貴方の想いに花が降る
「お前、花降ってんじゃん」
友人と池の周りを散歩していると、そんなことを言われる。池の水面を見ると、確かに自分の頭上から花が降っている。
「本当だね」
「それだけかよお前。薄情だな。現世でお前のことを想っている人間が、いるってことだろ?」
「そういうことになるね」
天国では、死んだ人が住んでいる。そして、死んだ人の頭の上から、花が降ることがある。それは、現世で、今を生きる人間が、故人のことを想うと花が降るらしい。
「うれしくねぇのかよ。最近、お前ずっと花降ってんじゃん。しかも異常な量。花が降るというよりも、号泣みたいな感じじゃねぇかよ」
「忘れないでいてくれるのは嬉しいけれど、俺は俺のことなんて忘れて、幸せに生きてほしいと思うね。死んだ人なんて、もう終わっているんだから、そんな人に囚われる必要なんてないだろ」
「合理的というべきか、薄情と言うべきか。そんなお前に花が降っているのが不思議で仕方がないよ」
さっきも言われた、薄情と言う言葉に、心が揺れる。ただ、言おうとしたことは、舌から先に出てこなくて飲み込んだ。そんな俺に気づかないで、友人は、いつもの調子に戻って、池の周りを歩く。お互いによく喋るタイプではなかったから、沈黙が当たり前だった。
「そういやよ」
「ん?」
「お前、なんで死んだんだっけ?」
「交通事故。轢かれそうな子供助けようとしたら、自分が死んだってオチ」
「あら、そら天国がお似合いなこった」
「お前は?」
「俺はちゃんと天命を全うしたぞ。八十二歳まで生きた」
「は? けどお前今若いじゃん。どういうこと?」
「天国って楽園だろ。体が老いたままじゃ何も楽しくねえよ。体は天国に来るタイミングで一番健康な時期にしてもらえるんだよ。若くして死んじまったお前じゃ、知らないのも納得だけどな」
同い年だと思っていた友人が、見かけによらず自分の三倍近くの年齢で驚く。それと同時に、今までの言葉遣いや、お前と呼んでいたことについて、恥ずかしさと同時に、この人は自分のことをどう想っているのだろうと、得体の知れない恐怖が襲ってくる。
「……すみません」
「今まで通りでいいよ別に。悪意も知識もないことを 責めたって仕方ないだろ?」
「ありがとう」
友人の、年上としてではなく、人間としての懐の広さに感謝する。俺のことを天国がお似合いだと言ってきたが、友人も、間違いなく天国が似合う人間だった。
「いいってことよ」
そういいながら、いつものように池の周りを歩き始めた。
「それにしても、お前の花の量は異常だぞ」
そこから、池の周りを離れて、近所の公園を散歩していた。俺がベンチに座ると、友人も隣に座った。
「そうか?」
「ああ、異常だ。他の故人と話すこともあるけど、お前の量は異常だ」
「そう言われても、原因がわからねぇよ」
「お前恋人はいたか?」
「なんだよ急に」
「いたか?」
あんまり、人に言いたいことではないが、仕方ないので、現世に残してしまった恋人のことを話すことにした。
「いたよ。大学一年生から付き合って、同棲してた彼女がいた」
「それじゃねぇかな。原因は」
友人は、一呼吸おいて、話し出した。
「お前が一年前の八月、天国に来てから花が断続的に降ってるよな?ずっと降っているわけじゃない。降ったり止んだりだ。それは普通と変わらない。ただ、大抵、花が降るのは、死んでから半年とかだ。それと命日が近い時。そして、今は四月。お前が死んで半年以上経ってる。なのに、お前の頭には花が降ってる。明らかだろ?その彼女がずっとお前のことを想ってるとしか、いまだにお前のことで引きずっているとしか、俺には思えない」
普段とは違った真剣なトーンで話す友人が、恋人を早く残して、早く死んだ咎人である俺を裁く断罪者に見えた。
「聞き忘れた。お前誕生日いつだ?」
「十二月」
「故人の誕生日が近いと思い出すこともあるが、それでもない。ますますお前のことを引きずってるとしか思えないな」
「じゃあ俺はどうすりゃいいんだよ」
うーん。と、友人は唸る。肘を膝について、手のひらに顎を乗せている。
「お前、夢枕使ったか?」
同じ体勢で、目線だけ俺に向けて聞いてくる。
「使ってない。親しかった人間の夢に、一回だけ出れるやつだろ?」
「そうだ。お前、本当に薄情だな。夢に出て、彼女に前向かせろよ」
理想的な、合理的な答えを、薄情という言葉と纏めて投げられる。それができたなら、どれほど良いかと思ったことがある。
「……できない」
「なんでだよ」
この時、ふつふつと、怒りが湧いてくるのがわかった。何も知らないのに土足で俺の大切な心に触れてくる友人に。そして、何よりも、ずっと下ばかり向いて、足踏みをしていた自分を直視することになり、自分自身に嫌気がさしてきた。
「お前には、わからないかもしれないけど、俺は、今でもあいつの幸せをずっと願ってる。だけど、それと同じくらい、来るはずがない、あいつとの朝を願ってる。あいつのいる朝に起きて、あいつと一緒にご飯を食べて、あいつと一緒に寝る。ずっとその日々を待ってる。
今あいつとあったら、俺は間違いなく、悪霊になる。夢枕で、俺たち故人が人と会う時は、確かに生きていた時の体を、温もりを与えられる。だけど、存在としては、あくまでも霊だろ? 俺はきっと、悪霊として、あいつをこっちに連れてきてしまう。そうなれば、あいつも俺も地獄行きだ。それだけは嫌だ。
お前は、俺に薄情だって言ったよな。違う。それだけは否定する。俺は薄情なふりをすることでしか、自分を保てなかったんだ。花が降っている今だって、実はどこか気分がいいんだよ。死んでも俺のことを想ってくれるなんて、俺は、幸せ者だなんて思って、自分がとんでもなく罪深くて、天国にいるのが相応しくない気さえしてくる。
俺は弱い人間だ。罪深い人間だ。自分のことを忘れて、幸せになんて、なってほしくない。俺のことだけを、想っていてほしい。俺だって、あいつの幸せに入りたい。死んでしまったからなんて理由で、斥けられたくない。
今、逢ってしまったら、愛してるって、間違いなく言ってしまう。それが、あいつにとって呪いになることをわかってる。だから、俺は逢えないんだ」
罪の独白は、友人の目を見て話すことができず、ずっと自分の靴を眺めて話していた。いや、違う。顔は確かに下を見ていた。ただ、瞼は閉じていた。閉じた瞼の裏に、彼女のことを描きながら、遠い、遠い彼女のことを見ていた。
顔を上げて、友人の方を見ると、目を瞑っていた。何を考えているのかわからなかった。怒っているようにも見えた。俺の不甲斐なさに、弱さに、罪深さに。慈しんでいるようにも見えた。俺の惜愛に、葛藤に。泣いているようにも見えた。笑っているようにも見えた。
ずっと黙り込んでいたから、どれくらい時間が経ったのかわからない。一瞬にも感じた。ただ、永遠にも感じた。気分は悪くなかった。全て、吐き捨てたからなのか、自分でもわからなかった。
「本当にそうか?」
「は?」
急に友人が口を開くものだから、素っ頓狂な声が、自分の口から飛び出る。そんな俺をよそに、友人は続けた。
「お前は、今確かに、自分に花が降っていて、気分がいいと言った。気分がいいのは本当だろう。俺のことなんて忘れて幸せになって欲しいというのも、本当だろう。どちらかが偽物というわけじゃねぇだろ。愛は、こんなにも不可思議だから、儚くて美しいんじゃねぇのか?」
友人の方をまた見ることができない。
「その上で、愛してるって言葉が呪いになるっていうのが、本当にそうか?と聞いたんだ。ただ、相手に好意を伝える言葉が、相手にとって呪いになると、本当に思っているのかと聞いたんだ」
「……なるさ」
「ならない」
友人は続けた。
「なるわけがないだろう。お前、さよならもなしに消えた人間が、本当に少しの間帰ってきてくれて、愛してるって言われて、そんなこと言われたくなかったとなる人間がいるか?いるわけがないだろう。相手は、お前がいなくなって泣いてるんだ。お前の愛が、急に亡くなってしまったから、泣いているんだ」
「……まだ彼女って決まったわけじゃないだろ」
自分でも、笑ってしまうような、苦し紛れの言い訳が出る。
「じゃあ行かないのか? 答えを知ってから行こうとしているんだったら、永遠に逢えないぞ。こっちから、現世を知る方法は、花が降るぐらいしかないんだから。
あまり、難しく考えるな。自分に聞け。もう一度逢いたいか」
「……彼女じゃなかったら、なんか奢れよ」
「いいぜ。その代わりに、何があっても彼女は連れて来んなよ」
夢枕を使う方法は、一つだけ。寝る時に逢いたい人の顔や、声、想い出を思い出しながら眠ること。そうすると、逢いたい人が目覚めるまで、逢って、話すことができる。眠りに落ちてから、目が覚めて、逢いたい人が目の前にいれば、成功。目が覚めて、天国の景色が目に入ったら失敗。
目を覚ますと、彼女がいた。成功だ。彼女は、俺の好きだった白のワンピースを着ていて、俺は、彼女の好きだった黒のスラックスに、白のワイシャツを着ている。一緒に花見をした公園のベンチで二人座って、桜が吹雪いていた。
彼女はベンチで俯いていた。顔は見れなかったが、アスファルトが湿っていたから、彼女が泣いていることだけがわかった。
「……また君の夢かぁ」
一人で、ポツリと、彼女は言葉をこぼした。まるで俺がいないようだった。彼女はきっと、俺の干渉に関係なく、前から、俺の夢を見ている。そして、今回も、その夢だと思っている。
「何回、俺の夢を見た」
「……わかんないなぁ、もう」
「今日の夢は、いつもと違う。俺は今、死後の世界からお前に干渉してる。本当の俺だ。だから、見てくれ。俺を。もっと、お前を見せてくれ。俺の好きだった白のワンピースを、好きだった眠そうな眼を、高い鼻を。俺に見せてくれ」
ゆっくりと顔を上げて、目があう。目の下のクマがものすごく濃い。頬も、俺が記憶していた時より痩せていた。
「……本当に、君? 信じていい?」
「ああ、俺だ。お前の描いた、空想や幻じゃない。本当の俺だ」
そのまま、彼女は俺の手に指を絡ませた。恋人繋ぎをして、手をさすられた。絡んだ手が離れると、彼女は頬に触れて、撫でた。壊れ物を扱うように、優しく撫でた。そのまま、腕は頭のほうに伸びていき、髪を撫でた。手櫛をするように、髪の毛をなぞった後、手のひらで、頭を撫でた。久しぶりに、彼女に頭を撫でられて、恥ずかしくなる。頭を撫でたあとは、また腕が下に伸びて、胸を撫でた。そのまま、シャツを強く握りしめて、顔を押し付けた。胸に顔を擦って、シャツに埋まった。
彼女の熱が、ダイレクトに伝わってくる。ずっと、欲していた彼女の温もり。それが、少しでも離れないように、彼女の頭に回して、抱きしめる。
「本当に……本当に君だ……ひどいよ。勝手に残して逝くなんて……」
「……ごめん」
そのまま、ワイシャツをシワができるのもお構いなしの強さで、摑んで、泣き出した。俺は、ただ、頭を撫でることしかできなかった。
「……そのままでいいから、聞いてくれるか」
言葉はなく、胸元で、頭が上下に揺れた。
「ありがとう。天国ではさ、現世の人が天国にいる人のことを想うと、想われた人の頭の上に、花が降るんだ。ずっと、俺のことを想ってくれてたのは、きっとお前だろ?」
また、胸元の中で、頭が上下に揺れた。
「それはさ、すごく嬉しいことなんだ。俺が死んでも、俺のことを想って、俺のことを想い出してくれて。
だけどさ、もう、いいんだ。前を向いても、俺のことを……」
言葉が出なくなった俺を、彼女は不思議そうな眼で、胸元から見上げる。目は充血して、ずっと涙が流れている。
そんな彼女に、言わないといけない。自分を、忘れていいと。前を、向いて欲しいと、言わなければならない。
そう強く想えば想うほど、言葉は出てこなくなって、代わりに、涙が溢れる。透明な涙には、淋しさの色が強く滲んで、頬に流れた。ワイシャツを掴んでいた彼女の手が、目元に伸びて、涙を拭いてくれる。
「ごめん……泣かないつもりだったんだよ。ただ、いざこうして本当に逢えると、やっぱり嬉しくて、ごめん……」
彼女は俺の胸元から、顔を離して、今度は、優しく開いた両の手で、俺の後頭部を包んで自分の胸元に強く抱いた。俺も彼女の背中に手を回して、強く、強く彼女のことを抱いた。
「いいの。泣いていいよ。私、ずっと、君のことだけを想っていたの。忘れるのが辛かった。忘れたことに気づけなかった。そんな自分が許せなかった。そんな私に、また逢いにきてくれただけで、本当に嬉しい。
声が聞けて嬉しい。
髪を触れて嬉しい。
君を抱けて嬉しい。
君に抱かれて嬉しい。
君の温もりが嬉しい。
それだけで、本当に良かったの。きてくれて、本当にありがとう」
「俺も……また声が聞けて嬉しい。またこうやって抱き合えて嬉しい。またその服を着ているところが見れて嬉しい。
ずっと、ずっと不安だったんだ。お前がもう、とっくに立ち直ってて、俺のことなんて眼中になくて、もう幸せになってるかもしれないって……俺は弱いから、素直に幸せを願えなくて……幸せに入りたくて……一緒に幸せになりたくて……」
嗚咽混じりに、話す俺を、彼女は優しく頭を撫でながら、もう片方の手で、背中を撫でてくれた。
「幸せになって欲しいんだ……本当に…決して嘘じゃない。君の幸せな未来を、ただ、ただただ、本当に心から強く願っている。幸せになって欲しいんだ……本当に……」
お互いに、抱きしめる力が強くなって、服にはシワが何個も走っていた。
それから、どれくらい抱き合っていたのだろうか。ずっと、この時が続けばいいのにと何度も、強く想った。その想いは、きっと彼女も一緒だった。その想いが、溢れれば溢れるほどに、お互いに抱きしめるのが、強くなるのがわかった。
しかし、抱き合っていると、どこからともなく、アラームの音が鳴り出した。きっと、現実世界の彼女のアラームだ。その音は、言葉なんて話していないのに、お別れですよ。と、俺たちに伝えているようだった。
「……私、そろそろ起きないと」
彼女も、アラームの音が聞こえているようで、別れを察していた。抱き合っていた腕は、お互いにはなして、向かい合って座り直した。すると、彼女は俺の方を見て聞いた。
「次は、いつ逢えるの?」
彼女の何も知らない純粋な眼が、俺を貫く。そうだ。彼女は、知らない。これが最後であると、もう、次はないと、それを知らない。
鉛のように重い唇を、震わせながら、開いた。言葉は、鉛よりも重く、二人を貫く真実だった。それはまるで、銃の弾だった。
「次は……もうないんだ。夢枕は、故人が親しかった人に対して、一回だけ使えるんだ。だから、お別れを伝えるのに使う人がほとんどで、俺もその一人だ」
そっかぁ……と、寂しそうな声を出す彼女。その眼は、別れを惜しむ色が滲んでいた。そして、それだけじゃなかった。また、私は、一人で残されるのかと、淋しさの色がひどく滲んでいた。
そんな彼女に、少しでも前が向けることを言わないといけない。真実の片方を、彼女に伝えないといけない。さっき言えなかった、お別れを、伝えないといけない。
言葉を出したがらない、銃のように重い舌を動かして、言葉を話す。
「なぁ、最後に少しだけいいか」
「うん……」
その間も、アラームが鳴り響いていた。
「愛してる。死んでも、ずっとお前が好きだったんだ。俺を想ってくれてありがとう。俺を愛してくれてありがとう。俺と、歩んでくれてありがとう。これから、どんな道を、誰と歩んでいくかは、俺にはわからない。俺は、それを止めやしない。切に、本当に心から、お前の幸せだけを願ってる。
だから……だからさ……」
言葉が詰まる。弾詰まりを起こしてしまったように、言葉が、舌先で詰まる。忘れていいと。前を向いて欲しいと。そう言おうと想って開いた口が、閉じる。言いたくない。忘れてほしくない。だけど、幸せになって欲しい。言わなければならない。
きっと、彼女を見たら、言えなくなる。だから、俯いて、言葉を紡ぐ。
「もうさ……いいんだ。忘れて。俺を、忘れて、前を向いて幸せに生きて欲しい」
「そんなの嫌だ」
瞬間、銃を打たれたような強い衝撃が走る。彼女は下を向いている俺の両頬を、両手で包んだ。そのまま、持ち上げられる。目が逢う。充血した目を、ひたむきに、強く俺に向ける。両頬を包んだまま、彼女は続ける。
「もっと、ちゃんと、私を見てよ。最後なんでしょ? 俺を忘れて幸せになってほしいなんて、そんなの、嫌だよ。私の目を見て、言ってよ。もっと、もっともっともっとちゃんと、しっかり言ってよ。伝わらないよ。わからないよ。わからない。教えてよ。もっと。本当の、君の想いを教えてよ。聞かせてよ。最後なんでしょ? ひどいよ。私は、今このまま起きたら、絶対に後悔する。教えて。言葉を、心をもっと教えてよ」
唇が震える。視界がぼやける。言おう。言ってしまおう。言っていいんだ。この未練も全部。君への想いを。現実の、両方を。
「ずっと一緒にいたい……! 君との明日が欲しい。君のご飯が食べたい。君と夜を過ごしたい。また、君と外を歩きたい……忘れないで欲しい……だけど! 前を向いて欲しいのも、幸せになって欲しいのも本当なんだ……愛してる……本当に……」
瞬間、頬を包んでいた両手が背中に回される。また抱きしめられる。俺も背中に手を回して、強く抱きしめる。好きだった、彼女の匂いが、名残惜しく、鼻腔をくすぐる。好きだった、彼女の温もりが、残酷に、冷たい体に伝わる。
彼女は胸元で顔を動かして、俺のことを見上げた。目が逢う。
「言ってくれて、ありがとう。私はね、ずっと、君のことが好き。死んじゃった後でも、ずっと好きだった。君のことを忘れるなんてことはしない。できない。だけど、ずっと下ばかり見るのは、もう、おしまいにする。君がいてくれて良かった。君が逢いにきてくれて良かった。ありがとう。私が天国に行くまで、待っててね」
「うん……うん! あんまり……早くきちゃダメだからね。ずっと、気長に待ってるから、急がないでいいから。今度はゆっくり、いっぱい話をしよう」
「うん。それじゃ本当にありがとう」
「「またね」」
***
アラームが鳴っているのには気づいていながらも、なかなか意識が目覚めず、ようやくアラームを止めた。時間は八時十五分。普段が八時に起きていることを考えると、朝食と身支度を少し急がないといけないのだが、目が重たい。泣いていたせいだろう。いつもよりメイクに時間がかかりそうだなんて思った。
今朝も、彼の夢を見た。子供のことを守って、死んでしまった彼の夢。だけど、その夢は普段と違っていた。本当に、彼と話しているみたいだった。何より、今も、しっかりと覚えている。
彼の温度を。
彼の言葉を。
彼の願いを。
彼の涙を。
彼の声を。
こうして、彼のことを想い浮かべている今も、天国では、彼に花が降っているのだろうか。
広くなったベッドは、相変わらず広いままで、静かになった部屋は、相変わらず静かなまま。花瓶の花だって、いつも花を変えてくれていた彼が、いなくなったあの日から、ずっと枯れたままだった。
彼と夢で逢った後だと、やっぱり感傷的になる。だけど、前を向かないと。彼が、願っているから。そう、強く想った。
そんな時、風が、寝る前に閉じていたはずの窓から、部屋に入り込んできた。その風は、桜の花を運んで、私の頭の上で舞った。花が、降っているみたいだった。
床に落ちた桜を拾って、眺める。何の変哲もないただの桜だ。だけど、彼の匂いがした気がした。
その桜を、大事に胸に抱えて、メガネのケースに入れた。彼が、傍で見守ってくれている気がして、少し、気が晴れる。
私が想えば花が咲く。
君の想いに花が咲く。
「これから、また前を向くから。私、頑張るからさ。見ていてね」
また風が吹いて、空には花が降っていた。
***
彼女との夢が終わって、目が覚めた。瞼が重たい。
言ってしまった。彼女には、自分のことを忘れて、幸せになって欲しい。前を向いて欲しいと、言うつもりだった。なのに、言ってしまった。わがままを。
本当に、言ってよかったのだろうか。彼女を縛っていないだろうか。本当に、前を向けているだろうか。それだけが不安で、朝食も食べる気分にならなかった。天国というのは、食事をしなくても死ぬことはない。腹が減るだけだから、餓死にする心配はなかった。
こんな気分でずっと過ごすのも、胸がスッキリしないから、いつものように、池へ散歩に行くことにした。
「よう」
池の周りを散歩していると、友人から声をかけられる。
「おはよう」
「おはよう。お前、目腫れすぎだろ」
「うるせぇよ」
彼女と夢で別れてから、感傷的になっているのか、この時間も、いつもより大切なものに感じられた。
「なあ」
「ん?」
「俺が天国にきて間もない時に、池で散歩してたのが、俺たちの始まりだったよな」
「そうだな。俺が一人で池を見てるお前に話しかけたのが、きっかけだな」
「改めてよ、ありがとな。お前がいなかったら、俺、ずっと拗らせたままだったし、天国に来てもぼっちのままだったよ」
「なんだよ、水くせぇな」
「こっちは感傷的なんだよ。察しろ」
感謝を伝えた後に、変に恥ずかしくなり、横を向く。
「お前、耳赤いぞ」
「気のせいだよ」
そう言って、公園の方に歩き出すと、友人もついてきた。
「そんで、どうだったんだよ」
「何がだよ」
昨日と同じように公園にベンチに座ると、友人が話しかけてくる。きっと、彼女とのことなのだろうが、言うのが恥ずかしくて、わからないふりをした。
「何がって、夢枕だよ。まぁ、その様子だとちゃんと彼女と逢えたんだろうけどな」
「まぁ、そうだよ。逢ってきた。彼女と」
「どうだった?」
「なんでそんな知りたがるんだよ」
「知りたがるも何も、花を降らしてるのが彼女さんの想いなのかどうかで、お前に物を奢らないといけないかどうか決まるんだよ」
そういえば、そうだった。昨日、俺の花をふらしているのが彼女じゃなかったら何か奢ると、そんな約束をしたのを覚えている。
「彼女だったよ。俺に花を降らしてくれてたのは」
「やっぱりな。言ったとおりだろ?奢りはなしだな」
「ジュースぐらいなら、奢ってやるよ」
一方的に奢らせるような約束をしていたことが、なにか友人に悪い気がして、こんなことを柄でもなく口にしてしまう。
「お?マジ?お前いつもケチなのに珍しいこともあるんだな」
「うるせーよ」
あっはっは! と、友人が豪快に笑う。笑い終わると、真剣な顔つきになって、沈黙が少し流れた。
「ちゃんと言えたか。お前の想い」
「……長くなるぞ」
「構わない。むしろ、聞かせてくれよ」
少し深呼吸をしてから口を開いた。
「……悪い、やっぱり話したくないわ」
「理由は?」
「俺と、彼女の間でだけ起こったことを、ベラベラと他の人に話すべきじゃないと思ったんだ。簡単に言えば、二人だけの秘密って言うやつにしたいんだよ、彼女と。それに、彼女を一番知っているのは、俺でいたい。密かな独占力ってやつ」
「なるほどな」
「案外あっさりしてるんだな」
「その気持ちがわかるからだよ。俺も野暮な質問だったなって思ってるよ。悪いな」
突然の謝罪に、呆気に取られる。昨日までは何も気にしていなかったけど、こう言うところが年上の貫禄というやつなのかと、一人で納得していた。
「それに、今のお前、いい顔してるよ。昨日よりずっと。目元は赤いし、腫れぼったいけどな」
「本当に一言多いな、お前は」
あっはっは! とまた大きい声でまた豪快に笑う。
「いい時間だったんだろ?」
「ああ」
「それが聞けたなら十分だ」
「そうかい」
風が少し吹いて、前髪が風に攫われる。上から、花が降ってきた。
「花、降ってるな。ただ、今の花の方が、ずっといい。綺麗だ」
「そうだな……」
「なんだ。不満か? 今の桜じゃ」
「そんなんじゃねえよ。俺のことを想ってくれて、すげえ嬉しい。だけど、量は減ってる。それが、変に感傷的にさせるんだよ。嬉しいような、淋しいような」
「じゃあ、お前が昨日会った彼女さんが、昨日のまま、ずっとお前のことを想って、異常な量の花を降らせて欲しいか?」
「そう聞かれたそうじゃねえよ。幸せになって欲しいのも、本当なんだ。あいつが昨日のままなんて、俺は耐えられない」
「お前らしいな」
「それはどうも」
しばらく、二人とも何も言わないで、ただ風に吹かれていた。たまに、俺の頭の上から風に吹かれて踊るように地面に落ちる花を、息もしないで見惚れていた。
すると、花が俺の頬を撫でた。その花を最後に、花が止んだ。
「花、止んだな」
「ああ」
「物足りないか」
「正直言えば、やっぱり物足りない気もする。昨日までの花の量を知っていると、尚更な。ただ、あいつが本当に前を向き始めてくれてると想うと、俺は嬉しいよ。それに……」
「それに? なんだよ」
「これくらいの量の花も、悪くはないかもな」
「そうかい」
そういうと、友人は椅子から立ち上がった。俺も一緒に立ち上がり、また、あてもない散歩が始まった。
止んだはずの花が、一枚だけ、鼻の先に止まった。その花は、彼女が着ていたワンピースのように白く澄んだ桜だった。