真ん中の席に座って、ただじっと、祭壇を見つめていた。マリアはもういないんだ。本当に?信じられない。いったいどうして…?


葬儀が終わった後、受付の近くに見慣れた顔があった。近所の交番の立花さんだ。近所の交番のお巡りさんで、僕たちのことを見守ってくれている。そういえば、あの日、マリアの家に向かう途中で、立花さんに会ったっけ。


立花さんが、僕のところにそっと近づいてきた。


「マサキ、元気ないな」


いつも明るい立花さんも、今日ばかりはさすがに落ち込んでいる様子だった。


「…うん」


「マリアのこと、残念だったな。」


立花さんはうつむきながら言った。


「お前はいつも、引きこもっていたマリアの部屋に行って、話をしてあげていたんだろう? 」


立花さんは顔を上げ、その目が僕を捕えた。「ありがとうな。」


優しい言葉が、胸に突き刺さる。部屋に引きこもっていたマリアと遊んでいたのは、確かに僕だけだった。ヨウスケさんにも、いつもありがとう、と感謝されていた。


でも、こうなってしまっては、なんの意味もないじゃないか。


僕が返事もせずに下を向いていると、立花さんが僕の肩を叩いた。


「マサキ、お前も元気を出せよ。何か困ったことがあったら、いつでも俺のところに来いよ。いいな」


立花さんの手が、今度は僕の頭をポンと叩いた。その温かさに、少しだけ涙腺が緩んだ。僕は黙って頷いた。


でも、泣いている場合じゃない。


マリアは、なぜ死んでしまったんだろう?


立花さんが立ち去り、ほかの参列者も帰っていく中、僕はヨウスケさんのところに歩み寄った。彼は、憔悴しきった顔で、祭壇の片付けを手伝っていた。


「ヨウスケさん…」


僕の声に気づき、ヨウスケさんは顔を上げた。目は赤く腫れていた。


「マサキ…来てくれてありがとう」


掠れた声だった。


「あの…マリアのこと、本当に…」


言葉が見つからない。ヨウスケさんの悲しみが、こちら側に直接、 伝わってくるようだった。


「うん…。まさか、こんなことになるなんて…。いつも忙しい俺の代わりに、マリアと遊んでくれて、本当にありがとうな。マリアも、きっと喜んでいたと思う。こんなことになってしまって…」


ヨウスケさんは、言葉を詰まらせ、また深くため息をついた。


僕は、そんなことはない、と首を振った。祭壇の片づけをしていた教会の関係者たちは、僕たちの様子を見て、気を遣ってそっと教会から出ていった。教会の中には、僕とヨウスケさんの二人だけになった。


僕は、静かになった教会の中で、ヨウスケさんの顔を伺いながら聞いた。


「あの…XXX教では、亡くなって棺に入る瞬間が、その人の一番美しい瞬間だって教えられているんですよね?」


僕がそう聞くと、ヨウスケさんは悲しそうに頷いた。そして、言葉を詰まらせながら答えた。


「ああ。魂が…肉体から解放されて、神様の元へ…召される。 聖なる…瞬間だと…。マリアも、熱心な信者だったんだ。毎日、祈りを欠かさなかった。」


「それなのに…こんな…」


僕は、閉じられた棺を見つめたまま、 小さな声で呟いた。ヨウスケさんは、深くため息をついた。


「マリアは、あんなにXXX教を信じていたのに、どうしてこんな醜い姿で…」


ヨウスケさんの声は震えていた。拳を強く握りしめている。


「ああ…。本当に…。マリアは経典と…両親の教えを守っていたのに…。こんな形で逝ってしまうなんて、本当に不憫でならない…」


ヨウスケさんの言葉に、僕は強い違和感を覚えた。マリアが熱心な信者だったからこそ、あんな死に方をするなんて、どうしても信じられない。まるで、神様の教えを裏切るような行為じゃないか。


「ヨウスケさん…あの…」


僕は、うなだれるヨウスケさんを見つめて言った。


「もしかしたら、マリアは…自殺じゃないんじゃないでしょうか?」


僕の小さな声が、二人だけの静かな教会の中に響いた。ヨウスケさんは、驚いたように目を丸くして、僕を見つめた。


「え…? 何を言っているんだ、マサキ…」


「だって…マリアが自分でそんなことするなんて、考えられないんです。引きこもりだったけど、生きることを諦めるような子じゃなかった。もしかしたら…誰かに…」


言葉にするのが怖かったけれど、僕は勇気を出して言った。


「殺されたんじゃないかって…」


ヨウスケさんは、信じられないといった表情で、首を横に振った。「そんな馬鹿な…。警察も自殺として調べているんだ。他に誰が関わっているなんて…」


でも、僕の言葉は、ヨウスケさんの心に小さな波紋を広げたようだった。不安そうに眉をひそめ、考え込むように俯いた。


「確かに…あのマリアが…熱心な信仰者だったマリアが自殺なんて、信じられないが…でも、まさか…」


ヨウスケさんの声は、疑念の色を帯びていった。


「警察は、本当に丁寧に調べているんでしょうか? 現場の状況とか、他に怪しい人物はいなかったとか…」


僕が畳み掛けると、ヨウスケさんは辛うじて頷いた。「ああ…確かに、形ばかりの捜査で終わらせるつもりなのかもしれない…。俺には、マリアは自殺だったと、断定しているかのように言ってきた…。」


「ヨウスケさん、お願いします。一緒に、マリアが本当に自殺だったのか、それとも…誰かに殺されてしまったのか、調べませんか?」


僕は、ヨウスケさんの目をまっすぐ見つめて言った。


ヨウスケさんは、しばらくの間、 うつむいて口を閉ざしていた。そして、ゆっくりと顔を上げ、決意を込めた眼差しで僕を見返した。


「…わかった。マサキ、お前と一緒に、マリアのために、真実を探すよ」


ヨウスケさんの声が、静かな教会の中で反響する。閉じられた棺は、今も沈黙を守っている。でも、僕たちの心には静かに灯がともった。マリアの死を無駄にはしない。きっと、真実を突き止めてみせる。








第三章 依頼






マリアの死の真実を突き止めるうえで、僕とヨウスケさんの頭にすぐに浮かんだのは、交番の立花さんだった。立花さんは、僕たちが小さい頃からなじみの警察官で、よく僕たちの悪ふざけを笑って見過ごしてくれた。交番勤務とはいえ、警察官だ。何か事件のことを知っているかもしれない。


葬儀の次の日、僕とヨウスケさんは、少し緊張しながら交番へと向かった。見慣れた交番の入り口をくぐると、奥に立花さんの姿が見えた。


「よう、悪ガキども」


立花さんは、僕たちを見るなり、いつもの調子でそう言った。少し安心した。立花さんの笑顔は、どこか懐かしい。


「よせよ、立花さん。悪ガキなんて年齢じゃねえだろ。もうとっくに社会人だぜ?」


ヨウスケさんが、少し呆れたように笑いながら言った。


「俺にとっちゃ、いつまでも悪ガキのままだ」


立花さんはそう言って、豪快に笑った。でも、すぐに表情を曇らせ、寂しそうに言った。


「マリアのことは残念だったな。本当に、いい子だった。」


立花さんの言葉に、胸が締め付けられる。マリアが部屋に閉じこもる前は、僕とマリアとヨウスケさんは三人でよく遊んでいた。遅くまで遊んで、立花さんに怒られたこともある。立花さんにとっても、マリアは小さいころから知っている、顔なじみの子だ。口が悪くても、立花さんは子供が大好きな警察官だ。マリアが亡くなって、立花さんも相当なショックを受けているに違いない。


僕は、意を決して口を開いた。


「立花さん、マリアの事件の捜査はどうなってるんですか?」


立花さんは、少し訝しげな表情で僕を見た。


「なぜ、そんなことを聞く?」


「僕たち、マリアが殺されたと疑っているんです」


僕の言葉に、立花さんの顔から笑顔が消えた。目を見開いて、信じられないものを見るような表情をしている。


「殺された……?あれは、自殺だと聞いているが。」


立花さんの声は、さっきまでの明るさとはまるで別人で、静かで、重々しかった。


ヨウスケさんが、少し声を荒げて言った。


「本当にそうなのか?あれほど、XXX教を熱心に信仰していたマリアが、自ら醜い姿で死ぬことを選ぶとは思えない。教えを破るようなことを、あいつがするはずがないんだ!」


立花さんは驚いて、一瞬ヨウスケさんを見つめた。そして目をそらし、困ったように眉をひそめ、首を横に振った。


「気持ちはわかるが、俺にはどうすることもできない。捜査は本部の人間の仕事だ」


「それでも、なんとか、事件を捜査している関係者に話を聞いてくれないか?あんた、昔は捜査本部にいたこともあるんだろ?」


ヨウスケさんは、必死な表情で立花さんに頼み込んだ。その目は、藁にもすがる思いだった。


立花さんは、僕たちを交互に見た。しばらく考え込んだ後、ため息をついた。


「お前たちとは、長い付き合いだ。無下にはできない。わかった。ちょっとだけ、昔のつてで探りを入れてみる。だが、あまり期待はするなよ。」


立花さんの言葉に、僕とヨウスケさんは、同時に頭を下げた。


「ありがとうございます!」


「ありがとうございます、立花さん」


立花さんは、少し照れたように笑って、手をひらひらと振った。


交番を出て、僕とヨウスケさんは、言葉少なに歩き出した。空は暗く、星がまばらに光っている。立花さんの言葉は、ほんのわずかな希望の光だったけれど、それでも、僕たちにとっては大きな一歩だった。


「ありがとう、マサキ」


隣を歩くヨウスケさんが、ぽつりと言った。その声は、少しだけ安堵の色を含んでいるように聞こえた。


「僕も、真実を知りたいんだ」


僕はそう答えた。マリアの死を、自殺で終わらせるわけにはいかない。必ず、犯人を見つけるんだ。








第四章 犯人像








喫茶店の窓から差し込む午後の光は、少しばかり気だるい空気を運んできた。僕は目の前のコーヒーカップをじっと見つめている。湯気はもうほとんど立ち上らず、表面には薄い膜が張っていた。向かいに座るヨウスケさんの表情は、窓の外の曇り空みたいに重い。マリアの葬儀から数日が経つけれど、あの日の光景は、まるで昨日のことのように僕の目に焼き付いている。


「マサキ…学校はいいのか?」


ヨウスケさんが尋ねた。


「うん。しばらく休もうと思うんだ。学校にも連絡してある。事情を話したら、わかってくれたよ。」


「そうか…そりゃ、そうだよな。」


ヨウスケさんは心なしか、上の空だった。いつものヨウスケさんなら、学校に行っていない僕のことを叱ってくれそうだけど、そんな気力は無いみたいだ。そんなヨウスケさん自身も、平日の昼間にカフェにいるってことは、仕事を休んでいるのだろう。


「まだ、立花さんから連絡はないんだな。」


ヨウスケさんの低い声が、静かな店内に響いた。僕は小さく頷く。交番警察の立花さんに、マリアの事件の捜査状況をこっそり聞いてもらうよう頼んでから、もう三日が経っていた。


「うん……でも、焦っても仕方ないよ。立花さんも、きっと頑張ってくれてる」


そうは言ったものの、僕の心の中は焦燥感でいっぱいだった。マリアが自殺だなんて、どうしても信じられない。きっと犯人は別にいるはずだ。何としても見つけなければいけない。


「ああ……でも、一体誰が……全く、見当がつかない…」


ヨウスケさんは頭を抱え、苦しそうに呟いた。僕も同じ気持ちだった。マリアはほとんど家から出ない子だったから、誰かに恨まれるようなことなんて、考えられない。


「何か、思い当たる人はいないかな?」


僕はそう問いかけた。「マリアと関わりがあるなら、どんな人でもいい。」


ヨウスケさんは少し考えて、ゆっくりと口を開いた。


「関わりがあるとしたら……やっぱり、山本先生かな」


山本先生。精神科医で、マリアのお母さんが亡くなってからずっと、マリアのカウンセリングをしてくれているお医者さんだ。優しくて、穏やかな先生だった。マリアも山本先生には、少しずつだけど心を開いていたように見えた。僕も一度だけ会ったことがあるけど、とても人を殺すような人には見えなかった。


「山本先生が……?まさか」


僕は思わず声を上げた。到底考えられない。でも、ヨウスケさんの言う通り、顔見知りだから、家に入るのは難しくなかったかもしれない。


「俺も信じたくないよ。でも……可能性はゼロじゃない」


ヨウスケさんの声には、かすかな震えがあった。


「他……マサキは何か心当たりのある人はいないか?」


ヨウスケさんに聞かれて、今度は僕の頭の中に、ある人物が浮かんできた。


「隣の家の杉原さん……かな」


杉原さん。マリアとヨウスケさんの隣の家に住む、いつも笑顔の、少しふくよかな中年女性だ。マリアのことを小さい頃から知っていて、数少ない、マリアが心を許していた人の一人だった。頻繁にマリアの家に料理を届けていて、マリア自身が受け取ることもあった。僕も何度か一緒にその食事を食べたことがあるけど、いつも絶品だった。


「杉原さん……あの優しいおばさんが?」


ヨウスケさんも驚いたように目を丸くした。僕だって信じられない。でも、顔見知りで、マリアが警戒しない相手なら……。


「それに……根立先生も、可能性がないとは言えない」


根立先生。マリアのお母さんが亡くなったときの、マリアの担任の先生だ。年度が変わって、マリアの担任ではなくなってからも、マリアの様子を気にしているみたいだった。マリアが学校に来れなくなったことに責任を感じているらしい。


僕が先生の名前を出すと、ヨウスケさんは露骨に顔をしかめた。


「根立先生?まさか……」


根立先生は、ヨウスケさんが小学生の頃の担任でもあった。ヨウスケさんも、根立先生も、同じ町内会の役員でもあり、今でもよく顔を合わせるらしい。たまに根立先生がヨウスケさんの家に遊びに来ることもあるそうだ。その時、マリアにも声をかけることもあったけれど、マリアは部屋に閉じこもったままで、返事をすることもなかった。でも、事件の日は、もしかしたら気が変わって、先生を部屋に入れたかもしれない。


「根立先生が犯人だなんて、絶対にありえない!」


ヨウスケさんは強い口調で言った。先生のことはよく知っているから、信じられないのだろう。僕も、根立先生がそんなことをするとは、正直思えなかった。真面目で、少し不器用なところもあるけれど、優しい先生だという印象しかなかった。


「うん……僕も、そうであってほしいと思うよ」


僕たちは、沈黙の中でそれぞれの考えを巡らせた。山本先生、杉原さん、根立先生。この三人が、マリアと何らかの関わりがあった人物として、僕たちの頭に浮かんだ。


「もしかしたら、通り魔の犯行かもしれない……」


ヨウスケさんが、絞り出すような声で言った。


「でも、マリアは絶対に、見ず知らずの人を部屋に入れないよ。部屋の鍵だって、いつも閉めていたはずだ」


僕の言葉に、ヨウスケさんは深く頷いた。やっぱり、犯人は顔見知りの誰かだと考えるのが自然だった。


でも……本当に、この三人の中に犯人がいるんだろうか?


その時、僕の心の中に、もう一人の「疑わしい人物」が浮かんできた。


それは……ヨウスケさんだ。


目の前に座る、マリアの優しいお兄さん。葬儀の日、僕と一緒に犯人を探すと誓ってくれた、ヨウスケさん。


ありえない、と何度も頭の中で否定した。そんなはずはない。ヨウスケさんが、自分の妹を……?


でも、可能性はゼロじゃない。一番近くにいた人間だからこそ、マリアの生活習慣は誰よりも知っていたはずだ。当然、家の中にもいつでも入れるし、マリアの部屋の中に入ることも簡単だろう。そして、何よりも……あの日のヨウスケさんの悲しみ方が、僕には少しだけ、作り物のように見えた瞬間があった。ほんの一瞬だったけれど、まるで、どこか安心しているような、そんな違和感を覚えたんだ。


僕は、その考えを心の奥底にそっとしまい込んだ。今、それを口に出すことはできない。ヨウスケさんを疑っているなんて、絶対に知られたくない。


僕は顔を上げ、ヨウスケさんの目をまっすぐ見た。


「絶対に、犯人を見つけよう」


僕の言葉に、ヨウスケさんは少し驚いたように目を見開いた。そして、力強く頷いた。


「ああ、絶対にだ」


その力強い返事を聞きながら、僕の心は複雑な思いでいっぱいだった。僕たちは今、同じ目標に向かって歩き出そうとしている。でも、もし、その先にいる犯人が、ヨウスケさん自身だったら……。


考えたくない。でも、その可能性を完全に否定することもできない。


僕たちの犯人探しは、一体どこへ向かうのだろう。不安と期待が、僕の胸の中で渦巻いていた。








第五章 回答








喫茶店の扉が開く音と同時に、淀んだ空気が少しだけ入れ替わった気がした。一週間ぶりに会う立花さんだ。いつものように優しそうな笑顔はなく、疲労の色が濃く滲んでいる。


「よう、二人とも」


立花さんはそう言って、向かいの席のヨウスケさんの隣にどっかりと腰を下ろした。目の下の隈が、この数日の彼の苦労を物語っている。


僕とヨウスケさんは、交番で頼んだ調査の結果を立花さんから聞くために、立花さんが休みの日に、喫茶店に呼び出した。立花さんは仕事の傍ら、一週間で事件のことを調べてくれたんだ。


「ごめんね、休みの日に呼び出しちゃって」


ヨウスケさんが申し訳なさそうに言うと、立花さんは小さく首を振った。


「いや、約束だからな。」


立花さんは店員さんを呼び、アイスコーヒーを頼んだ。


「早速だが、わかったことを話す。」


立花さんは、運ばれてきたお冷を一気に飲んでから、僕たちを睨むように交互に見て、言った。


「ただし、何度も言うが、この話は絶対に誰にも漏らすなよ。俺のクビが飛ぶ」


僕とヨウスケさんは、神妙な面持ちで頷いた。


「ああ、分かってる」


ヨウスケさんの声は低い。僕も、この一週間、ずっとこの日の報告を待ちわびていた。マリアの死の真相に、少しでも近づけるかもしれない。


立花さんは、少し間を置いてから、重い口を開いた。


「本部の知り合いを何人か当たってみた。昔、同じ部署にいたやつとか、顔見知り程度も含めてな。で、なんとか、妹さんの件の捜査状況を聞き出すことができた」


僕とヨウスケさんは、息を潜めて立花さんの言葉を待った。立花さんは僕の目を見て言った。


「結論から言うと、警察の見解は変わっていない。亡くなったのは、君が発見した日の、おそらく一日前だそうだ。状況から見て、他殺の可能性は極めて低い。自殺でほぼ断定、というのが捜査本部の判断だ」


その言葉が、重い鉛のように僕の胸に落ちてきた。やっぱり、そうなのか。警察は、僕たちの訴えを真剣に受け止めてくれていないのか。なんとか、ならないものだろうか。


ヨウスケさんは、顔を歪めて俯いた。


「一日前……俺は、家に帰ってたんだ……」


掠れた声が、彼の喉から絞り出された。


「その日、会社で遅くまで残業で……帰ってきて、疲れてたから、シャワー浴びてすぐに寝てしまったんだ。マリアと、顔を合わせることもなく……次の日の朝も、すぐに家を出て……」


ヨウスケさんの言葉は途切れ途切れで、後悔の念が痛いほど伝わってくる。もし、あの時、少しでもマリアの様子を見ていれば。何か、変わっていたかもしれない。


僕は、そんなヨウスケさんを複雑な気持ちで見つめていた。人が、すぐそこに死んでいるのに、本当に気づかないことなんてあるんだろうか?疲れていた、というのが理由になるのだろうか?


心の奥底で、黒い影がゆっくりと形を変えていく。ヨウスケさんが、犯人なのではないか…?そんな考えが、再び頭をよぎって、僕はぞっとした。そんなはずはない、と打ち消そうとするけれど、一度生まれた疑いの種は、簡単には消えてくれない。


僕は疑いを振り払うかのように、立花さんに話しかけた。「ほかに、何かわかったことはなかったの?」


立花さんはヨウスケさんの様子を見て、何かに言い淀むように、少しの間、黙り込んだ。そして、意を決したように、小さく呟いた。


「わかったことは他に…ある。」


ヨウスケさんは顔を上げた。その目には期待の色が見えた。新しい情報で、後悔を上塗りしようとしているんだ。


だけどその期待は、立花さんの言葉で裏切られることになった。


「……妹さんは、乱暴されていたそうだ」


ヨウスケさんは驚愕の表情を見せた。僕は、その言葉の意味が理解できなかった。乱暴?どういうことだろう?


「殴られてたってことですか?」


僕がそう問い返すと、立花さんは首を横に振った。


「いや……そういうことじゃなくて、そうだな…」


立花さんが言葉を選んでいる間に、隣で聞いていたヨウスケさんが、信じられないといった声色で聞いた。


「あのマリアが?そんな……まだ、子供なのに」


立花さんは何かを言いかけて、それを飲み込んだ。そして悲しい目をしながら言った。


「世の中には、色んなやつがいるんだ。俺たちの想像もできないような、下劣で、胸糞悪い悪魔のような考えのやつもいる」


僕は、立花さんの言葉を聞きながら、マリアの体を思い浮かべていた。乱暴。一体、誰が、あんな優しい子にそんな酷いことをしたんだろう。


「そんなことをしたやつが、犯人なんじゃないんですか?なんで、自殺で捜査が進んでるんですか?」


僕の問いかけに、立花さんは少し語気を強めて答えた。


「警察だって、バカじゃない。乱暴をしたやつのことも、もちろん探している。ただ、今の状況から見て、彼女の直接の死因は自殺だと判断している、ということだ」


僕には納得がいかなかった。乱暴されたあげく、自殺するなんて、そんなことありえるのだろうか?きっと、乱暴したやつが、マリアを追い詰めたんだ。


「そんなの、おかしいです!警察が自殺で終わらせるなんて、絶対に納得できません!僕たちで、犯人を探します!もう、目星はついているんです!」


僕が声を上げると、ヨウスケさんも力強く頷いた。


「ああ、そうだ。俺たちで、必ず真実を突き止める」


立花さんは、困ったような顔で僕たちを見た。


「お前たち、素人がそんな危ない真似をするんじゃない。俺は、これ以上協力できない。本部に目をつけられたら、本当にクビになるんだ」


それでも、僕の決意は揺るがなかった。絶対に犯人を見つけ出す。


「それでも、僕は諦めません。必ず、マリアを殺した奴を見つけます」


ヨウスケさんも、僕の言葉に重ねるように言った。


「ああ、俺もだ」


僕たちの固い決意を見た立花さんは、ため息をつきながら、少しだけ口元を緩めた。


「……まあ、俺も非番の日なら、暇つぶし程度に、少しだけなら付き合ってやってもいい。ただし、警察のコネはもう使えないぞ。完全に個人的な付き合いだ」


立花さんの言葉に、僕とヨウスケさんは顔を見合わせた。微かな希望の光が見えた気がした。たとえ、警察が動いてくれなくても、僕たちには、まだできることがある。マリアのために、僕たちは絶対に諦めない。








第六章 考察






「で、犯人の目星はついているのか?」


立花さんの低い声が響く。ヨウスケさんは、少し焦ったように答えた。


「マサキと話して、怪しい人間は3人いたんだ。」


ヨウスケさんの言葉に、立花さんは腕組みをして、じっと僕を見つめた。僕は、3人の名前を改めて口にした。


「一人は、山本先生です。マリアがお母さんを亡くしてから、カウンセリングを受けていた精神科のお医者さんです。年配の、優しいおじいさんで……マリアがあそこまで生きてこられたのは、先生のおかげだって、マリアも言っていました。」


「もちろん、マサキのおかげでもあるけどな。」


ヨウスケさんが、少しだけ笑ってそう言った。僕は照れて、顔が熱くなるのを感じた。でも、その瞬間に、もうマリアはどこにもいないんだ、という現実が押し寄せてきて、胸が締め付けられるように痛んだ。


「もちろん、僕もそうかもしれないですけど……でも、本当に優しい先生なんです。」


ヨウスケさんは、少し語気を強めて言った。


「山本先生が、そんなことをするなんて、どうしても思えない。それに、かなりご高齢だったし……女性に乱暴するなんて、想像もできない。」


立花さんは、窓の外の景色をぼんやりと見つめながら、低い声で言った。


「人は見かけによらない、って言うだろう。身近に悪魔はいるもんだ。」


その言葉には、重い響きがあった。立花さんは、何かを知っているのだろうか。


僕は、次の容疑者に話題を変えた。


「二人目は、近所に住んでいる杉原さんです。マリアのことを、僕たちが物心つく前から知っていて、ずっと気にかけてくれていました。たまに、ご飯を作ってマリアの家に届けてくれていて……マリアも、杉原さんのことをすごく信頼していました。あの人なら、簡単に家に入ることもできたはずです。」


ヨウスケさんは、少し考えてから言った。


「杉原さんなら、確かに家に入るのは簡単かもしれない。でも……やっぱり女性だし、ましてやマリアのことをあんなに可愛がってくれていた人が、そんな乱暴なことをするなんて、考えられない。容疑者からは外れるんじゃないか?」


立花さんは、ヨウスケさんを真っ直ぐに見つめて言った。


「言っただろう。人は見かけによらない。疑うなら、最後まで疑わないといけない。」


そして、低い声で続けた。


「例えば、男の犯行に見せかけるために、乱暴を装った、という可能性だってある。」


「そんなこと、どうやって……?」


ヨウスケさんは、信じられないといった表情で問い返した。


「身近な男に協力してもらう、とかね。」


立花さんの言葉に、ヨウスケさんは言葉を失い、顔を歪めた。


「そうだ……確か、杉原さんには中学生の息子さんがいるはずです。」


僕は、ふと思い出したことを口にした。


「あるいは、そいつかもしれないな……」


ヨウスケさんの声は、掠れていた。


「そして、最後の容疑者は、マリアの……かつての担任の先生である、根立先生です。」


僕は、ヨウスケさんのことを気にしながら言った。


「マリアの母さんが亡くなった時の担任の先生で……その後、マリアが学校に行けなくなってからも、ずっとマリアのことを気にかけてくれていたんです。」


「根立先生は、俺の小学校の時の担任でもあるんだ。町内会の役員もやっていて、今でも交流がある。たまに、俺の家に遊びに来ることもある。その時に、部屋にいるマリアにも声を掛けるけど……マリアは、絶対に部屋から出てこない。」


ヨウスケさんは、強い口調で言った。


「俺は、根立先生のことを完全に信頼している。あんな優しい先生が、そんなことをするはずがない。それに、先生が声を掛けても、そもそもマリアが部屋に入れるわけがないんだ。」


ヨウスケさんの言葉を聞きながら、僕は心の中で別のことを考えていた。一番怪しい人物がここにいる。ヨウスケさんだ。どう考えても、一番アリバイがないのはヨウスケさんだ。マリアの死亡推定時刻に、家にいたのはヨウスケさんなのだから。もちろん、そんなことを口に出せるはずもなかった。


「まあ、疑わしい人間がいるなら、話を聞いてみようじゃないか。」


立花さんは、そう言ってヨウスケさんの方を向いた。


「ヨウスケ、根立先生にすぐに電話できるか?」


ヨウスケさんは、すぐに携帯電話を取り出し、席を立って電話をかけ始めた。ヨウスケさんが電話をしている間、僕は立花さんにそっと尋ねた。


「本当に、この三人の中に犯人がいるのかな……?」


立花さんは、少し間を置いてから、低い声で答えた。


「大前提として、警察は自殺の可能性が高いと見ている。だが……あの3人以外にも、怪しい人間はいる。」


立花さんの顔は強張っていて、その言葉の奥にある深い感情を読み取ることはできなかった。








第七章 聞き込み








根立先生がカフェに現れたのは、ヨウスケさんが電話を切ってからほんの数分後のことだった。急いで来てくれたのだろう。上下スウェットのような、部屋着ともスポーツウェアともつかないラフな格好をしている。少し息を切らせながら、僕たちのテーブルに近づいてきた。


「この度は、本当にご愁傷様で……」


深々と頭を下げた根立先生に、ヨウスケさんは少し困ったように言った。「葬式にも来てもらったじゃないですか。そんなに仰々しくしなくても大丈夫ですよ」


そして、空いている僕の隣に先生を促した。「座ってください。」


僕は、先生の横顔をじっと見つめた。どこか疲れているような、それでいて心配そうな表情をしている。マリアの死は、先生にとっても大きな衝撃だったのだろう。


「根立先生」


僕は少し緊張しながら口を開いた。


「今、僕たちはマリアの事件を調べているんです。いくつか気になることがあって、根立先生にも聞きたいことが……」


僕の言葉が終わらないうちに、ヨウスケさんが慌てて僕を止めた。


「マサキ!」


根立先生は、ヨウスケさんの制止を気にも留めず、穏やかな声で言った。


「構いませんよ。私に協力できることがあれば、何でもします」


その言葉に、僕の隣に座っていた立花さんが、少し身を乗り出した。


「根立先生、失礼ですが、事件当日のアリバイについてお伺いしてもよろしいでしょうか?」


根立先生は、立花さんの顔をじっと見た。


「アリバイ、ですか……? あなたは……いったい……?」


ヨウスケさんが慌てて「この方は……」と紹介しようとした瞬間、立花さんはニヤリと笑って言った。


「ああ、コイツらの友達のジジイだ」


ヨウスケさんは、一瞬目を丸くしたが、すぐに何かを察したように黙った。立花さんは、警察であることを隠すつもりのようだ。


「ははあ……どこかでお見かけしたような気もしますが……」


根立先生はそう言って、少し首を傾げた。確かに、交番の警察官の顔なんて、普段意識していないと覚えていないかもしれない。立花さんの方も、子供好きだけど面倒くさがりだから、学校の先生たちとの交流はほとんどなかったのかもしれない。


「事件当日は、学校でいつも通り仕事をしていました」


根立先生は落ち着いた声で答えた。


「夏休み期間中ではありますが、新学期の準備や、生徒たちのことでやらなければならないことがたくさんありますから」


「それを証明できる方はいらっしゃいますか?」


立花さんは、さらに踏み込んで尋ねた。


ヨウスケさんが少し語気を強めて言った。


「ちょっと、失礼なことを聞くなよ!」


しかし、根立先生はヨウスケさんを制するように手を挙げ、冷静に答えた。


「ええ、同僚の先生方がたくさんいました。朝から夕方まで、ずっと学校にいましたから」


「少しの間も、学校を抜け出すことは不可能でしたか?」


立花さんは、さらに詳しく尋ねた。


根立先生は少し考えてから、


「そうですね……事務の先生や他の先生方もいらっしゃいますし、もし私が長時間いなくなれば、すぐに気づかれるでしょう」と答えた。


「根立先生」


僕は、気になっていることを尋ねた。


「マリアの家に、事件当日、あるいはその前に、行かれたことはありますか?」


根立先生は、少し寂しそうな目をしながら言った。


「仮に私がマリアさんの家に行ったとしても、彼女は私を家には入れてくれなかったでしょうね」


ヨウスケさんに家に上げてもらったことがあったが、その時に部屋の中にいるマリアに声をかけても、返事はなかったという。


「それに……以前、ヨウスケ君がいない時に、一度マリアさんの家を訪ねたことがあるんです」


根立先生は、遠い目をしながら続けた。


「インターホンを鳴らしても、結局、ドアを開けてくれることはありませんでした」


そして、ぽつりと呟いた。


「本当に……マリアさんは、もう……」


根立先生は、少し語気を強めて言った。


「私が疑われても構いません。ですが、私は絶対に犯人ではありません」


そして、真剣な表情で僕たちを見つめた。


「どんな形でもいい。どうか、事件の真相が明らかになってほしいと思っています」


根立先生は、マリアの心を最後まで開けなかったことを後悔しているようだった。それが、もう二度と叶わないことなのだと考えると、僕も胸が締め付けられるような気持ちになった。


立花さんは、頭を深く下げて根立先生に感謝を告げた。


「大変失礼しました。貴重なお話、ありがとうございました。」


根立先生は、少し疲れたような笑顔を浮かべて、


「お役に立てたなら幸いです」と言い、カフェを後にした。


残された僕たち三人は、しばらく沈黙していた。最初に口を開いたのは、ヨウスケさんだった。


「根立先生は、犯人じゃないと思う」


立花さんも頷いた。


「アリバイもしっかりしているし、何より、あの様子だと嘘をついているようには見えなかったな」


僕もそう思った。根立先生の言葉には、マリアを失った悲しみと、事件の真相を突き止めたいという強い思いが感じられた。


「じゃあ、次は……杉原さん、だな」ヨウスケさんが、重い口調で言った。


近所に住む中年女性、杉原さん。僕たちは、新たな手がかりを求めて、彼女の家に向かうことを決めた。立花さんも付いてきてくれるようだ。夕暮れが迫る中、僕たちの犯人探しは、まだ終わっていない。








第八章 訪問








杉原さんの家に向かう途中、ヨウスケさんはスマホを取り出し、慣れた手つきで電話をかけた。数回の呼び出し音の後、相手が電話に出たようだ。相手の声は聞こえないが、ヨウスケさんの受け答えは聞こえる。


「山本先生、失礼します。今どこにおられますか?」ヨウスケさんの声には焦りが滲んでいた。電話の相手は医者の山本先生のようだ。


「…そうですか…ええ、わかりました。それではこちらから……いえ、ご足労いただくわけには……そうですか、それは……ええそれなら、助かります…では後程、失礼します。」ヨウスケさんはそう言って電話を切った。


「山本先生は別件で今、手が離せないらしい。ただ、それが終わったら俺の家まで来てくれるそうだ。」


ヨウスケさんは電話の内容を僕たちに伝えた。


「わざわざ来てくれるのか?」


立花さんが尋ねると、「帰り道らしい。」とヨウスケさんが答えた。


これで、根立先生、山本先生、そして今から会いに行く杉原さんを含めれば、容疑者三人全員の話を聞けることになる。この中に、犯人はいるのだろうか。


杉原さんは、マリアとヨウスケの家の隣に住む、少しふっくらとした優しい雰囲気の中年女性だ。いつもにこにこしていて、マリアにも料理だけでなく、お菓子をくれたり、庭の花を分けてくれたりしていた。マリアも杉原さんのことを「優しいおばさん」と慕っていた。ヨウスケさんの留守中に、杉原さんならマリアの部屋に入ることも、たしかに可能だろう。


「杉原さん、事件の後、ずっと塞ぎ込んでいるらしいな」


ヨウスケさんがぽつりと言った。


「ああ。通夜の時に見かけたが、顔が真っ青で、今にも倒れそうだったな。お葬式では姿を見かけなかったが、来れなかったのかもしれないな。」


立花さんが答えた。


僕も通夜の時の杉原さんの様子を覚えている。目はうつろで、誰とも話さず、ただ小さく震えていた。まさか、あの優しい杉原さんが、マリアの死に関わっているなんて、想像もできなかった。でも、可能性はゼロじゃない。マリアのことを、ヨウスケさんを除けば、誰よりも近い距離で見守っていた人なのだから。


そんなことを考えているうちに、杉原さんの家が見えてきた。二階建ての、少し古びた一軒家だ。庭には手入れされた花壇があり、白いライラックが咲いていた。以前はよくマリアと二人で眺めていたのを思い出すと、胸が締め付けられる。


ヨウスケさんがインターホンを押した。しばらく沈黙が続いた後、もう一度押すと、ようやく重い音を立てて扉が開いた。


そこに立っていたのは、眠たそうな、けだるい表情をした若い少年だった。目はうっ血していて、髪はボサボサだ。きっと、杉原さんの中学生の息子さんだろう。


「何のよう?」と、彼は不機嫌そうに尋ねた。


「あの…マリアさんのことで、警察の方と捜査をしているんです」


僕は少し緊張しながら答えた。


「ああ…」少年は、どこか他人事のような、それでいて嘲笑を含んだような、曖昧な返事をした。僕たちのことを蔑んだ目で見ている。


ヨウスケさんが少し声を荒げて聞いた。


「お母さんはいますか?」


少年はニヤリと笑って言った。


「いるけど、ぶっ壊れてるよ」


立花さんが冷静な声で割って入った。


「奥さんに、少しお話を聞きたいのですが。家にあがってもよろしいでしょうか?」


少年は肩をすくめて、「別にいいけど」と言い、玄関のチェーンロックを外すと、奥へと消えていった。


立花さんは、僕とヨウスケをちらりと見て、小さな声で呟いた。


「お前らが可愛く見えるほどの、悪ガキだな」


僕たちは、少年の後に続いて、家の中へ入った。リビングのカーテンは閉められ、薄暗かった。ソファには、憔悴しきった様子の杉原さんが俯いて座っていた。顔色は悪く、目は虚ろで、生気が感じられない。テーブルの上や床には、食べかけのカップラーメンやインスタント食品のゴミが散乱していた。


立花さんが、静かに杉原さんに話しかけた。


「奥さん、失礼します。少し、お話を伺いたいのですが…」


杉原さんの息子さんが、半笑いで言った。


「そのおばさん、もうすっかりだめみたいだよ。話せるかどうかね」


立花さんは少年の方を振り返り、落ち着いた声で尋ねた。


「お父さんはどこにいるのかな?」


少年は興味なさそうに答えた。


「知らない。浮気でもしてんじゃねえの」


ヨウスケさんは、少年の冷たい態度に怒りを抑えきれなくなった。


「君は、お母さんがこんなになってしまって、心配じゃないのか!何か、なんとかしなきゃとは思わないのか!」


少年はヨウスケさんを見て、まるで理解できないといった表情で笑った。


「なんで俺が?」


僕は、ヨウスケさんの怒りはもっともだと思った。ヨウスケさんは、たった一人の肉親である妹を、突然失ったばかりなのだ。目の前にいる少年は、まだ家族が生きているのに、その家族を蔑ろにしている。信じられない気持ちだった。


立花さんが、ヨウスケさんの肩に手を置いて、「落ち着け」と静かに言った。そして、再び杉原さんに向き直った。


「奥さん、マリアさんのことで、いくつかお伺いしたいことがあります」


その瞬間、杉原さんは、今までとはまるで別人のように、目をカッと見開いた。


「マリア…!」


と、異常なほど大きな声で叫んだ。そして、堰を切ったように、狂ったように泣き出した。「私のせい…私のせいなの…」と、何度も何度も呟きながら、泣き続けた。


あっけにとられる僕とヨウスケさん、そして立花さんの前で、杉原さんの息子は、まるで日常茶飯事のように、


「あーあ、始まった。あんた達でなんとかしてくれよ」と吐き捨てた。


ヨウスケさんは、少年の信じられない言葉に、怒りが爆発した。「いいかげんにしろ!」と叫び、感情のままに言葉をぶつけた。


「お母さんのことを大切にしないか!」


少年はヨウスケさんの怒りを意に介さず、何も答えずにヘラヘラしていた。その様子を見たヨウスケさんは、頭に血が上った勢いのまま、続けた。


「なんてやつだ、まさか、お前が、妹を、マリアを、犯したんじゃないだろうな!」


杉原さんの息子は、一瞬、ヨウスケさんが何を言っているのか理解ができないようで、困惑の表情を浮かべた。しかし、次の瞬間、彼は腹を抱えて、信じられないほどの大声で笑い出した。「オレが、あんなブサイクなババアを?冗談だろ!そんなわけねえだろ!」そう吐き捨てて、彼はさらに笑い続けた。


その言葉を聞いたヨウスケさんは、まるで魂が抜け落ちたかのように、その場に崩れ落ち、大声で泣き出した。ずっと抑えていたものが、一気に溢れ出したようだった。立花さんは、頭を抱えて困惑した表情をしている。

その一方で、僕はハッと気づいた。そうか、乱暴って、そういう意味だったんだ…。ヨウスケさんが泣き叫ぶ傍ら、僕は知らない言葉を一つ知ることができて、少し得した気分になった。


その時、玄関のドアが開いた。そこに立っていたのは、医師の山本先生だった。ヨウスケさんの家に向かって歩いてきていたのだろう。家の中から響く激しい泣き声に気づき、慌てて杉原さんの家に駆けつけてきたようだった。


山本先生は、少し息を切らせながら言った。


「大変な騒ぎになってしまいましたね。皆さん、落ち着いてください」


その声には、不思議なほど穏やかな力があり、ヒステリックに泣き叫んでいた杉原さんも、肩を震わせているヨウスケさんも、少しずつ落ち着きを取り戻していった。


立花さんは、山本先生に軽く頭を下げた。二人は顔見知りのようだ。


「ご無沙汰しております」


と、立花さんが言った。山本先生は立花さんに、


「こちらこそ。その節は、お世話になりました。」


と挨拶した。どうやら、立花さんが捜査本部に居たころの知り合いのようだ。


僕も、久しぶりに会う山本先生に、小さく会釈をした。


山本先生は、僕を見て、優しい笑顔を向けた。


「マサキ君、すっかり大人になりましたね。」


僕は少しうれしくなって答えた。「ご無沙汰してます。」


山本先生と最後に会ったのは、マリアが小学生のころ。マリアのお母さんが亡くなった直後、マリアの部屋に遊びに行った時にたまたま、会った時だ。もう、ずいぶん昔の話だ。


「ええ、何十年ぶりでしょうか。今は何をされているので?」山本先生は僕に聞いた。


「前の仕事を辞めて、今は資格試験の勉強中です。」


僕は照れながら、少し白髪の生えてきた頭を掻きながら、答えた。


「もう、今年で35になります」








第九章 動機








山本先生は和やかな顔で、ヨウスケさんと杉原さんの肩に手を置いて、


「皆さん、落ち着きましたか?」と告げた。


ヨウスケさんはハッとしたように顔を上げ、ひどく狼狽した様子で、


「申し訳ありません、取り乱してしまって…」


と、立ち上がり頭を下げた。40歳を過ぎて少し剥げた彼の頭には、疲労の色を表すように白い頭皮が見え隠れしていた。


立花さんは山本先生に向き直り、腕を組みながら低い声で言った。


「山本さん、ご存知かもしれませんが、今、私たちはマリアさんの件を調べています。」


山本は穏やかな笑みを浮かべ、


「ええ、知っています。そのために、こうしてここに来たのです。」と答えた。


山本先生は僕たちと一人ずつ、目を合わせた後、静かに口を開いた。


「まず、この件は十中八九、自殺であると考えられます。」


山本先生はそう断言した。彼は続ける。


「私はここに来る前に警察署にいました。マリアさんの主治医として、全面的に警察の捜査に協力しており、捜査状況についても詳しく聞いています。」


ヨウスケさんはまるで雷に打たれたかのように、顔を歪めた。隣で立花さんは、「やっぱりな…」と小さく呟いた。


僕は立花さんを見上げ、


「立花さんも、わかってたの?」と問いかけた。


立花さんは面倒くさそうに、


「俺も警察官だからな。本部の連中にも話は聞いているし、最初から自殺だろうとは思っていた。」


と答えた。僕は納得がいかなかった。


「なら、どうして僕たちと一緒にあんなに…」


僕が言葉を濁すと、立花さんはため息をついて言った。


「お前たち、ほっといたら勝手に動き回って、現場を荒らしかねなかったからな。」


ヨウスケさんは山本先生に詰め寄るように言った。


「どうしてマリアが自殺なんか…。あいつは熱心なXXX教の信者だったんです。その彼女が、教えで最も禁じられている自殺を選ぶなんて、ありえない!」


山本先生は静かに頷いた。


「ええ、その通りです。彼女は熱心なXXX教の信者でした。毎日のお祈りは欠かさず、教えの聖典はほとんど暗記していました。私も同じXXX教徒ですが、彼女の信仰心の篤さにはいつも驚かされていました。」


その時、隅で様子を窺っていた杉原さんの息子が、ぶっきらぼうに口を挟んだ。


「うちの母親もXXX教信者だよ。だから、あの死んだババアと仲が良かったんだ。」


ヨウスケさんがまた怒りの表情を浮かべ、立ち上がろうとしたが、立花さんが腕を掴んで制止した。


山本先生は再び口を開いた。


「結論から言うと、マリアさんはXXX教への信仰心が強いが故に、自ら命を絶ってしまった、というのが私の見解です。」


ヨウスケさんと立花さんは息をのんだ。僕は意味が理解できなかった。


山本先生は淡々と続けた。


「XXX教には絶対的な禁忌がいくつかあり、その中の一つに、婚前交渉があります。」


彼は言葉を選びながら説明した。


「XXX教では、女性は処女のまま結婚することが絶対であり、結婚した相手とだけ交わり、そのまま、ただ一人の相手としか経験せずに生涯を終えることが、最も美しいとされているのです。」


僕は、マリアが母親の葬式の日に言っていた言葉を思い出した。『私も、お母さんと同じように、死ぬときに最も美しくありたい』と。その言葉には、婚前交渉をしない、という強い決意も込められていたのだ。


立花さんは顎に手を当てて考え込み、


「つまり、マリアさんは乱暴されたことで、禁忌であった婚前交渉をしてしまった。それがショックで自殺した、ということですか?」と尋ねた。


杉原さんの息子は、露骨に嫌悪感を露わにして、えずく真似をした。


「ゲロ吐くわ。あんな引きこもりのブサイク女、誰が相手にするんだよ。」


彼はさらに言葉を重ねた。


「うちの母親があいつの家の玄関先でたまに会っているのを見たけど、髪はボサボサ、顔はめちゃくちゃで、とても女には見えなかった。あんなやつ、どうせ一生結婚できなかっただろうよ。」


ヨウスケさんは怒りで全身を震わせ、杉原さんの息子に飛びかかろうとしたが、立花さんが力強く抑え込んだ。怒りに歪んだその苦悶の表情は、僕にとって見慣れた、妹のマリアによく似た表情だった。僕は思わず、小さく笑ってしまった。


杉原さんの息子は驚いて身構えたが、狼狽えることなく続けた。「あんたも、そんなことわかってただろうがよ。」


ヨウスケさんはショックのあまり、黙ってしまった。


山本先生は冷静な声で話を続けた。


「マリアさんが乱暴されたことが自殺の原因の一つであることは間違いないと思いますが、真相はもう少し複雑だと考えています。」


立花さんはヨウスケさんをしっかりと押さえつけながら、


「どういうことですか?」


と問い返した。


山本先生はゆっくりと、しかしはっきりと告げた。


「マリアさんの自殺の本当の原因は、ここにいる彼女の友人、マサキ君にあるのです。」


ヨウスケさんは信じられないという表情で、目を見開いた。


「僕が原因…?」


僕は驚きを隠せず、言った。


「なぜですか?まったく心当たりがありません。」


山本先生は表情を変えずに言った。


「君は彼女とよく会っていたそうだね。」


僕は素直に答えた。


「確かに、よく一緒に遊んでいましたよ。」


そうだ。僕はマリアの部屋に、まるで自分の部屋のように頻繁に出入りしていた。マリアの母親が亡くなった後、マリアを独り占めできると考え、昼間、兄のヨウスケさんがいない時間帯を狙って、マリアの部屋に入り浸っていた。そこで、僕はマリアと、大人の遊びをしていたんだ。およそ25年間、ずっと。


立花さんは、冷たい、蔑んだ目を僕に向けた。


「遊び、か…」


僕はその目が理解できなかった。僕が相手をしてやらなければ、マリアは誰とも言葉を交わすことのない、かわいそうな女でしかない。顔も醜く、部屋の外にも出られない、哀れな35歳の女なのだ。そんな彼女の相手をしてやっているのだから、むしろ感謝されてもいいくらいだ、と僕は思っていた。


山本先生は僕に問いかけた。


「あの日も、あなたはマリアさんの部屋に行ったね?」


僕はあっさりと答えた。「行きましたよ。」


「あなたはそこで彼女に何をして、何を言った?」


山本先生はさらに深く問い詰めた。僕は表情を変えずに答えた。


「いつものようにマリアの部屋に行くと、マリアが泣いていたんです。マリアは杉原さんに、自分と僕が部屋で”遊んでいる”ことを打ち明けたらしくて、そしたら杉原さんに、「もっと自分を大切にしなさい」って言われたみたいです。それでマリアは僕に、XXX教の教えに背くことはできない、だから、私と結婚してほしい、って言ってきたんです。」


呆気にとられる顔を置き去りに、僕は続けた。


「笑っちゃいましたよ。あんなブスの引きこもりと結婚するわけないじゃないですか。そもそも、僕はXXX教を信仰していないから関係ありませんし。」


あの日、マリアは僕のその言葉に呆然自失としていた。どうやら本当に、いつか、僕と結婚できると思っていたようだ。そんなマリアを見て、僕は、これ以上この関係を続けていれば、いずれ面倒なことになるだろう、今日でこの関係は終わらせよう、と思った。でも、終わらせる前に、と、マリアと最後の「遊び」をして、僕は満足してマリアの部屋を後にしたんだ。


僕の告白を聞いて、ヨウスケさんは今にも気を失いそうなほど、顔面蒼白になっていた。立花さんは何も言わずにいたが、その顔は怒りで真っ赤に染まっている。杉原さんの息子ですら、信じられないという目を僕に向けていた。


山本先生は冷静に頷き、「合点がいきました」と言った。


「杉原さんが言葉を失ってしまったのは、マリアさんの死の原因を作ってしまったというショックからだったのでしょう。さらに、その詳細を話せば、マリアさんが婚前交渉をしていたという事実が明るみに出てしまう。XXX教信者として、女性の婚前交渉の事実は、例え亡くなっていたとしてもとても表には出せない。板挟みになった杉原さんは、精神を壊してしまったのです。」


僕は、


「じゃあ、犯人はいなくて、マリアは自殺したってこと?あんなことで?」と、少し焦って聞いた。


信じられなかった。だって、僕はあたりまえの事をマリアに言っただけじゃないか。ヨウスケさんも、立花さんも、杉原のおばさんも、皆わかってるはずじゃないか。マリアが、今さら普通の生活に戻れるわけがないって。マリアの葬儀の日、ヨウスケさんだって、悲しみの中で、どこか重荷が外れたような、安堵の表情を浮かべていたじゃないか。それなのに、僕だけを責めるのは筋違いだ。


僕のせいでマリアが死ぬなんて、そんな胸糞悪い結末なんて、気分が悪い。やっぱり、犯人は別にいるはずだ。


ヨウスケさんは掠れた声で僕に問いかけた。


「なぜ、次の日も家に来たんだ…?」


僕が、マリアの死体を見つけた日のことだ。僕は平然と答えた。


「だって、やっぱりまた遊びたくなったから。」


ヨウスケさんは僕を睨みつけ、まるで汚物を見るような目で、「悪魔…」と呟き、そのまま意識を失い、床に倒れ伏した。


僕は、周囲の皆が自分に向ける軽蔑の眼差しが、まったく理解できなかった。本当に、まったく理解できなかった。

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